番手と演出と・その1。@ロミオとジュリエット
2011年2月7日 タカラヅカ マーキューシオの扱いが不満だ。
イケコ偉大!とその演出力に拍手しながらも、雪組版『ロミオとジュリエット』の疑問点。
星組版はいいんだ。
主人公はロミオで、ヒロインはジュリエット。そして2番手役はティボルト。
物語の比重、動きと、役が比例している。
問題は雪組版。
大切なのは物語であるはずなのに。
人事事情が優先されて、舞台が二の次になっている。
タカラヅカには、決まりがある。
トップスターを中心にしたピラミッド。
その物語でいちばん良い扱いを受けるのはトップスター、そしてそれ以外の人の扱いは番手に準じる。
物語的におかしくても、この決まりは守られる。
たとえば『ベルサイユのばら』。物語の主人公はオスカルと、次いでアントワネットなのに、トップスターがフェルゼンというナニもしない脇役を演じることになったら、話をねじ曲げてフェルゼンを主役にする。辻褄が合わなくても、フェルゼンがえんえん舞台に出てきて、えんえん歌ったりする。
おかしいけれど、仕方ない。
これは「タカラヅカ」のルールだからだ。
アントワネットが主役でフェルゼンが脇役の『ベルサイユのばら』を見たいなら、どこか別の劇団での上演を待つしかない。
タカラヅカに番手制度があること、トップスター至上主義であることは、タカラヅカらしさであるので、それはいい。
それによって物語がねじ曲げられるのは、仕方ないと受け入れている。
そして新生雪組は、トップスターキムくん、2番手ちぎくん。
されど発表になった『ロミオとジュリエット』の配役は、ロミオ@キム、マーキューシオ@ちぎだった。
星組版では、マーキューシオは4番手の役だ。
でもここはタカラヅカ、マーキューシオが2番手の役に書き直されるんだろうと思った。
ティボルト、ベンヴォーリオ、マーキューシオはそれぞれおいしい役で、描き方によってどれが2番手役でもおかしくない。
星組版がとても素敵で大好きだったけど、また別の切り口から、新しい『ロミオとジュリエット』が観られるんだと、わくわくした。
でも。
雪組版の『ロミジュリ』は、期待したモノと違った。
マーキューシオが、2番手の役になっていない。
前日欄で語ったけれど、ティボルトとマーキューシオは表裏一体、同じ役割りを持っている。
ティボルトにあるのはジュリエットを愛しているということだけ、ティボルトがマーキューシオを殺すのはジュリエットとは無関係。
ならば「本当の俺じゃない」を歌うのは、マーキューシオであるべきでは?
翻訳ミュージカルである以上、ティボルトの持ち歌をマーキューシオに割り振れないというならば、同じ意味の別の歌を、マーキューシオに歌わせればいい。
死の間際に吐露するように、マーキューシオもまた憎しみに踊らされ破滅する自己を嘆いている。
ティボルトと同じように。
なのに、観客に差し出されるのがティボルトの心情で、2番手役であるマーキューシオの心情はナシって、ナニ?
ティボルト目線で物語を描くヒマがあったら、マーキューシオ目線の場面を作るべきでしょう。
仮面舞踏会へ行くぞー!とかで無邪気に無責任に盛り上がっているマーキューシオ。仮面を付けて戯けてみせるマーキューシオ。
でもそれは、彼の仮面。
道化を装うことで、彼も心の闇を隠していた。
ティボルトの「本当の俺じゃない」をカーテン前でつぶやく端的な台詞だけにして、それに呼応するかのよーに同じ台詞を歌にして、マーキューシオに銀橋渡らせれば良かったのに。
ティボもマーさんも、憎しみに歪んだ自分と世の中に苦しんでいるんだってことを、マーさん目線で描いてほしかった。
わたしはヲヅキのティボが好きで、彼の歌う「本当の俺じゃない」で涙している身なので、今の演出で観られたことはうれしいんだけど。
ただ、それとは別に。
タカラヅカの番手制度が、何故無視されてるんだ? てことに、疑問を持つ。
マーキューシオの一人称場面がないために、マーキューシオは2番手の役に見えない。
物語的にはどうしても、ティボルトが2番手役だ。
物語重視、役者の持ち味重視で、番手制度は今回だけ無視しました!というなら、それはソレでいいと思う。潔いと思う。
だが。
番手制度は、守られているんだ。姑息に。
続く。
イケコ偉大!とその演出力に拍手しながらも、雪組版『ロミオとジュリエット』の疑問点。
星組版はいいんだ。
主人公はロミオで、ヒロインはジュリエット。そして2番手役はティボルト。
物語の比重、動きと、役が比例している。
問題は雪組版。
大切なのは物語であるはずなのに。
人事事情が優先されて、舞台が二の次になっている。
タカラヅカには、決まりがある。
トップスターを中心にしたピラミッド。
その物語でいちばん良い扱いを受けるのはトップスター、そしてそれ以外の人の扱いは番手に準じる。
物語的におかしくても、この決まりは守られる。
たとえば『ベルサイユのばら』。物語の主人公はオスカルと、次いでアントワネットなのに、トップスターがフェルゼンというナニもしない脇役を演じることになったら、話をねじ曲げてフェルゼンを主役にする。辻褄が合わなくても、フェルゼンがえんえん舞台に出てきて、えんえん歌ったりする。
おかしいけれど、仕方ない。
これは「タカラヅカ」のルールだからだ。
アントワネットが主役でフェルゼンが脇役の『ベルサイユのばら』を見たいなら、どこか別の劇団での上演を待つしかない。
タカラヅカに番手制度があること、トップスター至上主義であることは、タカラヅカらしさであるので、それはいい。
それによって物語がねじ曲げられるのは、仕方ないと受け入れている。
そして新生雪組は、トップスターキムくん、2番手ちぎくん。
されど発表になった『ロミオとジュリエット』の配役は、ロミオ@キム、マーキューシオ@ちぎだった。
星組版では、マーキューシオは4番手の役だ。
でもここはタカラヅカ、マーキューシオが2番手の役に書き直されるんだろうと思った。
ティボルト、ベンヴォーリオ、マーキューシオはそれぞれおいしい役で、描き方によってどれが2番手役でもおかしくない。
星組版がとても素敵で大好きだったけど、また別の切り口から、新しい『ロミオとジュリエット』が観られるんだと、わくわくした。
でも。
雪組版の『ロミジュリ』は、期待したモノと違った。
マーキューシオが、2番手の役になっていない。
前日欄で語ったけれど、ティボルトとマーキューシオは表裏一体、同じ役割りを持っている。
ティボルトにあるのはジュリエットを愛しているということだけ、ティボルトがマーキューシオを殺すのはジュリエットとは無関係。
ならば「本当の俺じゃない」を歌うのは、マーキューシオであるべきでは?
翻訳ミュージカルである以上、ティボルトの持ち歌をマーキューシオに割り振れないというならば、同じ意味の別の歌を、マーキューシオに歌わせればいい。
死の間際に吐露するように、マーキューシオもまた憎しみに踊らされ破滅する自己を嘆いている。
ティボルトと同じように。
なのに、観客に差し出されるのがティボルトの心情で、2番手役であるマーキューシオの心情はナシって、ナニ?
ティボルト目線で物語を描くヒマがあったら、マーキューシオ目線の場面を作るべきでしょう。
仮面舞踏会へ行くぞー!とかで無邪気に無責任に盛り上がっているマーキューシオ。仮面を付けて戯けてみせるマーキューシオ。
でもそれは、彼の仮面。
道化を装うことで、彼も心の闇を隠していた。
ティボルトの「本当の俺じゃない」をカーテン前でつぶやく端的な台詞だけにして、それに呼応するかのよーに同じ台詞を歌にして、マーキューシオに銀橋渡らせれば良かったのに。
ティボもマーさんも、憎しみに歪んだ自分と世の中に苦しんでいるんだってことを、マーさん目線で描いてほしかった。
わたしはヲヅキのティボが好きで、彼の歌う「本当の俺じゃない」で涙している身なので、今の演出で観られたことはうれしいんだけど。
ただ、それとは別に。
タカラヅカの番手制度が、何故無視されてるんだ? てことに、疑問を持つ。
マーキューシオの一人称場面がないために、マーキューシオは2番手の役に見えない。
物語的にはどうしても、ティボルトが2番手役だ。
物語重視、役者の持ち味重視で、番手制度は今回だけ無視しました!というなら、それはソレでいいと思う。潔いと思う。
だが。
番手制度は、守られているんだ。姑息に。
続く。
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