強者どもが夢のあと。@虞美人
2010年4月23日 タカラヅカ 『虞美人』の、戦う者たちについての私感。
この『虞美人』での善悪は、わたしたちの時代とは異なっている。陰謀だの嘘だの殺人だのが「悪」ではないんだよね。
野望のために生命を懸ける。それが正義。
冒頭で主人公の項羽@まとぶん自身が語っている。桃娘パパ@めぐむを一刀のもとに斬り捨てた、現在の感覚ならそれは罪だけど、この世界ではフィフティ・フィフティの結果。
最初の項羽の行動で、まず世界観を確立。
「誰もが天子になれる、そういう時代が来た」と。
暗殺を命じる范増先生@はっちさんが人格者であるという描かれ方をしているように、「戦国時代」である以上、現代とは違うんだ。
ここでの「悪」は、己れの欲望を遂げるために命を懸けない者。自分は安全なところにいて、命懸けで戦う者を嗤う者。だから宋義@まりんは悪として成敗された。
なにかを欲しいと望むならば、なにかを成し得たいと願うならば、等しく命を懸けなければならない。それがこの世界のルール。
命が惜しいなら最初から望まなければいい。舞台に上がらなければいい。苛烈な項羽も、自分と同じ舞台に上がる気のない者をわざわざ追いかけていって殺しはしない。
スポーツと同じだ。野球でもサッカーでも、みんなルールを遵守するという前提でグラウンドに出ている。ルールに則って戦い、勝敗が決まる。ユニフォームを着てグラウンドに出てきたんだから、ルールを守って戦うという意思表示だろう。そんな者を試合で打ち負かしたからといって、勝者が悪のはずがない。
「欲しい」と舞台に上がりながらも命を懸けない、ずるい者が悪。ルールを守って戦わない者が悪。
……という、このへんほんと男子脳というか、少年マンガ的な感覚だよなあ(笑)。
ただ勝ち残った者が正義とするなら、こんなルールは不要のはず。現実社会はいつの時代も等しく「最後に笑った者が勝ち」だろうけど、『虞美人』は宝塚歌劇は物語だからエンタメだから、それはナイ。
表に一切出ず、利権だけ貪る勝者、なんてモノを描く気はないんだ。
おかげで、物語に登場する「欲しい」と望む者たちはすべて、なんらかのカタチで命を懸けている。
平等に。
ルールを守らずにズルをしようなんて者はいないんだ。リスクを負わず、望む結果だけ得ようなんて者はいないんだ。
項羽たち武人は、実際に命を懸けて戦場に出ている。
調子よく勝ち進んでいるような描き方をされている劉邦@壮くんだって、ちゃんと戦場に出ている。
また、項羽との初対面のときは、荒ぶる項羽の前で声を上げて笑ってみせるなど、命懸けの行動を取っている。項羽はわざと、感情的で危険な男ぶって暴れてみせていた。彼は「漢」を探していたんだ、「流れに逆らっても自分を貫く漢」を。
劉邦以上の野心家であったその妻・呂@じゅりあもまた、人質になってなお毅然とし、命を懸けて舞台にいる強者(ツワモノ)だと、ちゃんと見せている。
蝶よ花よとふわふわちやほやされているだけに見える虞@彩音ちゃんが、最初から覚悟を持って項羽のもとにいることは、言うまでもなく。
宮廷で策を弄しているだけに見える軍師たちも、例外ではない。
范増先生は項羽に自分の首を懸けて意見しているし、張良@まっつもまた鴻門の会でその身をさらして太刀を持った項荘@しゅん様と対峙している。
覚悟の上で、舞台に上がっている。
そこが、そういう場であると。
誰もが公平に、たったひとつの命を、人生を懸けて、「夢」に向かっている。
だからこそ、野心のために命を落とすことは、無駄死にではない。
あっけなく落命し、物語から消えていく桃娘パパや衛布@みつるも、なにも間違っていない。
夢に向かって生きた。自分に出来る限りのことをした。その事実は消えない、歪まない。無駄なことなんかなにひとつない。大望ついえるのも、死も、その結果のひとつでしかない。
等価交換の法則っちゅーかね(笑)。
責任を負う覚悟のある者たちの戦いだから、美しくもあり、また切なくもある。
だって、民衆たちは無責任だからね。
自分たちはなんのリスクも負う気はなく、オイシイ思いをしたくて群れている。
勝ち馬には乗りたいが、沈む船からは我先にと逃げ出していく。個ではなく、匿名で、「みんな」という安全圏で、「名」のある者を叩く。言動に責任を負う気はないから、簡単に身を翻す。
いちばんおそろしいのは、自分の責任で兵を挙げて戦う将たちではなく、名も無き民衆たち。「民の心ほど移ろうものはありません」……賢い韓信@みわっちが言うように。
今回キムシン節が薄すぎて残念だ(笑)。
キャラクタたちはちゃんと、いつもキムシン・キャラなのにね。「民衆」たちとは一線を画した主人公たちなのにね。
物語中、いちばんの危機というか、「大変、もうダメだ」になる劉邦は、まさにその民衆に裏切られるんだよね。
それまでさんざんちやほやされていたのに。
そしてさらに、劉邦の嘆きが深いのは、「責任」をすべて投げ出すから。
一軍の将として名乗りを上げたからには、責任を負わなければならない。なのに彼は自分の命惜しさに責任を放棄した。
あの無責任な民衆たちと同じことをした。だからこそ、キムシン作品の中では最大の裏切りを犯したことになり、カーテン前でたったひとり這いつくばって泣いてもおかしくないんだ。
彼をそこまで追いつめる理由が「私は誰も愛していない」なわけで、そのあたりをちゃんと描いてないから、いきなりな展開に「はぁ??!」になるけど(笑)。戚@れみちゃん登場でさらに「はぁ??!」になるけど(笑)。
キムシンの中では筋は通ってるんだろうなあ。
わたし的には好みの展開なので、劉邦の絶望過程の描き方がゆるいことが、心から残念です。
まあそれはともかく、野望のために生命を懸ける、この世界観と、そこに生きる人々が好き。
現代とはチガウ、フィクションならではのファンタジー。
元歴史物ヲタ(学生時代、歴研所属・笑)のハートをうずかせる、萌えのつまったキャラクタたちと、物語ですよ、『虞美人』。
この『虞美人』での善悪は、わたしたちの時代とは異なっている。陰謀だの嘘だの殺人だのが「悪」ではないんだよね。
野望のために生命を懸ける。それが正義。
冒頭で主人公の項羽@まとぶん自身が語っている。桃娘パパ@めぐむを一刀のもとに斬り捨てた、現在の感覚ならそれは罪だけど、この世界ではフィフティ・フィフティの結果。
最初の項羽の行動で、まず世界観を確立。
「誰もが天子になれる、そういう時代が来た」と。
暗殺を命じる范増先生@はっちさんが人格者であるという描かれ方をしているように、「戦国時代」である以上、現代とは違うんだ。
ここでの「悪」は、己れの欲望を遂げるために命を懸けない者。自分は安全なところにいて、命懸けで戦う者を嗤う者。だから宋義@まりんは悪として成敗された。
なにかを欲しいと望むならば、なにかを成し得たいと願うならば、等しく命を懸けなければならない。それがこの世界のルール。
命が惜しいなら最初から望まなければいい。舞台に上がらなければいい。苛烈な項羽も、自分と同じ舞台に上がる気のない者をわざわざ追いかけていって殺しはしない。
スポーツと同じだ。野球でもサッカーでも、みんなルールを遵守するという前提でグラウンドに出ている。ルールに則って戦い、勝敗が決まる。ユニフォームを着てグラウンドに出てきたんだから、ルールを守って戦うという意思表示だろう。そんな者を試合で打ち負かしたからといって、勝者が悪のはずがない。
「欲しい」と舞台に上がりながらも命を懸けない、ずるい者が悪。ルールを守って戦わない者が悪。
……という、このへんほんと男子脳というか、少年マンガ的な感覚だよなあ(笑)。
ただ勝ち残った者が正義とするなら、こんなルールは不要のはず。現実社会はいつの時代も等しく「最後に笑った者が勝ち」だろうけど、『虞美人』は宝塚歌劇は物語だからエンタメだから、それはナイ。
表に一切出ず、利権だけ貪る勝者、なんてモノを描く気はないんだ。
おかげで、物語に登場する「欲しい」と望む者たちはすべて、なんらかのカタチで命を懸けている。
平等に。
ルールを守らずにズルをしようなんて者はいないんだ。リスクを負わず、望む結果だけ得ようなんて者はいないんだ。
項羽たち武人は、実際に命を懸けて戦場に出ている。
調子よく勝ち進んでいるような描き方をされている劉邦@壮くんだって、ちゃんと戦場に出ている。
また、項羽との初対面のときは、荒ぶる項羽の前で声を上げて笑ってみせるなど、命懸けの行動を取っている。項羽はわざと、感情的で危険な男ぶって暴れてみせていた。彼は「漢」を探していたんだ、「流れに逆らっても自分を貫く漢」を。
劉邦以上の野心家であったその妻・呂@じゅりあもまた、人質になってなお毅然とし、命を懸けて舞台にいる強者(ツワモノ)だと、ちゃんと見せている。
蝶よ花よとふわふわちやほやされているだけに見える虞@彩音ちゃんが、最初から覚悟を持って項羽のもとにいることは、言うまでもなく。
宮廷で策を弄しているだけに見える軍師たちも、例外ではない。
范増先生は項羽に自分の首を懸けて意見しているし、張良@まっつもまた鴻門の会でその身をさらして太刀を持った項荘@しゅん様と対峙している。
覚悟の上で、舞台に上がっている。
そこが、そういう場であると。
誰もが公平に、たったひとつの命を、人生を懸けて、「夢」に向かっている。
だからこそ、野心のために命を落とすことは、無駄死にではない。
あっけなく落命し、物語から消えていく桃娘パパや衛布@みつるも、なにも間違っていない。
夢に向かって生きた。自分に出来る限りのことをした。その事実は消えない、歪まない。無駄なことなんかなにひとつない。大望ついえるのも、死も、その結果のひとつでしかない。
等価交換の法則っちゅーかね(笑)。
責任を負う覚悟のある者たちの戦いだから、美しくもあり、また切なくもある。
だって、民衆たちは無責任だからね。
自分たちはなんのリスクも負う気はなく、オイシイ思いをしたくて群れている。
勝ち馬には乗りたいが、沈む船からは我先にと逃げ出していく。個ではなく、匿名で、「みんな」という安全圏で、「名」のある者を叩く。言動に責任を負う気はないから、簡単に身を翻す。
いちばんおそろしいのは、自分の責任で兵を挙げて戦う将たちではなく、名も無き民衆たち。「民の心ほど移ろうものはありません」……賢い韓信@みわっちが言うように。
今回キムシン節が薄すぎて残念だ(笑)。
キャラクタたちはちゃんと、いつもキムシン・キャラなのにね。「民衆」たちとは一線を画した主人公たちなのにね。
物語中、いちばんの危機というか、「大変、もうダメだ」になる劉邦は、まさにその民衆に裏切られるんだよね。
それまでさんざんちやほやされていたのに。
そしてさらに、劉邦の嘆きが深いのは、「責任」をすべて投げ出すから。
一軍の将として名乗りを上げたからには、責任を負わなければならない。なのに彼は自分の命惜しさに責任を放棄した。
あの無責任な民衆たちと同じことをした。だからこそ、キムシン作品の中では最大の裏切りを犯したことになり、カーテン前でたったひとり這いつくばって泣いてもおかしくないんだ。
彼をそこまで追いつめる理由が「私は誰も愛していない」なわけで、そのあたりをちゃんと描いてないから、いきなりな展開に「はぁ??!」になるけど(笑)。戚@れみちゃん登場でさらに「はぁ??!」になるけど(笑)。
キムシンの中では筋は通ってるんだろうなあ。
わたし的には好みの展開なので、劉邦の絶望過程の描き方がゆるいことが、心から残念です。
まあそれはともかく、野望のために生命を懸ける、この世界観と、そこに生きる人々が好き。
現代とはチガウ、フィクションならではのファンタジー。
元歴史物ヲタ(学生時代、歴研所属・笑)のハートをうずかせる、萌えのつまったキャラクタたちと、物語ですよ、『虞美人』。
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