「天使の歌声」が聞こえる。@新人公演『ファントム』
2011年7月12日 タカラヅカ ミュージカルを、歌唱力のある人が演じる。
これって、すごいことなんだ。
と、感動した新人公演『ファントム』。
『ファントム』ってミュージカルなんだ。こーゆー話なんだ。
と、あちこち驚く。
おかしい。
『ファントム』は初演宙もその新公も、再演花もその新公も、そして今回の花再再演も観ているんだが。ヅカで上演された全パターンを観ているんだが。
「天使の歌声」を持ったクリスティーヌを、はじめて見た。
こーゆー話だったのか、『ファントム』!!
美が命、トップスターの格好良さ命のタカラヅカで、「ふた目と見られない醜い男」が主人公の物語を上演する。
トップスターはもちろん美貌で、醜くはまったくないのに、「醜い、と思って見てね」というお約束を押しつけられ、仮面を取ったエリックに悲鳴を上げて逃げ出すクリスティーヌに「それくらい醜いの、エリックは醜いのよ、そういうお約束なの、突っ込んじゃダメ!!」と自分に言い聞かせなければならない。
それと同じように、歌がアレなクリスティーヌが歌うたびに「コレは天使の声、コレは天使の声なのよ、ものすげー歌唱力って設定なの、お約束なの、突っ込んじゃダメ!!」と自分に言い聞かせなければならない。
それが、『ファントム』だった。
……あれ?
美しいトップスターが「醜い」というお約束のキャラを演じるまでは、演劇の手法としてアリだけど、歌えない人が「天使の歌声、天才的歌唱力の歌手の役をやる」のは、演劇の手法とは関係ない、よなあ。ただの配役ミスだよなあ。カルロッタがヒロインを演じるのと同じ歪みだよなあ。
でもソレがタカラヅカ。
タカラヅカだから仕方ない。
ここはもう、あきらめる部分だ。
そうやってずーーっとあきらめてきた。
ヅカヲタ歴の長いわたしは、音痴には寛容だと思う(笑)。他に魅力のある人ならば、破壊的な歌声もナマで聴く分には気にならない。
だから気にしてなかったんだ、「天才的な歌唱力!と褒め称えられる」クリスティーヌが音痴でも。
とほほ、とは思うけど、だから即ダメだとは思わないっちゅーか。
それが、はじめて……はじめて、額面通り、台詞通りの「うまい人が歌う、『うまいと絶賛される歌』」を聴いた。
それまで聴いたことなかったから、驚いた。
『ファントム』ってこんな話だったのか。てゆーか、「コレは天使の歌声」と脳内変換しなければならない、うまくないものを「うまい」と思い込んで観劇しなければならないのが、実は、ストレスだったんだ、ということに、はじめて気付いた。
長年、気付いてませんでした。
だってタカラヅカもん。そーゆーもんなんだって、思い込んでた。
脳内変換しなくていい、劇中で褒められる歌声が本当にうまくてきれい。
それってこんなに気持ちいいことだったんだ。
ストレスフリーな観劇。
じーーん。
知らなかった……。
初演のお花様は、卓越した歌唱力は持っていなかったけれど、「タカラヅカ娘役」として必要なだけの歌唱力はあったし、なによりもその「90年にひとりの天才」である娘役芸を持ったスターだった。それゆえに、「天使の歌声」ぜんぜんOKだった。
初演新公のアリスちゃんは、何故か新公のときだけ歌唱力が上がっており、それまでの彼女とはチガウ歌声を響かせてくれた。……何故かその後も歌唱力は元に戻ったんだけど(笑)……「タカラヅカ」のクリスティーヌとしての任は果たせていた。
再演の彩音ちゃんは、歌ははっきりいってすげーことになっていた。きっぱり音痴の彼女に何故「歌の天才」の役をやらせるんだ?と思ったが、フタを開けてみれば、何故かクリスティーヌの歌は彼女にハマった。最初のパリの歌が大変なぐらいで、あとは許容範囲。声質と、なによりそのまばゆい母性と包容力というクリスティーヌに必要なキャラクタがハマっていたためだと思う。(クリスティーヌと無関係なフィナーレがいちばんひどかった・笑)
再演新公のきほちゃんは、この役を演じる人たちの中で、はじめての歌姫だった。抜群の歌唱力を誇った人だった。そして、「ミュージカル」というものが、歌唱力だけで演じられるモノではないということを、体現してくれた。歌声以前の部分が欠けていたために、「天使の歌声」ではなかった。
歌ウマが演じるクリスティーヌ、というだけなら、前回の新公きほちゃんのクリスティーヌはちゃんと歌ウマさんだったんだ。
歌手としては高い技術を持っていたけれど、如何せん彼女は「役者」としてのセンスはあまり高くなかった。脇としてならば技術で舞台を支えることのできる人だったが、強い真ん中志向のある人で、常にヒロインを欲してあがいている人だった。
そんな彼女が演じたクリスティーヌは、歌唱力より芝居部分の歪みが目につき、作品自体わけわかんなモノになっていた。……わたしには。
だから今回が、はじめて。
ヒロインが歌ウマで、クリスティーヌという役にも合っている、という事態が。
はじめて、ストレスフリーなクリスティーヌ。
で、『ファントム』って作品は、クリスティーヌが歌ウマだと、作品全体の滑りが良くなるってゆーか、説得力が増すんだ! とゆーことに、はじめて気がついた。
ぶっちゃけ、エリックの歌唱力より、クリスティーヌなんだ。
エリックがクリスティーヌの「先生」だけど、教育者が優れたプレイヤーである必要はない。音痴じゃ務まらないけど、「教える技術」があれば、本人が「天才歌手」でなくてもいいんだもの。「このエリック、歌うまくないなあ」でも、「天才を見抜く耳と、才能を開花させる技術があるのね」と納得させてくれればそれでイイ。
ああ、こんなことにはじめて気付くくらい、歌ウマがクリスティーヌを演じるのははじめてなんだ、タカラヅカってすげえところだ(笑)。
てことで、クリスティーヌ@みりおん。
歌唱力だけで演じきりました。
確かに歌ウマ。
でも、圧倒的な歌姫じゃない。そこまでじゃない。
それは彼女の芝居と同じで、なんつーか、情感は薄目。
でも、「クリスティーヌ」というキャラクタは、これくらい薄くても大丈夫なんだ、歌唱力があれば。
外部ならがつんと主張のある「わたしが主役」な歌声や芝居の女優さんが演じて場を支配してもいいけど、ここはタカラヅカ。主役はあくまでもエリックで、クリスティーヌは副だ。添うものだ。
エリック@鳳くんにカリスマ性がない以上、クリスティーヌにもソレは必要ない。
てことで、いい力具合でした。
出過ぎない芝居と、作品を象徴する美しい歌声のクリスティーヌ。
情感の薄さはこれからに期待。
これって、すごいことなんだ。
と、感動した新人公演『ファントム』。
『ファントム』ってミュージカルなんだ。こーゆー話なんだ。
と、あちこち驚く。
おかしい。
『ファントム』は初演宙もその新公も、再演花もその新公も、そして今回の花再再演も観ているんだが。ヅカで上演された全パターンを観ているんだが。
「天使の歌声」を持ったクリスティーヌを、はじめて見た。
こーゆー話だったのか、『ファントム』!!
美が命、トップスターの格好良さ命のタカラヅカで、「ふた目と見られない醜い男」が主人公の物語を上演する。
トップスターはもちろん美貌で、醜くはまったくないのに、「醜い、と思って見てね」というお約束を押しつけられ、仮面を取ったエリックに悲鳴を上げて逃げ出すクリスティーヌに「それくらい醜いの、エリックは醜いのよ、そういうお約束なの、突っ込んじゃダメ!!」と自分に言い聞かせなければならない。
それと同じように、歌がアレなクリスティーヌが歌うたびに「コレは天使の声、コレは天使の声なのよ、ものすげー歌唱力って設定なの、お約束なの、突っ込んじゃダメ!!」と自分に言い聞かせなければならない。
それが、『ファントム』だった。
……あれ?
美しいトップスターが「醜い」というお約束のキャラを演じるまでは、演劇の手法としてアリだけど、歌えない人が「天使の歌声、天才的歌唱力の歌手の役をやる」のは、演劇の手法とは関係ない、よなあ。ただの配役ミスだよなあ。カルロッタがヒロインを演じるのと同じ歪みだよなあ。
でもソレがタカラヅカ。
タカラヅカだから仕方ない。
ここはもう、あきらめる部分だ。
そうやってずーーっとあきらめてきた。
ヅカヲタ歴の長いわたしは、音痴には寛容だと思う(笑)。他に魅力のある人ならば、破壊的な歌声もナマで聴く分には気にならない。
だから気にしてなかったんだ、「天才的な歌唱力!と褒め称えられる」クリスティーヌが音痴でも。
とほほ、とは思うけど、だから即ダメだとは思わないっちゅーか。
それが、はじめて……はじめて、額面通り、台詞通りの「うまい人が歌う、『うまいと絶賛される歌』」を聴いた。
それまで聴いたことなかったから、驚いた。
『ファントム』ってこんな話だったのか。てゆーか、「コレは天使の歌声」と脳内変換しなければならない、うまくないものを「うまい」と思い込んで観劇しなければならないのが、実は、ストレスだったんだ、ということに、はじめて気付いた。
長年、気付いてませんでした。
だってタカラヅカもん。そーゆーもんなんだって、思い込んでた。
脳内変換しなくていい、劇中で褒められる歌声が本当にうまくてきれい。
それってこんなに気持ちいいことだったんだ。
ストレスフリーな観劇。
じーーん。
知らなかった……。
初演のお花様は、卓越した歌唱力は持っていなかったけれど、「タカラヅカ娘役」として必要なだけの歌唱力はあったし、なによりもその「90年にひとりの天才」である娘役芸を持ったスターだった。それゆえに、「天使の歌声」ぜんぜんOKだった。
初演新公のアリスちゃんは、何故か新公のときだけ歌唱力が上がっており、それまでの彼女とはチガウ歌声を響かせてくれた。……何故かその後も歌唱力は元に戻ったんだけど(笑)……「タカラヅカ」のクリスティーヌとしての任は果たせていた。
再演の彩音ちゃんは、歌ははっきりいってすげーことになっていた。きっぱり音痴の彼女に何故「歌の天才」の役をやらせるんだ?と思ったが、フタを開けてみれば、何故かクリスティーヌの歌は彼女にハマった。最初のパリの歌が大変なぐらいで、あとは許容範囲。声質と、なによりそのまばゆい母性と包容力というクリスティーヌに必要なキャラクタがハマっていたためだと思う。(クリスティーヌと無関係なフィナーレがいちばんひどかった・笑)
再演新公のきほちゃんは、この役を演じる人たちの中で、はじめての歌姫だった。抜群の歌唱力を誇った人だった。そして、「ミュージカル」というものが、歌唱力だけで演じられるモノではないということを、体現してくれた。歌声以前の部分が欠けていたために、「天使の歌声」ではなかった。
歌ウマが演じるクリスティーヌ、というだけなら、前回の新公きほちゃんのクリスティーヌはちゃんと歌ウマさんだったんだ。
歌手としては高い技術を持っていたけれど、如何せん彼女は「役者」としてのセンスはあまり高くなかった。脇としてならば技術で舞台を支えることのできる人だったが、強い真ん中志向のある人で、常にヒロインを欲してあがいている人だった。
そんな彼女が演じたクリスティーヌは、歌唱力より芝居部分の歪みが目につき、作品自体わけわかんなモノになっていた。……わたしには。
だから今回が、はじめて。
ヒロインが歌ウマで、クリスティーヌという役にも合っている、という事態が。
はじめて、ストレスフリーなクリスティーヌ。
で、『ファントム』って作品は、クリスティーヌが歌ウマだと、作品全体の滑りが良くなるってゆーか、説得力が増すんだ! とゆーことに、はじめて気がついた。
ぶっちゃけ、エリックの歌唱力より、クリスティーヌなんだ。
エリックがクリスティーヌの「先生」だけど、教育者が優れたプレイヤーである必要はない。音痴じゃ務まらないけど、「教える技術」があれば、本人が「天才歌手」でなくてもいいんだもの。「このエリック、歌うまくないなあ」でも、「天才を見抜く耳と、才能を開花させる技術があるのね」と納得させてくれればそれでイイ。
ああ、こんなことにはじめて気付くくらい、歌ウマがクリスティーヌを演じるのははじめてなんだ、タカラヅカってすげえところだ(笑)。
てことで、クリスティーヌ@みりおん。
歌唱力だけで演じきりました。
確かに歌ウマ。
でも、圧倒的な歌姫じゃない。そこまでじゃない。
それは彼女の芝居と同じで、なんつーか、情感は薄目。
でも、「クリスティーヌ」というキャラクタは、これくらい薄くても大丈夫なんだ、歌唱力があれば。
外部ならがつんと主張のある「わたしが主役」な歌声や芝居の女優さんが演じて場を支配してもいいけど、ここはタカラヅカ。主役はあくまでもエリックで、クリスティーヌは副だ。添うものだ。
エリック@鳳くんにカリスマ性がない以上、クリスティーヌにもソレは必要ない。
てことで、いい力具合でした。
出過ぎない芝居と、作品を象徴する美しい歌声のクリスティーヌ。
情感の薄さはこれからに期待。
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