そして彼は、JAZZを歌う。@Ever green
2010年4月20日 タカラヅカ 自由に表現していい「1曲」を得たまっつ。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつがひとりでまるまる1曲歌うことが出来たのは、合計3曲。
オサ様のラヴソング「How long has this been going on?」は、まっつにとってかなり挑戦な難曲。アカペラではじまり、彩音ちゃんの弾くピアノ伴奏のみの逃げ場なし状態、クライマックスの歌い上げはどえらい高音。
……という技術的な問題もそうだが、ハート部分でもなかなか敷居が高いかなと。まっつは端正に歌うことは得意でも、感情爆発揺れ動きまくりってのは苦手だよね。なにしろクール・キャラだから。
そんなこんなで、なんとも興味深い1曲。
残り2曲もまた、いいコントラストなんだよなあ。
「Let’s face the music and dance」は、『エンカレッジ・コンサート』で歌った「And All That Jazz」と同系統。や、曲はもちろんチガウんだけど、まっつが自分の引き出しで、もともと持っている武器ですんなり戦える曲。
ノリノリに、セクスィに。
客席に語りかけ、発散する。
得意分野だとわかってはいるけど、初日よりも、あとになるほどハネが大きくなり、気持ちよさそう。
そりゃ気持ちいいよね、だって「歌える」んだもん。表現できるんだもん。技術が、実力があるんだもん。
イメージ通りの音を操り、無から有を創り出せるのなら、表現者として創造者として、これほどキモチイイことはないでしょうよ。
「How long…」での苦戦っぷりが嘘のように、どこを吹く風で余裕綽々。
ああもお、嫌な男だ。こいつ絶対、自分を色男だと思ってる!!(笑)
でも、どんだけ気持ちよさそうに余裕で歌っていても、それは本能で快走しているわけじゃないのね。
解放している部分とは別に、理性ががっちり大地に根を下ろしている。
技術と、計算と、演技と。
持って生まれた本能部分だけではなくて、お稽古で、努力で、作り上げたモノをきっちり出しているんだと思う。
アクセルとハンドルは別の人が握っているかのように。どんだけ熱くスピード上げたって、ハンドルワークはめっちゃ冷静なの。
ここで本能のみで突っ走らないあたりが、まっつの面白味に欠けるところかもしれない。
タカラジェンヌは感覚的な人が多いから(そんな人の方が目立つから)、テンパって脳内麻薬出まくりで、本人も予期していないとんでもないところへ暴走したりして、それが愉快だったり魅力だったりする。
されどまっつには、それがない。彼はいつも理性を手放さない。
用心深く臆病で、とことん真面目なんだろうと思う。
それでもこうやって「得意分野を、まるまる1曲」与えられ、舞台の上で深化させる機会を得て。
まっつだからどんだけキザって過剰にポーズをつけてもやはりそれは理性の範囲内で、計算された演技っぷりで。
理性は決して手放さず、本能で暴走するのではなく、技術がさらに磨かれているの。
「表現」の振り幅の大きさ。
彼が「伝えたい」「表現したい」と思っていることが、上がっているの。
生半可な技術は感情に勝てないのかもしれない。緻密な演技で表現するより、感情のままに大泣きして見せた方が、観客はもらい泣きしちゃうものなのかもしれない。特に、タカラヅカではそういう面が多分にある。そこが愛しい場所でもある。
だけどまっつは感情のまま大泣きして見せるキャラクタじゃない。暴走して「微笑ましいわね」と言ってもらうキャラクタじゃない。
頑なに、自分のスタイルを守って。
その上で、より高みへのぼろうと、力を振り絞っている。
そして、MS最終日にもなれば、それが気持ちよさそうだった。
表現者であることを、愉しんでいるようだった。
スカシているいつものまっつとチガウ温度で、でもたしかに、クールビューティだからこそのハズカシサで、客席釣りまくってる!
大劇場で一度、コレをやらせてやってくださいよ。1曲与えちゃうとこの人、ここまでやっちゃうんですから。
や、スター様のように扱えと言っているわけではなくて、どんなカタチでもいいから、まっつにフリー演技をさせてくれたら、ムラと東宝、2ヶ月かけてどこまで深化させていくんだろうと。
1ファンとして、見てみたいっすよ。しみじみ。
「TUXEDO JAZZ」は、知っているようで知らないまっつだった。
まっつも出演していたショーの主題歌だけど、まっつ自身はこの歌、歌ってないもの。
オサ様が歌った、冒頭の主題歌。
2月にはじまり、5月に終わる公演。壮くんがコートに付いた雪を払い、みわっちやまりんに花を贈られ、おかえりと迎えられる。そして、最後はみわっちが扇を贈られる……そーゆー公演だった。
オサ様の歌だけど、「How long…」のような難曲でも、まっつの苦手分野の曲でもない。
所詮はヅカのオリジナル曲。技術だけで十分歌える。
ただそれを、どう歌うか。
『タキジャズ』で、まっつはオサ様の影だった。不思議の国に迷い込んだオサ様につかず離れず現れる、もうひとりオサ様。オサ様が登場した窓から遅れて現れ、オサ様が変身する手伝いをし、別れの歌を歌う。
オサ様よりひとまわり小さな存在。……カラダのことだけじゃなく(笑)。
それが今、まっつはとても「大人」になって、「タキジャズ」を歌った。
あれから3年。
まっつは、こんなに変わったんだ。こんなに、成長したんだ。
それが痛感できる歌だった。
おかげで初日は泣きスイッチ入って大変だった(笑)。オサ様の至福の公演『TUXEDO JAZZ』を、その主題歌を、まっつが歌っている。しかも大人になって。
まぎれもない、時の流れを見せつけて。
これは彩音ちゃんの卒業記念MSで。別れを前にしたコンサートで。
彩音ちゃんにはあまり、時の流れを感じない。たしかに歌唱力は成長したが(笑)、彼女はいろんな意味でフェアリーだ。クリスティーヌの初々しさを、マリーの清純さを変わらずに持ち続けている。
変わらない彩音ちゃん、タカラヅカという夢の花園、その記号の中で。
まっつがまぎれもない「成長」を、「時の流れ」を見せつけたことで、せつなさが一気にふくれあがった。
12時の鐘が、鳴った気がした。
夢の時間は終わり、魔法は解ける。永遠なんてない。奇跡なんて起こらない。
別れは避けられない。
それでもなお。
舞台の上では、フェアリーたちがキラキラ歌っている。
夢と現実の、あざやかなシルエット。
いつか解ける魔法だからこそ、愛しくてならない。有限の楽園だからこそ、あこがれてやまない。
まっつが真正面から取り組んで、歌ってみせた3曲。
どれもまったくちがった意味で、興味深くて、目が離せなかった。
短い一部分とか、歌い継ぎのひとつとかじゃなくて、まるまる1曲。まっつが受け止め咀嚼し、表現してみせた曲たち。
それは通常公演では聴くことの出来ない曲だったんだ。
桜乃彩音ミュージック・サロン『Ever green』にて、まっつがひとりでまるまる1曲歌うことが出来たのは、合計3曲。
オサ様のラヴソング「How long has this been going on?」は、まっつにとってかなり挑戦な難曲。アカペラではじまり、彩音ちゃんの弾くピアノ伴奏のみの逃げ場なし状態、クライマックスの歌い上げはどえらい高音。
……という技術的な問題もそうだが、ハート部分でもなかなか敷居が高いかなと。まっつは端正に歌うことは得意でも、感情爆発揺れ動きまくりってのは苦手だよね。なにしろクール・キャラだから。
そんなこんなで、なんとも興味深い1曲。
残り2曲もまた、いいコントラストなんだよなあ。
「Let’s face the music and dance」は、『エンカレッジ・コンサート』で歌った「And All That Jazz」と同系統。や、曲はもちろんチガウんだけど、まっつが自分の引き出しで、もともと持っている武器ですんなり戦える曲。
ノリノリに、セクスィに。
客席に語りかけ、発散する。
得意分野だとわかってはいるけど、初日よりも、あとになるほどハネが大きくなり、気持ちよさそう。
そりゃ気持ちいいよね、だって「歌える」んだもん。表現できるんだもん。技術が、実力があるんだもん。
イメージ通りの音を操り、無から有を創り出せるのなら、表現者として創造者として、これほどキモチイイことはないでしょうよ。
「How long…」での苦戦っぷりが嘘のように、どこを吹く風で余裕綽々。
ああもお、嫌な男だ。こいつ絶対、自分を色男だと思ってる!!(笑)
でも、どんだけ気持ちよさそうに余裕で歌っていても、それは本能で快走しているわけじゃないのね。
解放している部分とは別に、理性ががっちり大地に根を下ろしている。
技術と、計算と、演技と。
持って生まれた本能部分だけではなくて、お稽古で、努力で、作り上げたモノをきっちり出しているんだと思う。
アクセルとハンドルは別の人が握っているかのように。どんだけ熱くスピード上げたって、ハンドルワークはめっちゃ冷静なの。
ここで本能のみで突っ走らないあたりが、まっつの面白味に欠けるところかもしれない。
タカラジェンヌは感覚的な人が多いから(そんな人の方が目立つから)、テンパって脳内麻薬出まくりで、本人も予期していないとんでもないところへ暴走したりして、それが愉快だったり魅力だったりする。
されどまっつには、それがない。彼はいつも理性を手放さない。
用心深く臆病で、とことん真面目なんだろうと思う。
それでもこうやって「得意分野を、まるまる1曲」与えられ、舞台の上で深化させる機会を得て。
まっつだからどんだけキザって過剰にポーズをつけてもやはりそれは理性の範囲内で、計算された演技っぷりで。
理性は決して手放さず、本能で暴走するのではなく、技術がさらに磨かれているの。
「表現」の振り幅の大きさ。
彼が「伝えたい」「表現したい」と思っていることが、上がっているの。
生半可な技術は感情に勝てないのかもしれない。緻密な演技で表現するより、感情のままに大泣きして見せた方が、観客はもらい泣きしちゃうものなのかもしれない。特に、タカラヅカではそういう面が多分にある。そこが愛しい場所でもある。
だけどまっつは感情のまま大泣きして見せるキャラクタじゃない。暴走して「微笑ましいわね」と言ってもらうキャラクタじゃない。
頑なに、自分のスタイルを守って。
その上で、より高みへのぼろうと、力を振り絞っている。
そして、MS最終日にもなれば、それが気持ちよさそうだった。
表現者であることを、愉しんでいるようだった。
スカシているいつものまっつとチガウ温度で、でもたしかに、クールビューティだからこそのハズカシサで、客席釣りまくってる!
大劇場で一度、コレをやらせてやってくださいよ。1曲与えちゃうとこの人、ここまでやっちゃうんですから。
や、スター様のように扱えと言っているわけではなくて、どんなカタチでもいいから、まっつにフリー演技をさせてくれたら、ムラと東宝、2ヶ月かけてどこまで深化させていくんだろうと。
1ファンとして、見てみたいっすよ。しみじみ。
「TUXEDO JAZZ」は、知っているようで知らないまっつだった。
まっつも出演していたショーの主題歌だけど、まっつ自身はこの歌、歌ってないもの。
オサ様が歌った、冒頭の主題歌。
2月にはじまり、5月に終わる公演。壮くんがコートに付いた雪を払い、みわっちやまりんに花を贈られ、おかえりと迎えられる。そして、最後はみわっちが扇を贈られる……そーゆー公演だった。
オサ様の歌だけど、「How long…」のような難曲でも、まっつの苦手分野の曲でもない。
所詮はヅカのオリジナル曲。技術だけで十分歌える。
ただそれを、どう歌うか。
『タキジャズ』で、まっつはオサ様の影だった。不思議の国に迷い込んだオサ様につかず離れず現れる、もうひとりオサ様。オサ様が登場した窓から遅れて現れ、オサ様が変身する手伝いをし、別れの歌を歌う。
オサ様よりひとまわり小さな存在。……カラダのことだけじゃなく(笑)。
それが今、まっつはとても「大人」になって、「タキジャズ」を歌った。
あれから3年。
まっつは、こんなに変わったんだ。こんなに、成長したんだ。
それが痛感できる歌だった。
おかげで初日は泣きスイッチ入って大変だった(笑)。オサ様の至福の公演『TUXEDO JAZZ』を、その主題歌を、まっつが歌っている。しかも大人になって。
まぎれもない、時の流れを見せつけて。
これは彩音ちゃんの卒業記念MSで。別れを前にしたコンサートで。
彩音ちゃんにはあまり、時の流れを感じない。たしかに歌唱力は成長したが(笑)、彼女はいろんな意味でフェアリーだ。クリスティーヌの初々しさを、マリーの清純さを変わらずに持ち続けている。
変わらない彩音ちゃん、タカラヅカという夢の花園、その記号の中で。
まっつがまぎれもない「成長」を、「時の流れ」を見せつけたことで、せつなさが一気にふくれあがった。
12時の鐘が、鳴った気がした。
夢の時間は終わり、魔法は解ける。永遠なんてない。奇跡なんて起こらない。
別れは避けられない。
それでもなお。
舞台の上では、フェアリーたちがキラキラ歌っている。
夢と現実の、あざやかなシルエット。
いつか解ける魔法だからこそ、愛しくてならない。有限の楽園だからこそ、あこがれてやまない。
まっつが真正面から取り組んで、歌ってみせた3曲。
どれもまったくちがった意味で、興味深くて、目が離せなかった。
短い一部分とか、歌い継ぎのひとつとかじゃなくて、まるまる1曲。まっつが受け止め咀嚼し、表現してみせた曲たち。
それは通常公演では聴くことの出来ない曲だったんだ。
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