石田昌也は、何故宝塚歌劇団にいるのだろう?

 と、もう何度目かわからない疑問に首を傾げる。イシダ作品最新作『フィフティ・フィフティ』を観劇して。

 『50/50』は、悪くない作品だと思う。
 同じ孤児院出身の幼なじみ詐欺師コンビが、田舎の村で人々のあたたかさに触れて改心する物語。ストーリーラインは簡単。そこに主人公ふたりのそれぞれの恋バナと、出会う人々の人生模様を絡め、自分探しして全員ハッピーエンドになだれ込む。

 悪くはない。
 ちゃんと起承転結しているし、盛り上げて泣かせて、うまく機能していると思う。そもそもなんで詐欺師コンビがこの村で暮らすはめになったのか、村長の息子@だいもんの行動が謎とはいえ。

 ただ。

 なんでコレ、タカラヅカでやってるんだろう?

 と、盛大に首を傾げた。

 出演者たちの魅力、彼らがステキだったことや、熱演だったこととはまったく別。
 キャストの話は別欄でやるので、今回はあくまでも、イシダせんせと、彼の作品『フィフティ・フィフティ』について。
 

 わたしのいちばんの疑問は、舞台がアメリカであることなんだよな。

 だってコレってどう考えても日本の話で、出ている人たちも日本人だよね?
 テーマもキャラもストーリーも、細かいエピソードもおふざけも、なにもかも日本でしかない。

 タカラヅカが「日本人が演じるナンチャッテ西洋」であることとは、まったく別。
 「なに言ってんの、日本人が金色に髪の毛染めて『オスカル~~』とかやってんのがタカラヅカじゃん!」って、そーゆー話じゃないので混同しないで。
 演じているのが日本人であっても、物語はふつーに外国であること、がタカラヅカなんだってば。

 舞台が外国であっても、そこに流れる精神は日本である。……これも、タカラヅカのお約束のひとつ。
 生まれ育った慣習ゆえの「ツボ」というものがあり、海外ミュージカルをそのまんま輸入したって日本人が理解できない、できても真の意味で共感したり出来ない、ことがままあるので、「外国そのもの」である必要はない。
 外国の設定を使いながらも、根っこの感覚は日本独自のモノ。それが、タカラヅカの柔軟さ、素晴らしさ。

 じゃあ『50/50』だってそうじゃん、舞台が外国なだけで感性は日本って、ヅカのお約束守ってるだけじゃん!
 ……ということでも、ナイんだ。

 『50/50』は、「舞台が外国なだけで感性は日本」なんじゃない。「舞台が外国である意味がない」んだ。

 あまりにも、「日本」でありすぎる。ストーリーも道具立てもキャラもテーマも。
 むしろ、アメリカにすると無理がありすぎて、本質が損なわれる。

 ふつーに日本が舞台の物語だったら、もっとリアリティがあり、おもしろい芝居になっただろう。
 そう思える。
 ちりばめてあるネタが全部現代日本だからだ。

 だが、現代日本を舞台にして、この公演は成り立たない。
 主人公がタカシとカズオで、ヒロインがキョウコとヨウコで、彼らが出会うのが山形県のなんとか村とかだとかだったりしたら、ヅカとしてありえない。夢が見られない。(名前はてきとー)

 タカラヅカだから、あえてアメリカで、あえてカタカナ名前なんだ。ジョナサンとヴィクターなんだ。

 それはわかる。
 タカラヅカで上演する以上、舞台をアメリカにしたのはいい。GJだ。日本でやられてたらドン引きしていた。

 が。

 タカラヅカで上演するために、作品のクオリティを落とすのは、どうなのよ?

 舞台は日本であるべきで、登場人物もふつーの日本人であるべき物語なのに。
 「タカラヅカだから」と、作品を曲げてまでアメリカにしなければならなかった。

 作品を曲げなければならないのなら、そもそも何故これをタカラヅカで上演する?
 意味ないじゃん。
 作品をもっとも良いカタチで提供できる媒体でやるべきだろう。

 テーマを訴えるための手段として、ファンタジーを利用するのはアリだと思っている。むしろ、そのためにファンタジーはあって良いとさえ思っているクチだ、わたしは。
 だから、『50/50』のテーマを訴えるもっとも良い方法が、舞台をあえてアメリカにし、「タカラヅカ」としての手法を使うことだったのだ、というならばそれでいいと思う。
 が、『50/50』は反対だ。この作品の良さを、「タカラヅカ」が邪魔している。マイナスになっている。

 「タカラヅカ」であることがマイナスになる作品を、何故タカラヅカで上演するんだ。
 それが理解できない。

 「作品」本位に考えて、すごくもったいないし、くやしいと思う。
 我が子を望むカタチで世に送り出してやることができないなんて、作家としてどう思うんだろう?

 もちろん、仕事なんだから割り切りは必要だ。
 天才でない以上、好きなモノだけ書くことが仕事ではないだろう。
 「少年が人々との触れ合いの中で成長していく王道スポ根モノが描きたい」と思っていても、「エロネタ満載のラブコメ描いてね」と言われたら、描くしかないんだろうさ。
 でもさー、依頼された「エロエロ・ラブコメ」の中に、少年の成長譚を盛り込むのと、スポ根モノをエロエロに改稿するのとでは、まったく意味も出来も違ってくると思うんだが。
 まず作品を発表できなければ読者に届かないわけで、それを最重要視するなら、意に染まないジャンルでも描くしかない。でも、そのジャンルの中で、自分の色を出す。与えられた枠の中で戦う。エロラブやりながら、主人公やヒロインの心の流れを丁寧に描き、成長していく様をドラマティックに繊細に描く……とかさ。 
 が、イシダは反対やってないか?
 エロラブやらなきゃそもそも本誌掲載なし、と言われたからって、もともと描きたかったスポ根モノをエロラブに変換。主人公ががんばる対象をスポーツではなくえっちなことにする。そしたらキャラもストーリーもテーマもみんな同じで、立派にエロラブになったぞー、イェーイ♪ てか?

 安易に「舞台がアメリカで、出てくる人たちみんなカタカナ名前です」ってだけで、「タカラヅカです、文句ないっしょ?」とやられてもな。

 日本人しか描けないなら、タカラヅカにいる必要ないのに。
 ちゃんと日本人の舞台を作れるんだから、もっと自分の才能を活かせるところに行けばいいのに。

 ヅカを辞めろとはべつにまったく思っていないので、自分の中の「作品」をうまく割り振りして、外部とヅカと両立すればいいのに。

 『50/50』は、「タカラヅカではない」ことをのぞけば、いい作品だったんだと思う。
 『殉情』と同じように、想像の余地がないほどなにもかも台詞で語り尽くされてしまうので、その観客に対する下品さがわたしの趣味ではまったくないが、外部で上演されていたら、「イシダ、やるじゃん」と思えたと思う。

 なんでコレ、タカラヅカで上演したんだろう?
 イシダせんせは自分の作品へ、愛やこだわりはないのかなあ? 上演できればなんでもヨシ? 作品の質が損なわれても?
 わっかんねーなー。

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