ゆがみ部分に在る人生。@哀しみのコルドバ
2009年5月12日 タカラヅカ どうしても気になるのは、アルバロ@まっつのことです。
ふつーに観ていたら別にどーってことのない役で、どーってことのない人なんだけど、なにしろこちとらまっつファンで。まっつ中心の視界になっているわけで。
アルバロはストーリーには絡まないけど、いや、絡まないからこそ、妙なスタンスでストーリーに……というか、主人公に関わっています。
いっそまったく関わってなければそーゆーもんだと思うのに、アルバロが主人公サイドを向いている……ために、彼に着目すると「それでいったいどーなってるの?」と疑問がわいてきます。
『哀しみのコルドバ』はわかりやすい話で、主人公たち主要キャラも、彼らを取り巻く脇の人たちも、言動がとてもクリアで澱みがない。
どーしてこの人がここでこんなことを言うのか、するのか、観ていてストレスがないの。うんうん、そうだよね、ああ思ったからこうしたんだよね、といちいち納得できる。(ヅカでは超絶貴重。激レア)
そのわかりやすい人たちの中で、アルバロは「作者がちゃんと描写する気がない」脇のその他大勢でありながら、「主人公の出生の秘密、物語のクライマックスに立ち合う」という、唯一無二の、「変な位置にいるキャラクタ」だ。
とゆーことで、アルバロさんが気になります。
短編小説としてきちんと収めるのなら、プロット時にアルバロは「その他の名前のある脇役」欄に分類し、決して意味のある場面には登場させない。
登場人物の役割が絞りきれないと、物語が散漫になり、盛り上がりに欠けるためだ。
エリオ@まとぶんの出生の秘密がわかる場面には、脇役など立ち合わせてはならない。
決闘の立会人が必要だというなら、第2グループの主要キャラ、ビセント@みわっちを1日早くコルドバへ到着させて、彼を立会人にすればいい。
ビセントは先にエリオとまったく同じ状況で決闘をしているのだから、彼が立会人をする方が、物語がはるかに盛り上がる。
しかし、80人もの出演者にできるだけ役と出番を作らなければならない宝塚歌劇なので、物語としてのクオリティを犠牲にしても、他の人に出番を作らなければならない。
そのシステム上の欠陥ゆえに、ビセントではなくアルバロが立会人をしているのだろう。
今回は全ツでそれほどの数の出演者はいないが、もとが大劇場用作品だったわけだし。演出はそのままだろうし。
タカラヅカのシステムを今さらどーこー言っても仕方ないので、設定的にまちがっている……とまでいかないが、最善ではまったくなくても、とにかくここはアルバロの出番となった。
この整然とした物語の中、システム上のゆがみで配置されたアルバロの、キャラクタのどっちつかずさが、気になる(笑)。
ゆがみ部分なんだから、役者のフリースペースだと思うんだけどなー。
まっつはそーゆー「空白」を埋める演技は得意ではなさそうだ。経験不足もあるだろうけど。(設定が壊れていることが気になるくらいの、ちゃんとした役やったことあんましないよなあ。壊れていないちゃんとした役なら、バウとかでやったことあっても)
まっつがどーゆーつもりで役作りして、どう演技しているのか、ほんとのところはわからない。
が、とりあえず、わたしには。
アルバロの女好きは、ただのポーズに見える。
や、キライぢゃないだろうがな(笑)。
でも、ことさら女好きをアピールするのは、すごく嘘くせー。モテモテぶるのも、嘘くせー。
もちろんソレは、まっつの芸風に合っていないせいもある。まっつがやると、いたたまれないよーなみょーな空気になるし。
わたしは初見時で吹き出したけど、とりあえず2回目以降は笑わなかった。でも、周囲の人はまっつがキザってるとほんとに笑うんだもんよ。吹き出すんだもんよ。
二枚目ぶって笑われるって、どうなのよまっつ、男役スターのひとりとして。や、路線様だけがスタァぢゃない、まっつももちろんスターカテゴリの人でしょお?
まっつの芸風に「モテモテのチャラ男」ってのが合っていない。それも理由のひとつだが……若手闘牛士たちとの場面でのアルバロと、エリオに対するときのアルバロが、あまりに別人過ぎて。
場面場面で別人、つーのは、どっちちかが「演技」だと思えるでしょう?
で、どちらが真実の顔かというと、やはりこの物語の核心に触れている部分で見せている顔でしょう。
つまり。
エリオの決闘に立ち会い、はからずもその出生の秘密(と、一家の愁嘆場)を知ってしまう。
そのあとのエリオの最後の舞台、その死を目の当たりにしての号泣。
ここで見せるドシリアスな骨太な男の姿こそが、本来のアルバロなんぢゃねーの?
もちろんソレは、まっつの芸風に合っているせいもある。
友情に厚い、真面目で真っ当な男って、ソレどこの相沢くん(笑)。まっつの得意分野。
誠実な男の方が演じやすいんだろう、チャラ男より。
相沢くん寄りになってはいるが、文官の相沢くんと違って闘牛士だから、しっかり骨太なんだよね。ずっと男らしい。
エリオ一家が泣くわわめくわもー大変、な状態になっているとき、黙ってそれを見つめているアルバロのオトコマエなこと。
それがそのあとに、闘牛士として「光の衣装」を身につける、あのストイックな横顔につながるんだよな。
アルバロの二面性を考えると、仕方なかったんだろうなと思う。
同じ事務所に所属するタレントでさ、同世代に天才がいて、才能だけでなく性格も良くて、ひとりの人間として自分では到底叶わない……となったら、身の振り方考えるじゃん?
別の事務所に移籍して、天才くんとはぶつからないですむところで生きるか、同じ場所にいるなら、別のキャラ立てを狙うか。
アルバロは、エリオとかぶらないキャラを演じるしかなかったんだなあ。
エリオが真面目で誠実、女にも慎重だから、軽薄で自慢しぃの女好きを装う。エリオに負けていてもキニシナイ、だってチャラ男だもん。……そんなポーズを、取り続けるしか。
なにかあればすぐエリオに頼りに行くとか(ビセントの不倫現場を目撃したのはアルバロだよな、台詞からして)、エリオがアントン・チームから出て行く(結果、闘牛士を辞める?)となったときのショック具合からして、アルバロがエリオを好きだったのは間違いないだろう。
エリオを失う、いなくなってしまう、てなときになってよーやく、もとの真面目で誠実な、強い顔になって決闘に立ち合う。もうチャラぶる必要はないから。
……と。
アルバロはゆがみ部分にいるキャラクタだから、存在自体「え、そんな人いたっけ?」ってくらい無視しても、『哀しみのコルドバ』という作品は成立しているが、彼に着目して作品を眺めると、それはそれですげーおもしろいんですが。
いくらでも、別の物語が見えてくるから。
ふつーに観ていたら別にどーってことのない役で、どーってことのない人なんだけど、なにしろこちとらまっつファンで。まっつ中心の視界になっているわけで。
アルバロはストーリーには絡まないけど、いや、絡まないからこそ、妙なスタンスでストーリーに……というか、主人公に関わっています。
いっそまったく関わってなければそーゆーもんだと思うのに、アルバロが主人公サイドを向いている……ために、彼に着目すると「それでいったいどーなってるの?」と疑問がわいてきます。
『哀しみのコルドバ』はわかりやすい話で、主人公たち主要キャラも、彼らを取り巻く脇の人たちも、言動がとてもクリアで澱みがない。
どーしてこの人がここでこんなことを言うのか、するのか、観ていてストレスがないの。うんうん、そうだよね、ああ思ったからこうしたんだよね、といちいち納得できる。(ヅカでは超絶貴重。激レア)
そのわかりやすい人たちの中で、アルバロは「作者がちゃんと描写する気がない」脇のその他大勢でありながら、「主人公の出生の秘密、物語のクライマックスに立ち合う」という、唯一無二の、「変な位置にいるキャラクタ」だ。
とゆーことで、アルバロさんが気になります。
短編小説としてきちんと収めるのなら、プロット時にアルバロは「その他の名前のある脇役」欄に分類し、決して意味のある場面には登場させない。
登場人物の役割が絞りきれないと、物語が散漫になり、盛り上がりに欠けるためだ。
エリオ@まとぶんの出生の秘密がわかる場面には、脇役など立ち合わせてはならない。
決闘の立会人が必要だというなら、第2グループの主要キャラ、ビセント@みわっちを1日早くコルドバへ到着させて、彼を立会人にすればいい。
ビセントは先にエリオとまったく同じ状況で決闘をしているのだから、彼が立会人をする方が、物語がはるかに盛り上がる。
しかし、80人もの出演者にできるだけ役と出番を作らなければならない宝塚歌劇なので、物語としてのクオリティを犠牲にしても、他の人に出番を作らなければならない。
そのシステム上の欠陥ゆえに、ビセントではなくアルバロが立会人をしているのだろう。
今回は全ツでそれほどの数の出演者はいないが、もとが大劇場用作品だったわけだし。演出はそのままだろうし。
タカラヅカのシステムを今さらどーこー言っても仕方ないので、設定的にまちがっている……とまでいかないが、最善ではまったくなくても、とにかくここはアルバロの出番となった。
この整然とした物語の中、システム上のゆがみで配置されたアルバロの、キャラクタのどっちつかずさが、気になる(笑)。
ゆがみ部分なんだから、役者のフリースペースだと思うんだけどなー。
まっつはそーゆー「空白」を埋める演技は得意ではなさそうだ。経験不足もあるだろうけど。(設定が壊れていることが気になるくらいの、ちゃんとした役やったことあんましないよなあ。壊れていないちゃんとした役なら、バウとかでやったことあっても)
まっつがどーゆーつもりで役作りして、どう演技しているのか、ほんとのところはわからない。
が、とりあえず、わたしには。
アルバロの女好きは、ただのポーズに見える。
や、キライぢゃないだろうがな(笑)。
でも、ことさら女好きをアピールするのは、すごく嘘くせー。モテモテぶるのも、嘘くせー。
もちろんソレは、まっつの芸風に合っていないせいもある。まっつがやると、いたたまれないよーなみょーな空気になるし。
わたしは初見時で吹き出したけど、とりあえず2回目以降は笑わなかった。でも、周囲の人はまっつがキザってるとほんとに笑うんだもんよ。吹き出すんだもんよ。
二枚目ぶって笑われるって、どうなのよまっつ、男役スターのひとりとして。や、路線様だけがスタァぢゃない、まっつももちろんスターカテゴリの人でしょお?
まっつの芸風に「モテモテのチャラ男」ってのが合っていない。それも理由のひとつだが……若手闘牛士たちとの場面でのアルバロと、エリオに対するときのアルバロが、あまりに別人過ぎて。
場面場面で別人、つーのは、どっちちかが「演技」だと思えるでしょう?
で、どちらが真実の顔かというと、やはりこの物語の核心に触れている部分で見せている顔でしょう。
つまり。
エリオの決闘に立ち会い、はからずもその出生の秘密(と、一家の愁嘆場)を知ってしまう。
そのあとのエリオの最後の舞台、その死を目の当たりにしての号泣。
ここで見せるドシリアスな骨太な男の姿こそが、本来のアルバロなんぢゃねーの?
もちろんソレは、まっつの芸風に合っているせいもある。
友情に厚い、真面目で真っ当な男って、ソレどこの相沢くん(笑)。まっつの得意分野。
誠実な男の方が演じやすいんだろう、チャラ男より。
相沢くん寄りになってはいるが、文官の相沢くんと違って闘牛士だから、しっかり骨太なんだよね。ずっと男らしい。
エリオ一家が泣くわわめくわもー大変、な状態になっているとき、黙ってそれを見つめているアルバロのオトコマエなこと。
それがそのあとに、闘牛士として「光の衣装」を身につける、あのストイックな横顔につながるんだよな。
アルバロの二面性を考えると、仕方なかったんだろうなと思う。
同じ事務所に所属するタレントでさ、同世代に天才がいて、才能だけでなく性格も良くて、ひとりの人間として自分では到底叶わない……となったら、身の振り方考えるじゃん?
別の事務所に移籍して、天才くんとはぶつからないですむところで生きるか、同じ場所にいるなら、別のキャラ立てを狙うか。
アルバロは、エリオとかぶらないキャラを演じるしかなかったんだなあ。
エリオが真面目で誠実、女にも慎重だから、軽薄で自慢しぃの女好きを装う。エリオに負けていてもキニシナイ、だってチャラ男だもん。……そんなポーズを、取り続けるしか。
なにかあればすぐエリオに頼りに行くとか(ビセントの不倫現場を目撃したのはアルバロだよな、台詞からして)、エリオがアントン・チームから出て行く(結果、闘牛士を辞める?)となったときのショック具合からして、アルバロがエリオを好きだったのは間違いないだろう。
エリオを失う、いなくなってしまう、てなときになってよーやく、もとの真面目で誠実な、強い顔になって決闘に立ち合う。もうチャラぶる必要はないから。
……と。
アルバロはゆがみ部分にいるキャラクタだから、存在自体「え、そんな人いたっけ?」ってくらい無視しても、『哀しみのコルドバ』という作品は成立しているが、彼に着目して作品を眺めると、それはそれですげーおもしろいんですが。
いくらでも、別の物語が見えてくるから。
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