ふつーの会話、ふつーの別れの言葉。@ア ビヤント
2009年3月2日 タカラヅカ「お宅のトーコちゃん元気?」
「元気すぎて困ってる」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
「ナニ、トーコって?」
「猫の名前」
「猫にそんな名前つけてんの? アホちゃう」
「や、子どもにマジで瞳子ってつけよーとしていた人に言われたくないですけど?」
「男の子だったから断念、女の子だったら瞳子だったのに~~」
「男ならケイくんにすれば良かったのに」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
ええ、我が家の新しい家族の猫を、トーコちゃん呼びしてますがナニか?
そんな人、きっと五万といるよね。ペットに好きな芸能人の名前付ける人。子どもに付ける人だって、わりといる、と思う(笑)。
それにしても瞳子ってきれいな名前だよね。本人のあのきらきらな瞳を連想させるだけに、さらにイメージアップ。
「あのショーで、エレナ様に気づかないなんて、ありえない」
『ア ビヤント』初見でエレナ様に気づかなかったわたしは、会う人会う人にそう言って責められています(笑)。
や、「エレナ様」だと気づかなかっただけで、白い妖精さんが舞台にいるのは気づいていたよ、そりゃ。
初日はB席だったのでオペラグラス上げっぱなし、オペラの狭い視界以外はあまり観てない状態で、彼女の登場時にザネリ@れおんをぼーっと観ていたらしいわたしにとって、「いつの間にか、モブに白い妖精の女の子がいる」程度だった。
で、妖精さんの姿から「下級生にちがいない」と決めつけ、「今は未来ある若者を見ている場合じゃないわ、トウコちゃん見なきゃ! しいちゃん見なきゃ!」とテンパっていた。
泣きすぎていて、オペラが曇っていたのも事実だが(笑)、ほんとに興味なくてちゃんと妖精さんのカオまでチェックしていなかった。
2回目以降、ちゃんとエレナ様も見ているが、初見でどうして気づかなかったかも、よくわかった。
彼女、わたしが初見時にオペラを上げるタイミングの、外にいたんだわ(笑)。
「あすかちゃんを引っ張るところも見ていないっていうの?」
「そんなもん、あすかちゃんの脚を見ているに決まっているだろう!」
「たしかに。あそこは、あすかちゃんの脚を見るわ」
「あすかちゃんの脚と尻は、素晴らしいよね」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
みんなあすかちゃんダイスキだから。
彼女の演技力もさることながら、あのプロポーションにも惚れ込んでいるから。
あすかちゃんが脚見せドレスで登場したら、オペラで美脚を鑑賞するだろう! 人として!
……2回目に脚見せドレスあすかをエレナ様が引っ張ってるのを見て、自分の視線の正直さにウケたよ。
たしかに引っ張っている人がいたことはわかっていたけど、あすかの脚見てたから、そっちは見なかったんだな、わたし(笑)。んで、脚を堪能したあとオペラを下ろして全体を眺めてたんだなー。そりゃ気づかないわなー(笑)。
や、だから今はちゃんとエレナ様も見てますって。
あまりに「ザ・サヨナラショー」過ぎて、観ていて大変!な『ア ビヤント』。
平静に楽しもう、泣いてばっかじゃまともにショーとして楽しめないじゃん、ふつーに観るのよふつーに、と気合い入れて観て……抵抗したところで結局、楽屋の場面から大泣きしてしまう。
いやその、所詮主題歌の「またね またね」で泣けるので、オープニングから泣きスイッチは入るんだけど、落ち着けわたし、と。
ショーとしてはコレ、どうなのかなあ。
あまりにも既視感ありまくりで、「構想*年、ついに開幕」てな作り込みは感じられない。
時間なくて、アリモノだけで間に合わせました感があるってゆーか。
でも、タカラヅカってのは「いつもの」を楽しむところだから、既視感自体は悪いことじゃない。
とくに、退団公演なら外ではもう拝めない「タカラヅカらしい」「定番の」「いつもの」タカラヅカ・ショーであるべきだと思う。
あすかちゃんがもっと出番多くて、トウコちゃんと絡んでくれたら、もっとうれしかったかな。
なんか意外なほど、ふたりの場面が少なくて。
クライマックスの大合唱にあすかはいないし、最後のパレードも横から登場して列に混ざるし。
でもその出番の少なさ、控えめさが、「タカラヅカの娘役」としての花道なのかもしれない……とも、思う。
理不尽に思えるほどの男役社会……それを理解した上で、支える役割を凛として果たす「娘役」という立場に、その技術、心意気に感動する。
あー、でもでも、もっともっとあすかも見たかったなあ。
ショーのストーリーについては、あまり考えが及ばない……というか、考える気にならない。
藤井くんのショーは好きだけど、彼の作る「物語」はどっちかっつーと苦手だ、ぐだぐだ過ぎて(笑)。想像の余地とか行間を残すとかじゃなく、単に物語としての構成力・収束力がナイ気がする。風呂敷は広げるけれど、たたみ方を知らなくて、最後はぐちゃぐちゃにして空へ放り投げて終わり、とか。
でもその風呂敷は、風に乗って大気に乗って、ふわりふわりと優雅に自由に踊るように降りて来て、それはソレで楽しいかな、てのがフジイ・ショーのストーリーの常、かな。
……でもわたし、ちゃんとたたんでくれる作家の方が好き(笑)。たたむのは、技術と根性いるから、ソレをあえてやってくれる人に軍配を上げるな。
出演者と、タカラヅカへの愛情が見える作品だから、もうソレだけでいいっちゃーいいんだけど。
退団公演なんか、泣くためにあるんだから、思い存分泣かせてくれるフジイ・ショーは正しいよな。うん。
またね。
って言葉が、なんだかすごく切なくて、大切に聞こえる。
またね。
そう言えることの、幸福に、最後になって改めて気づかされるっていうか。
「んじゃ、アビヤント」
「アビヤント」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
別れの言葉。
次また劇場で会いましょう。
またね。
また、会おうね。
「元気すぎて困ってる」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
「ナニ、トーコって?」
「猫の名前」
「猫にそんな名前つけてんの? アホちゃう」
「や、子どもにマジで瞳子ってつけよーとしていた人に言われたくないですけど?」
「男の子だったから断念、女の子だったら瞳子だったのに~~」
「男ならケイくんにすれば良かったのに」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
ええ、我が家の新しい家族の猫を、トーコちゃん呼びしてますがナニか?
そんな人、きっと五万といるよね。ペットに好きな芸能人の名前付ける人。子どもに付ける人だって、わりといる、と思う(笑)。
それにしても瞳子ってきれいな名前だよね。本人のあのきらきらな瞳を連想させるだけに、さらにイメージアップ。
「あのショーで、エレナ様に気づかないなんて、ありえない」
『ア ビヤント』初見でエレナ様に気づかなかったわたしは、会う人会う人にそう言って責められています(笑)。
や、「エレナ様」だと気づかなかっただけで、白い妖精さんが舞台にいるのは気づいていたよ、そりゃ。
初日はB席だったのでオペラグラス上げっぱなし、オペラの狭い視界以外はあまり観てない状態で、彼女の登場時にザネリ@れおんをぼーっと観ていたらしいわたしにとって、「いつの間にか、モブに白い妖精の女の子がいる」程度だった。
で、妖精さんの姿から「下級生にちがいない」と決めつけ、「今は未来ある若者を見ている場合じゃないわ、トウコちゃん見なきゃ! しいちゃん見なきゃ!」とテンパっていた。
泣きすぎていて、オペラが曇っていたのも事実だが(笑)、ほんとに興味なくてちゃんと妖精さんのカオまでチェックしていなかった。
2回目以降、ちゃんとエレナ様も見ているが、初見でどうして気づかなかったかも、よくわかった。
彼女、わたしが初見時にオペラを上げるタイミングの、外にいたんだわ(笑)。
「あすかちゃんを引っ張るところも見ていないっていうの?」
「そんなもん、あすかちゃんの脚を見ているに決まっているだろう!」
「たしかに。あそこは、あすかちゃんの脚を見るわ」
「あすかちゃんの脚と尻は、素晴らしいよね」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
みんなあすかちゃんダイスキだから。
彼女の演技力もさることながら、あのプロポーションにも惚れ込んでいるから。
あすかちゃんが脚見せドレスで登場したら、オペラで美脚を鑑賞するだろう! 人として!
……2回目に脚見せドレスあすかをエレナ様が引っ張ってるのを見て、自分の視線の正直さにウケたよ。
たしかに引っ張っている人がいたことはわかっていたけど、あすかの脚見てたから、そっちは見なかったんだな、わたし(笑)。んで、脚を堪能したあとオペラを下ろして全体を眺めてたんだなー。そりゃ気づかないわなー(笑)。
や、だから今はちゃんとエレナ様も見てますって。
あまりに「ザ・サヨナラショー」過ぎて、観ていて大変!な『ア ビヤント』。
平静に楽しもう、泣いてばっかじゃまともにショーとして楽しめないじゃん、ふつーに観るのよふつーに、と気合い入れて観て……抵抗したところで結局、楽屋の場面から大泣きしてしまう。
いやその、所詮主題歌の「またね またね」で泣けるので、オープニングから泣きスイッチは入るんだけど、落ち着けわたし、と。
ショーとしてはコレ、どうなのかなあ。
あまりにも既視感ありまくりで、「構想*年、ついに開幕」てな作り込みは感じられない。
時間なくて、アリモノだけで間に合わせました感があるってゆーか。
でも、タカラヅカってのは「いつもの」を楽しむところだから、既視感自体は悪いことじゃない。
とくに、退団公演なら外ではもう拝めない「タカラヅカらしい」「定番の」「いつもの」タカラヅカ・ショーであるべきだと思う。
あすかちゃんがもっと出番多くて、トウコちゃんと絡んでくれたら、もっとうれしかったかな。
なんか意外なほど、ふたりの場面が少なくて。
クライマックスの大合唱にあすかはいないし、最後のパレードも横から登場して列に混ざるし。
でもその出番の少なさ、控えめさが、「タカラヅカの娘役」としての花道なのかもしれない……とも、思う。
理不尽に思えるほどの男役社会……それを理解した上で、支える役割を凛として果たす「娘役」という立場に、その技術、心意気に感動する。
あー、でもでも、もっともっとあすかも見たかったなあ。
ショーのストーリーについては、あまり考えが及ばない……というか、考える気にならない。
藤井くんのショーは好きだけど、彼の作る「物語」はどっちかっつーと苦手だ、ぐだぐだ過ぎて(笑)。想像の余地とか行間を残すとかじゃなく、単に物語としての構成力・収束力がナイ気がする。風呂敷は広げるけれど、たたみ方を知らなくて、最後はぐちゃぐちゃにして空へ放り投げて終わり、とか。
でもその風呂敷は、風に乗って大気に乗って、ふわりふわりと優雅に自由に踊るように降りて来て、それはソレで楽しいかな、てのがフジイ・ショーのストーリーの常、かな。
……でもわたし、ちゃんとたたんでくれる作家の方が好き(笑)。たたむのは、技術と根性いるから、ソレをあえてやってくれる人に軍配を上げるな。
出演者と、タカラヅカへの愛情が見える作品だから、もうソレだけでいいっちゃーいいんだけど。
退団公演なんか、泣くためにあるんだから、思い存分泣かせてくれるフジイ・ショーは正しいよな。うん。
またね。
って言葉が、なんだかすごく切なくて、大切に聞こえる。
またね。
そう言えることの、幸福に、最後になって改めて気づかされるっていうか。
「んじゃ、アビヤント」
「アビヤント」
という会話が、ふつーにされている仲間内。
別れの言葉。
次また劇場で会いましょう。
またね。
また、会おうね。
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