卒業記念MSなのだから、特別なイベントであることは、当然だ。
 それはわかっている。
 その雰囲気や空気感とは別に、わたしがご贔屓に対して注目したことは。

 1曲、歌う。と、いうこと。

 桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつには3曲ソロがあった。

 『TUXEDO JAZZ』主題歌と、彩音ちゃんピアノ演奏の「How long has this been going on?」と、ジャズ「Let’s face the music and dance」。

 ヅカ曲の「タキジャズ」はともかく、「How long…」の方は音域がえらいことになっていて、さすがのまっつさんも歌いこなせていたとは思えないんだが(高音部は出るところまでで、あとは潔くぶった切っていたよーな・笑)、「Let’s face…」は得意分野、水を得た魚状態。

 なんにしろ、まるまる1曲、彼のモノだったんだわ。

 ……まっつは歌ウマで通っているので、通常公演でもぼちぼち歌の場面がある。彼ひとりの歌声を聴く機会は、ある。
 でも、ちゃんと1曲まるまる歌わせてもらえることなんて、ない。
 それが許されるのは、番手の付いたスター、宝塚歌劇団の生徒数百人中の、ほんの十数名だけだ。
 その場を自分だけで埋めていい、表現していい、そんな特別な立場は。

 あとはせいぜい歌の一部を歌うとか、ダンスの合間に一部だけ歌詞があるとか、何人かでシェアして歌うとか、コーラスの中ワンフレーズだけソロでとか。
 あくまでも、一部分。歌は脇役であり、他のナニかを引き立てるためにある。だから歌声も、歌自体の表現よりも、その場面にあった歌い方、引き立てる目的のモノに相応しい歌い方になる。

 芝居でだって、まるまる1曲心情を歌えるのはスターのみだ。『虞美人』を例にしたって、銀橋渡りながらテーマソングを歌えるのはトップと2番手だけ。今回はヒロインすら単独で1曲は歌ってねぇ。
 あとは芝居の途中経過で部分的に音に載せてみせるだけ。

 数フレーズの自分のソロパートをどれだけ的確に、また魅力的に歌えるかが、ミュージカル俳優としての役割なわけだ。ショーでも芝居でも、与えられた役割を果たすことが最優先、「作品」の一部なんだから。

 それを当たり前に観てきて、受け止めてきて。

 今ここで「1曲」与えられたご贔屓の姿に、心揺れ、リピートしないではいられなかったのですよ。

 ショーの一部分でもなく、芝居の役でなく。
 「未涼亜希」が、表現の場を与えられ、自由に表現している。
 その姿が興味深くて。

 いや、ぷっちゃけ、おもしろいです。

 まっつには『宝塚巴里祭2009』があった。ここでも彼は自分ひとりの曲を持ち、表現していた。
 だから別に、はじめて観るわけじゃない。「真ん中」のまっつ。

 だけどチガウの。
 今回とは、明らかにチガウ。

 『巴里祭』のまっつには、使命感があった。自分がすべての責任を負っているという、重苦しいまでの気負い。
 自分がコケれば終了するんだという、背水の陣の武将みたいなギリギリ感。

 でも今回は、ソレがない。

 彩音ちゃんのMSで手を抜いているとか気を抜いているとかいうわけじゃなくて、それはどうしようもない「主演」というものの重みの違いだ。彩音ちゃんのステージを心から支え、力を出している、それでも、主演で戦った巴里祭とはチガウんだ。
 
 良い悪いではなくて。
 だからこそ「主演」ってのは、価値があるんだ。それくらい、特別なことなんだ。

 背水の陣のぎりぎりまっつも、そりゃあ壮絶な魅力がありました。
 そして、今回はそれとはチガウ、「自由に呼吸している」まっつが見られたんだ。

 その呼吸感は、直近の巴里祭の記憶ではなく、何年も前の『エンカレッジ・コンサート』の記憶に結びついた。
 出演者のひとりとして、純粋に自分の歌に、音楽に向き合い、表現しようとしている姿。
 あのときのまっつを、思い出した。
 

 オサ様の歌った「How long…」は、まっつのキャラには合わない曲だ。
 伸縮自在の三次元曲。高低だけでなく、深浅、表裏、いろーんなものがあり、オサ様はそりゃあ自由に歌ってのけた。
 そう、オサ様はあまりに「自由」だ。音の翼を持った人。あんな人はそうそういない。
 まっつはオサ様とはまったくタイプが違う。まっつは的確に譜面通りに歌う。自由からはもっとも遠い、面白味のない人。

 生真面目に「音」をなぞり……その音と自分の兼ね合いで、えらく苦戦しているように見えた、初日。あの音の流れは、まっつの中にはナイよなあ、みたいな。
 この難曲をどう歌いこなすのか、それがとても楽しみだったのだけど、結局まっつはこの歌を調伏しようとはしなかったようだ(笑)。先述の通り、出ない音は出ない、とぴしゃりと切っていた。
 でもおめおめと不戦敗を宣言するのではなく……別の切り口から、この曲との講和条件を模索したようだ。
 オサ様が突然窓から現れてしまうよーな破天荒な歌い方ならば、まっつは玄関をとんとんノックしていた。
 蝶ネクタイを神経質に何度も直して、襟を正して小さな花束を持ってドアの前に立つまっつ、を想像した。そうやって生真面目に正攻法に、ドアをノックしているの。

 表現しよう、という、心構え。
 自分のやり方で、自分の持ち味で。

 ああ、これがまっつなんだ。
 こうやって歌うのが、「未涼亜希」なんだ。

 そう思った。

 1場面、1曲、まるまる彼が表現していい、戦っていいと、与えられたからこそ。
 他のどの舞台でも視ることの出来ない未涼亜希が、そこにいた。

 
 だからもお、駆けつけずには、いられなかったんだ。

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