グリゴリーはフィラントの夢を見るか?@ロシアン・ブルー
2009年8月5日 タカラヅカ 今回キムは、どーしちゃったんだろう。
『ロシアン・ブルー』において、雪組3番手男役キムの役付きは、決して良くない。ぶっちゃけ悪い。
今までの彼が担ってきた役割からは、考えられないどーでも良さだ。
グリゴリー・アレクサンドロフ@キムはその他大勢のひとりで、大野くんのヲタクうんちくを表現するためだけに登場するうちの、ひとり。
ひろみくんやあゆちゃんの役と、役割的にはなんら代わりはない。気を遣ってセンターで踊らせてもらっているだけで。
しどころのない役なのは確かだが、それにしたって、どーしちゃったんだろう?
グリゴリー氏の、薄っぺらさは。
実在の人物である以上、その背景はいくらでも存在する。どーゆー人でなにをしてなにを考えてその時代を生きていたか。
そーゆー外側のことではなく、この『ロシアン・ブルー』という舞台の上での、キャラクタとしてのグリゴリーという人物の、キャラクタが、見えてこない。
もちろん、与えられた出番と台詞で表現してはいる。
陽気でお調子者で考えナシ、パワフルで善良。
持ち前の華と押し出しの良さ、明るさで、その他大勢のひとりながら、堅実に仕事はこなしている。
でもそれってなんか、すごく表面的っていうか。
書いてあることをそのまんま、自分の持っているものだけで表現しました、っていうか。
その持っているものっつーのも、引き出しのかなり上の方にいつも置いてあるヤツで、「はいはい」と即席に出してきたってゆーか。
余裕っぽく見えながらも、なにかしら苦しんで苦しんでその結果出してくる、いつものキムくんの芝居ではないっていうか。
手を抜いてるとか努力していないとか思っているわけではまったくなく、ええ、そんなこと絶対ありえないとわかっているけれど、それとは別に、目に映るものに疑問を持つ。
どーしちゃったんだろう?
『ロシアン・ブルー』は良くできた作品だ。
だが、その「良くできた」所以は、登場人物を記号化することで成り立っている。
たった1時間半の芝居で、80人の役者になにかしら役を付けて、歌って踊って起承転結つけろっててのは、至難の業。
どこかはあきらめて、どこかは手を離して、できるところだけでまとめなきゃならない。
やたらめったら出てくるたくさんのキャラクタは、実在の人物だったりなかったりしつつも、ちゃんと名前と所属があってそれぞれ舞台で歌い踊り小芝居し、「キャラクタがある」と思わせている。
レビュー団のメンバーだったり、ネコタンズだったり、悪者チームだったり、役割いろいろ、役がたくさんあって出番があってミュージカルナンバーがあってステキ。
されど彼らはほんとーのとこ、「キャラクタがない」んだ。
レビュー団のメンバーだったり、ネコタンズだったり、悪者チームだったりと、それらしい「記号」があるだけ。
わかりやすく役割ひとつだけにしぼり、イメージしやすくしてある。
主人公のアルバート@水くん、ヒロインのイリーナ@みなこちゃん以外は、ぶっちゃけ「記号」なんだよね。
わかりやすいところでいうと、2番手が演じる執事ヘンリー@ゆみこちゃん。
彼の役目は「萌えキャラ」「アルバート様の執事」である。アルバートとの「親友以上・妻未満」な関係も含めて、わかりやすく記号化されている。
彼のキャラクタ、存在はアルバートに関係する部分のみで、ヘンリー個人の物語・人生は必要とされていない。
アルバートを彩るパーツであり、アルバート抜きには存在しない。
水ゆみは『マリポーサの花』でも似たような人間関係を演じているけれど、エスコバル@ゆみこには、彼自身の物語と人生が垣間見えた。ネロ@水のために生きているとしてもだ。
だけど記号であるところのヘンリーには、そーゆーディープな面は見えない。
今、舞台にあるヘンリー(と、アルバート)を楽しむのみだ。
それがいけないと言っているわけではなく、この作品には、それが必要なのであって、作品に合わせた演技をしているからすげえよなってことなんだな。
『ロシアン・ブルー』は、そーゆー距離感で演じ、構築してある。
だからグリゴリー@キムもまた、記号である。
いわゆる「音月桂」にイメージされる記号。
キムの引き出しの、いちばん浅いところでまかなえてしまう記号。
本来2、3番手が演じるべきラスボスを、組長代理のハマコが演じてしまい、キムには回ってこなかった。
アテ書きすると、キムではない、キムには演じられない、と判断されてしまったんだろう。
そしてキムは、その他大勢のひとりとなった。
グリゴリーという、あるいは「音月桂」という「記号」を演じるキムは、とても簡単に見える。
今までいろんな役を演じてきて、今さらこんな簡単な役を与えられるとは思わなかった、と見えるほどの簡単さ。
だってそこにあるのは「音月桂」で、キムが求められた記号はソレだったから。
そして、記号化したときに求められるモノが「ソレ」でしかないっていうは、役者として、どうよ?
なんか、ちょっと途方に暮れる。
たしかにキムには、できないというか、苦手な役がある。
だけどそれを意に介さないほどの実力と、別の魅力がある。
彼のポジションが上がるにつれて、そーゆー意味での「仕事」をこなしてきていたから、安心していたんだ。
「たしかに、おっさんとか狭い意味での大人の役は出来ないけど、そんなの関係ないくらい、別の役ができるんだから無問題」……そう思っていただけに、今さら「音月桂といえばコレだろ」な記号しか与えられなかったのかと思うと、悲しくなる。
え、そんな評価なの? と。
与えられた記号がずばりそのまんまなので、グリゴリーさんってば、なんかすげー薄っぺらいっす。
ありものだけでまかなっている感じが、もお。
キムは、額面通りの仕事を真面目にしているんだと思う。
求められているまんまの、うんちく表現のその他大勢華担当として、きっちり仕事をしている。
でも今さら、キムにこんな仕事を求めることに、疑問を感じるよ。
大野くんの、キムへの評価ってこんなもんなのか。
なんか、しょぼんだわ。
……いやその、全部わたしが勝手に感じ、勝手にほざいているだけなので、真実とも現実とも程遠いのでしょうが。
グリゴリーはキムへのアテ書きではなく、キムを使って記号を作るとグリゴリーになったんだと思う。
よく似たキャラで、フィラント@『君を愛してる』があるが、こっちはキムへのアテ書き。
似ているけれど、そもそもカテゴリがまったく別次元。
『ロシアン・ブルー』において、雪組3番手男役キムの役付きは、決して良くない。ぶっちゃけ悪い。
今までの彼が担ってきた役割からは、考えられないどーでも良さだ。
グリゴリー・アレクサンドロフ@キムはその他大勢のひとりで、大野くんのヲタクうんちくを表現するためだけに登場するうちの、ひとり。
ひろみくんやあゆちゃんの役と、役割的にはなんら代わりはない。気を遣ってセンターで踊らせてもらっているだけで。
しどころのない役なのは確かだが、それにしたって、どーしちゃったんだろう?
グリゴリー氏の、薄っぺらさは。
実在の人物である以上、その背景はいくらでも存在する。どーゆー人でなにをしてなにを考えてその時代を生きていたか。
そーゆー外側のことではなく、この『ロシアン・ブルー』という舞台の上での、キャラクタとしてのグリゴリーという人物の、キャラクタが、見えてこない。
もちろん、与えられた出番と台詞で表現してはいる。
陽気でお調子者で考えナシ、パワフルで善良。
持ち前の華と押し出しの良さ、明るさで、その他大勢のひとりながら、堅実に仕事はこなしている。
でもそれってなんか、すごく表面的っていうか。
書いてあることをそのまんま、自分の持っているものだけで表現しました、っていうか。
その持っているものっつーのも、引き出しのかなり上の方にいつも置いてあるヤツで、「はいはい」と即席に出してきたってゆーか。
余裕っぽく見えながらも、なにかしら苦しんで苦しんでその結果出してくる、いつものキムくんの芝居ではないっていうか。
手を抜いてるとか努力していないとか思っているわけではまったくなく、ええ、そんなこと絶対ありえないとわかっているけれど、それとは別に、目に映るものに疑問を持つ。
どーしちゃったんだろう?
『ロシアン・ブルー』は良くできた作品だ。
だが、その「良くできた」所以は、登場人物を記号化することで成り立っている。
たった1時間半の芝居で、80人の役者になにかしら役を付けて、歌って踊って起承転結つけろっててのは、至難の業。
どこかはあきらめて、どこかは手を離して、できるところだけでまとめなきゃならない。
やたらめったら出てくるたくさんのキャラクタは、実在の人物だったりなかったりしつつも、ちゃんと名前と所属があってそれぞれ舞台で歌い踊り小芝居し、「キャラクタがある」と思わせている。
レビュー団のメンバーだったり、ネコタンズだったり、悪者チームだったり、役割いろいろ、役がたくさんあって出番があってミュージカルナンバーがあってステキ。
されど彼らはほんとーのとこ、「キャラクタがない」んだ。
レビュー団のメンバーだったり、ネコタンズだったり、悪者チームだったりと、それらしい「記号」があるだけ。
わかりやすく役割ひとつだけにしぼり、イメージしやすくしてある。
主人公のアルバート@水くん、ヒロインのイリーナ@みなこちゃん以外は、ぶっちゃけ「記号」なんだよね。
わかりやすいところでいうと、2番手が演じる執事ヘンリー@ゆみこちゃん。
彼の役目は「萌えキャラ」「アルバート様の執事」である。アルバートとの「親友以上・妻未満」な関係も含めて、わかりやすく記号化されている。
彼のキャラクタ、存在はアルバートに関係する部分のみで、ヘンリー個人の物語・人生は必要とされていない。
アルバートを彩るパーツであり、アルバート抜きには存在しない。
水ゆみは『マリポーサの花』でも似たような人間関係を演じているけれど、エスコバル@ゆみこには、彼自身の物語と人生が垣間見えた。ネロ@水のために生きているとしてもだ。
だけど記号であるところのヘンリーには、そーゆーディープな面は見えない。
今、舞台にあるヘンリー(と、アルバート)を楽しむのみだ。
それがいけないと言っているわけではなく、この作品には、それが必要なのであって、作品に合わせた演技をしているからすげえよなってことなんだな。
『ロシアン・ブルー』は、そーゆー距離感で演じ、構築してある。
だからグリゴリー@キムもまた、記号である。
いわゆる「音月桂」にイメージされる記号。
キムの引き出しの、いちばん浅いところでまかなえてしまう記号。
本来2、3番手が演じるべきラスボスを、組長代理のハマコが演じてしまい、キムには回ってこなかった。
アテ書きすると、キムではない、キムには演じられない、と判断されてしまったんだろう。
そしてキムは、その他大勢のひとりとなった。
グリゴリーという、あるいは「音月桂」という「記号」を演じるキムは、とても簡単に見える。
今までいろんな役を演じてきて、今さらこんな簡単な役を与えられるとは思わなかった、と見えるほどの簡単さ。
だってそこにあるのは「音月桂」で、キムが求められた記号はソレだったから。
そして、記号化したときに求められるモノが「ソレ」でしかないっていうは、役者として、どうよ?
なんか、ちょっと途方に暮れる。
たしかにキムには、できないというか、苦手な役がある。
だけどそれを意に介さないほどの実力と、別の魅力がある。
彼のポジションが上がるにつれて、そーゆー意味での「仕事」をこなしてきていたから、安心していたんだ。
「たしかに、おっさんとか狭い意味での大人の役は出来ないけど、そんなの関係ないくらい、別の役ができるんだから無問題」……そう思っていただけに、今さら「音月桂といえばコレだろ」な記号しか与えられなかったのかと思うと、悲しくなる。
え、そんな評価なの? と。
与えられた記号がずばりそのまんまなので、グリゴリーさんってば、なんかすげー薄っぺらいっす。
ありものだけでまかなっている感じが、もお。
キムは、額面通りの仕事を真面目にしているんだと思う。
求められているまんまの、うんちく表現のその他大勢華担当として、きっちり仕事をしている。
でも今さら、キムにこんな仕事を求めることに、疑問を感じるよ。
大野くんの、キムへの評価ってこんなもんなのか。
なんか、しょぼんだわ。
……いやその、全部わたしが勝手に感じ、勝手にほざいているだけなので、真実とも現実とも程遠いのでしょうが。
グリゴリーはキムへのアテ書きではなく、キムを使って記号を作るとグリゴリーになったんだと思う。
よく似たキャラで、フィラント@『君を愛してる』があるが、こっちはキムへのアテ書き。
似ているけれど、そもそもカテゴリがまったく別次元。
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