だから彼とは気が合わない。@ソルフェリーノの夜明け
2010年2月19日 タカラヅカ 『ベルばら』に比べればマシだけど、よっぽどいい作品だと思っているけれど、結局のところ『ソルフェリーノの夜明け』は好きじゃない。好きか嫌いかと聞かれればもちろんなんの迷いもなく「キライ」と答える。
ただ、駄作とまではいかないかなと思う。
植爺の駄作はほんっとーに、物語としての基盤もナニもあったもんじゃないもの。
でも『ソルフェリーノの夜明け』はいちおー、起承転結はあるよね? 「アンリー・デュナンの生涯」ではないだけで。
『ソルフェリーノの夜明け』-赤十字思想誕生150周年記念作品-と、肩書きを副題にしてしまえばよかったのよ。
そしたら、思想が今まさに生まれ、赤十字という旗に象徴された瞬間の物語、ということでこの芝居内容で問題ない。
おかしなところはてんこ盛りだが、ベッタベタなお涙頂戴満載で、「戦争は悪い」「命は尊い」と主張している概念自体は間違っていないし、とりあえず盛り上がるし、いいんじゃないのかなー。
こーゆー作品も、タカラヅカにあっていいんだと思う。
わたしは極度の植爺アレルギーだが、アレルギーがあってなお、植爺作品で泣くことはある。
人が死ねば悲しいし、人情に心を揺すぶらされる。これは人間としての生理現象だと思っている。植爺作品はとてもわかりやすくこれらを突いてくるので、うまくいけば泣ける。スベった場合は怒りや爆笑になる(笑)。
また、役者の熱演で底上げされることも大いにある。生身の人間が魂からなにかを訴えかけている、その姿に心が動き、涙が出ることは観劇しているとふつーによくある。
とまあ、泣くことはあるし、実際『ソルフェリーノの夜明け』でも泣いたけれど、泣けたからといってこの作品を好きにはなれないし、感動にも分類しない。
生理現象と感情は別だからだ。腕をつねられて「痛い!」とこみあげた涙と、カラダはどこも痛くないけれど魂が震えることで流れる涙は別。
植爺の涙は腕をつねられる系の、生理現象涙なの、わたし的に。人として当然の生理現象は「感動して泣いた」にはカウントしない(笑)。
でも実際、千差万別の人間の「心」を動かして涙を流させるのは難しい。
それよりも、腕をつねって泣かせることの方が容易い。生理現象は程度の差こそあれみんな同じだもの。
だから植爺の作風は、間違っていないと思うの。大衆演劇として盛り上げる、その力はたしかにある。
昔の彼にはたしかにあり、近年は枯渇して久しかったけれど、今回はちゃんと大御所らしい仕事ぶりを見せてくれたと思う。
舞台はイタリア、ソルフェリーノ。イタリアVSオーストリアの最中、戦場近くの教会が野戦病院となっていた。ここはイタリアだからとーぜん、イタリア人を助けたい。薬も人手も不足しているのだから、命の優先順位、まず同国人や同盟国人から大事にしよう!
そこへやってきた無関係な国の無関係な旅人アンリー・デュナン@水くん。「敵のオーストラリア人なんか助けてるヒマないわ!」と言う看護婦アンリエット@みなこちゃんにくってかかる、「人間の命はみんな尊いんだ!」。
デュナンさんの主張が野戦病院の人々の心に届き、医師も看護婦も、負傷して病院にいるイタリア兵も捕虜となって捕まっているオーストラリア兵もみな等しく、命を大切だと思うことで、ひとつになっていく。
かけがえのない命を助けるために、敵味方双方から攻撃されない目印が必要、そうだ赤い十字の旗を掲げよう! おおー!! 命を懸けて人助けしちゃうぞー! なんて健気なの、自己犠牲万歳!!
てなわかりやすい物語。ザ・大衆演劇。ここまではイイ。初見でもここまでは「植爺なのに、今回まだいいわー」と思って観ていた。
で、現実問題として、わたしが『ソルフェリーノの夜明け』でどーしてもダメ、ここがあるからもう観たくない! と思うのは、この直後のデュナンとシスター@ナガさんたちとの場面だ。
この、赤十字の旗誕生秘話が語られ、敵味方関係なくどーんと盛り上がったその直後、ぞろぞろと登場して、盛り上がりに水を差す展開。
「負傷者の命を助けるために、危険な戦場を突っ切って大きな街まで運ぶ」という話は、今さっきまでしていたことだ。
危険だっつーことも、命懸けだっつーことも、さんざん議論し、それでもやる、と心が決まり、感動場面になった。
なのにまた、リセット。
さっきやった会話を最初からはじめる。
しかも、同じ話をその場にいる全員がひとことずつ順番に、カーテン前に一列に並んで同じことを言う。1回言えばいいことを、何度も何度も何人も。
本舞台を使って旗を作るというアクション付きで歌まで歌ってやったのと同じことを、今度はカーテン前で横並びして台詞で言うだけでやる。同じことを繰り返すだけでもおかしいのに、それをさらに盛り下がった平板な演出で繰り返す。
わたしは植爺とは気は合わないし一生合わなくていいとも思っているけれど、彼の「盛り上げる力」は評価している。タカラヅカ95年の歴史の中に、必要な人だったのだと思っている。
その、せっかく盛り上げた、彼の唯一の美点を、作品の唯一の救いを、自分で台無しにすることが、許せない。
いいところはあるんだ、なのにそれすらわかってないんだ、この人は。
もったいない。
このベッタベタな盛り上げ演出力を、ちゃんと活かせばいいのに。
もっともっと、いい作品にすることはできるのに。
『ベルばら』でもワースト順位に入る嫌いな場面なんだ。革命前夜のパリに出撃するオスカルを、ジャルジェ家の人々が止めるべきだとカーテン前で横並びしてひとりずつ同じことを言うヤツ。
命懸けで信念を貫く。
そう結論はすでに出ているし、ヒューマニズム大好きなおじいちゃんは「命懸け」が大好き。大好きなことで盛り上がり、物語はクライマックスへ向けて最高潮!
……てなときに、いつも必ず水を差す。
何故かはわかる。
植爺が「命懸け」が大好きすぎるからだ。
大好きだからこそ、誉め称える。
「大切な命を危険にさらしてまで大義を為す」ことがどんだけ素晴らしいかを、演説せずにはいられないんだ。
「自己犠牲万歳!」を言いたいがためだけに、「尊い自分の命を危険にさらすなんて」と止める人々を登場させる。
さっきもさんざんやったし、結論が出ていても、何度でもやる。
そうやることで自己犠牲の美しさが増すと思っているんだ。
この感性の差が、わたしには耐え難い(笑)。
わたしにとっては「感動に水を差す」行為なのに、おじいちゃん的には「さらに感動させるすばらしい技巧!(かつ、場面転換の時間稼ぎもできて効率的!)」だと思っている。
その繰り返される「キレイゴト」に偽善臭が強すぎることと、構成の無駄や間違いを含め、全体に満ちて余りあるセンスの悪さが苦手。
と、植爺への逆ツボは限りなくあるが、シスターたちの場面は、わたしが「だからダメなんだ」と思う要素をぎゅっと濃縮してあるの。
わたしが「最悪!」と思うことを「最高!」と思って嬉々としてやっていることがわかると、「やっぱり気が合わないから、近づかないでおこう」と思うよ。仕方ないよ。こんだけ、ツボがチガウんだもの。
ともかく、それに限る。
あくまでも個人的なツボの違い。
ただ、駄作とまではいかないかなと思う。
植爺の駄作はほんっとーに、物語としての基盤もナニもあったもんじゃないもの。
でも『ソルフェリーノの夜明け』はいちおー、起承転結はあるよね? 「アンリー・デュナンの生涯」ではないだけで。
『ソルフェリーノの夜明け』-赤十字思想誕生150周年記念作品-と、肩書きを副題にしてしまえばよかったのよ。
そしたら、思想が今まさに生まれ、赤十字という旗に象徴された瞬間の物語、ということでこの芝居内容で問題ない。
おかしなところはてんこ盛りだが、ベッタベタなお涙頂戴満載で、「戦争は悪い」「命は尊い」と主張している概念自体は間違っていないし、とりあえず盛り上がるし、いいんじゃないのかなー。
こーゆー作品も、タカラヅカにあっていいんだと思う。
わたしは極度の植爺アレルギーだが、アレルギーがあってなお、植爺作品で泣くことはある。
人が死ねば悲しいし、人情に心を揺すぶらされる。これは人間としての生理現象だと思っている。植爺作品はとてもわかりやすくこれらを突いてくるので、うまくいけば泣ける。スベった場合は怒りや爆笑になる(笑)。
また、役者の熱演で底上げされることも大いにある。生身の人間が魂からなにかを訴えかけている、その姿に心が動き、涙が出ることは観劇しているとふつーによくある。
とまあ、泣くことはあるし、実際『ソルフェリーノの夜明け』でも泣いたけれど、泣けたからといってこの作品を好きにはなれないし、感動にも分類しない。
生理現象と感情は別だからだ。腕をつねられて「痛い!」とこみあげた涙と、カラダはどこも痛くないけれど魂が震えることで流れる涙は別。
植爺の涙は腕をつねられる系の、生理現象涙なの、わたし的に。人として当然の生理現象は「感動して泣いた」にはカウントしない(笑)。
でも実際、千差万別の人間の「心」を動かして涙を流させるのは難しい。
それよりも、腕をつねって泣かせることの方が容易い。生理現象は程度の差こそあれみんな同じだもの。
だから植爺の作風は、間違っていないと思うの。大衆演劇として盛り上げる、その力はたしかにある。
昔の彼にはたしかにあり、近年は枯渇して久しかったけれど、今回はちゃんと大御所らしい仕事ぶりを見せてくれたと思う。
舞台はイタリア、ソルフェリーノ。イタリアVSオーストリアの最中、戦場近くの教会が野戦病院となっていた。ここはイタリアだからとーぜん、イタリア人を助けたい。薬も人手も不足しているのだから、命の優先順位、まず同国人や同盟国人から大事にしよう!
そこへやってきた無関係な国の無関係な旅人アンリー・デュナン@水くん。「敵のオーストラリア人なんか助けてるヒマないわ!」と言う看護婦アンリエット@みなこちゃんにくってかかる、「人間の命はみんな尊いんだ!」。
デュナンさんの主張が野戦病院の人々の心に届き、医師も看護婦も、負傷して病院にいるイタリア兵も捕虜となって捕まっているオーストラリア兵もみな等しく、命を大切だと思うことで、ひとつになっていく。
かけがえのない命を助けるために、敵味方双方から攻撃されない目印が必要、そうだ赤い十字の旗を掲げよう! おおー!! 命を懸けて人助けしちゃうぞー! なんて健気なの、自己犠牲万歳!!
てなわかりやすい物語。ザ・大衆演劇。ここまではイイ。初見でもここまでは「植爺なのに、今回まだいいわー」と思って観ていた。
で、現実問題として、わたしが『ソルフェリーノの夜明け』でどーしてもダメ、ここがあるからもう観たくない! と思うのは、この直後のデュナンとシスター@ナガさんたちとの場面だ。
この、赤十字の旗誕生秘話が語られ、敵味方関係なくどーんと盛り上がったその直後、ぞろぞろと登場して、盛り上がりに水を差す展開。
「負傷者の命を助けるために、危険な戦場を突っ切って大きな街まで運ぶ」という話は、今さっきまでしていたことだ。
危険だっつーことも、命懸けだっつーことも、さんざん議論し、それでもやる、と心が決まり、感動場面になった。
なのにまた、リセット。
さっきやった会話を最初からはじめる。
しかも、同じ話をその場にいる全員がひとことずつ順番に、カーテン前に一列に並んで同じことを言う。1回言えばいいことを、何度も何度も何人も。
本舞台を使って旗を作るというアクション付きで歌まで歌ってやったのと同じことを、今度はカーテン前で横並びして台詞で言うだけでやる。同じことを繰り返すだけでもおかしいのに、それをさらに盛り下がった平板な演出で繰り返す。
わたしは植爺とは気は合わないし一生合わなくていいとも思っているけれど、彼の「盛り上げる力」は評価している。タカラヅカ95年の歴史の中に、必要な人だったのだと思っている。
その、せっかく盛り上げた、彼の唯一の美点を、作品の唯一の救いを、自分で台無しにすることが、許せない。
いいところはあるんだ、なのにそれすらわかってないんだ、この人は。
もったいない。
このベッタベタな盛り上げ演出力を、ちゃんと活かせばいいのに。
もっともっと、いい作品にすることはできるのに。
『ベルばら』でもワースト順位に入る嫌いな場面なんだ。革命前夜のパリに出撃するオスカルを、ジャルジェ家の人々が止めるべきだとカーテン前で横並びしてひとりずつ同じことを言うヤツ。
命懸けで信念を貫く。
そう結論はすでに出ているし、ヒューマニズム大好きなおじいちゃんは「命懸け」が大好き。大好きなことで盛り上がり、物語はクライマックスへ向けて最高潮!
……てなときに、いつも必ず水を差す。
何故かはわかる。
植爺が「命懸け」が大好きすぎるからだ。
大好きだからこそ、誉め称える。
「大切な命を危険にさらしてまで大義を為す」ことがどんだけ素晴らしいかを、演説せずにはいられないんだ。
「自己犠牲万歳!」を言いたいがためだけに、「尊い自分の命を危険にさらすなんて」と止める人々を登場させる。
さっきもさんざんやったし、結論が出ていても、何度でもやる。
そうやることで自己犠牲の美しさが増すと思っているんだ。
この感性の差が、わたしには耐え難い(笑)。
わたしにとっては「感動に水を差す」行為なのに、おじいちゃん的には「さらに感動させるすばらしい技巧!(かつ、場面転換の時間稼ぎもできて効率的!)」だと思っている。
その繰り返される「キレイゴト」に偽善臭が強すぎることと、構成の無駄や間違いを含め、全体に満ちて余りあるセンスの悪さが苦手。
と、植爺への逆ツボは限りなくあるが、シスターたちの場面は、わたしが「だからダメなんだ」と思う要素をぎゅっと濃縮してあるの。
わたしが「最悪!」と思うことを「最高!」と思って嬉々としてやっていることがわかると、「やっぱり気が合わないから、近づかないでおこう」と思うよ。仕方ないよ。こんだけ、ツボがチガウんだもの。
ともかく、それに限る。
あくまでも個人的なツボの違い。
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