実は初見から泣いた。
 スイッチ入るの早いですよ、なんせプロローグからですから。
 で、1幕はあちこち泣いた。
 2幕になって落ち着いたけど。

 そんなつもりはなかったんだけど。
 なにしろ『BUND/NEON 上海』で腹筋鍛えられるほど笑い、今回も笑うつもりで来たんだから。
 ただ、『BUND/NEON 上海』のときに気付いてた。この作者、わたしとチャンネルが合う。これだけ笑いツッコミできるのも、そのためだと。
 合わなさすぎてツッコミ入れたり笑ったりする某や某とはチガウ。好きだから、茶々を入れたくなるんだ。

 『ランスロット』は、美しく哀しい物語だ。

 最初から泣けたのは、この物語が傷みに満ちているから。

 前提は失うこと。喪失。
 プロローグからして、言い切っている。そして誰も生き残らなかった。
 なにも残らない、無為に終わる……その上で語る。ランスロット、お前はナニを求めるのかと。
 悲しみに満ちているのは、そのためだ。
 今これからはじまること、目に映っていること、なにもかもが失われる、結末を知った上で語られている。
 老人が失われた青春を、もう二度と帰らぬ人を追憶するかのように。
 どれほど無邪気に美しいとしても、それは悲しい。
 失われた物語。
 かつてあった、今はないうつくしいもの。幸福。
 明るい場面もかわいい場面も、全部全部痛みになる。

 近いモノとして思い出すのは、大野せんせの『夢の浮橋』だ。アレも油断して観に行ったなー。まさかプロローグからダダ泣きで消耗しまくることになるとは思わずに。
 まだ初見、原作を知っていることとは別に、これからなにを見せられるのかわかっていないのに、それでも滅びの予感に胸を締め付けられた。

 それと同じ。
 原作がどうとか語りがどうとかではなく。
 痛いものが差し出される、その予感に震えた。

 繰り返される、少年時代の思い出。
 しあわせだったころのふたり。
 つないだ手が永遠だと信じ、疑いもしなかった。
 未来は希望に満ち、不可能など知らなかった。

 だから彼らは語る。
 振り返らなかったオルフェの物語を。
 哀しい結末、間違った結末を、自分たちで書き換える。
 みんながしあわせになる物語。

 それを傲慢だとか荒唐無稽だとかは思わない。
 だって彼らは、その手にすべてを持っている。
 この世界、この地球。
 少年であること、ってのは、そういうことだ。

 不幸なのは、いつも先に大人になるのが女だということ。

 グウィネビア@わかばは、女だった。
 だから彼女は、ランスロット@マカゼより先に、少女時代に決別する。
 ランスロットが立ち止まったままの世界から、彼女だけが一歩を踏み出してしまう。
 閉まる扉。
 象徴的に響く音。
 少女は大人になる。少年を残して。

 残された少年は絶望する。
 ふたりだけの世界に、ひとり残されて。
 振り返らなかったオルフェの物語を、自分たちが神である世界を、いつだって反芻できたのに。グウィネビアはもういない。

 絶望に狂った少年は罪を犯し、もうひとりの自分・モルドレッド@キキを生み出す。

 モルドレッドもまた、失ったエウリディーチェを求めてあがく者だ。
 ランスロットを憎み復讐しようとする、その行為は冥府へ囚われた愛する者を奪い返さんとする行為。
 目の前の現実を否定し、別の現実で塗り替えようとする行為。

 ある意味、振り返らなかったオルフェの物語を紡ぐようなものだ。
 物語が気に入らず、自分で書き換える。救う方向にではなく、滅ぼす方向で。

 グウィネビアより遅れて、ランスロットも扉を出る。
 少年のままではいられない。
 彼は大人になる。ならざるを得ないのだと気づき、一歩を踏み出す。
 もしもモルドレッドの悪意がなければ、ランスロットは現実と折り合いを付けて生活していったのだろう。
 振り返らなかったオルフェの物語は作れない。結末は変えられない。そう知った。その上で、エウリディーチェを失ってなお生きていくオルフェの物語ならば、綴れたのだろう。
 グウィネビアを愛し、アーサー@みっきーを敬愛し、キャメロットを愛して。

 だけど「もうひとりの自分」の横やりによって、ランスロットは大人になれなかった。
 大人になるとはどういうことか、もう知ってしまった。一度は扉を出た。
 引き裂かれた心。モウコドモジャナイ、ダケド、オトナニモナレナイ。

 子どもでも大人でもなく、ランスロットは「もうひとりの自分」を殺し、自らも死ぬ。
 そうやって無に返すしかない。

 仕切り直した彼は、再度少年の頃に夢見た結末を反芻する。

 振り返らなかったオルフェの物語を。
 彼の愛する者が、しあわせに生きる物語を。

 彼自身は、その物語の中にいない。
 物語のことわりの外。
 本を読む子どものように。本を書く大人のように。
 自分がその物語の中でしあわせになることよりも。

 愛する人よ、人々よ、どうか幸せに。

 掛け違えたボタンをひとつ直してやるだけで、あとは彼らが自分たちで乗り越え、切り開いていくと信じて。


 初見から、予定外に泣けたし、響きまくった。
 これは大切なものになる、わたしのなかで。そう思えた。
 だから2回目の観劇時。

 1幕はほぼ泣き通し、っての、予想は出来たけど、消耗するわー(笑)。

 2幕は物語が動くから、ふつうに物語を見ていればいい。痛いのは1幕だよ、奥深いところに響きまくる。痛い。切ない。
 『夢の浮橋』以来か。
 こーゆーものが突然がつんと来るから、タカラヅカは侮れない。とことんセンシティヴ、理屈ではない魂揺さぶり系が来るんだもの、他の大味なものたちの中に混ざって。

 ランスロット@マカゼは、いろいろ不自由な人だと思う。
 足りていない、表現できないものが多分にある。
 もどかしくもある。この作品が、この役が、別の人だったら。もっと達者な、最低限の技術のある人が演じていたら。

 それでも、今、わたしが胸を締め付けられ、泣き通しているのは、マカゼの、不自由で乏しいランスロットだ。
 他の役者ならもっと表現できるものだってあるだろうに、ろくに出来ず半端にうつむいている、もどかしいへたっぴのマカゼだ。
 彼の届かないところ、表現できずに立ち止まっているところ、それらも含めて「ランスロット」なんだ。

 モウコドモジャナイ、ダケド、オトナニモナレナイ。
 子どもの扉は閉められてしまい、大人になれと促され、それを期待され命令され宿命付けられた……だけどまだ、標準より不器用な研6男役でしかない、真風涼帆だ。

 今の彼を、愛しいと思う。

 今、このときにしか存在しない、『ランスロット』という物語を、愛しいと思う。

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