Dear オネーギン。@オネーギン
2010年11月26日 タカラヅカ「『オネーギン』には、なんとフィナーレがあったんだよ! 群舞もデュエダンもアリ、音楽に乗って出演者が出てきてお辞儀、とかゆーんじゃなく、ミニ・ショーみたいな、真っ当なフィナーレだよ!」
「すごい、はじめてじゃない? ちゃんとしたフィナーレって」
『オネーギン』観劇後に、未見の友人nanaタンとそんなことを話した。
正確にははじめてでもないのか。89期生のお披露目だった『シニョール ドンファン』はショー先行型で、芝居のあとにフィナーレがあった。初舞台生ロケットに大階段パレードまで。
でもそれは、「フィナーレを付けなければならない」というルールがまず先にあって。
付けても付けなくてもイイ、演出家の自由意志に任されているところで、ここまできちんとフィナーレを付けているのは相当珍しいんじゃないか、景子作品として。
「じゃあ景子タン、最後に蛇足付けるのやめたんだ(笑)」
未見のはずの友人が、見事に言い当てる。
そう。
その通り。
景子せんせのお約束、最後の蛇足。
「うん、トドロキが突然『ディア、オネーギン!』とか言い出すんぢゃないかってハラハラしてたんだけど、なかったの!! 代わりにフィナーレがあったの!!」
「すごーい、景子せんせー、やっと蛇足が蛇足だって気付いたんだ!!」
「後日談もなかったの。ヲヅキが作家でこの話を書いたことになってるんだけど、最後にヲヅキが出てきて『オネーギン、キミはうんぬんかんぬん』って、景子タンの言いたいことをまとめて語り出したりしないのー」
「すごーい!」
「後世にどう伝えられたかとか、その後どうなったかとか、物語が終わったあとでいちいち解説者が出てきて一席ぶたないの!」
「すごーい!」
……これがネタになる、景子タンの作風って……(笑)。
でもほんとーに、『オネーギン』は景子せんせらしくないのよ、主人公のオネーギン@トドが決意して旅立つ、ほんとソレだけで幕なの。
なんの説明もないの、解説もないの。
通常の景子タンなら、まず作家@ヲヅキが出てきてオネーギンの人生について語り、そのあと彼に関わったいろんな人が出てきてさらに解説したり、当時の歴史や考え方、それによってどうなったかとか、1から10まで全部言葉で解説、答え合わせ、それ以外の感想なんか持っちゃいけないとばかりに絶叫してくるのに。
「オネーギン、キミを忘れない!」とか、ヲヅキさんが宣言してくれちゃったりするだろーに。
それがなかったんですよー(笑)。
こんだけ細かく作中でテーマを叫んでおきながら、出来事より心情の変化で物事を進めながら、まだ最後に言葉によってテーマをまとめあげる、小論文テスト、「作者の言いたかったことを50字でまとめましょう」的作風が特徴の景子せんせ。
わかったわかった、キミの言いたいことはわかった、十分伝わってるから少し黙ってくれ。観客はバカじゃない、10のことを20も30も繰り返さないでくれ、ふつーに10聞いたらわかるから!(笑)
てゆーか、7か8あたりで止めてくれた方が、残りの2や3は想像で補うのに。
なんで何回も何倍も説明し直すんだろう。
と、常々残念だったんだ。
ちゃんと10の話は10で止めてくれました。7か8あたりで止めてはくれなかったけど(笑)、蛇足はやめてくれた。
そして、いつもなら「作品全解説」をやる時間を、まんまフィナーレに回してくれました! ハラショー!!
ロシアだから首まできっちり詰まった重苦しいドレス姿ばかりだった雪娘たちが、フィナーレで首筋や肩をばーんと出して踊ってくれることに、見ているこちらも一気に解放、爽快感!
やっぱ美しい画面を作れる人ってすごいわー!
トド様とみみちゃんのデュエットダンスもまるまる1場面、逃げ口上無しに作ってくれて、すごいお得感。
いいもん見たわー、と素直に思う。
オネーギンのモラトリアムを軸に進む物語だけど、実際のところは幾重かの時間的・空間的構造になっている。
そのいちばん外枠が、ちぢれっ毛の友人@ヲヅキ。ラストにオネーギンが彼の名を呼ぶことで、「物語」が完成する。
ぱたんと、開いていた扉が閉まる……あるいは、表紙が閉じられる。
そこで終わってくれて、ほんっとーに良かったっ。
多重構造であるがゆえに、いつもの蛇足を付けることが出来たのに……見ているこちらも「うわ、こりゃいつものが来そうだ」と身構えるくらい、用意は調っていたのに、あえて付けずにいてくれたことがうれしい。
おかげで、素直に余韻を楽しむことが出来た。
「物語」についての思考という、ゼイタクな森で遊び、「フィナーレ」という視覚と聴覚で潤いながら、澱みがちな思念を前向きに解放できた。
「タカラヅカ」のタカラヅカたる所以。
どんな悲劇のあとにも、フィナーレがつき、キャストみんながきらきら笑顔で歌い踊り、大階段に羽根にシャンシャン、きらきら別世界に昇華すること。
結ばれなかった恋人たちも、それが答えであるかのようにデュエットで踊る。
ある意味大きなお世話、これ以上ない蛇足なんだうけど、わたしはこの「タカラヅカ」な蛇足は大好きだ。
「ダンディズムとは」と台詞で解説する陳腐さに比べれば、美しい音楽に乗って踊ることで表現してくれることが、どれだけ洗練されているか。
「テーマを50字以内」で解説されるより、主人公とヒロインが黙って踊ってくれた方が、主人公がかっこよく美しく男たちを率いて踊ってくれた方が、どんだけ説得力を持って彼の人生を、物語を肯定できるか。
いやはや、改めて思いましたね。
良い作品でした(笑)。
「すごい、はじめてじゃない? ちゃんとしたフィナーレって」
『オネーギン』観劇後に、未見の友人nanaタンとそんなことを話した。
正確にははじめてでもないのか。89期生のお披露目だった『シニョール ドンファン』はショー先行型で、芝居のあとにフィナーレがあった。初舞台生ロケットに大階段パレードまで。
でもそれは、「フィナーレを付けなければならない」というルールがまず先にあって。
付けても付けなくてもイイ、演出家の自由意志に任されているところで、ここまできちんとフィナーレを付けているのは相当珍しいんじゃないか、景子作品として。
「じゃあ景子タン、最後に蛇足付けるのやめたんだ(笑)」
未見のはずの友人が、見事に言い当てる。
そう。
その通り。
景子せんせのお約束、最後の蛇足。
「うん、トドロキが突然『ディア、オネーギン!』とか言い出すんぢゃないかってハラハラしてたんだけど、なかったの!! 代わりにフィナーレがあったの!!」
「すごーい、景子せんせー、やっと蛇足が蛇足だって気付いたんだ!!」
「後日談もなかったの。ヲヅキが作家でこの話を書いたことになってるんだけど、最後にヲヅキが出てきて『オネーギン、キミはうんぬんかんぬん』って、景子タンの言いたいことをまとめて語り出したりしないのー」
「すごーい!」
「後世にどう伝えられたかとか、その後どうなったかとか、物語が終わったあとでいちいち解説者が出てきて一席ぶたないの!」
「すごーい!」
……これがネタになる、景子タンの作風って……(笑)。
でもほんとーに、『オネーギン』は景子せんせらしくないのよ、主人公のオネーギン@トドが決意して旅立つ、ほんとソレだけで幕なの。
なんの説明もないの、解説もないの。
通常の景子タンなら、まず作家@ヲヅキが出てきてオネーギンの人生について語り、そのあと彼に関わったいろんな人が出てきてさらに解説したり、当時の歴史や考え方、それによってどうなったかとか、1から10まで全部言葉で解説、答え合わせ、それ以外の感想なんか持っちゃいけないとばかりに絶叫してくるのに。
「オネーギン、キミを忘れない!」とか、ヲヅキさんが宣言してくれちゃったりするだろーに。
それがなかったんですよー(笑)。
こんだけ細かく作中でテーマを叫んでおきながら、出来事より心情の変化で物事を進めながら、まだ最後に言葉によってテーマをまとめあげる、小論文テスト、「作者の言いたかったことを50字でまとめましょう」的作風が特徴の景子せんせ。
わかったわかった、キミの言いたいことはわかった、十分伝わってるから少し黙ってくれ。観客はバカじゃない、10のことを20も30も繰り返さないでくれ、ふつーに10聞いたらわかるから!(笑)
てゆーか、7か8あたりで止めてくれた方が、残りの2や3は想像で補うのに。
なんで何回も何倍も説明し直すんだろう。
と、常々残念だったんだ。
ちゃんと10の話は10で止めてくれました。7か8あたりで止めてはくれなかったけど(笑)、蛇足はやめてくれた。
そして、いつもなら「作品全解説」をやる時間を、まんまフィナーレに回してくれました! ハラショー!!
ロシアだから首まできっちり詰まった重苦しいドレス姿ばかりだった雪娘たちが、フィナーレで首筋や肩をばーんと出して踊ってくれることに、見ているこちらも一気に解放、爽快感!
やっぱ美しい画面を作れる人ってすごいわー!
トド様とみみちゃんのデュエットダンスもまるまる1場面、逃げ口上無しに作ってくれて、すごいお得感。
いいもん見たわー、と素直に思う。
オネーギンのモラトリアムを軸に進む物語だけど、実際のところは幾重かの時間的・空間的構造になっている。
そのいちばん外枠が、ちぢれっ毛の友人@ヲヅキ。ラストにオネーギンが彼の名を呼ぶことで、「物語」が完成する。
ぱたんと、開いていた扉が閉まる……あるいは、表紙が閉じられる。
そこで終わってくれて、ほんっとーに良かったっ。
多重構造であるがゆえに、いつもの蛇足を付けることが出来たのに……見ているこちらも「うわ、こりゃいつものが来そうだ」と身構えるくらい、用意は調っていたのに、あえて付けずにいてくれたことがうれしい。
おかげで、素直に余韻を楽しむことが出来た。
「物語」についての思考という、ゼイタクな森で遊び、「フィナーレ」という視覚と聴覚で潤いながら、澱みがちな思念を前向きに解放できた。
「タカラヅカ」のタカラヅカたる所以。
どんな悲劇のあとにも、フィナーレがつき、キャストみんながきらきら笑顔で歌い踊り、大階段に羽根にシャンシャン、きらきら別世界に昇華すること。
結ばれなかった恋人たちも、それが答えであるかのようにデュエットで踊る。
ある意味大きなお世話、これ以上ない蛇足なんだうけど、わたしはこの「タカラヅカ」な蛇足は大好きだ。
「ダンディズムとは」と台詞で解説する陳腐さに比べれば、美しい音楽に乗って踊ることで表現してくれることが、どれだけ洗練されているか。
「テーマを50字以内」で解説されるより、主人公とヒロインが黙って踊ってくれた方が、主人公がかっこよく美しく男たちを率いて踊ってくれた方が、どんだけ説得力を持って彼の人生を、物語を肯定できるか。
いやはや、改めて思いましたね。
良い作品でした(笑)。
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