行動のあと、恨みごとと愚痴と言い訳を並べ立てる男ってば。@我が愛は山の彼方に
2011年12月8日 タカラヅカ チャムガは、オイシイ役だなあ。
全ツ『我が愛は山の彼方に』を観て、しみじみ。
2番手役はオイシイ、とよく言うけれど、実際そーゆー役はそれほど多くない。やっぱいちばんオイシイのは主役だ。
しかしこのチャムガという役は、オイシイわ。「男」を上げる役だわ。こーゆー役を2番手に与えることで、観客の興味を次代へとつなげていくのも、座付き作家の仕事なんだわ。
と、大嫌いなはずの植爺作品を、何故か好意的に観てしまったのでした。やっぱ老練よね、植爺。「タカラヅカ」の記号をわかった人よね。と。
……疲れてるんだなあ、あたし。
にしても、植爺の衰え方はわかりやすく、彼はもうたくさんのキャラクタの絡む話は作れないし、動かすことすら出来ないんだ。
今回の再演を観て、「役の少なさ」に驚いた。
主人公・秀民@きりやん、ヒロイン・万姫@まりも、恋敵・チャムガ@まさお、秀民の部下・玄喜@もりえ、チャムガの部下・エルムチ@リュウ様、万姫の侍女・楚春@トウカさんしか、役がなかった。
ひとりの女を争う男がふたり、あとはこの3人の会話の合いの手になる連れがそれぞれひとりずついるだけ、計6人。万姫のもとには「あいごー」老夫婦もいるけど、この役は役割的には楚春と同じなので独立した役割はない。
合いの手役はシャドウでしかないので、登場人物は正味3人だけだ。ドラマも、3人分しかない。しかも三角関係というベタなネタ一本。
植爺の最近の新作『長崎しぐれ坂』にしろ『パリの空よりも高く』にしろ『ソルフェリーノの夜明け』にしろ、本編とは無関係のプロローグや本編をぶった切って唐突にいつまでも続くショー場面でわかる通り、ドラマ部分が少ない。
95分もの時間を使う物語を、書けなくなっているんだ。
せいぜい50分が限度。
で、50分で描けることといえば、主役3人の三角関係くらいのものだ。
登場人物がひとり増えると、物語の尺は伸びる。足し算ではなく、乗算だ。わたしが小説を書くとき、規定枚数をオーバーしてどうしようもない場合、いちばん確実な枚数を減らす方法として「登場人物を減らす」方法を採る。ふたり登場していた友人をひとりですべてまかなったりとか、しちゃうわけだ。キャラクタがひとり減ると、本文はどーんと枚数が減るんだよ。
反対に、長い物語を書くときは、キャラクタを増やす。ひとり増やすだけで、残り全部のキャラクタとの絡みが立体的に増えるので、本文も物語の奥行きもどーんと増える。
キャラがたくさんいて、長い物語のプロットは入り組んでいてほんとに大変なことになる……わけだから、それができない、最初から放棄している植爺は、創作者としてはほんっとーにもう終わっているんだなと、今回もまた思った。
つーのも、役もエピソードも、減ってるよね?
『我が愛は山の彼方に』って、ここまで平面的な話じゃなかったよね?
そのあたりはなんだかなあ、と思うんだが、わたしも疲れているせいか、少ないキャラクタと少ないドラマだけではじまり終わる物語を、スプリンターのように瞬発力で楽しんだ。
万姫に感情移入して観劇したもんだから、いい男ふたりに愛されて大変!という、女の醍醐味を味わいましたよ(笑)。
でもって、しみじみとチャムガはいい役だと思った。
そりゃ万姫もチャムガを選ぶわー。
原作がどうなのかを知らないのだけど、万姫がチャムガへの心変わりをものすげー不自然に言いつくろうのは、秀民がトップスターで、チャムガが2番手だからかなと思う。
植爺は『ベルばら』の改悪でもよくやるけど、「カッコイイ台詞を言うのはトップスター」とか彼の中でルールがあって、ある台詞を、アンドレが主役のときはアンドレが言い、オスカルが主役のときはオスカルが言い、フェルゼンが主役のときはフェルゼンが言う、てのがある。
アンドレもオスカルもフェルゼンも別の人間で立ち位置も性格も考え方も、まーったくチガウにもかかわらず、「カッコイイ台詞だから」というだけの理由で「その作品の主役」が言う。作品もテーマもキャラクタも場面もストーリーも、無視。「トップスター様」に、その場限りの「華」を持たせる。
もしもチャムガ主役で『我が愛は山の彼方に-チャムガ編-』を作ったら、チャムガをトップスターが演じていたら、万姫はチャムガへ真実の愛を語り、秀民との婚約は「恩があるから仕方なかった」と言うんだろうなあ(笑)。
植爺の「スターの立て方」はとてもいびつ……というか、浅はかだ。
豪華な衣装を着ていればいい、台詞がたくさんあればいい、歌を歌えばいい、銀橋を渡ればいい、他のキャラクタから褒められればいい……「良い役」というのは、そんな表面的なことで計れるものじゃないということが、理解できない。彼は「目に見える」もので目に見えないものを計る。目に見えない才能とか誠意とかより、目に見える権威とかお金とかが好きなんだろうなあ、なんて、うがったことを考えてしまうほど(笑)。
万姫がチャムガを選ぶのは、流れとしてわかる。
平和なときにふつーにラヴラヴだった彼氏より、命ぎりぎりのときに守ってくれた敵の男に惹かれるのは、ふつーにあること。
万姫がとてもわけわからん描かれ方をしているのは、そういう流れがあるにもかかわらず、「チャムガの妻」とまで宣言させておきながら、チャムガは恩人、秀民への愛は変わらないと手のひらを返させる。
秀民がトップスターだから、ヒロインに愛されなければならないから。植爺ルールによって、万姫は破壊される。
植爺には理解できない。ヒロインに捨てられたって、それでもカッコイイ男がある、ということを。
身を引く男の格好良さを理解しないなら、どうして最初からチャムガをトップスターの役にしないんだろう。
そうすれば好きなだけチャムガを賛美できるのに。
先にタイトルが決まっていて、トップスターに「我が愛は山の彼方にいぃぃぃ!!」と叫ばせるためかな?
生き残る方しか言えないもんな。
万姫主役で見てしまったわたしは、万姫自害のあとの秀民の繰り言が蛇足にしか思えず、相当うざかったっす。
んな恨みごと言うくらいなら、「チャムガは万姫を我が妻と言った」と言わなければよかったんだよ。
そう言ったからには、あとは嘆くだけにしとけ。
何故そう言ったかとか、1から10まで全部言葉で喋って説明する男は格好悪すぎる。
きりやさんの秀民は、その長台詞になる前までが、壮絶に格好良かった。
くどくど解説しなくても、彼が何故そう言わざるを得なかったか、あえてそう言ったのかが、全部伝わってくる。
きりやんの芝居に十分泣かされていただけに、そのあとの恨みごとのくどさは主人公の価値を下げまくった。主題歌を歌い上げるきりやんはいいんだけどなあ……あれだけ愚痴ったあとだと、せっかくの壮大な歌も台無し。
てことで、余計なことは言わずに死ぬ、チャムガはほんっとーにオイシイ役だ。
全ツ『我が愛は山の彼方に』を観て、しみじみ。
2番手役はオイシイ、とよく言うけれど、実際そーゆー役はそれほど多くない。やっぱいちばんオイシイのは主役だ。
しかしこのチャムガという役は、オイシイわ。「男」を上げる役だわ。こーゆー役を2番手に与えることで、観客の興味を次代へとつなげていくのも、座付き作家の仕事なんだわ。
と、大嫌いなはずの植爺作品を、何故か好意的に観てしまったのでした。やっぱ老練よね、植爺。「タカラヅカ」の記号をわかった人よね。と。
……疲れてるんだなあ、あたし。
にしても、植爺の衰え方はわかりやすく、彼はもうたくさんのキャラクタの絡む話は作れないし、動かすことすら出来ないんだ。
今回の再演を観て、「役の少なさ」に驚いた。
主人公・秀民@きりやん、ヒロイン・万姫@まりも、恋敵・チャムガ@まさお、秀民の部下・玄喜@もりえ、チャムガの部下・エルムチ@リュウ様、万姫の侍女・楚春@トウカさんしか、役がなかった。
ひとりの女を争う男がふたり、あとはこの3人の会話の合いの手になる連れがそれぞれひとりずついるだけ、計6人。万姫のもとには「あいごー」老夫婦もいるけど、この役は役割的には楚春と同じなので独立した役割はない。
合いの手役はシャドウでしかないので、登場人物は正味3人だけだ。ドラマも、3人分しかない。しかも三角関係というベタなネタ一本。
植爺の最近の新作『長崎しぐれ坂』にしろ『パリの空よりも高く』にしろ『ソルフェリーノの夜明け』にしろ、本編とは無関係のプロローグや本編をぶった切って唐突にいつまでも続くショー場面でわかる通り、ドラマ部分が少ない。
95分もの時間を使う物語を、書けなくなっているんだ。
せいぜい50分が限度。
で、50分で描けることといえば、主役3人の三角関係くらいのものだ。
登場人物がひとり増えると、物語の尺は伸びる。足し算ではなく、乗算だ。わたしが小説を書くとき、規定枚数をオーバーしてどうしようもない場合、いちばん確実な枚数を減らす方法として「登場人物を減らす」方法を採る。ふたり登場していた友人をひとりですべてまかなったりとか、しちゃうわけだ。キャラクタがひとり減ると、本文はどーんと枚数が減るんだよ。
反対に、長い物語を書くときは、キャラクタを増やす。ひとり増やすだけで、残り全部のキャラクタとの絡みが立体的に増えるので、本文も物語の奥行きもどーんと増える。
キャラがたくさんいて、長い物語のプロットは入り組んでいてほんとに大変なことになる……わけだから、それができない、最初から放棄している植爺は、創作者としてはほんっとーにもう終わっているんだなと、今回もまた思った。
つーのも、役もエピソードも、減ってるよね?
『我が愛は山の彼方に』って、ここまで平面的な話じゃなかったよね?
そのあたりはなんだかなあ、と思うんだが、わたしも疲れているせいか、少ないキャラクタと少ないドラマだけではじまり終わる物語を、スプリンターのように瞬発力で楽しんだ。
万姫に感情移入して観劇したもんだから、いい男ふたりに愛されて大変!という、女の醍醐味を味わいましたよ(笑)。
でもって、しみじみとチャムガはいい役だと思った。
そりゃ万姫もチャムガを選ぶわー。
原作がどうなのかを知らないのだけど、万姫がチャムガへの心変わりをものすげー不自然に言いつくろうのは、秀民がトップスターで、チャムガが2番手だからかなと思う。
植爺は『ベルばら』の改悪でもよくやるけど、「カッコイイ台詞を言うのはトップスター」とか彼の中でルールがあって、ある台詞を、アンドレが主役のときはアンドレが言い、オスカルが主役のときはオスカルが言い、フェルゼンが主役のときはフェルゼンが言う、てのがある。
アンドレもオスカルもフェルゼンも別の人間で立ち位置も性格も考え方も、まーったくチガウにもかかわらず、「カッコイイ台詞だから」というだけの理由で「その作品の主役」が言う。作品もテーマもキャラクタも場面もストーリーも、無視。「トップスター様」に、その場限りの「華」を持たせる。
もしもチャムガ主役で『我が愛は山の彼方に-チャムガ編-』を作ったら、チャムガをトップスターが演じていたら、万姫はチャムガへ真実の愛を語り、秀民との婚約は「恩があるから仕方なかった」と言うんだろうなあ(笑)。
植爺の「スターの立て方」はとてもいびつ……というか、浅はかだ。
豪華な衣装を着ていればいい、台詞がたくさんあればいい、歌を歌えばいい、銀橋を渡ればいい、他のキャラクタから褒められればいい……「良い役」というのは、そんな表面的なことで計れるものじゃないということが、理解できない。彼は「目に見える」もので目に見えないものを計る。目に見えない才能とか誠意とかより、目に見える権威とかお金とかが好きなんだろうなあ、なんて、うがったことを考えてしまうほど(笑)。
万姫がチャムガを選ぶのは、流れとしてわかる。
平和なときにふつーにラヴラヴだった彼氏より、命ぎりぎりのときに守ってくれた敵の男に惹かれるのは、ふつーにあること。
万姫がとてもわけわからん描かれ方をしているのは、そういう流れがあるにもかかわらず、「チャムガの妻」とまで宣言させておきながら、チャムガは恩人、秀民への愛は変わらないと手のひらを返させる。
秀民がトップスターだから、ヒロインに愛されなければならないから。植爺ルールによって、万姫は破壊される。
植爺には理解できない。ヒロインに捨てられたって、それでもカッコイイ男がある、ということを。
身を引く男の格好良さを理解しないなら、どうして最初からチャムガをトップスターの役にしないんだろう。
そうすれば好きなだけチャムガを賛美できるのに。
先にタイトルが決まっていて、トップスターに「我が愛は山の彼方にいぃぃぃ!!」と叫ばせるためかな?
生き残る方しか言えないもんな。
万姫主役で見てしまったわたしは、万姫自害のあとの秀民の繰り言が蛇足にしか思えず、相当うざかったっす。
んな恨みごと言うくらいなら、「チャムガは万姫を我が妻と言った」と言わなければよかったんだよ。
そう言ったからには、あとは嘆くだけにしとけ。
何故そう言ったかとか、1から10まで全部言葉で喋って説明する男は格好悪すぎる。
きりやさんの秀民は、その長台詞になる前までが、壮絶に格好良かった。
くどくど解説しなくても、彼が何故そう言わざるを得なかったか、あえてそう言ったのかが、全部伝わってくる。
きりやんの芝居に十分泣かされていただけに、そのあとの恨みごとのくどさは主人公の価値を下げまくった。主題歌を歌い上げるきりやんはいいんだけどなあ……あれだけ愚痴ったあとだと、せっかくの壮大な歌も台無し。
てことで、余計なことは言わずに死ぬ、チャムガはほんっとーにオイシイ役だ。
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