『ハプスブルクの宝剣』って、ちょっとめずらしいくらい、主役至上主義だね。

 その潔い作りにおどろきました。
 どれくらい主役至上主義かっつーと、ひとり芝居OKなくらい、主役しか描かれていない。

 短い時間で物語を起承転結させるには、主要人物は少ない方が書きやすい。だからよくあるのは、主人公と相手役のみ比重が高く、あとはモブにしてしまう方法。相手役ってのは、作品のテーマにより、恋愛モノなら恋人役になるし、復讐モノなら仇役、サクセス物ならライバル役とか親友役になるわけだが。
 主人公ひとりではなく、誰かもうひとりぐらい、対比させたり対話させたりする相手を必要とする。

 大劇場で80人からの出演者を使わなくてはならないのに、主人公ともうひとりしか描いてないなんつーのは、なつかしの宙組タカハナ時代とか、キムシンとか正塚の『マリポサ』とか、そんなこんなでいろいろ目にしたけれど。

 主人公ひとり、ってのは、なかなかナイよな。

 いやあ、オープニングから、感心した。

 れおんひとりで、オープニング・ショーやるんだ?!

 通常、出演者総出で歌い踊るべきところを、たったひとりで踊ってマスヨ?!
 いつまでたってもひとり、とことんひとり。

 ……すみません、演出のすごさにちょっと笑いツボ入りました。
 いつになったらみんな出てきて、どばーっと派手に「タカラヅカですっ」と総踊りのオープニングになるんだろうと、慣習からぼーっと待っていたら、誰も出てこないし。ナニもはじまらないし。
 すげー(笑)。

 や、いいんだよ、そーゆーのもアリだと思う。文句があるわけじゃない、ただ「派手なコスチュームもの」の幕が大々的に上がって、れおんひとりがひろーい舞台でえんえんくるくる踊ってることにウケただけ。……サイトーくん演出の『エル・アルコン』なんかものすげー人口密度、セリ・盆稼働率だったのにさー……個性が出てますなー。

 このオープニングがすべてを物語ってるんだね。
 主人公はれおんひとり。これは、エリヤーフー@れおんの一代記。あとはみんな脇役。

 はっきりしていてイイよ。
 ヒロインすら、最初と最後しか出ない。
 2番手だろーと、トップ娘役だろーと、役割的には主人公の人生の旅路をそのときどきに彩るだけ。エリヤーフー以外は潔く全員同じ扱い。

 さすがにトップ娘役だけは、出番がなさすぎるから仕方なく2役。ああ、タカハナお披露目公演もそんなだったっけ。(故郷で待ち続ける可憐な恋人→彷徨する主人公が異国で出会う女帝様→女帝様は女帝様なので、最後はやっぱり故郷の恋人のもとへ……って、役柄まで同じだわ)
 他の人たちは基本、役ひとつだけだから、出番少ないわキャラ薄いわ……大変だな。

 でも、物語的にはよくまとまってる。

 だから短編を書くときは、キャラクタが少なければ少ない方が書きやすいんだってば。
 大劇場公演のネックは、主役とヒロインの他、路線や上級生や専科さんたちに重要な役をつけて、さらに総勢80人超えの出演者に出番と見せ場を与えて1時間半で起承転結しなければならないこと。
 物語に必要な役が3~5人くらい(あと75人以上が台詞も出番自体もほとんどないモブ)で済むなら、ふつーの作家なら辻褄のあった感動的な話を作れるんじゃないかなと思う。純粋にストーリーラインだけを追った作劇が出来るから。
 
 3~5人でも物語をまとめる上では十分な削ぎ落とし方なのに、ソレをひとりだけにしてあるんだから、そりゃまとまるわな(笑)。
 描くのはひとりだけ、あとは場面を盛り上げるためだけに必要に応じてその場限りのキャラを出す。
 ナニかやってるのはひとりだけ、あとはみんなナニもしない。ちょっと絡むところだけ、ナニかしている。
 起承転結するのはひとりだけ、あとはその場限り、投げっぱなし。

 潔くて、良いです(笑)。

 エリヤーフーの一代記。世界の中心は彼。彼の視界に映るものしか存在しない。
 そして悲しいかな、彼の興味は彼のルーツにのみ向けられ、物語の中核を為すオーストリー時代にはナイ。もっともアクティヴに、トップ娘役、男役2番手以下スター勢揃いの絢爛たる舞台上に、主人公が興味を持つ人物が皆無なのだわ。
 フランツ@かなめくんとは親友らしいし、グレゴール@ともみん他ハンガリーのみなさんとも仲良しらしいが、クチで「親友だ」と言うだけで、心が通い合っているよーには見えない。そこにいるのはエドゥアルトであって、エリヤーフーではないのだ。
 もちろん、物語的にはソレでいい。エリヤーフーの一代記、彼の魂の彷徨物語だ。偽りの名にすがり居場所を探す彼が、真実の自分にたどりつくまでの物語だから、エドゥアルトと呼ぶ人々とは口先だけの関係でもいい。

 ただ、「大変だなー」と思うのは、キャスティング。
 エリヤーフーの根っこ、本名の彼を取り巻く役者たちは、路線未満の人たち。物語の中核ではなく、プロローグ的な部分という位置づけだからだ。春夏秋冬でいうなら、青春時代、青い春。
 エドゥアルトと名乗ってからが本来のストーリー開始、なんだろう。野心を持って人生をひた走るわけだから。本編開始だから、ここで登場する人たちは路線スター揃い踏み。人生の夏、アクティヴに、激しくドラマティックに。
 ……しかしこの「本編」に出てくる人たちのことを、主人公は結局のところ、誰ひとり愛してない。彼はなにかっちゃー、人生プロローグの記憶に逃げ込む。
 これがバランス悪いっていうか、大変だなと。
 ここまで人生プロローグを引きずり、本編に心を開かないなら、プロローグな部分のキャストも力のある人を入れられたらよかったのにね。
 「心」の重要部分はプロローグのカーテン前位置だからモブで、「行動」の重要部分は本舞台使っての本編だから著名キャストぶち込みました……つーのは、バランス悪いよー。
 いくらさらっと流すプロローグに過ぎなくても、これだけ主人公の行動の根っこなら、キャストをモブにするのはもったいない。

 が、そうはいかないのが、ヅカのスター制度の難しいところだよな。

 総モブ状態のプロローグで、唯一スポットを当てて描かれているのがヒロイン・アーデルハイト@ねねちゃん。
 彼女はテレーゼと「そっくりさん」ってことで、2役可能だったから、プロローグに出演できたんだよなー。
 やっぱスタークラスの人の出番が最初と最後だけでは、ヅカでは物議を醸し出すもんな。(ソレをやったのがオギー@『マラケシュ』だな)

 ストーリーの最重要ポイントに路線スターはねねちゃん以外になく、外側を派手に流すところがやたら豪華スター揃い。
 れおん以外を描く気はなく、とってもまとまった物語なんだけど、「タカラヅカ」的にはどうなんだろう?
 豪華スターたちは、たしかに豪華にアクティヴな場面に登場しているけれど、主人公の心の外にしかいないから、結局はただのモブというか、豪華お衣装は与えられてるけどただのお飾りキャラというか。
 主人公以外、路線スターで誰がオイシイ役なんだろう? みんな等しくオイシクない気がする……。

 エリヤーフーの学友たちの下級生具合というかキャリアの差というか、「キミたち、同級生には見えないって」という苦笑感、あそこにともみんとかベニーとか、「親友」として肩を並べられるだけのキャラを入れられないのはスター制度の縛りか、はたまた景子タンのセンスの問題か。

 や、主役至上主義、上等ですとも(笑)。 

コメント

日記内を検索