仕方がない、コトなのかもしれない。
 そう思っているが、いちおー疑問を書き記しておく。

 「戦争」の扱いについて。

 戦争は良くない。
 絶対反対。ノーモアウォー。
 これは前提です。

 されど。

 ドラマに置いて、「戦争」というファクタが使われることが多い。
 架空の時代と国であっても、実際にあった時代と国であっても。

 ドラマ、フィクションで、物語を展開させるために戦争を使う。
 人間が生きる上ではずせない出来事だと思うし、また、簡単に視覚的にも心情的にも盛り上げることが出来る。

 そうやって戦争が描かれるのに……いつもいつも、「戦争反対」「戦争は愚かな行い」「戦争は悪」としか声高に描かれないことに、疑問を持つ。

 最初に書いたように、わたしは戦争はキライ、反対だ。戦争が素晴らしいなんて、カケラも思ってない。
 だから、「人を殺そうぜイエイ」「今すぐ日本も戦争やるべきだぜい」てな意識で描かれた作品があるとしたら、それはもちろん嫌だ。

 だけど、「戦争反対」という意識がある上で、「戦争」を舞台に描かれた物語なら、ことさら「戦争反対」と台詞でだらだら長々言われなくてもいいと思っているんだ。

 なのに、タカラヅカの舞台では、前提なんていうかわいいものではなく、とにかくなにがなんでも台詞で戦争反対を叫び続け、「戦争とは虚しいモノだ」「戦争は悪だ」と言わなければならない風潮がある、気がする。
 それが舞台となった時代やキャラクタと合っていなくても、だ。

 戦争があたりまえの時代に、「戦争は悪だ」と主張する人が主人公のドラマなら、それでいい。いくら台詞でだらだら主張しても、それがそのキャラクタであり、テーマであるなら当然だと思う。
 わたしたちの目からすれば「戦争は悪」という価値観は正しいので、正しいことを叫ぶ主人公に素直に感情移入して応援できるし、周囲の人たちが主人公の言葉に耳を貸すようになれば素直に感動できる。

 だが、戦争が当たり前の時代に、戦争を当たり前に仕事にしている人とかが、「戦争は悪」だと言い出したら、わけがわからない。戦って平和を得るのが正義で、それを行っている人が何故、自分の生きる世界も自分自身も否定するようなことを言うの?
 生き方を変えるほどの大事件が起こったのならともかく、ただなんとなくとか、最初からとか、それなら戦争をする仕事にはじめから就く必要ないじゃん?
 それまでさんざん戦争やって人を殺しておきながら、なんで今さら「戦争は悪」だと言いはじめるの?

 『TRAFALGAR』は、軍人が主人公で、とーぜん主人公は戦争が仕事。ばりばり人を殺すのが使命。自分もだし、息子も同じように戦争で人を殺してヨシ!と思っている。

 現代日本のわたしたちからすれば、「戦争反対!」が正しい考え方でも、『TRAFALGAR』の舞台はチガウ。もちろん、いつの時代の人々も戦争なんかない方がいいと思っているだろうけれど、現実問題として「ある」のだから、「ある」以上前向きに対処……すなわち「勝つ」ために努力するしかない。
 そして主人公ネルソン@ゆーひくんは、軍人だ。登場した瞬間からバコバコ人を殺している。
 そうやって「英雄」と呼ばれた男だ。

 ネルソン提督、であることになんの疑問もない。彼は誇りと勇気と愛国心を持ち、真っ向から戦い続ける。

 ……なのに、とくになんの理由もなく、自己否定をはじめる。「なんのために戦うのか」と。
 彼が真の愛に目覚めたゆえ、とも思えない。彼の運命の恋人エマ@ののすみは好戦的な女性で、ネルソンの参謀を名乗り出るよーなタイプだ。世界平和とか慈善とかよりは、自分のことが大事。敵を倒して自分が幸福になる、ことを悪いとは思っていない。
 「今から戦争の勉強をしようかしら」と言うような女性と恋に落ちて、何故戦うことに疑問を持つ? ますますやる気を出しそうなものだが。

 エマが理由ではないなら、臆病風に吹かれたのか。
 片目になったネルソンは死への恐怖から、戦いに嫌気が差した? それで「戦う理由」を探しはじめた? 理由がないと戦争をやり続ける自信がない?
 それともある意味エマが原因? 「愛する人が出来たので、死にたくない」と臆病風。
 ……のわりに、戦いには積極的(和平反対!)で、第一彼が最終的に見つけた戦う理由が「愛する者のため」だから、これはおかしい。

 ネルソンがいきなり「戦う理由」に悩み出すのがわからない。
 そしてなんの発見もないまま、「愛する者のために戦う」と答えを出す。
 最初から、ネルソンは「愛する者のため」に戦っていたはずでは? 愛する祖国、家族、仲間のために、誇りを持って戦っていた。そうでなければ最初から職業軍人なんかやってない。無理矢理徴兵されたわけでなし。

 彼が突然悩み出すのはすべて、現代日本の「戦争反対」「戦争を積極的にする者は悪」という考え方ゆえじゃないの?
 「ネルソン」としての考えではなく、「戦争讃美と思われたらまずい!」という外側の考えなんじゃ?

 戦争がよくないことは、誰だってわかっている。
 では、戦争や暴力的なことを扱うドラマはすべて、「戦争は悪」だと思う主人公が「戦争は虚しい」「戦争反対」と言うことしかできないのか。
 それしか許されない、物語を作れないのか。

 なんて不自由なんだろう。

 軍人が主人公で、戦いをテーマにした物語ですら、主人公は「戦争は悪」と自己否定しながらしか、存在できないのか。

 わたしは、「物語」ってのは、そんな度量の狭いもんじゃないと思っている。
 主人公が軍人で、戦争を職業として、戦場での人殺しをふつーに行っていることと、「戦争反対」という当たり前のわたしたちの意識は共存できると思う。

 わたしたちには、「想像力」があるからだ。
 台詞で言われ、1から10まで説明されたこと以外にも、自分で感じ、考えることができるからだ。

 その時代のその人たちがその時代の感覚で生き、それでも精一杯生き、それゆえにトータルして「戦争がない時代で良かった」とも「やっぱり戦争は嫌だわ」と思わせることは出来るはずだ。
 それは主人公になにがなんでも「戦争反対」と叫ばせることではない。

 軍人が主人公で「戦争は良くない」と自己否定、矛盾させ、「これは戦争讃美物語じゃないですよ、だってほら、主人公は戦争嫌いなんですってば、ほんとうは!」と八方美人、その結果が「愛する者のためなら、戦争OK!」という答えにたどり着くのも、なかなかどーしてコワイことなんじゃ?
 耳触りの良い「愛」とか「義」とかさえあれば戦争肯定なんだー。正義の味方は敵を殺してヨシ!てかー。殺していい命とそうでない命があるんだー。 
 てな、極論につながるぞ。

 戦うことを使命とした者に戦いを否定させるくらいなら、最初から軍人を主役にしなければいい。
 戦争も革命もギャングも描かず、陰謀や駆け引きも不倫も横恋慕もない、現代のお茶の間を舞台にした誰も傷つかない他愛ない物語だけやっていればいい。
 正しい主人公が正しい人たちと正しいことだけをする、誰にも「間違ったことをする主人公だから、よくない!」と責められないモノを書けばいい。

 ……ハンパに日和った描き方が、嫌なんですよ。
 軍人が主人公だから「戦争讃美モノだわ! 許せない、こんな不道徳なモノを上演するなんて!」なんて人は、フィクションを見る能力に欠けているだけだから、放っておけばいいのに。
 その「時代」その「キャラクタ」を選んだのなら、まっとうして欲しい。
 わたしたち現代日本の価値観・倫理観で包んで描くのは前提だが、それは全体からわたしたちに伝わればいいことで、キャラクタの人格壊してまでおもねることではない。

 まあ、『TRAFALGAR』に関しては、単にサイトーくんの力不足で、ナニが書きたいのかわかんないだけかもしんないけど(笑)。

コメント

日記内を検索