すべては、自分に還る。@ロミオとジュリエット
2010年7月17日 タカラヅカ 嘘さ! 嘘さ!!
善悪が両岸にまっぷたつに分けられてるなんて
嘘さ! 嘘なんだ!!
嘘さ! 嘘さ! 嘘さ!
ここは善だけの岸だと 信じ切れるなら楽さ!
善い岸に住んで適当な時には 善なんか眠らせときゃね
嘘さ!
ボクがここにいるってだけさ!
……いつも同じ出典でアレですが、なにしろわたしの根っこにあるものは変わらないので。
『ロミオとジュリエット』を観て、これまた痛烈に『はみだしっ子』を思い出していました。
いがみ合う子どもたち。理由もないまま、対岸の子どもたちを憎んで。何故ならそれは、大人たちがはじめたことだから。大人の争いが子どもたちに広がり、今では原因もわからないまま、ただ相手を憎み、暴力に訴える。
攻撃されて、思わず防戦したはみだしっ子たち……どちらの岸にも行き着くことは出来なくて、そんなもんくそくらえで。
シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の方が古くからあるもので、それを観てずっとあとに創られた作品を思い出すのはチガウと言う人もあるかもしれないが、古い作品に対してどうこうではなく、あくまでも、2010年初演の宝塚歌劇『ロミオとジュリエット』を観て、子どもの頃に読んだ『はみだしっ子』を思い出したということ。
有名すぎる『ロミジュリ』については、意識するまでもなく知識として知っている。
でも教養のないわたしは、それをきちんと咀嚼することないままこのトシになった。
改めて出会う『ロミジュリ』で、登場人物があまりに「子ども」であることにおどろいた。知識としてロミオとジュリエットの年齢を知っていても、それがどういうことなのか理解してはいなかった。
子どもの感性、子どもの考え方。子どもの理屈。
そこにあるのは中2病全開の、とても痛く恥ずかしいモノ。
うっわー、天下の『ロミジュリ』って、こーゆー話なのか。映画でもチラ見するバレエだのミュージカルでもイイ年した大人が演じているから、気づいてなかった。
そして、あまりに「子ども」であるがゆえに、すでに大人であるわたしからすれば、痛々しくて、切ないものだった。
生まれたときから「敵」のいる世界……そんな世界に生まれてしまった彼らを不憫に思う。
それを当たり前とし、憎しみと暴力を空気として呼吸し、それでもそのなかで愛し希望し、笑って生きる。
「男はみんな王になりたい」……いちばんになりたいと、無邪気に夢見る男の子たち。自分の可能性を信じ、未来になんの疑いもない、まっすぐな瞳。
そんなものが、愛しくて切なくて、泣けて仕方がない。
ロミオは所詮モンタギュー家の一員であり、よそ者だったはみだしっ子たちとはチガウ。グレアムたちも対岸の連中に石を投げたし、対岸に住んでいる女の子との交流もあったけれど、結局そこまで人々の争いに関与しない、しなくても済む。
ロミオとグレアムたちが会っていたら、それはそれで悲しい会話が展開されただろうなあ。
結束のための掟、結束のための敵。
モンタギューとキャピュレット、互いを憎むのは個々にナニかあるからではない。すでにそんな次元は過ぎた。
共通の敵がある限り、安心して同胞としてまとまっていられる。個は消失し、あるのは実態のない集団のみ。
「沢山のお豆がありましたが、つぶされて粉になり、練られて一つのかたまりになっちゃったって話」……アンジーの要約の仕方が的確すぎて泣ける(笑)。
そんなひとつのかたまりの中にいた、練られていたけれどまだなんとか原形を保っていた、ひとつのお豆の物語。
もともと両家の争いを快く思っていなかったロミオ@れおん。そんな彼だから、とても素直にジュリエット@ねねちゃんと恋をした。
ロミオは片方の岸の住人だったから、死まで描かれたんだなと、当たり前のことに思い至る。
『はみだしっ子』では、いつも答えまでは描かれない。
ふたつの岸の争い、理由もわからないままそれでも憎み合う子どもたちが、そのあとどうなるのかは描かれない。
歪みや哀しみは提示されるけれど、それによってはみだしっ子たちは傷つくけれど、答えはない。
それは彼らがはみだしっ子であり、どこの組織にも属さない、属せない者だからだ。
根を下ろす大地を持たないまま彷徨い続け、それゆえに「よそ者」として「外から」人間や集団を見る。
それが『はみだしっ子』であり、そんな彼らが「家」と「親」……大地に根を下ろしたときに、『はみだしっ子』は終わったんだなと思う。クリスマスローズが花を咲かせるように。彼らはもう、はみだしっ子ではないから。
てな、舞台と関係あるよでナイことを考えつつ。
考えさせてくれるから、『ロミオとジュリエット』ってのはすごい作品だと思った。
善悪が両岸にまっぷたつに分けられてるなんて
嘘さ! 嘘なんだ!!
嘘さ! 嘘さ! 嘘さ!
ここは善だけの岸だと 信じ切れるなら楽さ!
善い岸に住んで適当な時には 善なんか眠らせときゃね
嘘さ!
ボクがここにいるってだけさ!
……いつも同じ出典でアレですが、なにしろわたしの根っこにあるものは変わらないので。
『ロミオとジュリエット』を観て、これまた痛烈に『はみだしっ子』を思い出していました。
いがみ合う子どもたち。理由もないまま、対岸の子どもたちを憎んで。何故ならそれは、大人たちがはじめたことだから。大人の争いが子どもたちに広がり、今では原因もわからないまま、ただ相手を憎み、暴力に訴える。
攻撃されて、思わず防戦したはみだしっ子たち……どちらの岸にも行き着くことは出来なくて、そんなもんくそくらえで。
シェークスピアの『ロミオとジュリエット』の方が古くからあるもので、それを観てずっとあとに創られた作品を思い出すのはチガウと言う人もあるかもしれないが、古い作品に対してどうこうではなく、あくまでも、2010年初演の宝塚歌劇『ロミオとジュリエット』を観て、子どもの頃に読んだ『はみだしっ子』を思い出したということ。
有名すぎる『ロミジュリ』については、意識するまでもなく知識として知っている。
でも教養のないわたしは、それをきちんと咀嚼することないままこのトシになった。
改めて出会う『ロミジュリ』で、登場人物があまりに「子ども」であることにおどろいた。知識としてロミオとジュリエットの年齢を知っていても、それがどういうことなのか理解してはいなかった。
子どもの感性、子どもの考え方。子どもの理屈。
そこにあるのは中2病全開の、とても痛く恥ずかしいモノ。
うっわー、天下の『ロミジュリ』って、こーゆー話なのか。映画でもチラ見するバレエだのミュージカルでもイイ年した大人が演じているから、気づいてなかった。
そして、あまりに「子ども」であるがゆえに、すでに大人であるわたしからすれば、痛々しくて、切ないものだった。
生まれたときから「敵」のいる世界……そんな世界に生まれてしまった彼らを不憫に思う。
それを当たり前とし、憎しみと暴力を空気として呼吸し、それでもそのなかで愛し希望し、笑って生きる。
「男はみんな王になりたい」……いちばんになりたいと、無邪気に夢見る男の子たち。自分の可能性を信じ、未来になんの疑いもない、まっすぐな瞳。
そんなものが、愛しくて切なくて、泣けて仕方がない。
ロミオは所詮モンタギュー家の一員であり、よそ者だったはみだしっ子たちとはチガウ。グレアムたちも対岸の連中に石を投げたし、対岸に住んでいる女の子との交流もあったけれど、結局そこまで人々の争いに関与しない、しなくても済む。
ロミオとグレアムたちが会っていたら、それはそれで悲しい会話が展開されただろうなあ。
結束のための掟、結束のための敵。
モンタギューとキャピュレット、互いを憎むのは個々にナニかあるからではない。すでにそんな次元は過ぎた。
共通の敵がある限り、安心して同胞としてまとまっていられる。個は消失し、あるのは実態のない集団のみ。
「沢山のお豆がありましたが、つぶされて粉になり、練られて一つのかたまりになっちゃったって話」……アンジーの要約の仕方が的確すぎて泣ける(笑)。
そんなひとつのかたまりの中にいた、練られていたけれどまだなんとか原形を保っていた、ひとつのお豆の物語。
もともと両家の争いを快く思っていなかったロミオ@れおん。そんな彼だから、とても素直にジュリエット@ねねちゃんと恋をした。
ロミオは片方の岸の住人だったから、死まで描かれたんだなと、当たり前のことに思い至る。
『はみだしっ子』では、いつも答えまでは描かれない。
ふたつの岸の争い、理由もわからないままそれでも憎み合う子どもたちが、そのあとどうなるのかは描かれない。
歪みや哀しみは提示されるけれど、それによってはみだしっ子たちは傷つくけれど、答えはない。
それは彼らがはみだしっ子であり、どこの組織にも属さない、属せない者だからだ。
根を下ろす大地を持たないまま彷徨い続け、それゆえに「よそ者」として「外から」人間や集団を見る。
それが『はみだしっ子』であり、そんな彼らが「家」と「親」……大地に根を下ろしたときに、『はみだしっ子』は終わったんだなと思う。クリスマスローズが花を咲かせるように。彼らはもう、はみだしっ子ではないから。
てな、舞台と関係あるよでナイことを考えつつ。
考えさせてくれるから、『ロミオとジュリエット』ってのはすごい作品だと思った。
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