つまりわたしは、「宝塚歌劇団公式の目線」に慣れていた、とゆーことなんだ。
舞台はナマモノであり、消えていく芸術である。あとにはなにも残らない刹那の作品である。
CSだのDVDだので記録された映像を見ることはできるが、それは舞台のほんの一部でしかない。完璧な姿で映像に残すことは、不可能だ。
不可能だから、できる範囲で映像化されている。
すべてを記録することはできないから、優先順位をつけて、できるところまでで線を引く。境界線より後ろは「考えない」。だって最初から無理なんだから、全部なんて。
その優先順位とは。
「スター」を映すこと。
宝塚ビデオが発売された当初なんか、それがより顕著だ。
他の人が喋っていても、歌っていても、ストーリーが進んでいても、んなことぁ関係なく、ただ、トップスターの「顔」のみを映し続ける。
1万円以上も出して映像ソフトを買うのはトップスターのファンのみで、「作品」のファンなど存在しないと思っていたんだろう。まあそれも、あながち間違いじゃない。主役を嫌いで作品を好きになることは難しいからな。
時代が下るに従って、「ストーリーがわからなくなるくらい、トップの顔だけを撮るのはおかしいかな」と、劇団も考え直したらしい。ビデオソフトが金になることがわかってからだ。公演を観たトップファンが記念に買う、だけではなく、公演が終わってから、公演を見ていない人も購入するのだと、気づいたのだろう。
基本トップの顔を中心に撮ることは変わらないが、初見の人が見てストーリーがわかる程度には他の人も映すようになった。
さらに専門チャンネルとなると、トップスターを映すのは重要だが、他に「できるだけ多くの出演者の顔を映す」という命題も出来た。
1万円のソフトを買う人の多くは役の比重の高い主要スターのファンだろうが、スカステはそうではない。高額なソフトを買う気のない組ファンや、その組や公演に1円も出す気はない人だって、見るわけだ。スカステ放送はよりライトに、できるだけ多くの出演者を一瞬でも抜いて映す。モブが出来るだけ多く映るようにアングルに気を使う。
ストーリー的に、「別にここで背景の6人口をひとりずつ映す必要はないだろ」ってときも、いちいち個別認識できる大きさで映し、名前テロップを出す。
歌劇団にとっての「映像」は、「生徒の顔を映すモノ」なんだよなあ。
そして、ファンもまたそれを求めているんだよなあ。誰がどれくらい映ったか、たとえ背景の映り込みでも、一瞬だけのアップでも、あればうれしいもの。
それに慣れているため、NHK撮影の映像などであまりにも「ストーリー中心」の画面を見せられると、かえってびっくりしたりする。モブが一切映らない、歌っている人、台詞がある人しか顔が判別できない、と。
そらそーだ、背景でしかない人たちまで、顔と名前がわかるようにはしないよな、ふつー。
タカラヅカの映像とは、スター中心。
他のすべてを差し置いても、とにかくスターの顔さえ映っていればヨシ。
次に、ストーリーが理解できる、「あらすじ」が追える程度の構成でヨシ。
映像作品としての表現や、テーマなどは、皆無。
ファンが求めるモノはそんなところにないから、需要に合わせた供給をしてきた。
……それに、慣れきっていたんだなあ。
映像作品「タカラヅカ・レビュー・シネマ 雪組公演ショー『ソロモンの指輪』」を見て、思い知った。
DVDでもスカステでも、アレはただ「スター出演記録」ではあっても、「映像作品」ではなかったんだよなあ。
いやあ、おもしろかった。
すげー愉快だった。
その、「タカラヅカ」では無い、様が。
『タカラヅカ・レビュー・シネマ』は、「タカラヅカ」ではない。
宝塚歌劇を素材として使用しているが、あれは「タカラヅカ」じゃない。
別のモノだ。
タカラヅカとは、スターだ。
人を見に行くものなのだと、痛感した。
『タカラヅカ・レビュー・シネマ』では、スターを個別認識し、スターの顔や姿、歌声を見せようという気はない。たしかに今歌っている人がアップになっていたりするが、それはその人を見せようとして映しているのではない。表現手段として映しているだけのことだ。
『レビュー・シネマ』が第一に表現しようとしているのは、「テーマ」であり、「物語」だ。
「映像」というツールを使い、「作品」を新たに創り上げているんだ。
水くんがアップで映っていたとしてそれは、「水夏希」だからアップにしているのではなく、別に「表現したいこと」があるために、その「素材」としてアップにしているに過ぎない。ぶっちゃけそれが「水夏希」である必要もない。
スター「水夏希」だから、アップにする劇団映像とは、まったく意味が違う。
意図がまったくチガウのだから、同じ素材を使っていても、そこにある『レビュー・シネマ』は、通常のヅカ映像とはまったくチガウし、これはそもそも「タカラヅカ」ですらない。
……てソレ、おもしろすぎる。
はじめて、「宝塚歌劇」を素材にしたメディア・ミックスを見た。
別作品を見た。
まさか放映期間延長されるとは思ってなかったから、忙しい最中がんばって西宮まで行ったよ。つか、ニシキタ行くならムラへ行くのと労力的にはほとんど変わらなかった。大阪人がわざわざ行くには不便過ぎる。
朝1回こっきりの上演で、土日はチケット完売、平日も残りわずかとかいう状態だったもんな。そりゃ延長もされるか。
1日1回上映でなければ、1日に数回続けて見たのにな。
『ソロモンの指輪』だけリピートしたい、と劇場で思ったことを、映画館でも思うのだった(笑)。
舞台はナマモノであり、消えていく芸術である。あとにはなにも残らない刹那の作品である。
CSだのDVDだので記録された映像を見ることはできるが、それは舞台のほんの一部でしかない。完璧な姿で映像に残すことは、不可能だ。
不可能だから、できる範囲で映像化されている。
すべてを記録することはできないから、優先順位をつけて、できるところまでで線を引く。境界線より後ろは「考えない」。だって最初から無理なんだから、全部なんて。
その優先順位とは。
「スター」を映すこと。
宝塚ビデオが発売された当初なんか、それがより顕著だ。
他の人が喋っていても、歌っていても、ストーリーが進んでいても、んなことぁ関係なく、ただ、トップスターの「顔」のみを映し続ける。
1万円以上も出して映像ソフトを買うのはトップスターのファンのみで、「作品」のファンなど存在しないと思っていたんだろう。まあそれも、あながち間違いじゃない。主役を嫌いで作品を好きになることは難しいからな。
時代が下るに従って、「ストーリーがわからなくなるくらい、トップの顔だけを撮るのはおかしいかな」と、劇団も考え直したらしい。ビデオソフトが金になることがわかってからだ。公演を観たトップファンが記念に買う、だけではなく、公演が終わってから、公演を見ていない人も購入するのだと、気づいたのだろう。
基本トップの顔を中心に撮ることは変わらないが、初見の人が見てストーリーがわかる程度には他の人も映すようになった。
さらに専門チャンネルとなると、トップスターを映すのは重要だが、他に「できるだけ多くの出演者の顔を映す」という命題も出来た。
1万円のソフトを買う人の多くは役の比重の高い主要スターのファンだろうが、スカステはそうではない。高額なソフトを買う気のない組ファンや、その組や公演に1円も出す気はない人だって、見るわけだ。スカステ放送はよりライトに、できるだけ多くの出演者を一瞬でも抜いて映す。モブが出来るだけ多く映るようにアングルに気を使う。
ストーリー的に、「別にここで背景の6人口をひとりずつ映す必要はないだろ」ってときも、いちいち個別認識できる大きさで映し、名前テロップを出す。
歌劇団にとっての「映像」は、「生徒の顔を映すモノ」なんだよなあ。
そして、ファンもまたそれを求めているんだよなあ。誰がどれくらい映ったか、たとえ背景の映り込みでも、一瞬だけのアップでも、あればうれしいもの。
それに慣れているため、NHK撮影の映像などであまりにも「ストーリー中心」の画面を見せられると、かえってびっくりしたりする。モブが一切映らない、歌っている人、台詞がある人しか顔が判別できない、と。
そらそーだ、背景でしかない人たちまで、顔と名前がわかるようにはしないよな、ふつー。
タカラヅカの映像とは、スター中心。
他のすべてを差し置いても、とにかくスターの顔さえ映っていればヨシ。
次に、ストーリーが理解できる、「あらすじ」が追える程度の構成でヨシ。
映像作品としての表現や、テーマなどは、皆無。
ファンが求めるモノはそんなところにないから、需要に合わせた供給をしてきた。
……それに、慣れきっていたんだなあ。
映像作品「タカラヅカ・レビュー・シネマ 雪組公演ショー『ソロモンの指輪』」を見て、思い知った。
DVDでもスカステでも、アレはただ「スター出演記録」ではあっても、「映像作品」ではなかったんだよなあ。
いやあ、おもしろかった。
すげー愉快だった。
その、「タカラヅカ」では無い、様が。
『タカラヅカ・レビュー・シネマ』は、「タカラヅカ」ではない。
宝塚歌劇を素材として使用しているが、あれは「タカラヅカ」じゃない。
別のモノだ。
タカラヅカとは、スターだ。
人を見に行くものなのだと、痛感した。
『タカラヅカ・レビュー・シネマ』では、スターを個別認識し、スターの顔や姿、歌声を見せようという気はない。たしかに今歌っている人がアップになっていたりするが、それはその人を見せようとして映しているのではない。表現手段として映しているだけのことだ。
『レビュー・シネマ』が第一に表現しようとしているのは、「テーマ」であり、「物語」だ。
「映像」というツールを使い、「作品」を新たに創り上げているんだ。
水くんがアップで映っていたとしてそれは、「水夏希」だからアップにしているのではなく、別に「表現したいこと」があるために、その「素材」としてアップにしているに過ぎない。ぶっちゃけそれが「水夏希」である必要もない。
スター「水夏希」だから、アップにする劇団映像とは、まったく意味が違う。
意図がまったくチガウのだから、同じ素材を使っていても、そこにある『レビュー・シネマ』は、通常のヅカ映像とはまったくチガウし、これはそもそも「タカラヅカ」ですらない。
……てソレ、おもしろすぎる。
はじめて、「宝塚歌劇」を素材にしたメディア・ミックスを見た。
別作品を見た。
まさか放映期間延長されるとは思ってなかったから、忙しい最中がんばって西宮まで行ったよ。つか、ニシキタ行くならムラへ行くのと労力的にはほとんど変わらなかった。大阪人がわざわざ行くには不便過ぎる。
朝1回こっきりの上演で、土日はチケット完売、平日も残りわずかとかいう状態だったもんな。そりゃ延長もされるか。
1日1回上映でなければ、1日に数回続けて見たのにな。
『ソロモンの指輪』だけリピートしたい、と劇場で思ったことを、映画館でも思うのだった(笑)。
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