中村暁氏のオリジナル作品は、物語としての計算ができてない。
 1+2=3という、純粋に計算部分。

 ここでコレを描いたら、次にコレをフォローして、コレにつなげる。という、ごくごくまっとーな、ふつーの計算式。
 それが苦手であるらしい。

 計算は苦手でも、得意なことはある。

 中村A氏は、オーソドックスが得意だ。

 「タカラヅカ」というジャンルの持つ、普遍的なモノ。
 何十年経とうと変わらないスピリッツ。それを忠実に描くことのできる人だ。

 だから悪趣味な衣装は着せないし、とんでもない画面も作らない。
 ヅカファンが好きな時代の好きな国、好きなテイストでラヴストーリーを上演する。
 大昔はもっととんがった作品も創っていたようだが、柴田せんせの再演作を演出するようになってからの彼は、ことさらオーソドックスに伝統を守り続けている。

 柴田大先生の大昔の名作を、古い古いままそのまんま再現する。お手本を変えてはならない、ただなぞるだけ。減点されないよう、叱られないよう、あるものを懸命になぞる。冒険はしない、加点は望まない。
 減点されないこと、失敗しないことが最終目的で、成功することは別に目標にしていない。
 それが彼の作るところの、オーソドックス。

 ふつーにきれいな画面を作れる人なので、どんなに計算式の破綻した物語であっても、フィナーレがカッコイイから誤魔化されてしまう(笑)。
 あー、「タカラヅカ」ねえ。そう思わせて、うやむやにする。

 ……という、中村Aせんせの作風を、めーっちゃデジャヴしました、『Je Chante』!!(笑)

 そこにあるのは「オーソドックスなタカラヅカ」であり、お約束のオンパレード。でも、計算式がまともに描けていないので、提示されているのは設定の断片だけ。
 されどなにしろ「オーソドックスなタカラヅカ」なので、断片があると観客は勝手に脳内で「これはこういうこと」と変換していく。
 観客の「タカラヅカ・スキル」に頼り切った作劇。

 それでも、観客が大好きな「オーソドックスなタカラヅカ」なので、観たいモノを観られて、ある程度の満足感は得られる、という(笑)。
 『さすらいの果てに』だって『あの日見た夢に』だって、衣装や画面はハズしてないし、主人公たちの設定とストーリーの展開予定(あくまでも、予定・笑)だけは、ヅカファンが大好きなラインをきちんと守っているので、観る人によっては名作にもなり得るんだと思うよ。

 ツッコミ入れ出すとキリがないだけで。

 この『Je Chante』でデビューする、新人演出家の原田せんせ。
 何故よりによって中村Aテイストなのか、聞いてみたいっす(笑)。

 オーソドックスで手堅いけれど、個性のない作品。
 お手本通りに切り取ろうとして、失敗するのがこわくて切取線の外側を切っていたら、出来上がった切り絵はラインがぼけてしまってつまらなくなってました、みたいな。
 最初から合格ラインの70点目指してました、100点満点目指して大技チャレンジして失敗したら嫌だから、失敗しないことだけ考えました、みたいな。

 それで地味でも粗のない作品ならいいんだけど、なにしろ「観客の脳内補完前提の投げっぱなし脚本」だもんよ。
 オーソドックスだから、さわりだけ描けばヨシ、苦労して計算して伏線だの伏線回収だのしなくていいってか。

 最初のうちは「そんなこともあるわよね」と思って見ていたんだが、あまりにもさわりだけのフォロー無しっぷりが積み重なり、どんどん気持ち悪くなった(笑)。
 や、気持ち悪いって言葉が悪いけど、かゆいところがひとつならともかく、かゆくてもかけないままどんどんかゆさが降り積もっていき、途中でうきゃー!と叫びたくなる感じ、気持ち悪い~~、かゆいところに手が届いてなさすぎるよー!

 すべてお約束、すべて予定調和。最初に解説読んで観客が脳内でパッチワークしなければならない、というのが正しい観劇方法なら仕方ないけど。

 いやはや。
 同じ構成上の粗でも、作家の「コレを描きたいんだ~~っ!!」というパッションゆえに些末が吹っ飛ばされているなら、微笑ましいんだが。
 保身に走った結果で拙いんじゃ、観る方はつまんないなあ。

 
 とまあ、言いたい放題言ってますが。

 そーゆーことは置いておいて、だ。

 かわいい物語である。

 作品のアレさにはムズムズモニョモニョしまくったが、それでもやっぱり、「オーソドックスなタカラヅカ」はイイんだよ。
 中村Aに期待するキモチは探して発掘して振り起こさなければ出てこないが、新人さんには期待したいじゃないか。
 こーゆー「タカラヅカのお約束」だけで出来上がった作品も、ぜんぜんアリだと思うのよ。

 だって、あたたかいもの。

 「青春の輝き」というか、カチャをはじめ、出演者たちがキラキラキラキラしているんだもの。
 ツッコミどころは多々あれど、脳内補完しつつ勝手にシャルルやジジの物語を脳内で盛り上げて、切なくなったりすることは可能なんだもの。

 キャストの魅力に掛かっているところは大きいけれど、なにしろここはタカラヅカ、キャストの魅力で「見る」ところだもの。
 シャルルがどんな人か、ではなく、カチャが演じている役。ジジがどんな子か、ではなく、アリスが演じている役。

 カチャだからまっすぐキラキラしていて、アリスだからやさしいいい子に違いない、そーゆー見方だ。
 主人公とヒロインだから、愛し合うに決まっている、そーゆー見方だ。

 観客がキャスト個人のキャラクタを知った上で、ストーリー展開のルールも熟知した上で、観る。
 大衆劇場の宝塚大劇場ではなく、キャストのファンしか観に来ない小劇場、バウホールでだ。
 いいんだ、そーゆーので。

 それが許されるのが、「タカラヅカ」の美点のひとつだと思う。

 ファンだけが観て、さらにファンになって帰る。
 そういう場を作るのも、タカラヅカには必要。

 オーソドックスなタカラヅカ作品を、とても真面目に作ってきた新人演出家くんは、タカラヅカとキャストを愛してくれいるんだと思う。
 このタカラヅカならではの「お約束」ごと。

 だから『Je Chante』は、キラキラまぶしい、かわいい作品になった。
 悲劇ではあるけれど、後味は良く、しあわせなキモチで劇場を出ることができる。

 ……ただ、中村Aはひとりで十分っちゅーかひとりでマジ勘弁してくれなので、原田せんせには別のところを目指して欲しいと、心から祈ります。

 

 
 それにしても『舞姫』って、ほんっとーに低予算公演だったんだなあ、と、今ごろになって思った。
 かけてもらってるお金、ぜんぜんチガウだろヲイ……(笑)。

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