ただ咲けばいい。@リラの壁の囚人たち
2010年5月19日 タカラヅカ 『リラの壁の囚人たち』というタイトルをもっとも具現しているのは、ポーラ@れみちゃんだと思う。
「リラの壁の囚人」という言葉を発するのはエド@かなめくんなんだけれど、所詮彼は異邦人。外から来た人で、外へ帰っていく人。
匿われている身だから、今のところ外へは出られない囚われ人状態だけど、彼の場合はただの物理的な意味での軟禁。
心を囚われている人たちとは、ワケがチガウ。
ヒロイン・ポーラの囚われっぷりはハンパないなと。
薄幸な女を演じたら、現在ヅカ一ぢゃね?!の呼び声も高い、白華れみの本領発揮。
登場するだけで不幸さが際立つ。
この女、絶対幸せにならない。この物語の最後は、この女が非業の死を遂げて終わりだわ!と思わせる負のパワー。
うっかり家に憑いてきたら、その家没落しますよな縁起の悪さ。
ソコが、たまらんっ。
れみちゃん好きだー。うおー。
ナニこの際立つ個性。
笑っていてなお、かなしさが染み渡るというか。
むしろ、笑顔で夢なんか歌われた方が切なくなるというか。
絶対叶わない夢を、壊れることがわかっている美しいモノを、儚げにキラキラ語られたり歌われたりしたら、たまらないじゃないか。
袋小路に佇むポーラに、鎖が見える。
囚人を縛る、蔦のような植物の鎖。
縛られて、棘に苛まれ、それが日常であるがゆえ棘の痛みにすら気づかなくなっているおそろしさ。
その、絶望感。
彼女は決して、どこへも行けなかったんだろうなと思う。
エドは非日常。彼女の長い年月のなかの、ほんの一瞬。
束の間だからこそ、彼と共にこの檻を出る夢も見られたけれど、非日常の刺激は日常に飲み込まれる。打ち消される。
結局ポーラは、檻を出なかったと思う。
ナチスの凶弾に倒れなくても。
ポーラの檻を壊せるほど、残念ながらエドは愛されていないし、それほどの器のある男でもない。
てゆーかわたしは、ポーラは結局のところジョルジュ@ベニーを愛していたのだと思うのですよ。
や、ジョルジュキライだけどなっ(前日欄で書いたことと違いますよ・笑)。出てくるたびにムカついて、「こんな男、捨てちまえ!」と思ってたけど(笑)。
ポーラは不幸な女だけど、可哀想な女とはチガウ、気がする……と思えるあたりが、彼女の魅力だよなあ。
このままエドが現れなくても、ナチス云々がなくても、きっと彼女は破滅したと思う。
ジョルジュが握りしめていた小さなピストル。
あれはいつか、ポーラか、あるいはジョルジュ自身に向けられたと思う。
ジョルジュに銃口を向けられて、あるいはジョルジュの死体を前にして、彼女がひとり前向きに生きる決意をしたとは思えない。
そんな生き方しかできない男と女が「彼らなりに幸せだった」とは思わない。「それもひとつの愛のカタチです」とか、きれいにまとめようとも思わない。
不幸ですよ。もー、ぐっちゃぐっちゃに不幸ですよ。なんつー非生産的な関係。
それでも、彼らのぐっちゃぐっちゃな不幸っぷりに、胸の痛くなるような「美しさ」を感じるのですよ。
枯れてしぼんで地に落ちて、泥にまみれる花を、「こんな姿をさらすなら、咲かなければいいのに」と思うことがないように。
花は、花。
ただ咲けばいい。美しいんだから。
ポーラの不幸体質と、彼女が抱える「現実」の重さに対し、英国天然タラシ男エドの「軽さ」ときたら!!
エドってすげえ、かなめくんってすげえ。
と思うのは、あの軽さゆえ。
現実に生きている限り、あんな人現れないって。少女マンガかタカラヅカにしかいないって!(笑) それをよくぞ表現した!(笑)
浮き世とはチガウ、微妙な浮き上がり感というか。かなめくんがわかった上で演じているというより、彼の持ち味で出来上がっている奇跡のようなバランス。
ポーラが束の間夢を見る、恋をした、この現実を捨てて檻を出て、新しい世界へ旅立とうと、一瞬でも錯覚できるだけのとんでもないキャラクタ。
それはまったくもって、かなめくんならではだよなあ。
このポーラには、このエドだったんだ。
この物語は、白華れみと凰稀かなめだったんだなあと思う。
で、わたし実は冒頭とラストの、中年エドがダメだったんですが。
エドが、というより、かなめくんが。
うわっ、似合わねええ。
ヒゲも似合わないし、中年演技もダメ過ぎる(笑)。
きれいな女の子がヒゲつけても、おっさんには見えませんよっていうか。ヅカファン以外の人が想像する「タカラヅカ」みたい。
ほんとかなめくん、芝居できない人なんだなー。あ、訂正、できる役が限られている人なんだなー。
と、あまりの似合わなさにツボったくらいだ。
彼と芝居をするマリー@音波みのりちゃんがふつーにうまいので、余計にかなめくんのナニも出来なさぶりが目に付くわけなんだが。
だがしかしっ。
その「老け役出来ません」「つか、等身大以外出来ません」なところも含めて。
彼が「タカラヅカ」であることに、震撼した。
冒頭のびみょーな老け役で首をひねり、せっかくのいい物語をじっくりしっとり味わったあと、またびみょーな老け役で登場されて「あの話のあとにコレになんのかよ?!」とツボり(笑)、さらに駄目押しというか、極めつけ。
空気読まない、「タカラヅカ」なフィナーレ、スタート!!
ちょ……っ、ジョルジュが立って踊ってるー!!(笑) キザってるー!! 釣ってるー!!
いやもお、フィナーレはじまった途端、笑いましたよ。
まさかこの話で、この流れで、ふつーにフィナーレやるとは思ってなくて。
もちろん、フィナーレでもないとやってらんない面もあるけど、それはそれとして、空気感としてこりゃナイなと。びっくりだなと。
『舞姫』終演後に、ノリノリなフィナーレがどっかーんっと披露されたよーな感じ。
しかしわたしはどんな場合も「フィナーレ肯定派」です(笑)。
どんなシリアス芝居も号泣の悲劇芝居でも、「それはソレとして!」と突然キラキラきゃーきゃーのフィナーレがはじまるのは全肯定です。
だってソレが「タカラヅカ」だから!
空気をぶった切ってはじまったフィナーレに笑いツボ直撃されたのと同じ感覚で、かなめくんの老け演技も愛しいのです。
あの現実ではあり得ない美青年は、現実ではありえないからこそ、年を取ることも出来ず、こーやって「ヒゲさえつければおっさん」と無理な姿を披露しているのです。
ああ、タカラヅカっていいなあ、ほんとに。
不幸の権化だったポーラも、フィナーレでは笑っているのよ、きれいに。
エドとデュエットダンスしちゃったりするのよ。
好きだわ、ほんと。
「リラの壁の囚人」という言葉を発するのはエド@かなめくんなんだけれど、所詮彼は異邦人。外から来た人で、外へ帰っていく人。
匿われている身だから、今のところ外へは出られない囚われ人状態だけど、彼の場合はただの物理的な意味での軟禁。
心を囚われている人たちとは、ワケがチガウ。
ヒロイン・ポーラの囚われっぷりはハンパないなと。
薄幸な女を演じたら、現在ヅカ一ぢゃね?!の呼び声も高い、白華れみの本領発揮。
登場するだけで不幸さが際立つ。
この女、絶対幸せにならない。この物語の最後は、この女が非業の死を遂げて終わりだわ!と思わせる負のパワー。
うっかり家に憑いてきたら、その家没落しますよな縁起の悪さ。
ソコが、たまらんっ。
れみちゃん好きだー。うおー。
ナニこの際立つ個性。
笑っていてなお、かなしさが染み渡るというか。
むしろ、笑顔で夢なんか歌われた方が切なくなるというか。
絶対叶わない夢を、壊れることがわかっている美しいモノを、儚げにキラキラ語られたり歌われたりしたら、たまらないじゃないか。
袋小路に佇むポーラに、鎖が見える。
囚人を縛る、蔦のような植物の鎖。
縛られて、棘に苛まれ、それが日常であるがゆえ棘の痛みにすら気づかなくなっているおそろしさ。
その、絶望感。
彼女は決して、どこへも行けなかったんだろうなと思う。
エドは非日常。彼女の長い年月のなかの、ほんの一瞬。
束の間だからこそ、彼と共にこの檻を出る夢も見られたけれど、非日常の刺激は日常に飲み込まれる。打ち消される。
結局ポーラは、檻を出なかったと思う。
ナチスの凶弾に倒れなくても。
ポーラの檻を壊せるほど、残念ながらエドは愛されていないし、それほどの器のある男でもない。
てゆーかわたしは、ポーラは結局のところジョルジュ@ベニーを愛していたのだと思うのですよ。
や、ジョルジュキライだけどなっ(前日欄で書いたことと違いますよ・笑)。出てくるたびにムカついて、「こんな男、捨てちまえ!」と思ってたけど(笑)。
ポーラは不幸な女だけど、可哀想な女とはチガウ、気がする……と思えるあたりが、彼女の魅力だよなあ。
このままエドが現れなくても、ナチス云々がなくても、きっと彼女は破滅したと思う。
ジョルジュが握りしめていた小さなピストル。
あれはいつか、ポーラか、あるいはジョルジュ自身に向けられたと思う。
ジョルジュに銃口を向けられて、あるいはジョルジュの死体を前にして、彼女がひとり前向きに生きる決意をしたとは思えない。
そんな生き方しかできない男と女が「彼らなりに幸せだった」とは思わない。「それもひとつの愛のカタチです」とか、きれいにまとめようとも思わない。
不幸ですよ。もー、ぐっちゃぐっちゃに不幸ですよ。なんつー非生産的な関係。
それでも、彼らのぐっちゃぐっちゃな不幸っぷりに、胸の痛くなるような「美しさ」を感じるのですよ。
枯れてしぼんで地に落ちて、泥にまみれる花を、「こんな姿をさらすなら、咲かなければいいのに」と思うことがないように。
花は、花。
ただ咲けばいい。美しいんだから。
ポーラの不幸体質と、彼女が抱える「現実」の重さに対し、英国天然タラシ男エドの「軽さ」ときたら!!
エドってすげえ、かなめくんってすげえ。
と思うのは、あの軽さゆえ。
現実に生きている限り、あんな人現れないって。少女マンガかタカラヅカにしかいないって!(笑) それをよくぞ表現した!(笑)
浮き世とはチガウ、微妙な浮き上がり感というか。かなめくんがわかった上で演じているというより、彼の持ち味で出来上がっている奇跡のようなバランス。
ポーラが束の間夢を見る、恋をした、この現実を捨てて檻を出て、新しい世界へ旅立とうと、一瞬でも錯覚できるだけのとんでもないキャラクタ。
それはまったくもって、かなめくんならではだよなあ。
このポーラには、このエドだったんだ。
この物語は、白華れみと凰稀かなめだったんだなあと思う。
で、わたし実は冒頭とラストの、中年エドがダメだったんですが。
エドが、というより、かなめくんが。
うわっ、似合わねええ。
ヒゲも似合わないし、中年演技もダメ過ぎる(笑)。
きれいな女の子がヒゲつけても、おっさんには見えませんよっていうか。ヅカファン以外の人が想像する「タカラヅカ」みたい。
ほんとかなめくん、芝居できない人なんだなー。あ、訂正、できる役が限られている人なんだなー。
と、あまりの似合わなさにツボったくらいだ。
彼と芝居をするマリー@音波みのりちゃんがふつーにうまいので、余計にかなめくんのナニも出来なさぶりが目に付くわけなんだが。
だがしかしっ。
その「老け役出来ません」「つか、等身大以外出来ません」なところも含めて。
彼が「タカラヅカ」であることに、震撼した。
冒頭のびみょーな老け役で首をひねり、せっかくのいい物語をじっくりしっとり味わったあと、またびみょーな老け役で登場されて「あの話のあとにコレになんのかよ?!」とツボり(笑)、さらに駄目押しというか、極めつけ。
空気読まない、「タカラヅカ」なフィナーレ、スタート!!
ちょ……っ、ジョルジュが立って踊ってるー!!(笑) キザってるー!! 釣ってるー!!
いやもお、フィナーレはじまった途端、笑いましたよ。
まさかこの話で、この流れで、ふつーにフィナーレやるとは思ってなくて。
もちろん、フィナーレでもないとやってらんない面もあるけど、それはそれとして、空気感としてこりゃナイなと。びっくりだなと。
『舞姫』終演後に、ノリノリなフィナーレがどっかーんっと披露されたよーな感じ。
しかしわたしはどんな場合も「フィナーレ肯定派」です(笑)。
どんなシリアス芝居も号泣の悲劇芝居でも、「それはソレとして!」と突然キラキラきゃーきゃーのフィナーレがはじまるのは全肯定です。
だってソレが「タカラヅカ」だから!
空気をぶった切ってはじまったフィナーレに笑いツボ直撃されたのと同じ感覚で、かなめくんの老け演技も愛しいのです。
あの現実ではあり得ない美青年は、現実ではありえないからこそ、年を取ることも出来ず、こーやって「ヒゲさえつければおっさん」と無理な姿を披露しているのです。
ああ、タカラヅカっていいなあ、ほんとに。
不幸の権化だったポーラも、フィナーレでは笑っているのよ、きれいに。
エドとデュエットダンスしちゃったりするのよ。
好きだわ、ほんと。
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