白いアーチのない朝。@花組東宝千秋楽
2011年4月24日 タカラヅカ まとぶさんが、幸せでありますように。
舞台を観ながら、ここまで切実に祈ったのは、はじめてかもしれない。
卒業していくタカラジェンヌに感謝と多幸を祈るのはいつものこと。ありがとう、出会えて良かった、これからもどうか幸せに。
わたしは所詮ただのヅカファンで、ヅカファン人口の何万分の一にしか過ぎず、彼女たちの人生に対してナニか思うのはおこがましいってゆーか、どうこう言える立場じゃない。別れは悲しいし寂しいから、うだうだ言ったりはするけれど、ほんとのとこは仕方ないと受け止める。
それがどんな決断、どんな結果であっても、最終的に選んだのはジェンヌ自身なので、わたしはただ外側から幸あれと見守るのみ。
だからいつだって、幸せになれ、と願って退団公演を観劇するけれど。
なんかもお、すごい勢いで、まとぶんの幸せを祈った。
トップスターの退団公演、東宝千秋楽。
それは、ヅカファンにとってはとても大切な日で、神聖な儀式で。
卒業するスターの特別なファンでなくても、ヅカファンであれば誰もが特別に考え、その日の予定が恙無く終えられることを望む、そういう日だ。
トップでなくても、スターと呼ばれる立場にない下級生であろうと、あらゆるジェンヌにとって、卒業の日は特別。
だけどそこにさらに、トップスターは「タカラヅカのトップスターである」というお約束、儀式のようなイベントがある。
望もうと望むまいと、それがトップスター。特別であることは、すでに義務だ。
その伝統を受けて、花組東宝公演千秋楽、早朝から劇場前にはたくさんの人々が詰めかけていた。
「入り」はないと発表されていたらしい。ファンクラブというものに疎いわたしには、それがどうやって決まったことなのか、どうやって伝達されたことなのかわからない。
たしかに、劇場前には会服を着た人々がいなかったように思う。
在団生たちは自分の会の前で立ち止まって手紙を受けることなく、人混みの前を等しくスルーして楽屋口に消えていく。帽子にサングラス、加えてマスクなどで、顔がわからない人たちがほとんど。
千秋楽くらいしか東宝に来ないわたしには、そこまで顔を見せてくれない姿で劇場へ出勤する生徒さんたちを見るのははじめてだった。
でも、卒業する生徒さんたちはちゃんと顔を見せてくれた。
白い服を着て、清々しい笑顔を見せてくれた。
ファンの人たちが集まっているところで挨拶をしたり、最後の声掛けをしたりとかいうことはなかったけれど、ちゃんと詰めかけたファンの前を歩いて楽屋へ入っていった。
沿道の人々からは、拍手が起こった。
会の人たちが取り仕切っているわけではないから、自発的にだ。
ヅカファンならば、拍手をする。今日を限りに花園を巣立っていく美しい人たちへ、感謝と激励を込めて、手を叩く。
イベントとしての「入り」はないということだけど、会に入っていない、ギャラリーしかしたことのないわたしには、卒業生の最後の楽屋入り姿を見送るという点では、通常とあまり変わりはなかった。
でも。
トップスター、まとぶんはどうなるんだろう。
通常のトップスターの最後の入りは、劇場入口に大きな花のアーチが作られ、組子たちもロビーまで出迎え、とても盛大なモノだ。
しかしこの日はアーチもなにもない。「入り」はしないということだから、それは当然かもしれないが、なんだか不安な劇場前姿だった。
あるべきものがない、というのは、こんなに落ち着かなく、不安な気持ちになるもんなんだと、はじめて知った。
わたしは退団者だけでなく組子全部眺めたいからと楽屋口の向かいにいた。
しかし、まとぶんをひと目見たくてやって来た人たちの多くは、楽屋口前ではなく、劇場入口正面にいたのだと思う。トップスターは通常楽屋口ではなく、劇団正面入口から入るから。
ガラス越しに出迎える組子の姿も見たいだろうから。
詰めかけたギャラリーの中心点は劇場入口正面で、そこから左右に広がっている。人々はクリエ前にもたくさん並んでいる。トップスターが帝国方面へパレードしてくれることを期待して。
だけど。
現れたまとぶんの車はまっすぐ楽屋口前に停まり、降車したまとぶんはそのまま楽屋口に入った。
立ち止まることすらなく、沿道を埋めたファンたちに一瞥もくれず、足早にドアの向こうへ消えた。
悲鳴が上がった。
落胆の声だ。
まとぶんの車が来た、と待ち望んだ声と拍手が起こった、そのわずか数十秒後に。
拍手は消え、歓声は嘆きの声に変わった。
「入り」はない、というのは、こういうことなんだ。
悲しかった。
ただもう、かなしかった。
楽屋口前にいたわたしはまとぶんの白服姿も見られたけれど、劇場前で彼を待っていた多くの人たちはろくに見られなかったのではないかと思う。
最後にひと目会いたくて、姿を見たくて、早朝から沿道に並んでいただろう人たちの、嘆きの悲鳴が、胸に痛かった。
ファンクラブに入っている人たちは別にお別れの場があるのだろうけれど、そうではない人で、この入りだけが最後のチャンスだった人も、いただろう。
会に入って応援するのがタカラヅカの正しい姿だとは思うけれど、そうでない人たちにも門戸を開いている以上、どんなスタンスで応援したっていいはずだ。そんな人たちが「入り」はない、ということを知らず、劇場正面で何時間も待っていたとしたら、ないと聞いてなお、一縷の望みを掛けてそこにいたとしたら、切ないことだ。
また、会に入っている人たちだって、ふつうに「入り」のイベントをしたかったろうし。
どの立場の人にとっても、切ない。
そして。
あのまとぶんが、自分のファンに、タカラヅカのファンに、こんな思いをさせることを望んだはずがない。
待っていてくれた人々に手を振って、笑顔を見せて、「ありがとう」と言いたかったに違いない。
なのに彼は、詰めかけた人たちをそこにないものとして、背を向けた。
嘆きの悲鳴は、彼に聞こえたのだろうか。
どれほど、かなしかったろう。つらかったろう。
震災後の東京での公演。
募金活動や入り出の自粛をどうこう言うわけではまったくない。
「入り」がないなんてひどーい、とか、そーゆーことを言いたいわけじゃないんだ。
それが劇団の判断であり、生徒たちの思いならば、受け止める。
これが今目の前にある「現実」だからだ。
大好きな人たちが懸命に行っていることならば、受け入れ、「大丈夫だよ」と言いたい。
思いは届いているよ、大好きだよって。
思わず落胆の声を上げた人たちだって、それはまとぶんを責める意味で上げたわけじゃないだろう。
悲しいから、もれてしまっただけで。
なにが悪いのではなく、ただ、悲しい。
震災で苦しんでいる人々から比べればたかが娯楽でナニが、てなものだが、そういう次元の話ではなくて。
それぞれが、それぞれの立場で、立ち位置で、苦しみながら懸命に生きている。
それを見守り、見守ることしかできないわたしは。
ただなんかもお、かなしくて、祈ることしかできない。
花組のみんなが幸せでありますように。卒業していくみんなが幸せでありますように。
そして、まとぶんが、花組トップスター真飛聖が、幸せでありますように。
舞台を観ながら、ここまで切実に祈ったのは、はじめてかもしれない。
卒業していくタカラジェンヌに感謝と多幸を祈るのはいつものこと。ありがとう、出会えて良かった、これからもどうか幸せに。
わたしは所詮ただのヅカファンで、ヅカファン人口の何万分の一にしか過ぎず、彼女たちの人生に対してナニか思うのはおこがましいってゆーか、どうこう言える立場じゃない。別れは悲しいし寂しいから、うだうだ言ったりはするけれど、ほんとのとこは仕方ないと受け止める。
それがどんな決断、どんな結果であっても、最終的に選んだのはジェンヌ自身なので、わたしはただ外側から幸あれと見守るのみ。
だからいつだって、幸せになれ、と願って退団公演を観劇するけれど。
なんかもお、すごい勢いで、まとぶんの幸せを祈った。
トップスターの退団公演、東宝千秋楽。
それは、ヅカファンにとってはとても大切な日で、神聖な儀式で。
卒業するスターの特別なファンでなくても、ヅカファンであれば誰もが特別に考え、その日の予定が恙無く終えられることを望む、そういう日だ。
トップでなくても、スターと呼ばれる立場にない下級生であろうと、あらゆるジェンヌにとって、卒業の日は特別。
だけどそこにさらに、トップスターは「タカラヅカのトップスターである」というお約束、儀式のようなイベントがある。
望もうと望むまいと、それがトップスター。特別であることは、すでに義務だ。
その伝統を受けて、花組東宝公演千秋楽、早朝から劇場前にはたくさんの人々が詰めかけていた。
「入り」はないと発表されていたらしい。ファンクラブというものに疎いわたしには、それがどうやって決まったことなのか、どうやって伝達されたことなのかわからない。
たしかに、劇場前には会服を着た人々がいなかったように思う。
在団生たちは自分の会の前で立ち止まって手紙を受けることなく、人混みの前を等しくスルーして楽屋口に消えていく。帽子にサングラス、加えてマスクなどで、顔がわからない人たちがほとんど。
千秋楽くらいしか東宝に来ないわたしには、そこまで顔を見せてくれない姿で劇場へ出勤する生徒さんたちを見るのははじめてだった。
でも、卒業する生徒さんたちはちゃんと顔を見せてくれた。
白い服を着て、清々しい笑顔を見せてくれた。
ファンの人たちが集まっているところで挨拶をしたり、最後の声掛けをしたりとかいうことはなかったけれど、ちゃんと詰めかけたファンの前を歩いて楽屋へ入っていった。
沿道の人々からは、拍手が起こった。
会の人たちが取り仕切っているわけではないから、自発的にだ。
ヅカファンならば、拍手をする。今日を限りに花園を巣立っていく美しい人たちへ、感謝と激励を込めて、手を叩く。
イベントとしての「入り」はないということだけど、会に入っていない、ギャラリーしかしたことのないわたしには、卒業生の最後の楽屋入り姿を見送るという点では、通常とあまり変わりはなかった。
でも。
トップスター、まとぶんはどうなるんだろう。
通常のトップスターの最後の入りは、劇場入口に大きな花のアーチが作られ、組子たちもロビーまで出迎え、とても盛大なモノだ。
しかしこの日はアーチもなにもない。「入り」はしないということだから、それは当然かもしれないが、なんだか不安な劇場前姿だった。
あるべきものがない、というのは、こんなに落ち着かなく、不安な気持ちになるもんなんだと、はじめて知った。
わたしは退団者だけでなく組子全部眺めたいからと楽屋口の向かいにいた。
しかし、まとぶんをひと目見たくてやって来た人たちの多くは、楽屋口前ではなく、劇場入口正面にいたのだと思う。トップスターは通常楽屋口ではなく、劇団正面入口から入るから。
ガラス越しに出迎える組子の姿も見たいだろうから。
詰めかけたギャラリーの中心点は劇場入口正面で、そこから左右に広がっている。人々はクリエ前にもたくさん並んでいる。トップスターが帝国方面へパレードしてくれることを期待して。
だけど。
現れたまとぶんの車はまっすぐ楽屋口前に停まり、降車したまとぶんはそのまま楽屋口に入った。
立ち止まることすらなく、沿道を埋めたファンたちに一瞥もくれず、足早にドアの向こうへ消えた。
悲鳴が上がった。
落胆の声だ。
まとぶんの車が来た、と待ち望んだ声と拍手が起こった、そのわずか数十秒後に。
拍手は消え、歓声は嘆きの声に変わった。
「入り」はない、というのは、こういうことなんだ。
悲しかった。
ただもう、かなしかった。
楽屋口前にいたわたしはまとぶんの白服姿も見られたけれど、劇場前で彼を待っていた多くの人たちはろくに見られなかったのではないかと思う。
最後にひと目会いたくて、姿を見たくて、早朝から沿道に並んでいただろう人たちの、嘆きの悲鳴が、胸に痛かった。
ファンクラブに入っている人たちは別にお別れの場があるのだろうけれど、そうではない人で、この入りだけが最後のチャンスだった人も、いただろう。
会に入って応援するのがタカラヅカの正しい姿だとは思うけれど、そうでない人たちにも門戸を開いている以上、どんなスタンスで応援したっていいはずだ。そんな人たちが「入り」はない、ということを知らず、劇場正面で何時間も待っていたとしたら、ないと聞いてなお、一縷の望みを掛けてそこにいたとしたら、切ないことだ。
また、会に入っている人たちだって、ふつうに「入り」のイベントをしたかったろうし。
どの立場の人にとっても、切ない。
そして。
あのまとぶんが、自分のファンに、タカラヅカのファンに、こんな思いをさせることを望んだはずがない。
待っていてくれた人々に手を振って、笑顔を見せて、「ありがとう」と言いたかったに違いない。
なのに彼は、詰めかけた人たちをそこにないものとして、背を向けた。
嘆きの悲鳴は、彼に聞こえたのだろうか。
どれほど、かなしかったろう。つらかったろう。
震災後の東京での公演。
募金活動や入り出の自粛をどうこう言うわけではまったくない。
「入り」がないなんてひどーい、とか、そーゆーことを言いたいわけじゃないんだ。
それが劇団の判断であり、生徒たちの思いならば、受け止める。
これが今目の前にある「現実」だからだ。
大好きな人たちが懸命に行っていることならば、受け入れ、「大丈夫だよ」と言いたい。
思いは届いているよ、大好きだよって。
思わず落胆の声を上げた人たちだって、それはまとぶんを責める意味で上げたわけじゃないだろう。
悲しいから、もれてしまっただけで。
なにが悪いのではなく、ただ、悲しい。
震災で苦しんでいる人々から比べればたかが娯楽でナニが、てなものだが、そういう次元の話ではなくて。
それぞれが、それぞれの立場で、立ち位置で、苦しみながら懸命に生きている。
それを見守り、見守ることしかできないわたしは。
ただなんかもお、かなしくて、祈ることしかできない。
花組のみんなが幸せでありますように。卒業していくみんなが幸せでありますように。
そして、まとぶんが、花組トップスター真飛聖が、幸せでありますように。
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