太陽ばんざい。@灼熱の彼方
2011年7月16日 タカラヅカ 『灼熱の彼方』「コモドゥス編」観劇。
……もお、ナニをどこから語ればいいというか、突っ込めばいいのかわからない状態(笑)。
とりあえず。
ローマ人における「太陽」ってのは、「無責任」「裏切り者」と同意語なのか??
「オデュセウス編」にて、ローマを裏切り私欲に走った将軍オデュセウス@咲ちゃんのことを「アナタはローマの太陽です!!」と褒め称えた。
それだけでもあきれかえる展開だったが。
今回の「コモドゥス編」でもありましたよ。
短慮さとアホさで暴虐放題、父親を殺してまで手に入れた地位の義務を一切果たさず「死んで楽になろう」とすべて投げ出して逃げるコモドゥス@翔くんに対し、「お兄様は、太陽ですっ!!」と褒め称える。
ぽかーん……。
ナイわー。これはナイわー。
結局オデュセウスもコモドゥスも、私利私欲に生き、自分が気持ちいいことだけして、なんの努力もせずに死んでハッピーエンドなのよ。
生きて苦しむことはしないの。つらいことがあったら、さっさと死亡。自殺万歳。自殺万能。
それによって他人の迷惑とかは一切考えない。とことん自分だけが大事。
なのにそんな彼らを「太陽」「英雄」「偉人」と褒め称える世界観。
キモチワルイ……。なにこの歪んだ地平。
でも、とにかく主人公が死ぬから、観客は泣く。人が死ぬから感動作品だそうですよ。
なんて植爺&谷価値観。
まあそれはともかく。
「オデュセウス編」と「コモドゥス編」だと、後者の方が面白かった。
どちらの主人公も自分勝手で、騒ぐわりに自分ではなにもしないで勝手に滅びるんだけど、コモドゥスの方がわかりやすく悲劇っぽい作り。
わかりやすく可哀想、というのは、書きやすい。
さらに「コモドゥス編」はヒロインがいない。敵役もいない。コモドゥスただひとりしか登場しない、ひとり芝居みたいなもんだ。
脇に少しでもエピソードを、とか、ヒロインも描かなきゃ、とか、敵役も描かなきゃ、ということがなく、2時間まるまるコモドゥスひとりがあーでもないこーでもないと悩んでいられる。
そりゃ、盛り上げることは容易いよ……。
2時間コモドゥスの悩みしか描くことがないのに、展開ののろさといったらもお。
着た切り雀のキャラクタたちが出たり入ったりするだけで、いろんな時代の話に飛びまくる。でも、ストーリーは進まない(笑)。
「オデュセウス編」で「コモドゥスは何故暴君になったのか」という謎を掲げておきながら、その答えがなかなか明かされない。
それほど引っ張るべき謎でもないんだが、とにかく引っ張る引っ張る。
そこまでですでにえんえん流していた話のハイライトを、CM前に再び流して、CM後にまた1からハイライト流して、よーやくオチを見せるバラエティ並みに引っ張る。
「オデュセウス編」と「コモドゥス編」に同じ場面があることを言っているわけじゃない。
同じ場面でも、事実を知って観るとチガウ意味に見える、その効果はイイ。
同じ場面を使うことじゃなく、単に不要な場面が多すぎる。
なんのためにあるのかわからないやりとり、間、キャラクタ。
「下級生たちに出番を」という意味すら見えない、主要キャラがぐたぐだしているだけ。
わたしには水増しに見えた。
もともとは1本120分の話だったのを、2本240分にしなければならなくなったため、尺が余ってしまった。
それで何度も「コモドゥスは変わってしまった」「コモドゥスは苦悩している」とだけ繰り返す。
いやソレ、1回言ったらわかるから!!
10分で終わるエピソードを、何度も繰り返したり間を取ったりして、30分かけてみました、という印象。
そこまで無駄に時間と場面を消費していながら、肝心の父皇帝との話はナシだし。
パパがナニを考えていたのか、描かれてないんですが……ぽかーん。
父と息子が主軸になっているのに、描かれていることは「オデュセウス編」レベルなんですよ、父と息子の話は。
や、息子ひとりがえんえんうだうだゆーてますが。息子に60分間「パパに愛されていない、有能だとパパに認めてもらいたい」と同じことを繰り返させるヒマがあったら、パパの話を描けと。
いやもお、すごかった……。
オデュセウスの扱いもひどくて、「この変な人が誰なのか知りたいヒトは、『オデュセウス編』を観てね!」って感じ。
突然現れてKYなことを言って去っていく人。
あのー……いちおー彼、敵役っちゅーか、ライバルポジションの男だよね……?
「オデュセウス編」ではコモドゥスもかなり出番があって、敵役としての任は果たしていたんだけど、「コモドゥス編」のオデュセウスは出番ほとんどナシですよ……。
んで、ヒロイン。
妹のウィビアがいちおーヒロインっつーことになってるけど。
いや別に、彼女、ヒロインぢゃないっす(笑)。
この話、ヒロインいないから。
たまに出てきて「お兄様……」って言うだけの人格ナッシングキャラ。「妹」というラベルが貼ってあるだけ。
「お兄様は、本当は優しい人」って口で言うだけで、やさしい場面はない。妹とか、自分の大切なモノに優しいのは当たり前。どんな悪役だって、お金でも情婦でもペットでもいいけど、自分に利を与えてくれるものや愛する者には優しい。
ウィビアはコモドゥスを絶対視している唯一の存在、コモドゥスにとっては「崇拝してもらって、気持ちいい」相手。そんな相手に優しくても当たり前。
コモドゥスが本当はいい人、というエピソードはすべてこのウィビアに任されているが、この人格のない「妹萌え」ヲタの夢のような女の子がどれだけコモドゥスを褒め称えても、なんの証拠にもならない。
ウィビアに人格や思考能力があるなら、聞いてみたい。
「本当は優しい人」が、子どもの八つ当たりでしかない、幼稚園の先生にかまってほしくてぬいぐるみを引き裂く程度のメンタリティで、人殺しを続けることをどう思うのか。
本当は優しい人だから、ナニをしてもイイのか。
「そういう時代です、そうしていい身分です」と言うなら、別に「本当は優しい人」だと言う必要もない、だってソレが正しいってことだから。
わけわかんない。
ひっでー話(笑)。
ただひとつわかることは、「オデュセウス編」と「コモドゥス編」に分ける必要は、どこにもなかった。ってことだな。
チケット対策なんだろうけど、おかげでもーえらいことに。
スズキケイ、いっそすごい。
……もお、ナニをどこから語ればいいというか、突っ込めばいいのかわからない状態(笑)。
とりあえず。
ローマ人における「太陽」ってのは、「無責任」「裏切り者」と同意語なのか??
「オデュセウス編」にて、ローマを裏切り私欲に走った将軍オデュセウス@咲ちゃんのことを「アナタはローマの太陽です!!」と褒め称えた。
それだけでもあきれかえる展開だったが。
今回の「コモドゥス編」でもありましたよ。
短慮さとアホさで暴虐放題、父親を殺してまで手に入れた地位の義務を一切果たさず「死んで楽になろう」とすべて投げ出して逃げるコモドゥス@翔くんに対し、「お兄様は、太陽ですっ!!」と褒め称える。
ぽかーん……。
ナイわー。これはナイわー。
結局オデュセウスもコモドゥスも、私利私欲に生き、自分が気持ちいいことだけして、なんの努力もせずに死んでハッピーエンドなのよ。
生きて苦しむことはしないの。つらいことがあったら、さっさと死亡。自殺万歳。自殺万能。
それによって他人の迷惑とかは一切考えない。とことん自分だけが大事。
なのにそんな彼らを「太陽」「英雄」「偉人」と褒め称える世界観。
キモチワルイ……。なにこの歪んだ地平。
でも、とにかく主人公が死ぬから、観客は泣く。人が死ぬから感動作品だそうですよ。
なんて植爺&谷価値観。
まあそれはともかく。
「オデュセウス編」と「コモドゥス編」だと、後者の方が面白かった。
どちらの主人公も自分勝手で、騒ぐわりに自分ではなにもしないで勝手に滅びるんだけど、コモドゥスの方がわかりやすく悲劇っぽい作り。
わかりやすく可哀想、というのは、書きやすい。
さらに「コモドゥス編」はヒロインがいない。敵役もいない。コモドゥスただひとりしか登場しない、ひとり芝居みたいなもんだ。
脇に少しでもエピソードを、とか、ヒロインも描かなきゃ、とか、敵役も描かなきゃ、ということがなく、2時間まるまるコモドゥスひとりがあーでもないこーでもないと悩んでいられる。
そりゃ、盛り上げることは容易いよ……。
2時間コモドゥスの悩みしか描くことがないのに、展開ののろさといったらもお。
着た切り雀のキャラクタたちが出たり入ったりするだけで、いろんな時代の話に飛びまくる。でも、ストーリーは進まない(笑)。
「オデュセウス編」で「コモドゥスは何故暴君になったのか」という謎を掲げておきながら、その答えがなかなか明かされない。
それほど引っ張るべき謎でもないんだが、とにかく引っ張る引っ張る。
そこまでですでにえんえん流していた話のハイライトを、CM前に再び流して、CM後にまた1からハイライト流して、よーやくオチを見せるバラエティ並みに引っ張る。
「オデュセウス編」と「コモドゥス編」に同じ場面があることを言っているわけじゃない。
同じ場面でも、事実を知って観るとチガウ意味に見える、その効果はイイ。
同じ場面を使うことじゃなく、単に不要な場面が多すぎる。
なんのためにあるのかわからないやりとり、間、キャラクタ。
「下級生たちに出番を」という意味すら見えない、主要キャラがぐたぐだしているだけ。
わたしには水増しに見えた。
もともとは1本120分の話だったのを、2本240分にしなければならなくなったため、尺が余ってしまった。
それで何度も「コモドゥスは変わってしまった」「コモドゥスは苦悩している」とだけ繰り返す。
いやソレ、1回言ったらわかるから!!
10分で終わるエピソードを、何度も繰り返したり間を取ったりして、30分かけてみました、という印象。
そこまで無駄に時間と場面を消費していながら、肝心の父皇帝との話はナシだし。
パパがナニを考えていたのか、描かれてないんですが……ぽかーん。
父と息子が主軸になっているのに、描かれていることは「オデュセウス編」レベルなんですよ、父と息子の話は。
や、息子ひとりがえんえんうだうだゆーてますが。息子に60分間「パパに愛されていない、有能だとパパに認めてもらいたい」と同じことを繰り返させるヒマがあったら、パパの話を描けと。
いやもお、すごかった……。
オデュセウスの扱いもひどくて、「この変な人が誰なのか知りたいヒトは、『オデュセウス編』を観てね!」って感じ。
突然現れてKYなことを言って去っていく人。
あのー……いちおー彼、敵役っちゅーか、ライバルポジションの男だよね……?
「オデュセウス編」ではコモドゥスもかなり出番があって、敵役としての任は果たしていたんだけど、「コモドゥス編」のオデュセウスは出番ほとんどナシですよ……。
んで、ヒロイン。
妹のウィビアがいちおーヒロインっつーことになってるけど。
いや別に、彼女、ヒロインぢゃないっす(笑)。
この話、ヒロインいないから。
たまに出てきて「お兄様……」って言うだけの人格ナッシングキャラ。「妹」というラベルが貼ってあるだけ。
「お兄様は、本当は優しい人」って口で言うだけで、やさしい場面はない。妹とか、自分の大切なモノに優しいのは当たり前。どんな悪役だって、お金でも情婦でもペットでもいいけど、自分に利を与えてくれるものや愛する者には優しい。
ウィビアはコモドゥスを絶対視している唯一の存在、コモドゥスにとっては「崇拝してもらって、気持ちいい」相手。そんな相手に優しくても当たり前。
コモドゥスが本当はいい人、というエピソードはすべてこのウィビアに任されているが、この人格のない「妹萌え」ヲタの夢のような女の子がどれだけコモドゥスを褒め称えても、なんの証拠にもならない。
ウィビアに人格や思考能力があるなら、聞いてみたい。
「本当は優しい人」が、子どもの八つ当たりでしかない、幼稚園の先生にかまってほしくてぬいぐるみを引き裂く程度のメンタリティで、人殺しを続けることをどう思うのか。
本当は優しい人だから、ナニをしてもイイのか。
「そういう時代です、そうしていい身分です」と言うなら、別に「本当は優しい人」だと言う必要もない、だってソレが正しいってことだから。
わけわかんない。
ひっでー話(笑)。
ただひとつわかることは、「オデュセウス編」と「コモドゥス編」に分ける必要は、どこにもなかった。ってことだな。
チケット対策なんだろうけど、おかげでもーえらいことに。
スズキケイ、いっそすごい。
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