『仮面の男』のムラ版、演出を中心とした感想、その2。
 まずは「早わかり世界史」の否定から。

 わかりにくくする「早わかり世界史」なんてものは、なんの存在意義もない。
 この場面が存在する理由は、ただ「こだまっちが、ウケ狙いをした」というだけ。

 繰り返す。
 このウケ狙いが成功しているならいい。しかし盛大にすべっている。
 内容的に不要で、「ウケる」ためにやったことが、観客に喜ばれるどころか「不快」と受け取られている。百害あって一利なし。バカじゃねーの。

 「早わかり世界史」がいけないわけじゃない。
 別に、やってもかまわない。本筋と関係ないものが全部ダメなわけじゃない。

 笑いを取りに行ってもいい。
 ギャグのセンスが良く、ヅカヲタも一般客も気持ちよく笑えるものなら、「『仮面の男』はシリアス芝居なのよ、笑いなんていらないわ!」と言っているわけじゃないんだ。
 サムくて不快なだけの笑えないギャグを、えんえん時間をかけてやっているから、「不要」と言われるんだ。

 さらに言うなら、笑えない、サムいギャグであってもいい。
 この場面がめちゃくちゃ美しいとかかっこいいとか、ヅカヲタも一見さんも口ぽかーんで見とれ、その美しさだけで「なんかいいもん見た?」と誤解するような舞台美術や演出ならば。
 ギャグは笑えないけど、かっこよかったからいいや、と思わせてくれるならば。
 ストーリー的に不要でもすべっていても、美しいは正義、かっこいいは正義。
 たとえば舞台美術が『タカラヅカ・ドリーム・キングダム』のPart3「夢の城」ばりの豪華さ荘厳さなら、多少演出がどうあっても底上げされたし、豪華なセットを見ているだけでも値打ちがあったろう。横尾忠則の感性とNTT協賛の潤沢な予算をここぞとばかりにつぎ込んだ、近年例を見ないくらいの豪華セットだった、あのレベルなら。

 しかし「早わかり世界史」はそうじゃない。
 びんぼーくさい板1枚のセット。そこをほんの数名の生徒が盆に乗って出てくるだけ。脚本演出のサムさくだらなさを救いきれない……どころか、とほほ感を増している。
 広い空間、大劇場という大きな舞台を持て余している。こだまっちは意気揚々とこんなショボイ演出しかできない、ということが露見した場面でもある。

 心から「不要」だと思う、この場面。


 場が冷え冷えとしたところでようやくルイ14世@キム登場。
 オープニングに登場していた男と同一人物なのか、説明は一切なし。

 ところで、「朕は国家なり」って台詞、わたしは嫌いなんだが、こだまっち的萌え台詞なんだろうな。
 ルイ14世の有名な台詞だから使うのは仕方ない……とは思えないんだ。

 だって『龍星』のサブタイトルもコレだ。
 トウコ主演『龍星』-闇を裂き天翔けよ。朕は、皇帝なり-
 タイトルだけでなく、劇中の台詞でも言わせている。
 『龍星』はこだまっちの唯一の感動作。盗作だとも言われているけれど、わたし的にはこれは「盗作」判定ではない。ただ、こだまっちがナニから影響を受けているか丸わかりで、作品の本質と関係ないところで無駄なパクリをしているので(必要ない部分で元ネタの台詞をまんま使っていたりな)、「バカだな」と思うのみ。
 『龍星』はこだまっち個人の作品ではなく、半分トウコちゃん作らしいね、トウコもこだまっち本人も言っていた(笑)。『仮面の男』もトウコに演出して欲しかったわ。

 わたしは単純に音として「ちん」という一人称が好きじゃない。これは好みの問題だから、世の中の人は「ちん」と言われると「カッコイイ! 絶対君主っぽい!」と思うのかもしれない。
 わたしの感覚では、君主っぽい一人称は「よ」かなー。でもふつーに「わたし」や「わし」の方が好みだ。
 わたしの感覚はさほどズレてないのかなと思う理由は、タカラヅカにしろマンガやアニメにしろ、「美形君主」で観客や読者視聴者に好意を持って欲しいキャラクタは決して「ちん」という一人称を使わない。「私」やせいぜい「余」という言葉を使う。もしも世間の人々が「ちん」を大好きならちんちん言わせていると思うのに、そうじゃないから、やっぱ世の中的に萎え一人称なんじゃないの?

 こだまっちは単に、男役に「ちん」と言わせたいだけじゃないのかと勘ぐるわ(笑)。
 なんでこんな言葉に萌えるんだろう。宇宙人の考えることはよくわからない。

 てゆーか、『三銃士』という物語でもっとも有名なキメ台詞「みんなはひとりのために、ひとりはみんなのために」をわざわざフランス語で言わせ、決して日本語で言わせないのだから、ルイ14世のキメ台詞もフランス語にすればいいじゃない。
 やっぱ「ちん」が好きなんだとしか……(笑)。

 ここからルイの悪趣味場面になる。
 最終的にルイは天罰が下り、彼が不幸になってハッピーエンドである以上、観客が彼に同情せずに済むように、とことん嫌な奴であると描かねばならない。
 しかし、それがボウリングである意味は??

 アイディアが悪いわけじゃない、と思う。
 描くテーマが「ルイの悪趣味」で、「人間をボウリングにして遊ぶ」のは確かに悪趣味以外のナニモノでもないので、間違ってない。
 問題は、描き方だな。「早わかり世界史」が悪いのではなく、描き方・センスが悪い、のと同じ。

 人間ボウリングのいちばんの欠点は、「わかりにくいのに、長い」ことだと思った。

 宮廷場面なのに装飾もないだだっぴろいだけの舞台に、ドレスの淑女たち。
 太陽王の玉座は折りたたみ簡易椅子。

 「早わかり世界史」と同じなんだ。
 広い空間、大劇場という大きな舞台を持て余している。
 同じことをやってもバウホールならもっと様になったと思う。広大な大劇場の舞台は、たった10人の淑女ごとき飲み込んでしまい、ガラガラで寂しい画面となる。

 その寂しいショボイ画面で、やっていることが「人間ボウリング」。
 これがものごっつー、わかりにくい。

 わたしのアタマが堅すぎるのかな。ボウリングってさ、ボールを投げてピンを倒すじゃん? 投げてみるまでどのピンが倒れるかわからない。
 だから、ルイがボールを投げて、残った淑女とつきあう、ならナニをしているのか一目瞭然、女性をそんな風に扱い、そんなどーでもいい運任せの方法で選ぶなんてひどいわ、と思えるんだけど。
 実際にルイが投げなくてもいいよ、王様だから。ルイの命令でボール係が投げる、でもいい。実際に「ボウリング」をするのなら。

 だけどそうではなく、淑女たちは登場した瞬間に選別される。ルイが番号を侍従@りんきらに伝え、伝言ゲームで巨大メガホン@朝風くんが番号を読み上げ、その番号以外の淑女を、わざわざボール係@あすレオが倒していく。

 ボウリングである意味ないじゃん。

 ボウリングしてないし。
 ぽかーん。ナニヤッテルンダロウ、アレハ……。

 意味わかんない。


 続く。

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