振り返らなかったオルフェの物語。@ランスロット
2011年8月30日 タカラヅカ 実は初見から泣いた。
スイッチ入るの早いですよ、なんせプロローグからですから。
で、1幕はあちこち泣いた。
2幕になって落ち着いたけど。
そんなつもりはなかったんだけど。
なにしろ『BUND/NEON 上海』で腹筋鍛えられるほど笑い、今回も笑うつもりで来たんだから。
ただ、『BUND/NEON 上海』のときに気付いてた。この作者、わたしとチャンネルが合う。これだけ笑いツッコミできるのも、そのためだと。
合わなさすぎてツッコミ入れたり笑ったりする某や某とはチガウ。好きだから、茶々を入れたくなるんだ。
『ランスロット』は、美しく哀しい物語だ。
最初から泣けたのは、この物語が傷みに満ちているから。
前提は失うこと。喪失。
プロローグからして、言い切っている。そして誰も生き残らなかった。
なにも残らない、無為に終わる……その上で語る。ランスロット、お前はナニを求めるのかと。
悲しみに満ちているのは、そのためだ。
今これからはじまること、目に映っていること、なにもかもが失われる、結末を知った上で語られている。
老人が失われた青春を、もう二度と帰らぬ人を追憶するかのように。
どれほど無邪気に美しいとしても、それは悲しい。
失われた物語。
かつてあった、今はないうつくしいもの。幸福。
明るい場面もかわいい場面も、全部全部痛みになる。
近いモノとして思い出すのは、大野せんせの『夢の浮橋』だ。アレも油断して観に行ったなー。まさかプロローグからダダ泣きで消耗しまくることになるとは思わずに。
まだ初見、原作を知っていることとは別に、これからなにを見せられるのかわかっていないのに、それでも滅びの予感に胸を締め付けられた。
それと同じ。
原作がどうとか語りがどうとかではなく。
痛いものが差し出される、その予感に震えた。
繰り返される、少年時代の思い出。
しあわせだったころのふたり。
つないだ手が永遠だと信じ、疑いもしなかった。
未来は希望に満ち、不可能など知らなかった。
だから彼らは語る。
振り返らなかったオルフェの物語を。
哀しい結末、間違った結末を、自分たちで書き換える。
みんながしあわせになる物語。
それを傲慢だとか荒唐無稽だとかは思わない。
だって彼らは、その手にすべてを持っている。
この世界、この地球。
少年であること、ってのは、そういうことだ。
不幸なのは、いつも先に大人になるのが女だということ。
グウィネビア@わかばは、女だった。
だから彼女は、ランスロット@マカゼより先に、少女時代に決別する。
ランスロットが立ち止まったままの世界から、彼女だけが一歩を踏み出してしまう。
閉まる扉。
象徴的に響く音。
少女は大人になる。少年を残して。
残された少年は絶望する。
ふたりだけの世界に、ひとり残されて。
振り返らなかったオルフェの物語を、自分たちが神である世界を、いつだって反芻できたのに。グウィネビアはもういない。
絶望に狂った少年は罪を犯し、もうひとりの自分・モルドレッド@キキを生み出す。
モルドレッドもまた、失ったエウリディーチェを求めてあがく者だ。
ランスロットを憎み復讐しようとする、その行為は冥府へ囚われた愛する者を奪い返さんとする行為。
目の前の現実を否定し、別の現実で塗り替えようとする行為。
ある意味、振り返らなかったオルフェの物語を紡ぐようなものだ。
物語が気に入らず、自分で書き換える。救う方向にではなく、滅ぼす方向で。
グウィネビアより遅れて、ランスロットも扉を出る。
少年のままではいられない。
彼は大人になる。ならざるを得ないのだと気づき、一歩を踏み出す。
もしもモルドレッドの悪意がなければ、ランスロットは現実と折り合いを付けて生活していったのだろう。
振り返らなかったオルフェの物語は作れない。結末は変えられない。そう知った。その上で、エウリディーチェを失ってなお生きていくオルフェの物語ならば、綴れたのだろう。
グウィネビアを愛し、アーサー@みっきーを敬愛し、キャメロットを愛して。
だけど「もうひとりの自分」の横やりによって、ランスロットは大人になれなかった。
大人になるとはどういうことか、もう知ってしまった。一度は扉を出た。
引き裂かれた心。モウコドモジャナイ、ダケド、オトナニモナレナイ。
子どもでも大人でもなく、ランスロットは「もうひとりの自分」を殺し、自らも死ぬ。
そうやって無に返すしかない。
仕切り直した彼は、再度少年の頃に夢見た結末を反芻する。
振り返らなかったオルフェの物語を。
彼の愛する者が、しあわせに生きる物語を。
彼自身は、その物語の中にいない。
物語のことわりの外。
本を読む子どものように。本を書く大人のように。
自分がその物語の中でしあわせになることよりも。
愛する人よ、人々よ、どうか幸せに。
掛け違えたボタンをひとつ直してやるだけで、あとは彼らが自分たちで乗り越え、切り開いていくと信じて。
初見から、予定外に泣けたし、響きまくった。
これは大切なものになる、わたしのなかで。そう思えた。
だから2回目の観劇時。
1幕はほぼ泣き通し、っての、予想は出来たけど、消耗するわー(笑)。
2幕は物語が動くから、ふつうに物語を見ていればいい。痛いのは1幕だよ、奥深いところに響きまくる。痛い。切ない。
『夢の浮橋』以来か。
こーゆーものが突然がつんと来るから、タカラヅカは侮れない。とことんセンシティヴ、理屈ではない魂揺さぶり系が来るんだもの、他の大味なものたちの中に混ざって。
ランスロット@マカゼは、いろいろ不自由な人だと思う。
足りていない、表現できないものが多分にある。
もどかしくもある。この作品が、この役が、別の人だったら。もっと達者な、最低限の技術のある人が演じていたら。
それでも、今、わたしが胸を締め付けられ、泣き通しているのは、マカゼの、不自由で乏しいランスロットだ。
他の役者ならもっと表現できるものだってあるだろうに、ろくに出来ず半端にうつむいている、もどかしいへたっぴのマカゼだ。
彼の届かないところ、表現できずに立ち止まっているところ、それらも含めて「ランスロット」なんだ。
モウコドモジャナイ、ダケド、オトナニモナレナイ。
子どもの扉は閉められてしまい、大人になれと促され、それを期待され命令され宿命付けられた……だけどまだ、標準より不器用な研6男役でしかない、真風涼帆だ。
今の彼を、愛しいと思う。
今、このときにしか存在しない、『ランスロット』という物語を、愛しいと思う。
スイッチ入るの早いですよ、なんせプロローグからですから。
で、1幕はあちこち泣いた。
2幕になって落ち着いたけど。
そんなつもりはなかったんだけど。
なにしろ『BUND/NEON 上海』で腹筋鍛えられるほど笑い、今回も笑うつもりで来たんだから。
ただ、『BUND/NEON 上海』のときに気付いてた。この作者、わたしとチャンネルが合う。これだけ笑いツッコミできるのも、そのためだと。
合わなさすぎてツッコミ入れたり笑ったりする某や某とはチガウ。好きだから、茶々を入れたくなるんだ。
『ランスロット』は、美しく哀しい物語だ。
最初から泣けたのは、この物語が傷みに満ちているから。
前提は失うこと。喪失。
プロローグからして、言い切っている。そして誰も生き残らなかった。
なにも残らない、無為に終わる……その上で語る。ランスロット、お前はナニを求めるのかと。
悲しみに満ちているのは、そのためだ。
今これからはじまること、目に映っていること、なにもかもが失われる、結末を知った上で語られている。
老人が失われた青春を、もう二度と帰らぬ人を追憶するかのように。
どれほど無邪気に美しいとしても、それは悲しい。
失われた物語。
かつてあった、今はないうつくしいもの。幸福。
明るい場面もかわいい場面も、全部全部痛みになる。
近いモノとして思い出すのは、大野せんせの『夢の浮橋』だ。アレも油断して観に行ったなー。まさかプロローグからダダ泣きで消耗しまくることになるとは思わずに。
まだ初見、原作を知っていることとは別に、これからなにを見せられるのかわかっていないのに、それでも滅びの予感に胸を締め付けられた。
それと同じ。
原作がどうとか語りがどうとかではなく。
痛いものが差し出される、その予感に震えた。
繰り返される、少年時代の思い出。
しあわせだったころのふたり。
つないだ手が永遠だと信じ、疑いもしなかった。
未来は希望に満ち、不可能など知らなかった。
だから彼らは語る。
振り返らなかったオルフェの物語を。
哀しい結末、間違った結末を、自分たちで書き換える。
みんながしあわせになる物語。
それを傲慢だとか荒唐無稽だとかは思わない。
だって彼らは、その手にすべてを持っている。
この世界、この地球。
少年であること、ってのは、そういうことだ。
不幸なのは、いつも先に大人になるのが女だということ。
グウィネビア@わかばは、女だった。
だから彼女は、ランスロット@マカゼより先に、少女時代に決別する。
ランスロットが立ち止まったままの世界から、彼女だけが一歩を踏み出してしまう。
閉まる扉。
象徴的に響く音。
少女は大人になる。少年を残して。
残された少年は絶望する。
ふたりだけの世界に、ひとり残されて。
振り返らなかったオルフェの物語を、自分たちが神である世界を、いつだって反芻できたのに。グウィネビアはもういない。
絶望に狂った少年は罪を犯し、もうひとりの自分・モルドレッド@キキを生み出す。
モルドレッドもまた、失ったエウリディーチェを求めてあがく者だ。
ランスロットを憎み復讐しようとする、その行為は冥府へ囚われた愛する者を奪い返さんとする行為。
目の前の現実を否定し、別の現実で塗り替えようとする行為。
ある意味、振り返らなかったオルフェの物語を紡ぐようなものだ。
物語が気に入らず、自分で書き換える。救う方向にではなく、滅ぼす方向で。
グウィネビアより遅れて、ランスロットも扉を出る。
少年のままではいられない。
彼は大人になる。ならざるを得ないのだと気づき、一歩を踏み出す。
もしもモルドレッドの悪意がなければ、ランスロットは現実と折り合いを付けて生活していったのだろう。
振り返らなかったオルフェの物語は作れない。結末は変えられない。そう知った。その上で、エウリディーチェを失ってなお生きていくオルフェの物語ならば、綴れたのだろう。
グウィネビアを愛し、アーサー@みっきーを敬愛し、キャメロットを愛して。
だけど「もうひとりの自分」の横やりによって、ランスロットは大人になれなかった。
大人になるとはどういうことか、もう知ってしまった。一度は扉を出た。
引き裂かれた心。モウコドモジャナイ、ダケド、オトナニモナレナイ。
子どもでも大人でもなく、ランスロットは「もうひとりの自分」を殺し、自らも死ぬ。
そうやって無に返すしかない。
仕切り直した彼は、再度少年の頃に夢見た結末を反芻する。
振り返らなかったオルフェの物語を。
彼の愛する者が、しあわせに生きる物語を。
彼自身は、その物語の中にいない。
物語のことわりの外。
本を読む子どものように。本を書く大人のように。
自分がその物語の中でしあわせになることよりも。
愛する人よ、人々よ、どうか幸せに。
掛け違えたボタンをひとつ直してやるだけで、あとは彼らが自分たちで乗り越え、切り開いていくと信じて。
初見から、予定外に泣けたし、響きまくった。
これは大切なものになる、わたしのなかで。そう思えた。
だから2回目の観劇時。
1幕はほぼ泣き通し、っての、予想は出来たけど、消耗するわー(笑)。
2幕は物語が動くから、ふつうに物語を見ていればいい。痛いのは1幕だよ、奥深いところに響きまくる。痛い。切ない。
『夢の浮橋』以来か。
こーゆーものが突然がつんと来るから、タカラヅカは侮れない。とことんセンシティヴ、理屈ではない魂揺さぶり系が来るんだもの、他の大味なものたちの中に混ざって。
ランスロット@マカゼは、いろいろ不自由な人だと思う。
足りていない、表現できないものが多分にある。
もどかしくもある。この作品が、この役が、別の人だったら。もっと達者な、最低限の技術のある人が演じていたら。
それでも、今、わたしが胸を締め付けられ、泣き通しているのは、マカゼの、不自由で乏しいランスロットだ。
他の役者ならもっと表現できるものだってあるだろうに、ろくに出来ず半端にうつむいている、もどかしいへたっぴのマカゼだ。
彼の届かないところ、表現できずに立ち止まっているところ、それらも含めて「ランスロット」なんだ。
モウコドモジャナイ、ダケド、オトナニモナレナイ。
子どもの扉は閉められてしまい、大人になれと促され、それを期待され命令され宿命付けられた……だけどまだ、標準より不器用な研6男役でしかない、真風涼帆だ。
今の彼を、愛しいと思う。
今、このときにしか存在しない、『ランスロット』という物語を、愛しいと思う。
コメント