『ラスト プレイ』の、ダラダラした盛り上がりのなさには閉口した。
 いくらでも面白くできるネタだし、あさこちゃん、きりやん、あいちゃんと実も華もあるキャストが揃っていて、なんでこんなことになっているのか、とじれったかった。

 でも、いちばんトホホとアタマを抱えたのは。

 お笑いに逃げていることだ。

 なんか、手を抜いた言い訳に、お笑いに走っている気がした。

「ものすごく大事件が起こりました、主人公は危機一髪です。この危機を、どうやって乗り越えるのでしょうか?!」

 という、状態があり、その回答が。

「大丈夫です。主役はなにもしないけど、悪役がバカだったので、勝手に自滅しました。おバカな悪役を笑ってハッピーエンド、よかったね★」

 ……だと、肩透かしも甚だしいっす。
 これってもお、禁じ手ぢゃないの?
 どんだけ深刻な、大事件も起こしたい放題。
 うわっ、こんなに大変なことになって、ハラハラドキドキさせて、いったいどうやってこれをまとめるの、ひっくり返すの?!

 悪役がバカだから、無問題。

 テロリストが攻めてきても、核爆弾のスイッチが押されても、昔の女が「あなたの子よ!」と突然現れても、全部OK、「悪役がバカだから、勝手に自滅」。
 なんて魔法の言葉、悪役がバカだから、無問題。るるる、ららら♪

 どんなことも書けるし、やりっぱなし、てきとー、その場しのぎでOK。どんなに大変なことにしても、悪役がバカだから、勝手にバカやって「うおーっ」と滑稽なことやって、観客が大笑いして、「よかったねー、全部丸く収まったわー」るるる、ららら♪

 ……正塚よ……何故にこんなことに? あなたいつからそんな人になっちゃったの?

 最初からおバカなコメディだと銘打ってくれていれば、そんなオチでもかまわないのよ。
 主人公チームに絡んでくる敵が、わずか数名(ボスの愛人含む)しかいないのに大マフィアを気取っているバカ小悪党だと書いてくれれば。
 カンチガイして大物気取って歌い踊ってくれれば、「ああ、そーゆー世界観なのね」とわかる。
 そんなアホに撃たれて記憶喪失になる主人公や、そんなアホとモメて死んだふりをする準主役の男ぶりは下がるけどな。
 
 シリアスもののよーに登場させて、実はおバカでした、ちゃんちゃん♪ で笑わせて終わりっつーのは、あまりに誠意がないわ。
 そりゃそれまでまともに見えた人がいきなりお笑い芸人みたいな崩れ方をしたら、観客は笑うけど、その瞬間ウケるし、「ふつーの主人公がバカに勝つのは当たり前」だから、クライマックス収束の方程式は間違ってないけど、それで「当たり前」にしちゃうのはひどくないか?

 真面目に書くと大変だから、楽をした結果に思える。
 だって正塚せんせ、真面目に書くことだって出来る人だし。

 日常の中にあるおかしさ、シリアスだけどくすりと笑える、というのと、今回の『ラスト プレイ』のちぐはぐな笑いは、チガウと思うんだ。

 シリアスと笑いが融合していない。
 これらは相反するモノではなく、共存できるんだよ。
 なのに、してない。ちぐはぐ。どっちつかず。

 なんつーかもー、観ていて、途方に暮れた。

 最後の場面、ムーア@きりやんが虫の息でアリステア@あさこにピアノを弾いてくれと頼むところで、笑えばいいのか、感動すればいいのか、判断に困るのは勘弁して欲しい。

 こちらもオチの予想は付いて観ているけれど、作者がどーゆーつもりで描いているのかわからなくて、演出の中途半端さに困惑するという。
 初日ゆえの客席の、あの空気。
 「え? 死なないよね?」「でもなんかシリアスだよ??」「あさこさんサヨナラだし、最後はシリアスなんぢゃね?」「じゃあここ、笑っちゃいけないの??」「えー、でもなんか嘘っぽいよー??」……誰も声には出さないが、「???」が飛び交う、ある意味緊迫した空気。

 まあ、オチを知り、観客が自分でどう感じるか咀嚼したあとでなら、演出の半端さはどんどん気にならなくなるんだろう。
 あの空気感は初日のみで、この情報過多時代、先にどんな話か耳にした人はまたちがった受け止め方をするだろうし。
 ラストだけでなく、全体に漂うシリアスと笑いのちぐはぐさも。

 
 ともあれ、ラストの盛り上がり場面を、どちらかにすることは、できたと思うんだ。

 感動のドシリアスな場面にすることも、最初からオチをわかっていて、安心して笑いながら、それでも男たちの友情に感動することだって、できる。
 それまでの演出、世界観の統一で。

 それをしていないからこの作品は、ただ箇条書きにして、〆切が来たから提出しました、という未完成品に思える。

 や、こっから推敲して、いらないものを削ったり必要な肉付けをしたり、最後にカラー統一してきれーにパッケージして、はじめて「商品」として店頭に出すんだよね?

 ……未完成とか下書きとかで、「まあいいや」って客に売ってしまうのは、手抜きに思えるんですが。

 同じキャラと設定、同じストーリーで、もっともっとおもしろくできるだろうに。
 なんでやらないんだ。

 じれったい。
 すげー、じれったい。

 あさこちゃんもきりやんも、もっともっと出来るのに。
 彼らの魅力は、もっと多面的に複合的に、表現できるのに。

 もったいないっす。

 つか、ネタ的にはオイシイのに。
 書きようによっていくらでも盛り上げられるし、「悪役がバカだから、無問題」にしなくても事件を起こして収束できるし、モノローグ一辺倒の淡々日記ではなく起承転結メリハリつけて、ついでに耽美にも愉快にも萌えにもできるのに。

 だってコレ、あまりにも「未完成」で「下書き」風味で、「仕上げをやらせてくれ、これを原画としてデザインをさせてくれ、『作品』にさせてくれ」というキモチになる……。

 あー、同人誌作ればいいのか。
 本編がスカスカで辻褄があっていないことだらけだと、同人界が活気づくのな。隙間なく書き込まれたまともな物語だと、ツッコミも入れられない、知りたいことはみんな本編で過不足なく書いてくれるから想像の翼を広げてがんばって補完する必要がない、という。

 同人誌向きの作りだわ、この作品。
 観客のキャラへの愛情だけで持っている感じが、もお(笑)。

 
 とまあ、しろーとが勝手にいろいろほざいてますが、正塚せんせだからついこちらも要求を高くしてしまうだけであって、植爺『ベルばら』を観たあとでは、パラダイスですよ。

 舞台が美しく、主役がいろいろと萌えな「美しいこと」になっている。演出が地味ですが、それはつまり悪趣味ではないということで、リピート基本の作品では、悪趣味よりは地味な方が絶対イイ。
 悪役たちのご都合主義と下級生の役のなさはどうかと思うけど、悪役はオイシイ役だし、役はなくても出番はできるだけ作ろうとがんばっていることもわかるし。

 主要キャラたち、個々はとても興味深いし。

 彼らのキャラを、人生を、彼らの演技から行間から読みとっていくのは、たのしいと思う。
 そーゆー作りであるのは、いつもの正塚作品。

 そーなんだよねえ、キャラなんだよねえ。
 ストーリー手抜きでも、ともあえずキャラがかっこよかったりかわいかったりしたら、それだけで通えちゃうからなー。作品がどうあれご贔屓が出ていたら通っちゃうタカラヅカと同じで。
 キャラもの作家という点では、正塚せんせはまちがいなくヅカ作家だよなー。ハリー作品って主人公の自分探しであったり、ストーリーよりキャラやテーマ、雰囲気重視だもんよ。(つか、息もつかせぬストーリー展開、物理的な出来事によって進む正塚作品ってあったっけ?)

 つーことで、なんやかんや言っているくせに。

 キャラは好きだぞ(笑)。と、次はキャラ話~~。 

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