ショーの話をまったく書いてません。

 イシダせんせの最新作『ファンキー・サンシャイン』

 ファンキー【funky】[名・形動]
1 ジャズ・ソウルなどの音楽にファンクの要素が含まれること。また、その演奏や、そのさま。ポップスやロックの、野性的で躍動感のあるリズム・演奏などの形容にもいう。「―なボーカル」「―ミュージック」
2 服装などが原色を多用していて、けばけばしいこと。また、そのさま。「―なファッション」
 サンシャイン【sunshine】
日光。陽光。
 
 以上、大辞泉より。

 でもって、公式の[解説]が、

 生命、エネルギーの根源である「太陽」をテーマにしたショー。サンビーム、夜明け、プリズム、コロナ、日食、黒点、太陽神、虹、白日夢……など、太陽からイメージされる言葉、生活、文化、ファッションを多角的な視点から捉えた作品。

 だそうです。

 で、イシダせんせがナニをやったかというと、「太陽」と名前の入った歌を集めることでした。

 そっかー、「太陽」がテーマだと、「太陽」って単語を使った歌や出来事の羅列になるんだー。はははー。

 ちったぁヒネれや。

「次の問題です。『太陽』という単語の入った歌や言葉を答えて下さい。チーム全員が答えられないと失格です」てな、雑学系クイズ番組に出てきそうな発想だ。

 そもそも、「太陽」の認識がチガウ。単語が入っていれば「太陽」かよ、太陽関連語句なら「太陽」なのかよ。
 そのセンスに肩を落とす。

 でもって、ゆーひくん相手に、「ファンキー」で「太陽」……。

 
 とまあ、最初の段階でかなりつまずいてました。わたしは。
 そして実際に観てみて。

 ……最初の「ソーラーパワー!」で椅子から落ちそうになりました。
 ノリノリの曲ならまだしも、まったりのっぺりした曲でダジャレソング……。
 ソーラーに、宙組と大空さんを掛けてあるのね、宙組の力を、大空さんの力を感じろってことね、すごいわイシダ先生、高度だわ!

 終始その調子で、ある意味「裏切らない」作品でした。

 
 いやその、らんとむさんはいいんです。
 懐メロ昭和が似合いまくるし、ああいう場面を「持っていく」力のある人。らんとむ×アリスがめっちゃかわいいし。
 そして、本気のダンス場面もあり、らんとむ中心にダンサーで固め、ストイックにかっこいい姿も見せてくれている。

 ただ、ゆーひさんは……。

 ゆうひくん目当てで劇場に行った身としては、かなり、複雑でした。

 それは、わたしが「こんなおーぞらゆーひを見たいか」というところに端を発し、「でも、おーぞらゆーひでいわゆるおーぞらゆーひなモノなんか作ってどうするよ」てな意見と、「本人楽しそうだからいいじゃん」てなキモチと、「でも見たいかというとそうでもない」というキモチと、「これが最後のショーなんじゃないの?」という不安と、「最後がコレなの?!」という哀しみと、「最後だから受け入れて楽しむしかないのよ!」というあきらめなど、いろーんなモノが混ざり合っているのですよ!(笑)

 まず第一に言えることは、「ひまわりをアタマに付けてかわいこぶるおーぞらゆーひを、わたしは見たいわけではない」ということ。
 
 お天気予報一連のゆーひくんがかわいいこととは、別問題で。

 彼の最初のオリジナル・ショーであり、大劇場でのショーである。それでコレを見たいかというと、まったくナイ。

 その昔、のんちゃんのトップお披露目公演のショーで、あののんちゃんが金髪巻き毛の王様をさせられているのを見た、あの感覚だ。

 6作7作と続いてきたトップ作品の中なら、別に誰の作品にあってもかまわないが、最初からコレか! また、老い先短そうな人(失礼)に対し、コレか!
 という、配慮のなさっつーか。
 そういうことも含めて、「イメージ違いのモノを見せらるのはつらい」というのが、ある。

 だが、冷静に考えるわたしもいる。
 わたしがおーぞらゆーひに対し持っているイメージなんて、局地的なモノであって、普遍的なモノではないのだと。
 世の中的に、この幼児ぶりっこしたかわいこちゃんが、「おーぞらゆーひ」なのかもしれない。

 おーぞらゆーひの正しいイメージがどうであるのか、答えはナイ。
 だから勝手に、わたしの持つおーぞらゆーひこそが正しいとしたって、さて、わたしのイメージするおーぞらゆーひで「ショー作品」を作ったら……それって、興行的に「正しい」か?
 
 エロくてアダルトでねとねとした、そんな「ショー作品」、正しいわけがないっ。

 ゆーひくんの持ち味がダークであればあるほど、「タカラヅカのショー」である以上、ことさら反対の、爆発系のモノを与えなくてはならない。暗い人に暗いモノやらせたら、ほんとに暗くなるってば! わたしは好きだけど、タカラヅカ的に正しくないって!

 てことで、傘をひっくり返していたり、トルネードでぴんぴんでも、仕方ないんだ。

 という意見を出してみたり。

 また、そのアホアホなことをやらされているゆーひくん自身が、とても楽しそうだ。
 はじけていて、一生懸命発光しようとしている。

 本人が楽しいなら、それでいいや。それがなにより。
 と、思う。

 ……でも、似合わないことを「やらされている」感を、わたしが勝手に感じてしまい、そのノリノリささえ、痛々しく思えたりも、する。だってアンタ、そのトシで……その学年で……。(ジェンヌはフェアリーです、年齢はありません)

 で、どんなに本人が楽しんでいても、「わたしが」見たいモノかというと、そうでもない、ことにより、テンションは下がる。

 でも、ゆーひくんの学年からしてそんなに何作も機会があるとは思えず、全国ツアーと次回本公演が芝居1本モノだとわかってしまった以上、「これが最初で最後のオリジナル・ショー?!」という危惧があり、本人のはじけっぷりにも「最後だから、そんなにはじけているの?」と勝手に考えすぎたりする。
 で、最後だとしたらちゃんと見届けたいし、でも「最初で最後がコレなの」と悲しくなるしで、もお。

 困った。

 どうにも、落ち着きが悪い。
 きれいに納得して観ることが出来ない。

 お尻がもぞもぞしたまま、はじまり終わる、っていうか。
 『ファンキー・サンシャイン』ってのは、わたしにとって、そーゆー作品だ。

 あくまでも、わたしには。
 友人のゆーひファンはふつーに心から「うひたん可愛い!」って大喜びしているし、それでいいんだろうと思うけど。

 
 単に、わたしとイシダせんせの相性が悪い、っつーだけかもしれんが。

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