『フィフティ・フィフティ』は、泣ける作品だと思う。『黎明の風』が泣けるのと同じように。

 イシダせんせは日本人の「泣かせツボ」を心得た人だと思う。

 泣ける作品だけれど、わたしは苦手だと思ってしまう。観たいと思うものではない、と。『50/50』も『黎明の風』も。

 それは、ファンタジーが足りないためだと思う。

 ほんとに、個人的な、ただの趣味、好みの問題だが。

 現実に近すぎ、また、わたしの生きる場所と陸続きだと、そこを「異世界」だと割り切れなくて。

 現代が舞台でも、ふつーのラヴ・ストーリーならぜんぜんかまわないんだが。
 「社会問題」とか「思想」とか、生々しいモノがあり過ぎて、ちとキツいっす。

 まったく同じストーリー、同じテーマでも、「どこかの架空世界」が舞台なら平気なんだけど。
 ドレスに宮廷服の世界で、ありそでなさそなヨコ文字国名の話なら、わたしはもっと素直に楽しめたろうな。
 都会の人たちは瀟洒に着飾る、フロックコートや燕尾にフリルの襟、田舎でも女たちはロングドレスで、東北弁なんか喋らない。ロン毛にリボン、くるくる巻き髪。とにかく目に派手な「これぞタカラヅカ」な画面なの。
 だけどやってることはみんな同じ、テーマも同じ。架空の世界だからこそ、思想も自由に綺麗事も自在に展開できる。

 ……と、さりげなく以前書いたテキストのコピペですが(笑)。

 現代を舞台にするなら、そこで扱う出来事はなにか別物にしてほしい。名前も直接的な事件も違うけど、これってよく考えれば現実の**にもあてはまるよね? と、観客に想像させて欲しい。
 たとえば「ひきこもり」とそのまんまな現代用語を出してしまうと、ほんとうにただそれだけのものになってしまう。別の事象から「これって現代で言うひきこもりやニートのこと言ってんじゃね? あてはまるんじゃね?」と、どう受け取るかは観客に任せて欲しい。
 また、その事件を受けてどう感じるかは、答えを出すのは観客に任せて欲しい。
 「愛とは~~」「人生とは~~」と、いちいち結論を語られてしまうと、ただそれだけのものになってしまう。

 ほんとに、ナンチャッテ中世モノだったら、現実問題そのまんま出しまくってもファンタジーなのになー。
 少年マンガでよくある、剣と魔法の世界や時代劇なのにふつーに現代にしかない単語やアイテムが飛び交う作品。
 『ベルばら』あたりの時代のパリとどっかの田舎町、とかで、ふつーにニートがどうのネグレクトがどうのと現代まんまなことやればいいのに。「や、この時代にソレはありえないから!」の、「ありえない」と思える空気感が、ファンタジー。
 ありえねー、でもおもしれー、が、タカラヅカ。

 直接的すぎて、直接描くにはテーマの掘り下げ方が浅はかで、しかも見方・考え方は統一、答えまで押し付け。
 もっとぼかして描いてくれれば、浅くても客が勝手にいろいろ考えるのに、結論まで台詞で何度も何度も語られたら、観る意味がなくなっちゃうよお。

 や、1回はいいんだけどね。最初だから。でも2回目からは……。

 答えはひとつではないし、考え方もひとつではない。
 テーマを叫んでも主義や思想を叫んでもイイから、「答え」まで解説しないでくれ。
 叫ばれた主義や思想を受け取り、どう答えるかは観客の権利だから。

 明確なテーマや「言いたいこと」のある作家も作品も好きなんだけどね。
 イシダ作品は叫びを通り越して感じ方まで解説しまくる下品さが、苦手なんだわ……。男尊女卑でセクハラで、という下品さとは別に、「作家として」の下品さが苦手っす。

 イシダ作品でも「ファンタジー」色の強かった『大坂侍』とかは好きなんだけどな。

 
 まあそれはさておき、みつるの目の下のシワ(ツボ)と、着ぐるみでもキラキラ素敵なアーサーにうっとりしておくことにします(笑)。

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