美しいは正義。@ニジンスキー
2011年5月4日 タカラヅカ ちぎが、真面目な人だということがよーっくわかる作品だった。
ちぎくん単独バウ主演『ニジンスキー』観劇。
「いかにもタカラヅカ」な作品。てゆーか、「タカラヅカ」でないと上演できない作品。
や、コレを実際外部で日本人男性たちで上演したら誰得って感じだもの(笑)。ヅカならではでしょう。
内容は、すごくステレオタイプの「天才」物語。
わたしたち凡人が思い描く「天才ってこんな感じだよね」をまんまカタチにして描いた、とてもわかりやすい「ニジンスキー」。
タイトル通り、天才バレエダンサー・ニジンスキーの物語。
バレエだけに一途で、日常生活は欠陥だらけ、うまく生きられないヴァーツラフくん@ちぎは、彼の才能と美を愛するディアギレフ@ヲヅキの籠の鳥。イカロスのように自分の翼で飛びたいと望む彼は、魔法の鏡のように彼の望む言葉だけを与えてくれる踊り子ロモラ@あゆっちと恋に落ち、ディアギレフと決別。
庇護者を失ったヴァーツラフくんはもちろん没落の一途、だって彼、好きに踊ることしかできないんだもん。籠から出た小鳥は自分でエサを取れずに衰弱、頭を下げて再び籠に戻るけど、もう籠の中では生きたくない、生きられない……てことで、狂ってしまいました、てな話。
なんだけど、演じているのがちぎくんなので……なんとも生真面目な、地に足のついたニジンスキーになっていた。
ちぎくんの美しさはこの作品が必要とする「ニジンスキー」に相応しい。
が、彼の芸風的には柄違いかなあと。
天才ゆえの軋轢や断絶感、苦悩と破滅というより、ちぎくんの場合は努力する優等生が壁にぶつかってる感じがする。
や、わたしは彼のそーゆーとこが好きで萌えなんだけど。
苦悩すればするほど、狂えば狂うほど、ちぎくんのまともさ、魂の健康さと生真面目さが伝わる。
良い子なんだなあ、健康な子なんだなあ、と。
いや、そういうニジンスキー像もアリだろうけど、なにしろこの『ニジンスキー』で描かれているヴァーツラフくんはそうじゃなく、とてもありがちなステレオタイプの「天才」だから、ちぎくんのまともさはちょっとチガウよーな。
いやその、彼は熱演だし、芝居の出来る人なのでもちろんなんの遜色なくニジンスキーを見せてくれているのだけど。
わたしは史実としてのニジンスキーをよく知るわけではまったくないけれど、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』という作品を観て、既視感てんこ盛り過ぎて、ちょっとびびった。
いわゆる「天才」主人公系の物語王道ど真ん中、そのわかりやすさとヒネリのなさ、てゆーか、作風の素直さ?に、同人誌的なモノを感じて、ちょっと照れた。ああ、わたしも昔こんな話描いたことある、的な(笑)。
いや、そーゆーお約束満載のところもまた、タカラヅカっぽくてイイです。
お約束は大事です。作っている側も、観ている側も、「ああ、コレってアレだよね」「こう来たから次はこうだよね」と、お約束をわかった上で楽しむ。
『Je Chante』もそうだったけど、原田せんせはそーゆー共通認識で舞台を作る人らしい。
でも『Je Chante』よりわかりやすくなってる!(『Je Chante』ではあちこち展開の荒さに置いて行かれた人・笑)
テンプレ設定にちょっとテレつつ、テンプレ設定ゆえにちぎくんの持ち味が合っていないことに、ちょっと首をかしげつつ。
美しいから、無問題。
美しいは正義。
憑依系、天才系の役者云々よりも、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』に必要なのは、なんつってもまず美貌だ。
ダンス力云々よりも、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』に必要なのは、なんつってもまず美貌だ。
その美しさを愛でるところに、タカラヅカのタカラヅカたる意味がある!
こんだけ美しい「お約束物語」を観られるのはタカラヅカだけだもの。
星組の『めぐり会いは再び』が予定調和とお約束で、楽しく美しいタカラヅカであると同じように。
観ていてわくわくする、タカラヅカっていいよな。
とゆーことで、ヴァーツラフくんとディアギレフの古き良きJUNEな関係が良いですな。
ガチホモを美しく描けるのもヅカの素晴らしいところ(笑)。
タカラヅカとはいえガチホモを見たいかというと微妙なところですが、でも実際美しく真正面から描いてくれると、目の保養です。動く少女マンガというか。
BL、ボーイズラブといわれるものではなく、少女マンガ。
JUNEというのは今となっては、BLよりも少女マンガに分類されるジャンルだなあと思う。
だから寸止めで美しく表現されるヅカのホモは、少女マンガの3D版認識。
ヲヅキを好きで、ちぎくんが好きなので、それだけでたのしいっす。うれしいっす。
ガチホモなのも少女マンガなのもいいんだけど。
キャラの描き方に疑問はある。
ディアギレフをいい人に描きすぎていることと、ヴァーツラフの小物感とまともさ具合、そしてロモラのご都合主義さ、この3つが相乗効果でマイナスになっている気がする。
ヴァーツラフが翼を持った人物ならすべて解決したことかもしれないが、生真面目な優等生止まりであるため、いろんなところで説得力を欠いたような。
ディアギレフが執着を持って籠に閉じこめているように見えない。ディアギレフがいい人過ぎて、そんな彼を裏切るヴァーツラフの行動が正当……というか、「仕方ないよね」と思えなくて困る。
また、ロモラの言動がただの魔法の鏡、ヴァーツラフが「言って欲しい」と思っていることをそのたび口にするだけ、物語の誘導ナレーションになっている。
あまりに作為的にロモラがヴァーツラフを煽動し、それゆえに物語が展開するので、脚本にあるものと目に映っているモノの差にとまどう。
でも、裏があるような話じゃないしなー。
裏ってのはたとえば「ニジンスキーは天才ではなかった。すべて外側からのプロデュースで祭り上げられた、実態のない存在」とか「舞台の上のロモラはニジンスキーの幻想。ロモラという女性と結婚したのは事実だが、ニジンスキーが見ていたのは彼自身の作りだした幻」とか、そーゆーの。
でもそんな裏はないよなー。王道の「天才」物語だよなあ。
単に間違えたとか足りなかったとか過剰だったとか、そういうことなのかなー。
観ていてもどかしい部分がいろいろあったけど、それでも画面の美しさだけで全部許せる。
だから力一杯繰り返す、美しいは正義。
ちぎくん単独バウ主演『ニジンスキー』観劇。
「いかにもタカラヅカ」な作品。てゆーか、「タカラヅカ」でないと上演できない作品。
や、コレを実際外部で日本人男性たちで上演したら誰得って感じだもの(笑)。ヅカならではでしょう。
内容は、すごくステレオタイプの「天才」物語。
わたしたち凡人が思い描く「天才ってこんな感じだよね」をまんまカタチにして描いた、とてもわかりやすい「ニジンスキー」。
タイトル通り、天才バレエダンサー・ニジンスキーの物語。
バレエだけに一途で、日常生活は欠陥だらけ、うまく生きられないヴァーツラフくん@ちぎは、彼の才能と美を愛するディアギレフ@ヲヅキの籠の鳥。イカロスのように自分の翼で飛びたいと望む彼は、魔法の鏡のように彼の望む言葉だけを与えてくれる踊り子ロモラ@あゆっちと恋に落ち、ディアギレフと決別。
庇護者を失ったヴァーツラフくんはもちろん没落の一途、だって彼、好きに踊ることしかできないんだもん。籠から出た小鳥は自分でエサを取れずに衰弱、頭を下げて再び籠に戻るけど、もう籠の中では生きたくない、生きられない……てことで、狂ってしまいました、てな話。
なんだけど、演じているのがちぎくんなので……なんとも生真面目な、地に足のついたニジンスキーになっていた。
ちぎくんの美しさはこの作品が必要とする「ニジンスキー」に相応しい。
が、彼の芸風的には柄違いかなあと。
天才ゆえの軋轢や断絶感、苦悩と破滅というより、ちぎくんの場合は努力する優等生が壁にぶつかってる感じがする。
や、わたしは彼のそーゆーとこが好きで萌えなんだけど。
苦悩すればするほど、狂えば狂うほど、ちぎくんのまともさ、魂の健康さと生真面目さが伝わる。
良い子なんだなあ、健康な子なんだなあ、と。
いや、そういうニジンスキー像もアリだろうけど、なにしろこの『ニジンスキー』で描かれているヴァーツラフくんはそうじゃなく、とてもありがちなステレオタイプの「天才」だから、ちぎくんのまともさはちょっとチガウよーな。
いやその、彼は熱演だし、芝居の出来る人なのでもちろんなんの遜色なくニジンスキーを見せてくれているのだけど。
わたしは史実としてのニジンスキーをよく知るわけではまったくないけれど、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』という作品を観て、既視感てんこ盛り過ぎて、ちょっとびびった。
いわゆる「天才」主人公系の物語王道ど真ん中、そのわかりやすさとヒネリのなさ、てゆーか、作風の素直さ?に、同人誌的なモノを感じて、ちょっと照れた。ああ、わたしも昔こんな話描いたことある、的な(笑)。
いや、そーゆーお約束満載のところもまた、タカラヅカっぽくてイイです。
お約束は大事です。作っている側も、観ている側も、「ああ、コレってアレだよね」「こう来たから次はこうだよね」と、お約束をわかった上で楽しむ。
『Je Chante』もそうだったけど、原田せんせはそーゆー共通認識で舞台を作る人らしい。
でも『Je Chante』よりわかりやすくなってる!(『Je Chante』ではあちこち展開の荒さに置いて行かれた人・笑)
テンプレ設定にちょっとテレつつ、テンプレ設定ゆえにちぎくんの持ち味が合っていないことに、ちょっと首をかしげつつ。
美しいから、無問題。
美しいは正義。
憑依系、天才系の役者云々よりも、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』に必要なのは、なんつってもまず美貌だ。
ダンス力云々よりも、宝塚歌劇団の『ニジンスキー』に必要なのは、なんつってもまず美貌だ。
その美しさを愛でるところに、タカラヅカのタカラヅカたる意味がある!
こんだけ美しい「お約束物語」を観られるのはタカラヅカだけだもの。
星組の『めぐり会いは再び』が予定調和とお約束で、楽しく美しいタカラヅカであると同じように。
観ていてわくわくする、タカラヅカっていいよな。
とゆーことで、ヴァーツラフくんとディアギレフの古き良きJUNEな関係が良いですな。
ガチホモを美しく描けるのもヅカの素晴らしいところ(笑)。
タカラヅカとはいえガチホモを見たいかというと微妙なところですが、でも実際美しく真正面から描いてくれると、目の保養です。動く少女マンガというか。
BL、ボーイズラブといわれるものではなく、少女マンガ。
JUNEというのは今となっては、BLよりも少女マンガに分類されるジャンルだなあと思う。
だから寸止めで美しく表現されるヅカのホモは、少女マンガの3D版認識。
ヲヅキを好きで、ちぎくんが好きなので、それだけでたのしいっす。うれしいっす。
ガチホモなのも少女マンガなのもいいんだけど。
キャラの描き方に疑問はある。
ディアギレフをいい人に描きすぎていることと、ヴァーツラフの小物感とまともさ具合、そしてロモラのご都合主義さ、この3つが相乗効果でマイナスになっている気がする。
ヴァーツラフが翼を持った人物ならすべて解決したことかもしれないが、生真面目な優等生止まりであるため、いろんなところで説得力を欠いたような。
ディアギレフが執着を持って籠に閉じこめているように見えない。ディアギレフがいい人過ぎて、そんな彼を裏切るヴァーツラフの行動が正当……というか、「仕方ないよね」と思えなくて困る。
また、ロモラの言動がただの魔法の鏡、ヴァーツラフが「言って欲しい」と思っていることをそのたび口にするだけ、物語の誘導ナレーションになっている。
あまりに作為的にロモラがヴァーツラフを煽動し、それゆえに物語が展開するので、脚本にあるものと目に映っているモノの差にとまどう。
でも、裏があるような話じゃないしなー。
裏ってのはたとえば「ニジンスキーは天才ではなかった。すべて外側からのプロデュースで祭り上げられた、実態のない存在」とか「舞台の上のロモラはニジンスキーの幻想。ロモラという女性と結婚したのは事実だが、ニジンスキーが見ていたのは彼自身の作りだした幻」とか、そーゆーの。
でもそんな裏はないよなー。王道の「天才」物語だよなあ。
単に間違えたとか足りなかったとか過剰だったとか、そういうことなのかなー。
観ていてもどかしい部分がいろいろあったけど、それでも画面の美しさだけで全部許せる。
だから力一杯繰り返す、美しいは正義。
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