箱庭の宇宙で、拳銃を握る。@リラの壁の囚人たち
2010年5月18日 タカラヅカ で、どーしても引っかかるのはジョルジュ@ベニーだ。
演技に正解なんてものはナイにしろ、さて、彼はアレでいいのか。
『リラの壁の囚人たち』はタイトルが複数形なこともあり、主役やってるかなめくんがアレだということもあり、とっても群像劇で、誰が主役というほど抜きんでて主役でもなかった気がする。
いちおーエド@かなめくんが主役らしいけれど、彼はただの視点であって彼自身がアクティヴになにかするわけでもないし。
動かないセット、箱庭の宇宙。あの空間そのものが、「主役」だったような。
ナチス占領下のパリの、袋小路の人たちの物語。
物理的に袋小路の中庭での出来事、というよりも、精神的にどこへも行き場のない人たちの、やるせない物語。
タイトルを具現しているのはヒロインのポーラ@れみちゃんだと思う。
リラの壁に囚われた人。
ナチスさえいなけれりゃどこへでも行けるエドと違い、ポーラは結局どこへも行けないと思う。
彼女の心は檻の中。
だから彼女は悲しい。
彼女を捕らえる檻、彼女を縛る蔦のような枷、そのひとつが婚約者のジョルジュ。
戦争のため、車椅子生活になってしまった青年。
ヒステリックなDV男。
彼の父ルビック先生@にしきさんや、婚約者のポーラを見ても、彼が最初からあんなにひどい人間でないことはわかる。
人格的に問題のない人たちの間で良好な人間関係を築いていられたんだから、ふつーに良い青年だったんだろう。
それが戦争で、人が変わってしまった、と。
自分の足で歩けなくなっただけでなく、女性を愛することも出来なくなったのかなあ、と勝手に思う。ポーラに対する暴力、エドへの過剰な嫉妬はそのためもあるかなと。
ジョルジュ自体はそれほど出番があるわけでなく、登場するたびいつもきーきーわめいていてウザイことこの上ない(笑)。
でもほんとのとこ、タイトルを表しているひとりなんだよな。ポーラの相手役、ポーラの枷。リラの壁の檻から出られない、囚人。
少ない出番、しかもヒステリックに騒いだり暴力振るったりピストルちらつかせたりで、いつもせわしないんだが、彼自身を含めた周囲のすべてでもって、彼の持つ複雑さや歪みが浮かび上がってくる。
いろんなものが、彼の中で渦を巻いているのだろうと。それゆえにあんなにきーきーうるさくなっちゃってるんだろうと。
後半に、ジョルジュのソロがある。
ほんとはポーラを愛しているのよね! ほんとはいい人なのよね! とかゆーことにたどり着くとか、こんなに苦しんでいたのね! と気づかされるということもなく。
わざわざ彼に一場面あることで、彼の位置づけが完了したので助かった、わたし的には。
ジョルジュはとにかく、ウザい。
出てくるとそれだけで不快(笑)。
「見たくない」と思うモノすべてが、彼に詰め込まれている。
不幸体質のポーラはダメンズ・キラーというか、アレな男にしか惚れられないという典型的なだめんず・うぉ~か~ぶり。(主役のエドも含まれてますわよ、もちろん・笑)
脅迫ストーカーのジャン@しーらんもひどいしウザいが、ジョルジュのウザさはまた格別。
立ち聞きばっかでプライバシーのない袋小路にて、次から次へと立ち聞きした人たちが現れるよーな作りの不思議な芝居で、とにかくジョルジュが出ると不快指数が跳ね上がる。
引っかかるんだ。彼のコワレっぷりが。
群像劇のなかのひとつ、出番自体はあまりない……のに、彼に引っかかる。無視できない。苛っとする。
こんだけウザくてそれでただの脇役だったら、すごく嫌だな。
無意識に、そう思っていたんだろう。
だから彼の真情を吐露するソロ場面があって、良かった。
ああ彼は脇役じゃなかったんだ、それまでどんだけちょろっとしか出てなくても描かれてなくても、重要なキャラクタだったんだ。そう思って良かったんだ。
彼に苛ついていたのは、正解だったんだ。
自分の気持ちの位置づけが出来て、すとんと納得した。
で、そのベニーの熱唱・熱演なんだが、それによってジョルジュ自身が「こんな人だったのね!」とは別に思わなかった。
ソロでやっていることといえば、結局のところ今まで見えていたモノをもう一度まとめておさらいしてくれたぐらいのことで、なにも新たな情報はなかったし。
そう、わざわざ思わせぶりに彼のソロがあるのに、新たな情報はナイし、それゆえのカタルシスもナイの。
それまでの出番で、彼がどういう人か、ちゃんと伝わっていて表現されていているから。とっても「今さら」感。
ただ作劇の「お約束」で、「ソロがわざわざある人はメインキャラですよ」とわかったことのみに、すっきりする。ここに焦点合わせていいんだ、と。
ジョルジュ単体でどうこうではなく、「囚人たち」……複数形の物語であるゆえだと思う。
てゆーかこの物語、誰がいきなりソロを歌い出してもアリだと思う。
ジャンが突然舞台にひとり残り、歪んだ愛だの生き方だのを独唱しだしても、ナチスのギュンターさん@みやるりが突然立場と愛の狭間の苦悩ソング歌い出しても、「あ、この人メインキャラだったんだ」と納得して受け入れるんじゃね?
モランさん@美城れん氏が過去の恋バナをうっとり歌ってくれても、今の情勢を嘆く歌を歌ってくれても、なんでも納得、しっくりくる。
そーゆー物語なんだと思う。
で、ベニーの演技、アレはいいんですか?
演技に正解も間違いもないんだろうけど、ジョルジュ役ってあんなに最初から狂ってていいのかなあ。
つかアレ、ふつーに「変な人」なんだが(笑)。
ベニーの場合、その美貌で車椅子、つーだけでわたしの視覚にがつんがつんクる。
脚本的に「いい人」としてはまったく描かれておらず、出てくるたびに最低最悪、毒をまき散らしていく。
その姿があまりにも、どっかんどっかんしていて。(わかりにくい擬音表現)
えーとその、ぶっちゃけ、面白い。
笑える、という意味ではなく、interesting。
ったくこいつ、苛つくわー、ウザいわー。
気になるわー(笑)。
んで。
萌えるわー。
ジョルジュっていうのはこんな人でこんな風に考えているんですよ、という説明はないけれど、見えているモノだけでなんとまあいろいろ妄想できることか。
その衝撃的な最期も含めて。
結局ポーラもジョルジュも、檻を出ることは出来なかった。
彼らのカルマは薄くない。エドなんて薄い男がどうしたところで、太刀打ちできるよーなもんじゃない。
最後でなんか改心して!とか、解放・昇華して!とか、そーゆーこともないまま、歪んだまま壊れたまま、人生がぶちっと断ち切られる。
それについての解説はナニもない。
そんな彼らの人生を、存在を当たり前に飲み込んで、花は咲き、春は訪れる。毎年。
ベニーのあの演技が正しいのかどうか、かなり疑問っていうかやっぱりチガウんぢゃないかなと(笑)、思いつつも結局のところ、彼の演じるジョルジュが好きだ。
演技に正解なんてものはナイにしろ、さて、彼はアレでいいのか。
『リラの壁の囚人たち』はタイトルが複数形なこともあり、主役やってるかなめくんがアレだということもあり、とっても群像劇で、誰が主役というほど抜きんでて主役でもなかった気がする。
いちおーエド@かなめくんが主役らしいけれど、彼はただの視点であって彼自身がアクティヴになにかするわけでもないし。
動かないセット、箱庭の宇宙。あの空間そのものが、「主役」だったような。
ナチス占領下のパリの、袋小路の人たちの物語。
物理的に袋小路の中庭での出来事、というよりも、精神的にどこへも行き場のない人たちの、やるせない物語。
タイトルを具現しているのはヒロインのポーラ@れみちゃんだと思う。
リラの壁に囚われた人。
ナチスさえいなけれりゃどこへでも行けるエドと違い、ポーラは結局どこへも行けないと思う。
彼女の心は檻の中。
だから彼女は悲しい。
彼女を捕らえる檻、彼女を縛る蔦のような枷、そのひとつが婚約者のジョルジュ。
戦争のため、車椅子生活になってしまった青年。
ヒステリックなDV男。
彼の父ルビック先生@にしきさんや、婚約者のポーラを見ても、彼が最初からあんなにひどい人間でないことはわかる。
人格的に問題のない人たちの間で良好な人間関係を築いていられたんだから、ふつーに良い青年だったんだろう。
それが戦争で、人が変わってしまった、と。
自分の足で歩けなくなっただけでなく、女性を愛することも出来なくなったのかなあ、と勝手に思う。ポーラに対する暴力、エドへの過剰な嫉妬はそのためもあるかなと。
ジョルジュ自体はそれほど出番があるわけでなく、登場するたびいつもきーきーわめいていてウザイことこの上ない(笑)。
でもほんとのとこ、タイトルを表しているひとりなんだよな。ポーラの相手役、ポーラの枷。リラの壁の檻から出られない、囚人。
少ない出番、しかもヒステリックに騒いだり暴力振るったりピストルちらつかせたりで、いつもせわしないんだが、彼自身を含めた周囲のすべてでもって、彼の持つ複雑さや歪みが浮かび上がってくる。
いろんなものが、彼の中で渦を巻いているのだろうと。それゆえにあんなにきーきーうるさくなっちゃってるんだろうと。
後半に、ジョルジュのソロがある。
ほんとはポーラを愛しているのよね! ほんとはいい人なのよね! とかゆーことにたどり着くとか、こんなに苦しんでいたのね! と気づかされるということもなく。
わざわざ彼に一場面あることで、彼の位置づけが完了したので助かった、わたし的には。
ジョルジュはとにかく、ウザい。
出てくるとそれだけで不快(笑)。
「見たくない」と思うモノすべてが、彼に詰め込まれている。
不幸体質のポーラはダメンズ・キラーというか、アレな男にしか惚れられないという典型的なだめんず・うぉ~か~ぶり。(主役のエドも含まれてますわよ、もちろん・笑)
脅迫ストーカーのジャン@しーらんもひどいしウザいが、ジョルジュのウザさはまた格別。
立ち聞きばっかでプライバシーのない袋小路にて、次から次へと立ち聞きした人たちが現れるよーな作りの不思議な芝居で、とにかくジョルジュが出ると不快指数が跳ね上がる。
引っかかるんだ。彼のコワレっぷりが。
群像劇のなかのひとつ、出番自体はあまりない……のに、彼に引っかかる。無視できない。苛っとする。
こんだけウザくてそれでただの脇役だったら、すごく嫌だな。
無意識に、そう思っていたんだろう。
だから彼の真情を吐露するソロ場面があって、良かった。
ああ彼は脇役じゃなかったんだ、それまでどんだけちょろっとしか出てなくても描かれてなくても、重要なキャラクタだったんだ。そう思って良かったんだ。
彼に苛ついていたのは、正解だったんだ。
自分の気持ちの位置づけが出来て、すとんと納得した。
で、そのベニーの熱唱・熱演なんだが、それによってジョルジュ自身が「こんな人だったのね!」とは別に思わなかった。
ソロでやっていることといえば、結局のところ今まで見えていたモノをもう一度まとめておさらいしてくれたぐらいのことで、なにも新たな情報はなかったし。
そう、わざわざ思わせぶりに彼のソロがあるのに、新たな情報はナイし、それゆえのカタルシスもナイの。
それまでの出番で、彼がどういう人か、ちゃんと伝わっていて表現されていているから。とっても「今さら」感。
ただ作劇の「お約束」で、「ソロがわざわざある人はメインキャラですよ」とわかったことのみに、すっきりする。ここに焦点合わせていいんだ、と。
ジョルジュ単体でどうこうではなく、「囚人たち」……複数形の物語であるゆえだと思う。
てゆーかこの物語、誰がいきなりソロを歌い出してもアリだと思う。
ジャンが突然舞台にひとり残り、歪んだ愛だの生き方だのを独唱しだしても、ナチスのギュンターさん@みやるりが突然立場と愛の狭間の苦悩ソング歌い出しても、「あ、この人メインキャラだったんだ」と納得して受け入れるんじゃね?
モランさん@美城れん氏が過去の恋バナをうっとり歌ってくれても、今の情勢を嘆く歌を歌ってくれても、なんでも納得、しっくりくる。
そーゆー物語なんだと思う。
で、ベニーの演技、アレはいいんですか?
演技に正解も間違いもないんだろうけど、ジョルジュ役ってあんなに最初から狂ってていいのかなあ。
つかアレ、ふつーに「変な人」なんだが(笑)。
ベニーの場合、その美貌で車椅子、つーだけでわたしの視覚にがつんがつんクる。
脚本的に「いい人」としてはまったく描かれておらず、出てくるたびに最低最悪、毒をまき散らしていく。
その姿があまりにも、どっかんどっかんしていて。(わかりにくい擬音表現)
えーとその、ぶっちゃけ、面白い。
笑える、という意味ではなく、interesting。
ったくこいつ、苛つくわー、ウザいわー。
気になるわー(笑)。
んで。
萌えるわー。
ジョルジュっていうのはこんな人でこんな風に考えているんですよ、という説明はないけれど、見えているモノだけでなんとまあいろいろ妄想できることか。
その衝撃的な最期も含めて。
結局ポーラもジョルジュも、檻を出ることは出来なかった。
彼らのカルマは薄くない。エドなんて薄い男がどうしたところで、太刀打ちできるよーなもんじゃない。
最後でなんか改心して!とか、解放・昇華して!とか、そーゆーこともないまま、歪んだまま壊れたまま、人生がぶちっと断ち切られる。
それについての解説はナニもない。
そんな彼らの人生を、存在を当たり前に飲み込んで、花は咲き、春は訪れる。毎年。
ベニーのあの演技が正しいのかどうか、かなり疑問っていうかやっぱりチガウんぢゃないかなと(笑)、思いつつも結局のところ、彼の演じるジョルジュが好きだ。
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