硝子迷宮の影に酔う。@パッサージュ
2010年3月3日 タカラヅカ 今さら、『パッサージュ』の話。
ハマコを失うという事実がわたしのなかで浸透するなり、古いメディアを引っぱり出していた。
DVDレコーダを買って最初に録画したのが、NHK放送の『パッサージュ』。おかげで殻付きRAMに録画してるんだよー(笑)。ブルーレイ・レコーダ様は殻付き再生できないの、同じパナソニックなのに、純正品RAMなのに。それくらい、昔のメディア。
トップスターはトド。トップ娘役はグンちゃん。2番手がブンちゃん、3番手がワタルくん、W4番手としてコム姫とナルセくん。
美しい人々、美しい衣装、美しい世界。新専科制度という苦い時代に出来た、奇跡のような公演。
当時、狂ったように書き散らかしていた文章は、まったく残っていない。PCの故障、買い換えなどで紛失した。
だからもう、あの当時のキモチを顧みることもできないのだけど。
最初わたしは、その世界の美しさに感動した。
「天使の夢を見たわ」ではじまる、硝子細工のような世界。きらきらと輝き、角度によって光を変え、夢夢しいにも関わらず冷たく、たしかな硬さを持ちながらも砕け散るもろさを秘める。
オープニングの娘役のドレスの美しさときたら! 色とりどりのキャンディのようで、盆が回って女の子たちが登場するなりぱーっとテンションが上がったのをおぼえている。
きれい。かわいい。
ただそれだけのことに感動して、胸が熱くなる。
どの場面もひたすら美しく、悪趣味な濁りがない。
だがその「美しさ」は陽と陰、光と闇がサンドイッチ状態になっていて、作者の苦心がしのばれた。
ダークな部分を表現したあとは、「とてもタカラヅカ」な明るく美しい場面を必ず入れる。作者自身が描きたいものが闇部分であったしても、いちいち「タカラヅカです」という場面を入れることによって言い訳してある。それが愉快ではあった。
美しいこと、光と闇が交互に構成されていること。
そこまでは初日からわかっていたのだけど。
繰り返し観ているうちに、どうもおかしいことに気が付いた。
初日から、わけもなく涙があふれ、なんで自分が泣いているのかさっぱりわかっていなかったんだが。
リピート観劇すればするほど、さらに涙が止まらなくなる。心臓がばくばくして、気分が悪くなる。
なんなんだろう? なんでこんなことになるんだろう?
こんなに美しくて楽しくて、しあわせなキモチで観ているのに。
何度でも観たくて劇場に通い、芝居はどーでもいー、『パッサージュ』だけが目当てで客席にいるのに、いざその『パッサージュ』がはじまる間際になると、そこから逃げ出したくなる。苦しくなる。
実際、観ていても苦しくて仕方がない。こんなに心臓ばくばくして、血を送り続けて、わたし、破裂するんじゃないの? と思うくらいに。
泣きすぎて消耗しすぎて、終演後もなかなか座席から動けない。
ばくばくする心臓をなだめなければ、動くこともままならない。
……アタマ悪いので、気づいてなかったんだ。美しい、楽しい、大好き……そんな表面的なことに夢中になって、それ以上はナニも考えていなかった。
あきらかにおかしいだろ、わたし。なんでこんなに過剰反応しているのか、考えろよ。
何回目かの観劇時に、不意に気づいた。
美しい、楽しい、大好き……そう思って陶酔して観ているその夢のような舞台の上に、絶望しかないことに。
美しさで隠されていたけれど、そこで描かれているのは「別れ」「喪失」「悔恨」……プラスのものはナニもなかった。
「タカラヅカ・ショーのお約束」部分ではにこにこ愛だの幸福だの歌っているけれど、物語部分、作者のメッセージ部分では絶望しか描かれていなかった。
なまじ美しいから、問題だ。
絶望をマイナスのものとして描くならわかる。だが、そこにある絶望はひたすら美しく、甘美だった。
誘惑があった。
絶望……死への。
わたしは、こわかったんだ。
美しくて大好きなのに、心臓ばくばくして涙が止まらなくて気分が悪くなる、そんな作品。
こわくてこわくて、たまらなかったんだ。
アホなアタマが追いついてなくても、カラダは反応していたんだ。まずい、って。コレにハマったら、傾倒したらまずいって。
気づいた瞬間、血の気が引いて、その日は帰宅するまで大変だった。
美しい絶望。
わたしが狂ったよーに観ていたものは、とんでもない毒だった。
カラダはすでに侵されていた。
このままじゃまずい。
わかっていても、観るのをやめられない。
毒に侵され、毒なしには生きられない。
観る前に気分が悪くなり、観ている最中も気分が悪く、見終わってもへとへと。それでも、観たくて観たくてたまらない。
それでも、好きで好きでたまらない。
「こんなこわいもの、何回も観てるんですか?」
ある日友人のかねすきさんがそう言った。彼女はその日が初見だった。わたしが何回も観てよーやく「コレ、こわい」と気づいたものを、初見でずはりと言い切った。
ああ、やっぱりコレ、こわいよねえ? 他の友だちに言っても通じなくて。きれいだけどこわい、きれいだからこそこわい、ってどんだけ訴えても「緑野が変なんだ」で片づけられちゃったよ。「変」と言っても、そのおかしさも含め、受容してくれるやさしく寛容な友人たちなんだが。
まあたしかに、わたしも過剰反応してるんだろうし、自分でもちょっと行き過ぎてね?とは思っているし。
「心が健康な人には、必要ないからですよ」
わたしたちが「こわい」と思う毒の部分が。健康な人には毒にはならない。そう、すっぱり言われて納得。だから、どんだけ訴えても届かないんだ。
「まあ、わたしってトクベツなひとなんだわ!」というよりは、人よりまちがっている、劣っている、と指摘されたようなもので。
よく母に「アンタがアフリカのキリンなら、とっくに死んでる」と叱られるのだけど(心身共に虚弱なんて、生物として劣っている。人間だから許されてるけど、野生動物ならとっくにライオンの腹の中だろう、という意味)、それと同じレベルのしょぼんさですな。
肩を落とす……だって、実際そうなんだから、もう変えようがないんだから、責められても仕方ないっいうか。
事実を事実として受け止め、しょんぼりする。
こんなに大好きなのに、こんなに苦しい。それはもう、どうしようもないんだ。逃げられないし、変えられないんだ。
それならそれで、開き直って楽しむしかない。
毒満載作品なんてすごーい、オギー最高!(笑)
コレ観て反射的に自殺する人とか出てこなければいいね。毒に侵されて、帰り道線路に飛び込んじゃう系の人が、いなければいいね。
そんなことを、冗談まじりにかねすきさんと話して発散した。
美しいけれどこわい、こわいけれど美しい。
病んだ自分を肯定し、受容し、解放する。
細胞を解き放つ感覚。
原子まで分解され、また再構成される快感と恐怖を、味わう。
『パッサージュ』に浸る、とゆーのはそーゆー行為だった。体験だった。
てなイタイ話は置くとして(笑)、ふつーの感想に続く。
ハマコを失うという事実がわたしのなかで浸透するなり、古いメディアを引っぱり出していた。
DVDレコーダを買って最初に録画したのが、NHK放送の『パッサージュ』。おかげで殻付きRAMに録画してるんだよー(笑)。ブルーレイ・レコーダ様は殻付き再生できないの、同じパナソニックなのに、純正品RAMなのに。それくらい、昔のメディア。
トップスターはトド。トップ娘役はグンちゃん。2番手がブンちゃん、3番手がワタルくん、W4番手としてコム姫とナルセくん。
美しい人々、美しい衣装、美しい世界。新専科制度という苦い時代に出来た、奇跡のような公演。
当時、狂ったように書き散らかしていた文章は、まったく残っていない。PCの故障、買い換えなどで紛失した。
だからもう、あの当時のキモチを顧みることもできないのだけど。
最初わたしは、その世界の美しさに感動した。
「天使の夢を見たわ」ではじまる、硝子細工のような世界。きらきらと輝き、角度によって光を変え、夢夢しいにも関わらず冷たく、たしかな硬さを持ちながらも砕け散るもろさを秘める。
オープニングの娘役のドレスの美しさときたら! 色とりどりのキャンディのようで、盆が回って女の子たちが登場するなりぱーっとテンションが上がったのをおぼえている。
きれい。かわいい。
ただそれだけのことに感動して、胸が熱くなる。
どの場面もひたすら美しく、悪趣味な濁りがない。
だがその「美しさ」は陽と陰、光と闇がサンドイッチ状態になっていて、作者の苦心がしのばれた。
ダークな部分を表現したあとは、「とてもタカラヅカ」な明るく美しい場面を必ず入れる。作者自身が描きたいものが闇部分であったしても、いちいち「タカラヅカです」という場面を入れることによって言い訳してある。それが愉快ではあった。
美しいこと、光と闇が交互に構成されていること。
そこまでは初日からわかっていたのだけど。
繰り返し観ているうちに、どうもおかしいことに気が付いた。
初日から、わけもなく涙があふれ、なんで自分が泣いているのかさっぱりわかっていなかったんだが。
リピート観劇すればするほど、さらに涙が止まらなくなる。心臓がばくばくして、気分が悪くなる。
なんなんだろう? なんでこんなことになるんだろう?
こんなに美しくて楽しくて、しあわせなキモチで観ているのに。
何度でも観たくて劇場に通い、芝居はどーでもいー、『パッサージュ』だけが目当てで客席にいるのに、いざその『パッサージュ』がはじまる間際になると、そこから逃げ出したくなる。苦しくなる。
実際、観ていても苦しくて仕方がない。こんなに心臓ばくばくして、血を送り続けて、わたし、破裂するんじゃないの? と思うくらいに。
泣きすぎて消耗しすぎて、終演後もなかなか座席から動けない。
ばくばくする心臓をなだめなければ、動くこともままならない。
……アタマ悪いので、気づいてなかったんだ。美しい、楽しい、大好き……そんな表面的なことに夢中になって、それ以上はナニも考えていなかった。
あきらかにおかしいだろ、わたし。なんでこんなに過剰反応しているのか、考えろよ。
何回目かの観劇時に、不意に気づいた。
美しい、楽しい、大好き……そう思って陶酔して観ているその夢のような舞台の上に、絶望しかないことに。
美しさで隠されていたけれど、そこで描かれているのは「別れ」「喪失」「悔恨」……プラスのものはナニもなかった。
「タカラヅカ・ショーのお約束」部分ではにこにこ愛だの幸福だの歌っているけれど、物語部分、作者のメッセージ部分では絶望しか描かれていなかった。
なまじ美しいから、問題だ。
絶望をマイナスのものとして描くならわかる。だが、そこにある絶望はひたすら美しく、甘美だった。
誘惑があった。
絶望……死への。
わたしは、こわかったんだ。
美しくて大好きなのに、心臓ばくばくして涙が止まらなくて気分が悪くなる、そんな作品。
こわくてこわくて、たまらなかったんだ。
アホなアタマが追いついてなくても、カラダは反応していたんだ。まずい、って。コレにハマったら、傾倒したらまずいって。
気づいた瞬間、血の気が引いて、その日は帰宅するまで大変だった。
美しい絶望。
わたしが狂ったよーに観ていたものは、とんでもない毒だった。
カラダはすでに侵されていた。
このままじゃまずい。
わかっていても、観るのをやめられない。
毒に侵され、毒なしには生きられない。
観る前に気分が悪くなり、観ている最中も気分が悪く、見終わってもへとへと。それでも、観たくて観たくてたまらない。
それでも、好きで好きでたまらない。
「こんなこわいもの、何回も観てるんですか?」
ある日友人のかねすきさんがそう言った。彼女はその日が初見だった。わたしが何回も観てよーやく「コレ、こわい」と気づいたものを、初見でずはりと言い切った。
ああ、やっぱりコレ、こわいよねえ? 他の友だちに言っても通じなくて。きれいだけどこわい、きれいだからこそこわい、ってどんだけ訴えても「緑野が変なんだ」で片づけられちゃったよ。「変」と言っても、そのおかしさも含め、受容してくれるやさしく寛容な友人たちなんだが。
まあたしかに、わたしも過剰反応してるんだろうし、自分でもちょっと行き過ぎてね?とは思っているし。
「心が健康な人には、必要ないからですよ」
わたしたちが「こわい」と思う毒の部分が。健康な人には毒にはならない。そう、すっぱり言われて納得。だから、どんだけ訴えても届かないんだ。
「まあ、わたしってトクベツなひとなんだわ!」というよりは、人よりまちがっている、劣っている、と指摘されたようなもので。
よく母に「アンタがアフリカのキリンなら、とっくに死んでる」と叱られるのだけど(心身共に虚弱なんて、生物として劣っている。人間だから許されてるけど、野生動物ならとっくにライオンの腹の中だろう、という意味)、それと同じレベルのしょぼんさですな。
肩を落とす……だって、実際そうなんだから、もう変えようがないんだから、責められても仕方ないっいうか。
事実を事実として受け止め、しょんぼりする。
こんなに大好きなのに、こんなに苦しい。それはもう、どうしようもないんだ。逃げられないし、変えられないんだ。
それならそれで、開き直って楽しむしかない。
毒満載作品なんてすごーい、オギー最高!(笑)
コレ観て反射的に自殺する人とか出てこなければいいね。毒に侵されて、帰り道線路に飛び込んじゃう系の人が、いなければいいね。
そんなことを、冗談まじりにかねすきさんと話して発散した。
美しいけれどこわい、こわいけれど美しい。
病んだ自分を肯定し、受容し、解放する。
細胞を解き放つ感覚。
原子まで分解され、また再構成される快感と恐怖を、味わう。
『パッサージュ』に浸る、とゆーのはそーゆー行為だった。体験だった。
てなイタイ話は置くとして(笑)、ふつーの感想に続く。
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