全ツ『ロック・オン!』の駄作っぷりは、演出家の手抜き感に充ち満ちていることにある。

 もちろんソレは、水くん版『ロック・オン!』に、既存のミキティ作品の一部を切り貼りしただけ、という安直さが直接の理由だ。
 ただの切り貼りではなく、センスや思いやりに欠ける手法だったことも、作品クオリティとそれを観た人間のテンションを下げる効果となっている。

 ……てなことはすでに語ったので、別の話をする。

 今回のテーマは、大劇場ショー作品と、『タカラヅカスペシャル』等のイベントショー作品の違いってなんだろう? ってことです。

 全ツ版『ロック・オン!』が駄作なのは、イベントショー作品の手法で作られているからだと思うんだ。

 
 大劇場のショーは、場面場面につながりがなく、ラテンやって歌謡曲やってドレスと燕尾の舞踏会やって……と、一見バラバラに見えたとしても、骨組みのところではしっかりジョイントされている。
 全体でのまとまりというか、起承転結。
 オープニングがあって、まずひとつめのネタがあって、ふたつめのネタがあって、派手な中詰めがあって、そのあとに作品の中核となるいちばん力の入った場面があり、息抜き的軽い場面が入り、ロケットからフィナーレ、大階段パレードになる。
 たまに変則的なモノもあるし、軽い場面が前後することはあるけれど、大体この流れは守られている。
 人間の生理に合うんだろう、この流れ、メリハリが。
 タカラヅカのショー作品は、長い時間を掛けてたくさんの作品を通して、このカタチに行きついたんだと思う。

 わたしがもしもショー作品を作るとしても、まずこのテンプレートに流し込むと思うよ。
 「これをやりたい!」と思う、いちばんメインの場面をまず中詰めの後ろにセットして、ソレが活きるタイトルと全体テーマを考え、それに合わせてオープニングと中詰め、フィナーレを考える。
 これで骨組みは出来た。
 あとはその間を、全体のメリハリを考えて埋める。

 オープニングと中詰めとフィナーレは純粋に「ショー」というか、歌とダンスでがんがんに盛り上げ、出演者全員で本舞台から銀橋から全部使ってずらりと並んで、華やかに手拍子されて全体で盛り上がるところだ。
 これはもう鉄板。この3箇所で芝居仕立てにするわけにもいかない。絶対に、ショー場面。
 ならば、このみんなで手拍子して盛り上がって、それがばんっと終わった中詰め、その次の場面は、がらっとカラーを変えて、中身のあるモノになるだろう、メリハリ的に。
 それが、メイン場面。
 中詰めのあとには、ストーリー性や、テーマ性のあるモノがくる。構成的に、ひとの生理として。
 メドレーとかで表層のみ感覚のみで盛り上がった中詰めのあとに、同じようにただ流れていくだけのモノが続くと、盛り上がりに欠けてしまう。 
 メイン場面は濃ゆい、凝った場面になる。
 本家『ロック・オン!』でいうと、「月の王」だな。

 大劇場用のショー作品だと、純粋なショー部分、歌い継ぎや総揃いダンスなどの場面の間に、ストーリー性のある場面が入る。
 ひとつの場面だけで起承転結があるような。カタルシスがあるような。
 ショー・芝居・ショー・芝居・ショー、というように、「ショー作品」の中にチガウ色のモノが交互に差し込んである。
 ひとりの女をふたりの男が取り合って、女が刺されてしまう、とかゆー、よくあるモチーフも、そうやってショーの中で「芝居」パートとして使われている。
 旅人がどこかの世界へ迷い込み女と出会い、男と戦い、結局はそこをあとにしてひとりまた立ち去る、とか。昔の恋人と再会し、追憶の中で戯れ、現実に追いつかれ、昔の恋人にはすでに別の生活があり、男はひとり去っていく、とか。
 ワンパターンだけど、なにかしら繰り返されてきた、物語。ああいうやつが、歌やダンスだけ場面の間に、絶対差し込まれている。
 それを、総踊り基本のオープニングと中詰めの間に、画面や絵面、登場する人数顔ぶれを変えて工夫して、メリハリを付けるわけだ。

 
 ソレとは反対に、イベントショー作品は基本、芝居部分はない。
 公演パロを入れることになっている『タカラヅカスペシャル』第1部とかじゃなく、歌謡ショー形式になっている第2部の方ね。
 作品全部がメドレーみたいなもんだ。
 使う曲と出演者とその力関係だけ考慮して、あとは全部同じテンション。
 トップスターはひとりで1曲歌うけど、その他大勢は4人口とかでワンフレーズずつ歌い継ぎ。
 メリハリは演出で付けるのではなく、スターの格でつける。
 若者たちが大勢で歌ったあとに、どーんとスター様がひとりで歌ったりする、それがメリハリ。
 やってることはただ1曲歌うという、誰もが同じ、どの場面も同じ。

 
 全ツ『ロック・オン!』の失敗は、大劇場ショー作品なのに、イベントショー作品の形式で作られたこと。

 前述の通り、大劇場ショー作品は、オープニングと中詰めとフィナーレは純粋に「ショー」部分だ。だからこの3箇所以外のところには、ストーリー性のある濃い場面を置く必要がある。
 本家『ロック・オン!』は正しくそう作られていた。オープニングのあとはピアノとオペラ座という、ストーリーのある場面があり、ギャングでジャズな中詰めはワンモアタイムで盛り上がり、息抜きイベントのラテンorブルースバージョンの短いショー場面、それからメインである「月の王」、ロケットからフィナーレへ。

 しかし全ツ『ロック・オン!』は。
 ストーリーのある場面が3分の1で終了。残り3分の2が、全部中詰めとフィナーレだった。

 ギャングでジャズな中詰めはワンモアタイムで盛り上がり、次はストーリーのある濃ゆいメインにいくはずが、メインがなかった。
 手抜きミキティがてきとーに詰め込んだのは、『Heat on Beat!』の中詰めメドレーだった。

 ジャズの中詰めメドレーのあとに、ラテン中詰めメドレー。

 だらだらと続く、中詰め。
 やたらたくさん人が出て、手拍子をさせたまま何場面、何十分。

 中詰めとフィナーレは、その間にじっくりとしたメイン場面があるからこそ、盛り上がるんだ。
 手拍子不要、黙って集中する場面があるからこそ、ぱーっと明るいお祭り場面で手拍子するんだ。
 半ばからロケット終了まで、ほとんどの場面手拍子強要演出って、ナニそれありえない。

 ショー部分だけつないで、短い歌と短いダンスでメドレーしていいのは、イベント公演だけだよ。
 出演しているのがトップクラスの人たちだから許されるんであって、組をふたつに割った全国ツアー、本公演なら単独でお金取れるレベルじゃない若手が有象無象の舞台で、やっていい演出じゃない。

 盛り上がらないのは、演出のせい。

 たとえば『タカラヅカスペシャル2010』第1部のパロディ部分以外と、第2部を、まんま組をふたつに割った全国ツアーでやってみるといいよ。どこの組でも盛り下がること必至だから。
 どの場面もただ人が出てきて、歌って去っていくだけ、出てくる人数と歌う長さがチガウだけ、その繰り返し。

 
 公演に合わせた演出、形式ってものがあるんだ。当然じゃないか。
 それをせずに、ショー・芝居・ショー・ショー・ショー・ショーという構成で『ロック・オン!』という作品を盛り下げまくったミキティは、ひどい演出家だなと。

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