今ごろ『ロシアン・ブルー』の話。や、もっと前に書くはずが、他に書くことが多すぎて後送りにしていたらこうなったという。

 『ロシアの憂鬱』を観ていると、ときどき混乱するのよ、「作者誰だっけ」と。
 もちろん、このがちゃがちゃしたうんちくヲタクっぷりは大野くんでしかありえないけど、キムシン作品を観ている気分になるんだわ。

 ぶっちゃけ、『君を愛してる』と、混同してしまう。

 似てるんだもんよ。
 主人公のキャラクタと、それぞれのキャラ配置、ストーリー、そしてなにより、テーマが。

 むしろ『ロシアン・ブルー』の方が、いつものキムシン節全開だ。

「もう3500年もこうして彷徨っている。見ろ、なにも変わっちゃいない」
「20年経っても 200年経っても 2000年経っても 何も変わりはしなかった!」

 ……そーやって、「群衆」という「顔のない人々の罪」を描き続けるキムシンと、今回の大野くんの描く「群衆」たちが丸かぶりで、混乱してしまう。
 あれ、コレってキムシン作だっけ? と。

 アルバート@水しぇんの祖先たちがロシアを追われた時代も、物語の舞台となっている、わたしたちの現代と陸続きの時代も、なにも変わっていない。
 群衆はいつも「個」ではないということに守られて、自分以外のなにかに責任を転嫁して攻撃する。
 もっとも恐ろしいのは、自らの悪を知りながらそれを押し付ける相手を「誰にしようか」と歌うエジェフ@ハマコではない。
 「責めなければ、自分が責めれるから」と、自分可愛さに他に生贄を求める、「罪なき群衆」たちだ。

 魔女狩りの、恐ろしさだ。
 
 自分が「魔女」だと言われないために、無実の他人を「魔女」に仕立て上げる。
 「魔女」という共通の敵を作り、「正義」の名の下に多勢でひとりをつるし上げる。
 誰かを貶めることで、自分の正しさや安全に酔う。
 名前を持たない、「群衆」「匿名」という安全な位置からしか、攻撃はしない。
 みんながやっているから、自分だけではないから、と個人では責任を負わない。
 悪いのはいつも、自分以外の誰か。

 キムシンが描き続けるテーマを、キムシンの『君愛』と同じようなキャラ配置のコメディで展開するもんだから、観ていて混乱する。あれ、コレってキムシン作だっけ、と(笑)。

 もちろん、キムシンだけが唯一無二のテーマを掲げているわけではなく、彼が主張するものは特別でもなんでもない、ありきたりなものだから、他の作家が同じテーマを掲げて作劇してもなんの不思議もない。
 あくまでも、受け取る側の、「わたし」の問題。

 『ロシアの憂鬱』と『君を愛してる』は、同じ話の別バージョンみたいに思える。
 根っこにあるモノが同じで、同じキャラクタと同じキャストを使って、実験的にふたつの作品を創ってみました、みたいな。
 ふたりの作家の競作、みたいな。

 そうやって比べてみると、ふたりの作家の個性の違いが、すごく面白い。

 「魔女狩り」という辛辣なテーマを「罪のないラヴ・コメディ」に拡散して仕上げているのは同じでも、キムシンはよりファンタスティックに前向きに作ってあるし、大野くんはヲタク知識全開にオシャレに作ってある。

 「魔法」というファンタジーなネタを使っているのは、大野くん。だけど彼は、そーゆー荒唐無稽なものを使って誤魔化しているけど、結局のところシビアで暗い作風だ。
 「魔法」という飛び道具は使っていないけれど、大団円へ持っていく展開ひとつずつがそれと同等の明るい荒唐無稽さを持つのが、キムシン。

 大野くん作品はオシャレで繊細で、他人にツッコミ入れられるのを神経質に拒んでいるかのよーな印象。
 キムシン作品は独特の言語センス(笑)と男性的大らかさを持ち、他人のツッコミ以前に意見もナニも気にしてなさそう。

 前に、『ロシアン・ブルー』は大野くんのヲタク的こだわりが悪い方向に出ていると書いた。
 オシャレにまとめてしまうために、ラストに爽快感がない、悲劇エンドに思えてしまう、と。
 「罪のないコメディ」であるならば、最後はもっとわかりやすくハッピーエンドにするべきだった。たとえそれでオシャレ度が下がってしまっても、アタマ悪い観客におもねることになっても、大衆演劇でエンタメなんだからそこまで譲歩するべきだ。
 と言いつつ、そこにこそこだわって、一歩も譲らないだろう大野くんの作風が好きだ(笑)。
 
 わかりやすいハッピーエンドも書くだろうけれど、ほんとのところ、大野くんの持ち味であり、彼の描きたいモノは、ハッピーエンドではないんだろう。
 表面的にキレイに収まっていても、それだけでは済まない無常感が漂うのが、彼の本領だろう。
 それゆえに『ロシアン・ブルー』……猫を被った『ロシアの憂鬱』は、あーゆー作品になった。
 
 一方キムシンはなー(笑)。
 大野くんが繊細に繊細に、ピンセットでジオラマを組み立てているとしたら、キムシンは巨大な粘土を「うぉおりゃあっ」と台の上でぺったんばったんして、「オレ天才~~♪」と歌いながら素手で本能のまま気分のまま形を作っていくイメージというか。
 作り方、アプローチの仕方はまったくチガウのに、今回はできあがった作品が同じよーなカタチだった、と。

 シルエットは似ているんだけど、よく見ると制作過程や素材がちがうことはわかる。
 粘土で作られた作品は表面になにもないけど、小さなパーツを繊細に組み立てた作品はでこぼこしている。
 でも、ケースに入れられて陳列されていると、よく似たシルエットがいちばんに目について、細部の差はあんましわかんないなあ、みたいな。

 てゆーか粘土作品の方が、よりわかりやすくカタチが作られているような? でこぼこしてないから、なめらかだし?

 『君愛』はわっかりやすい、のーてんきなラヴコメだったねええ。笑って拍手して幕が下りる、はっちゃけたラストシーンだったねええ。

 キムシンは魔女狩りを平気で繰り返す匿名希望の人間たちを、えんえんえんえん作品内で糾弾しているけれど、彼は別に人間キライじゃないんだよね。
 とても図太く明るい、人間讃歌、人生肯定を感じる。
 どれだけ否定的な悲惨な物語を描いても、根っこにある明るさと希望は隠せないというか。
 だからこそ、彼の作品はどこか愚鈍な押しつけがましさがあるというか。

 
 わたしは『君愛』がダイスキで、『ロシアン・ブルー』がダイスキ。
 このふたつの作品が、ほぼ同じキャストで、雪組で水しぇんで上演されたことが、うれしくてならない。

 このふたつの作品をしれっと上演できてしまう、「宝塚歌劇」の奥の深さといい加減さが好き(笑)。

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