雪組版『ロミオとジュリエット』の演出についての疑問点、続き。

 物語重視、役者の持ち味重視で、番手制度は今回だけ無視しました!というなら、それはソレでいいと思う。潔いと思う。
 だが。

 番手制度は、守られているんだ。姑息に。

 物語重視ならば、ティボルトが2番手役。ならば何故、ティボルト@ヲヅキの歌は削られた?
 ティボが2番手でいいなら、星組版のまま上演されたはずだ。

 雪組版でティボルトを演じるのが2番手ではない、そんな番手事情ゆえに、大切な準主役の歌がカットされた。

 また、上演されているのは梅芸ではなく、大劇場だ。
 大劇場にはタカラヅカの売りのひとつであるエプロンステージ、銀橋がある。
 ことあるごとにスターが銀橋を渡り、客席の近くで華やかな姿を見せる。それが本拠地宝塚大劇場の醍醐味。

 なのに、銀橋が使われない。

 大劇場全体を使ったダイナミックな演出を得意とする小池修一郎が、銀橋の存在をあえて無視している。
 植爺のように、カーテン乱用。なにかっちゃーカーテンが閉まり、その前を使う。

 そう、銀橋を使わないのではなく、使えないんだ。
 番手制度ゆえに。

 2番手に、銀橋ソロがないから。

 ティボルトの「本当の俺じゃない」は、ふつーなら銀橋ソロだ。準主役がひとり舞台に残り、心情を歌い上げる、ドラマティックな場面だ。
 だがティボルト役を演じている役者が2番手ではない。だから銀橋は渡らせられない。

 乳母@コマのソロにしろ、ベンヴォーリオ@まっつのソロにしろ、銀橋を使うことは可能だ。
 つか、その方が盛り上がる。より画面に奥行きが出来る、客席に訴えかけられる。
 だが、それは許されない。それらの役を演じている役者が、2番手ではないから。

 むしろ、2番手役者がなにかしらソロで銀橋を渡っていたら、他の役も銀橋に出すことが出来た。
 2番手のみが最後まで銀橋を歌って渡りきり、他の者たちは途中まで歌ってあとは黙って足早に歩き去るとか、途中までで引き返すとかで、差別化できた。
 ソロで最後までではなく、次の場面の登場人物を迎えに来させ、ソロで渡りきっていない、途中から何人口だった、と言い訳できる。
 乳母ならジュリエットが途中まで迎えに出て、銀橋で薔薇の受け渡しをすれば済むこと。

 だがそれすら出来なかった。
 2番手が演じるマーキューシオ役に、銀橋ソロがなかったため。

 なんでこんないびつなことをしているんだ??
 物語重視、役者の持ち味重視で、番手制度は今回だけ無視しました!というなら、それはソレでいい、潔いさ。
 なのにそうではなく、物語の表現を損なってまで番手重視。
 それなら最初から、2番手の役を、2番手に演じさせろよ。ちぎくんにティボルトやらせろよ。
 ちぎくんはマーキューシオでなくてはダメだというなら、マーキューシオに銀橋ソロやらせて、ちゃんと番手通りの比重にしろよ。

 番手優先、人事優先で、舞台は二の次ですかそうですか。
 もちろんそれはタカラヅカである以上当然だけど、それなら何故、2番手に準主役をやらせないんだ。
 2番手を脇役にするから、すべてがおかしくなってるんだ。

 しかもマーキューシオ役は、星組版で歌だったところが台詞になっていたりと、さらに見せ場を減らされている。ナニこの2番手いじめ?
 たしかにちぎくんは歌がアレだ。
 しかし、彼が2番手なんだ。たとえアレな結果になるとしても、番手優先ならば彼に堂々と銀橋ソロを芝居で披露させろよ。
 ソレが「タカラヅカ」じゃん。

 なんでこんなハンパなことしてるんだ、イケコ。
 そんなにちぎくんに歌わせたくないのか。
 フィナーレの銀橋ソロも最後まで渡らせずに3分の2で終了だし、いちばんひどいと思ったのは階段降りのソロ。
 2番手のパレードのソロが、コーラス付きで、ソロ部分が一部しかナイなんて、アリかよ。

 タニちゃんにエトワールやらせた劇団が、なんで今さらハンパに日和ってんだ??

 その、たしかにフィナーレのちぎくん銀橋「天使の歌が聞こえる」はすごいけど、芝居中の歌はそんなことないんで、「マーキューシオ」として歌う分にはぜんぜん大丈夫だと思うのになあ。
 今からでも、ちゃんとマーキューシオ2番手役に演出しなおしてくんないかなあ。

 今の『ロミジュリ』が大好きなのはたしかなんだけど。
 今のマーキューシオ@ちぎが、ティボルト@ヲヅキが大好きなんだけど。
 ベンヴォーリオ@まっつとマーキューシオのコンビが好きで好きでしょーがないんだけど。
 大好きだからいっぱい通ったんだけど。
 でもずーっと、引っかかっていた。

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