あなたを殺して生き残ったことを。@虞美人
2010年5月2日 タカラヅカ 項羽@まとぶんを破って勝利し、高祖となった劉邦@壮くんがつぶやく。
「生き残った者こそ、哀れか」
『虞美人』のこの展開に、わたしの海馬は勝手になつかしい記憶を掘り起こす。
“あなたはこの世の汚濁に染まることなく、潔いまま逝ってしまわれた。
人々はあなたの悲運に涙し、哀惜とともに後々の世まであなたの名を語り伝えるだろう。
だが勝利したはずの皇后や皇太子はどうだ。
有形無形の世の指弾を浴び、外からも内からも血を流し苦しんでいる”
『虞美人』とはまったく無関係だが、「勝者の苦悩」を書いたマンガの一節を思い出すんだ。
悲劇のヒーロー大津皇子と、彼を滅ぼしたうののさらら(名前の漢字が表示できない)皇后、草壁皇子。大津と草壁なら、大津の方が優れていたのは一目瞭然、だけど大津は死んで草壁が残った。
大津を滅ぼすしかなかった、草壁陣営の苦悩や悲哀を描いたエピソードは、それまで大津寄りでしか大津皇子の謀反を読んだことがなかった少女のわたしに、強い印象を与えた。
ピカレスク・ロマンに分類されるのかな。主人公は野心家で、目的のために手段を選ばない……同じ作者の別作品では悪役として登場する藤原不比等の、若き日の物語。ひとりの純粋な少年が、冷酷な権力者となっていく過程を描いた歴史コミック。
滅びることで美談にくくられがちな出来事を、滅ぼす側、野心を持って成り上がっていく側から描く、というのは、わたしのツボにジャストミートした。
主人公は自分が正義だとは思っていない、それが最善でないこと、まちがっていると他の価値観で責められることがあると理解した上で、それでも「必要だから」と冷酷な判断を下す。罪を罪だとわかった上で「それでも、欲しいモノがある」とあがく。
責任を負い、覚悟を決め、あえて修羅の道を行く。
……コミックの奥付を確認したら、1986年雑誌掲載とありましたよ。そんな昔から、わたしのツボは変わっていないらしい(笑)。
その大昔のマンガ『眉月の誓』と『虞美人』はまったく無関係なんだが、わたしのツボにハマるという点に置いてのみ、共通しているのだ(笑)。
好きな展開に、勝手に好きな作品がリンクして、脳内にオーバーラップする。
「生き残った者こそ、哀れか」とつぶやく劉邦に、呂皇后@じゅりあが「え?」と返す。
この「え?」がいい。
劉邦は言葉を重ねて自分の心を説明せず、天子としての勅命を下す。
劉邦はここで心を閉ざしたのか。彼の真実を聞くことができた者はいたのに、誰もそこに触れなかったのか。
劉邦の真実のつぶやきを耳にして、音としてしか拾えず疑問の声を上げたのか、意味が理解できなかったのか、あるいは、理解したからこその声だったのか。
「え?」という呂の返しが、いかようにも想像できておもしろい。
「今なんか言った? 聞こえなかったからもう一度言って」の「え?」。「なにわけわかんないこと言ってんの、この人?」の「え?」。それとも、「理解したくないことを聞いた、そんなことを言うなんて信じられない」という「え?」。
プロローグの劉邦と呂を見る限り、この「え?」は「わからなかった」からなんだろうけど。
呂には、劉邦の心がわからなかった。だから、彼の悲しい言葉を聞いても理解しないままスルーした。
わたしは劉邦の臨終場面であるオープニングはいらない派だ。
ラストの劉邦と呂の余韻を打ち消すっちゅーか、想像の余地を狭めるから。
劉邦の心を理解しつつも、それを拒否して見ないフリをするしかなかった呂とか、想像してたのしみたいじゃないですか。
ただ「悪いのは相手、私はちっとも悪くなかったのに、許せない!」と思い込んで怒っている人より、「相手も悲しかったんだ……でも、私だって傷ついた。だからやっぱり許せない!」と相手の傷も自分の傷も合わせて2倍傷ついて結果として怒っている人の方が、その心理が複雑に揺れて面白いってゆーか。
オープニングで「結果」を出してしまっているのが、物語の広がりを拒んでるんだよなー。
わかりやすくしたかったんだろうけど。そして、キムシンのいつものオープニング、幕が上がるなり地味!をやりたかったんだろうと思うけど。
わたしのよーな妄想過多人間には、いらん足枷だなと。
范増先生@はっちさんは、予言していた。
「漢王は戦いに勝ったのち、必ず変わる」と。人を惹きつけて勝ち続けていた劉邦だが、権力を得たあとは人を信用しなくなるぞと。
実際劉邦は変わったんだろう。
それが「生き残った者こそ、哀れか」であり、「赤いけしの花」の歌なんだろう。
この「変わってしまった」劉邦を見てみたい。
あのキラキラあっけらかんと野望を歌っていた劉邦ではなく。子どもだから人を信じることも騙すことも出来た劉邦ではなく。
大人になり、自分がなんであるかわかった上で、それでも手を汚す劉邦が見たい。
それこそ、四半世紀前から変わらない、わたしのツボだ(笑)。
まあ、タカラヅカで描くべきではないし、壮くんの演技力で見たいジャンルでもないが……(笑)。
壮さんはナチュラルボーン、その天分のままに存在する役がもっとも輝く舞台人。挫折は彼の得意分野だが、それゆえの屈折鬱屈、心の深淵をちまちま表現する人ではない。だから彼の演じる劉邦が、彼が天子になるところまで、なのは正しい。あとは観客の想像に委ねた方がいい。
キムシンはほんと、壮くんと相性いいなあ。
つか、作家としてうれしいだろうなあ、こんなに自分の作風と合う役者と出会えて(笑)。
壮くんはどーんっ!でばーんっ!でファンタジックなところがイイ。あの『オグリ!』がハマるような。
自分の描きたいと思うニュアンスを、計算ではなく本能で体現してくれる表現者と出会えるなんて。あとは役者のキャラクタと相乗効果でどんどん膨らみ、勝手に転がっていく。描いてて面白いだろう、快感だろう。
壮くんの見せてくれた劉邦が魅力的だからこそ、描かれることのない「その後の劉邦」をも勝手に妄想できる。
いいキャラクタだほんと。
「生き残った者こそ、哀れか」
『虞美人』のこの展開に、わたしの海馬は勝手になつかしい記憶を掘り起こす。
“あなたはこの世の汚濁に染まることなく、潔いまま逝ってしまわれた。
人々はあなたの悲運に涙し、哀惜とともに後々の世まであなたの名を語り伝えるだろう。
だが勝利したはずの皇后や皇太子はどうだ。
有形無形の世の指弾を浴び、外からも内からも血を流し苦しんでいる”
『虞美人』とはまったく無関係だが、「勝者の苦悩」を書いたマンガの一節を思い出すんだ。
悲劇のヒーロー大津皇子と、彼を滅ぼしたうののさらら(名前の漢字が表示できない)皇后、草壁皇子。大津と草壁なら、大津の方が優れていたのは一目瞭然、だけど大津は死んで草壁が残った。
大津を滅ぼすしかなかった、草壁陣営の苦悩や悲哀を描いたエピソードは、それまで大津寄りでしか大津皇子の謀反を読んだことがなかった少女のわたしに、強い印象を与えた。
ピカレスク・ロマンに分類されるのかな。主人公は野心家で、目的のために手段を選ばない……同じ作者の別作品では悪役として登場する藤原不比等の、若き日の物語。ひとりの純粋な少年が、冷酷な権力者となっていく過程を描いた歴史コミック。
滅びることで美談にくくられがちな出来事を、滅ぼす側、野心を持って成り上がっていく側から描く、というのは、わたしのツボにジャストミートした。
主人公は自分が正義だとは思っていない、それが最善でないこと、まちがっていると他の価値観で責められることがあると理解した上で、それでも「必要だから」と冷酷な判断を下す。罪を罪だとわかった上で「それでも、欲しいモノがある」とあがく。
責任を負い、覚悟を決め、あえて修羅の道を行く。
……コミックの奥付を確認したら、1986年雑誌掲載とありましたよ。そんな昔から、わたしのツボは変わっていないらしい(笑)。
その大昔のマンガ『眉月の誓』と『虞美人』はまったく無関係なんだが、わたしのツボにハマるという点に置いてのみ、共通しているのだ(笑)。
好きな展開に、勝手に好きな作品がリンクして、脳内にオーバーラップする。
「生き残った者こそ、哀れか」とつぶやく劉邦に、呂皇后@じゅりあが「え?」と返す。
この「え?」がいい。
劉邦は言葉を重ねて自分の心を説明せず、天子としての勅命を下す。
劉邦はここで心を閉ざしたのか。彼の真実を聞くことができた者はいたのに、誰もそこに触れなかったのか。
劉邦の真実のつぶやきを耳にして、音としてしか拾えず疑問の声を上げたのか、意味が理解できなかったのか、あるいは、理解したからこその声だったのか。
「え?」という呂の返しが、いかようにも想像できておもしろい。
「今なんか言った? 聞こえなかったからもう一度言って」の「え?」。「なにわけわかんないこと言ってんの、この人?」の「え?」。それとも、「理解したくないことを聞いた、そんなことを言うなんて信じられない」という「え?」。
プロローグの劉邦と呂を見る限り、この「え?」は「わからなかった」からなんだろうけど。
呂には、劉邦の心がわからなかった。だから、彼の悲しい言葉を聞いても理解しないままスルーした。
わたしは劉邦の臨終場面であるオープニングはいらない派だ。
ラストの劉邦と呂の余韻を打ち消すっちゅーか、想像の余地を狭めるから。
劉邦の心を理解しつつも、それを拒否して見ないフリをするしかなかった呂とか、想像してたのしみたいじゃないですか。
ただ「悪いのは相手、私はちっとも悪くなかったのに、許せない!」と思い込んで怒っている人より、「相手も悲しかったんだ……でも、私だって傷ついた。だからやっぱり許せない!」と相手の傷も自分の傷も合わせて2倍傷ついて結果として怒っている人の方が、その心理が複雑に揺れて面白いってゆーか。
オープニングで「結果」を出してしまっているのが、物語の広がりを拒んでるんだよなー。
わかりやすくしたかったんだろうけど。そして、キムシンのいつものオープニング、幕が上がるなり地味!をやりたかったんだろうと思うけど。
わたしのよーな妄想過多人間には、いらん足枷だなと。
范増先生@はっちさんは、予言していた。
「漢王は戦いに勝ったのち、必ず変わる」と。人を惹きつけて勝ち続けていた劉邦だが、権力を得たあとは人を信用しなくなるぞと。
実際劉邦は変わったんだろう。
それが「生き残った者こそ、哀れか」であり、「赤いけしの花」の歌なんだろう。
この「変わってしまった」劉邦を見てみたい。
あのキラキラあっけらかんと野望を歌っていた劉邦ではなく。子どもだから人を信じることも騙すことも出来た劉邦ではなく。
大人になり、自分がなんであるかわかった上で、それでも手を汚す劉邦が見たい。
それこそ、四半世紀前から変わらない、わたしのツボだ(笑)。
まあ、タカラヅカで描くべきではないし、壮くんの演技力で見たいジャンルでもないが……(笑)。
壮さんはナチュラルボーン、その天分のままに存在する役がもっとも輝く舞台人。挫折は彼の得意分野だが、それゆえの屈折鬱屈、心の深淵をちまちま表現する人ではない。だから彼の演じる劉邦が、彼が天子になるところまで、なのは正しい。あとは観客の想像に委ねた方がいい。
キムシンはほんと、壮くんと相性いいなあ。
つか、作家としてうれしいだろうなあ、こんなに自分の作風と合う役者と出会えて(笑)。
壮くんはどーんっ!でばーんっ!でファンタジックなところがイイ。あの『オグリ!』がハマるような。
自分の描きたいと思うニュアンスを、計算ではなく本能で体現してくれる表現者と出会えるなんて。あとは役者のキャラクタと相乗効果でどんどん膨らみ、勝手に転がっていく。描いてて面白いだろう、快感だろう。
壮くんの見せてくれた劉邦が魅力的だからこそ、描かれることのない「その後の劉邦」をも勝手に妄想できる。
いいキャラクタだほんと。
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