肯定する、まっすぐな瞳に。@ハプスブルクの宝剣
2010年1月5日 タカラヅカ アーデルハイト@ねねちゃんが好きだ。
『ハプスブルクの宝剣』、あくまでも舞台上の話。原作がどーなってんのかは知らない。
予備知識がポスター程度だったもんで、2役だと知らなくて「ねねちゃん、マリア・テレジアだって聞いたよなあ、この娘が将来女帝陛下になるのかしら?? そんな歴史あったっけ??」と混乱しましたわよ(笑)。
藤本ひとみが歴史通りの小説を書いているとは思ってないが、『和宮様御留』みたいな話だとも聞いてなかったし。
さすがに途中から「ああ、きっと2役で、マリア・テレジアはマリア・テレジアであとから出てくるんだな」と思ったけども。
最初に「いかにもタカラヅカ」な、アタマ空っぽな「可憐」という記号のヒロイン風に登場したので、そのクラシカルなヒロインぶりに苦笑しつつ、現代的なねねちゃんもこーゆーキャラ演じなきゃいけないんだよなあ、トップ娘役は大変だなあと俯瞰して観ていた。
そしたらなんだ、アーデルハイトってアタマ空っぽちゃうやん。ものすげー古いタイプのヒロイン風なくせに、筋が通ってるじゃん。
なんの力もないか弱いお嬢様育ちなんだろーに、性根が据わっている。
監禁されていた家を飛び出し、約束の橋の上でエリヤーフー@れおんを待つ、そのまっすぐさ。
会話の受け答えに、強い意志と知性が感じられる。
きっとこの子、家族相手にかなり舌戦かわしたんだろうなと。ナニも出来ずに縁談押し付けられたり閉じ込められたわけじゃなく、出来る限りの戦いは吹っ掛けたんだろうなと。
可憐に見えて、相当気は強いし、しっかりしているんだろう。……ある意味、夢見るユメコちゃんなエリーよりも(笑)。
そして、エリヤーフーとモーリッツ@しーらんの決闘のあと。
責められるエリヤーフーのために、「これは正式な決闘です」と懸命に叫んでいる姿にぐっときた。大勢の中でたったひとり声を張り上げるなんて、お育ちからして前代未聞の行動だろうに。
あ、この子好きだなと思った。
現代のわたしたちなら、自由恋愛が当たり前だし、好きなときに好きなところへいって、好きなことが出来る。
でも、昔の女性はそうじゃないよねえ。いろんな縛りがあり、それを破るという発想自体がナイ。
アーデルハイトがエリーに語っていたように、彼女は「18世紀前半のヨーロッパ資産階級のお嬢様」という常識の枠を超えていたんだろう。その魂が。
お嬢様が考えないこと、しないこと、ばかりを自然と考えたりしたりしてしまったとしても、当時のせまい世界の中でソレを叩き壊す行動を取ることは、現代のわたしたちとは比べモノにならないオオゴトなはず。
ユダヤ人と恋愛することも、親の決めた婚約を拒絶することも、家出することも。
「ありえない」ことをやってのけてたんだよなー。
そのことが、あの短い出番とやりとりの中で見えて。
わたしにとっては、ソレがいちばん強く感じられたのが、「彼に罪はないわ!」と叫ぶ姿だったのですよ。
あ、この子好きだな。
お嬢様育ちだけど、きっと芯はとても強い。どんな立場になっても、きっと前を向いている子だろうと思った。
それっきり出てこないんだろうな、とも思った。
見るからに「2役の力を入れていない方」な扱いに見えたし(笑)、エリヤーフーの一代記っちゅーか心の旅路モノだから、「彼の人生を通り過ぎた人その1」みたいなもんかなと。
可哀想にアーデルハイト、きっと修道院送りだろうな。
こんな不始末をしでかした「汚れた娘」は、存在を抹殺される。親からも家からも、「死んだもの」「はじめからいなかったもの」にされる。
生きてはいるだろうけれど、人生は終了だろう。
……当時の女の子なら、そういう扱いだ。モノでしかないさ。現代の感覚ではないのだから。
そのあと、「そっくりさん」としてマリア・テレジア@ねねちゃんが出てきて。
「顔が同じ」ってだけで主人公の恋人になるとしたら、嫌な展開だなと思った。「母に似ている」とか「初恋の人に似ている」とかで恋に落ちる男は嫌いだ(笑)。
でもエリヤーフー改めエドゥアルトくん、テレーゼだけでなく、誰のことも愛してないので、ほっとした。
ここまでどーでもいい扱いなら、なんで「顔が同じ」という設定が必要なのかと首を傾げるくらい、エドゥアルトひとりのことしか描かない物語展開。
まあ、あくまでもヒロインはアーデルハイトで、幻影が現れるのもアーデルハイトの幻影なわけだし、顔が同じでもアーデルハイトはユダヤ人のエリーを愛し、テレーゼはどんだけ優秀でも魅力的でもユダヤ人だからとエドをスルーするんだから、対比としてアリか。
でも落ち着きの悪いことに、ポスターに載っている通り、この『ハプスブルクの宝剣』という作品の主要キャラはテレーゼであって、アーデルハイトではない。
ヒロインはアーデルハイトなのにねー。
ただの脇役、モブに毛が生えただけのテレーゼとフランツ@かなめくんがポスターに載っちゃうのが、タカラヅカの歪みだよねー(笑)。
その昔、『エピファニー』という作品があって、ポスターにはなんと、主役が載っていないということがあった。この作品はシェイクスピアの『十二夜』が原作、すなわち双子の兄のフリをして男装する女の子が主役。でも、ポスターにはなんにもしない双子の兄が載っていた……だってタカラヅカだから。双子の兄も妹も主演者の2役だから、載るのは同じ人だけど、意味がチガウ。双子の兄は主役ぢゃない~~。
それと同じだよな。テレーゼはヒロインじゃないけど、同じ人の2役だからとポスター入り。
最後までちゃんとエリヤーフーがアーデルハイトを愛してくれて、想いを残したままいてくれて、良かった。
テレーゼのことはほんと、「顔が同じ」ってだけだったんだな、と思っていたところへ。
最後の最後、故郷の約束の橋の上で。
アーデルハイトと、再会する。
や、これはびっくりした。予想外。
だってアーデルハイトはアレだけの出番だと思い込んでたんだもん。エリーの学友たちがアレだけでおしまいなのと同じように。
約束通り、待っていた。
あれから何年経つ? けっこー経ってるよね?
エリーが波瀾万丈だったのと同じくらい、アーデルハイトも大変だったと思う。そりゃ軍を率いて戦争したりはしてないだろうけど、その時代の女性としては、それに匹敵する苦難を乗り越えて、エリーを待っていたんだと思うよ。
最後の登場に、舌を巻いた。
いちばん強いのは、彼女だ。
「ハプスブルクの宝剣」エリヤーフーでもなく、女帝マリア・テレジアでもなく。
すべてを飲み込み、すべてを許し、約束の場所を護り続けたアーデルハイトだ。
あ、この子好きだと思った、思わせた、その清冽なまっすぐさが、ラストシーンに帰着した。
この子にたどり着くための旅だったんだ。物語だったんだ。
若者が夢や存在意義を否定されるところからはじまったこの物語は、彼自身の行動を肯定されることでカタルシスを迎える。ドイツ語訳の教典がそのクライマックス部分だけど。
エンディングは、それすらも内包して、彼の人生全部肯定して終わるんだ。
それが、アーデルハイトというヒロインなんだ。
いやあ、キモチイイよ。主人公が最後までヒロインを愛し、ヒロインが最後まで主人公を愛し、苦難の果てにふたりが結ばれる物語。
ヒロインを好きだから、感情移入できるから、この物語が心地良い。
『ハプスブルクの宝剣』、あくまでも舞台上の話。原作がどーなってんのかは知らない。
予備知識がポスター程度だったもんで、2役だと知らなくて「ねねちゃん、マリア・テレジアだって聞いたよなあ、この娘が将来女帝陛下になるのかしら?? そんな歴史あったっけ??」と混乱しましたわよ(笑)。
藤本ひとみが歴史通りの小説を書いているとは思ってないが、『和宮様御留』みたいな話だとも聞いてなかったし。
さすがに途中から「ああ、きっと2役で、マリア・テレジアはマリア・テレジアであとから出てくるんだな」と思ったけども。
最初に「いかにもタカラヅカ」な、アタマ空っぽな「可憐」という記号のヒロイン風に登場したので、そのクラシカルなヒロインぶりに苦笑しつつ、現代的なねねちゃんもこーゆーキャラ演じなきゃいけないんだよなあ、トップ娘役は大変だなあと俯瞰して観ていた。
そしたらなんだ、アーデルハイトってアタマ空っぽちゃうやん。ものすげー古いタイプのヒロイン風なくせに、筋が通ってるじゃん。
なんの力もないか弱いお嬢様育ちなんだろーに、性根が据わっている。
監禁されていた家を飛び出し、約束の橋の上でエリヤーフー@れおんを待つ、そのまっすぐさ。
会話の受け答えに、強い意志と知性が感じられる。
きっとこの子、家族相手にかなり舌戦かわしたんだろうなと。ナニも出来ずに縁談押し付けられたり閉じ込められたわけじゃなく、出来る限りの戦いは吹っ掛けたんだろうなと。
可憐に見えて、相当気は強いし、しっかりしているんだろう。……ある意味、夢見るユメコちゃんなエリーよりも(笑)。
そして、エリヤーフーとモーリッツ@しーらんの決闘のあと。
責められるエリヤーフーのために、「これは正式な決闘です」と懸命に叫んでいる姿にぐっときた。大勢の中でたったひとり声を張り上げるなんて、お育ちからして前代未聞の行動だろうに。
あ、この子好きだなと思った。
現代のわたしたちなら、自由恋愛が当たり前だし、好きなときに好きなところへいって、好きなことが出来る。
でも、昔の女性はそうじゃないよねえ。いろんな縛りがあり、それを破るという発想自体がナイ。
アーデルハイトがエリーに語っていたように、彼女は「18世紀前半のヨーロッパ資産階級のお嬢様」という常識の枠を超えていたんだろう。その魂が。
お嬢様が考えないこと、しないこと、ばかりを自然と考えたりしたりしてしまったとしても、当時のせまい世界の中でソレを叩き壊す行動を取ることは、現代のわたしたちとは比べモノにならないオオゴトなはず。
ユダヤ人と恋愛することも、親の決めた婚約を拒絶することも、家出することも。
「ありえない」ことをやってのけてたんだよなー。
そのことが、あの短い出番とやりとりの中で見えて。
わたしにとっては、ソレがいちばん強く感じられたのが、「彼に罪はないわ!」と叫ぶ姿だったのですよ。
あ、この子好きだな。
お嬢様育ちだけど、きっと芯はとても強い。どんな立場になっても、きっと前を向いている子だろうと思った。
それっきり出てこないんだろうな、とも思った。
見るからに「2役の力を入れていない方」な扱いに見えたし(笑)、エリヤーフーの一代記っちゅーか心の旅路モノだから、「彼の人生を通り過ぎた人その1」みたいなもんかなと。
可哀想にアーデルハイト、きっと修道院送りだろうな。
こんな不始末をしでかした「汚れた娘」は、存在を抹殺される。親からも家からも、「死んだもの」「はじめからいなかったもの」にされる。
生きてはいるだろうけれど、人生は終了だろう。
……当時の女の子なら、そういう扱いだ。モノでしかないさ。現代の感覚ではないのだから。
そのあと、「そっくりさん」としてマリア・テレジア@ねねちゃんが出てきて。
「顔が同じ」ってだけで主人公の恋人になるとしたら、嫌な展開だなと思った。「母に似ている」とか「初恋の人に似ている」とかで恋に落ちる男は嫌いだ(笑)。
でもエリヤーフー改めエドゥアルトくん、テレーゼだけでなく、誰のことも愛してないので、ほっとした。
ここまでどーでもいい扱いなら、なんで「顔が同じ」という設定が必要なのかと首を傾げるくらい、エドゥアルトひとりのことしか描かない物語展開。
まあ、あくまでもヒロインはアーデルハイトで、幻影が現れるのもアーデルハイトの幻影なわけだし、顔が同じでもアーデルハイトはユダヤ人のエリーを愛し、テレーゼはどんだけ優秀でも魅力的でもユダヤ人だからとエドをスルーするんだから、対比としてアリか。
でも落ち着きの悪いことに、ポスターに載っている通り、この『ハプスブルクの宝剣』という作品の主要キャラはテレーゼであって、アーデルハイトではない。
ヒロインはアーデルハイトなのにねー。
ただの脇役、モブに毛が生えただけのテレーゼとフランツ@かなめくんがポスターに載っちゃうのが、タカラヅカの歪みだよねー(笑)。
その昔、『エピファニー』という作品があって、ポスターにはなんと、主役が載っていないということがあった。この作品はシェイクスピアの『十二夜』が原作、すなわち双子の兄のフリをして男装する女の子が主役。でも、ポスターにはなんにもしない双子の兄が載っていた……だってタカラヅカだから。双子の兄も妹も主演者の2役だから、載るのは同じ人だけど、意味がチガウ。双子の兄は主役ぢゃない~~。
それと同じだよな。テレーゼはヒロインじゃないけど、同じ人の2役だからとポスター入り。
最後までちゃんとエリヤーフーがアーデルハイトを愛してくれて、想いを残したままいてくれて、良かった。
テレーゼのことはほんと、「顔が同じ」ってだけだったんだな、と思っていたところへ。
最後の最後、故郷の約束の橋の上で。
アーデルハイトと、再会する。
や、これはびっくりした。予想外。
だってアーデルハイトはアレだけの出番だと思い込んでたんだもん。エリーの学友たちがアレだけでおしまいなのと同じように。
約束通り、待っていた。
あれから何年経つ? けっこー経ってるよね?
エリーが波瀾万丈だったのと同じくらい、アーデルハイトも大変だったと思う。そりゃ軍を率いて戦争したりはしてないだろうけど、その時代の女性としては、それに匹敵する苦難を乗り越えて、エリーを待っていたんだと思うよ。
最後の登場に、舌を巻いた。
いちばん強いのは、彼女だ。
「ハプスブルクの宝剣」エリヤーフーでもなく、女帝マリア・テレジアでもなく。
すべてを飲み込み、すべてを許し、約束の場所を護り続けたアーデルハイトだ。
あ、この子好きだと思った、思わせた、その清冽なまっすぐさが、ラストシーンに帰着した。
この子にたどり着くための旅だったんだ。物語だったんだ。
若者が夢や存在意義を否定されるところからはじまったこの物語は、彼自身の行動を肯定されることでカタルシスを迎える。ドイツ語訳の教典がそのクライマックス部分だけど。
エンディングは、それすらも内包して、彼の人生全部肯定して終わるんだ。
それが、アーデルハイトというヒロインなんだ。
いやあ、キモチイイよ。主人公が最後までヒロインを愛し、ヒロインが最後まで主人公を愛し、苦難の果てにふたりが結ばれる物語。
ヒロインを好きだから、感情移入できるから、この物語が心地良い。
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