『ロバート・キャパ 魂の記録』、バウ楽観劇。や、みーちゃんの宙組ムラ楽を観たくて。

 『ロバート・キャパ 魂の記録』は千秋楽だけの観劇です。最初にチケット取れたのが楽だけだったので。
 他の演出家なら、ハマったときのためにリピート可能な時期に観劇するんだけど、なにしろ原田くんだから、そんな心配は無用、と安心してラスト1回だけの観劇っす。

 ……思った通りの、原田くんクオリティな舞台でした。

 知らないものには、とりあえずわくわくする。観る前から悪い方には考えない、できるだけポジティブに受け取る。その方が人生楽しい。
 だから『Je Chante』のときは、がんばった。できるだけ前向きに、悪いところは考えすぎないようにして、観劇した。
 『Je Chante』ゆえに悪い予感はあったけれど、次の『ニジンスキー』もまた、できるだけ自分的に盛り上がって観劇した。
 『Je Chante』は壊れまくってたけど、『ニジンスキー』はとりあえず手堅くまとめていたので、いちおー進歩しているんだっちゅー部分を評価して、山ほどある疑問点はスルーする方向にと、心がけた。

 しかし、2作連続アレだったので、クリエイターとしての原田くんの評価は、わたし的にとても低い。
 期待はしていない、むしろ危惧ばかりだったけど……。

 はい、悪い予感は当たるものです。
 『ロバート・キャパ』は、『Je Chante』『ニジンスキー』と同じ、とっても困った作品でした。


 『Je Chante』はぶっ壊れた作品だった。
 なにがどーしてどうなったのか、めちゃくちゃ。
 作者の脳内にはなにかしら筋道があったようですが、実際に舞台上で書かれているモノは整合性のない断片ばかり。
 ただその断片が「タカラヅカで5万回観た」ありきたりのパーツだったので、観客は断片と断片の間を勝手に脳内で補い、ストーリーを補完して観ていたわけっす。
 「主人公とヒロインが出会って、道ばたで立ち話をした」これだけしか書かれていないのに、次の場面では「権力者の手によって、引き裂かれるふたり」……書かれているのはコレだけなのに、観客はその立ち話だけで「運命の恋」「両思い」とか、書かれてもいないことを勝手に補完していくのな。
 立ち話しただけなのになー。告白もしてないし、つきあってもいないのになー。それだけしか書かれていないのに、さらに次の場面では「数年後、運命の恋人であるヒロインは、悪のナチス将校の情婦となっていた!」だし。や、だから君たち、立ち話しかしてないわけで……。
 純粋に計算式が理解できていないのかと危ぶんだ。1+1は2。1を2にしたかったら、どこかで1を足さなきゃならないんだよ? 1+0+0+0と、ちっとも数字を加えていないのに、答えだけ2のつもりで話を進めていく。原田くん、算数出来ない人?

 でも、『ニジンスキー』ではふつーに、「1+1=2」とやってくれたので、最低限の算数は出来る人なんだと胸をなで下ろした。

 最低限の算数……つまり、物語の組み立てはできる。
 じゃあその組み立てた物語で、ナニを描き、表現するのか?


 原田作品って、お店で売ってるアクセサリー作成キットみたいだ。

 きれいな出来上がり写真が付いていて、パッケージを開けると必要なパーツが全部入っていて、レシピも付いている。
 買った人は、レシピを見ながらビーズだーのテグスだーのを使って、自分でアクセを作成する。
 確かに作ったのはその人だけど、出来上がり写真とレシピ通りに作るだけなので、誰が作っても同じ。

 もしもわたしがアクセサリー作成キットを買ってきて、美しいネックレスを作ったとして、さて、わたしはアーティストでしょうか? ネックレスを創作した人、になるのでしょうか?

 偉人の伝記とか年表があって、美しい出演者たちが用意されていて、宝塚歌劇団が100年掛けて培ってきた「お約束」があって。
 年表通りに出来事やキャラクタを配置し、ヅカヲタの好きな「お約束」「モチーフ」「泣かせ」等でつないで、はい出来上がり。
 
 原田くんって、クリエイターっつーより、サラリーマンだよなああ。
 依頼書通りにパーツを並べて、「出来ました、判子ください」って言ってる感じ。

 『Je Chante』はひどい作品だったけれど、「タカラヅカ的な美しさ」に満ちていた。タカラヅカの基本に忠実というか、ソレしかないというか。
 だからとりあえず、「タカラヅカ」っぽい画面を評価した。
 『ニジンスキー』は薄っぺらい作品だったけれど、「タカラヅカ的な美しさ」に満ちていた。タカラヅカの基本に忠実というか、ソレしかないというか。
 2作連続、とりあえず「タカラヅカ」っぽさを大切にしているのだから、タカラヅカである意味はあるかな、と思った。
 また、主役カップルと2番手にしか役割も意味もなく、残りの出演者がただのモブ、動く背景でしかないことに大いに疑問はあったが、トップコンビが美しく、2番手が美味しくかっこいい、のはタカラヅカ的に正しいと思っていた。

 物語に評価できるところがないため(笑)、それ以外のところを必死に「いいところ探し」をしていたんだなー。

 「タカラヅカ」っぽいものを作る、原田先生の美点はそれだけだった。わたしにとって。
 わたしはタカラヅカが好き。だから、タカラヅカを愛し、尊重した作品を作る人は好き。
 これだけ過去のタカラヅカを研究して、「とりあえずタカラヅカっぽい」モノを作る新人なんだから、きっとタカラヅカが好きなんだよね? なにをやりたくて演出家になったのか、作品からまったく伝わってこないけど、仕事だからやってます的だけど、たぶんきっと、タカラヅカが好きなんだよね?

 しかし、3作目の『キャパ』まで来て、疑問が強まった。

 原田くんってさ、ほんとにタカラヅカ好きなの?

 「タカラヅカっぽい」ってだけで、タカラヅカへの愛も執着も見えない作風ではあったが、わざわざヅカで演出家やってるんだし、なにかしら好きでやってるんだろうなと、好意的に受け止めてきたけどさー。

 タカラヅカの魅力のひとつに、「出演者全員が生徒」ってことがある。
 その演目を上演するために集められたキャストではない。一部のスターとアンサンブルではない。
 トップスターを頂点としたピラミッドが売りだが、名もなき下級生たちもが「将来のトップスター」の可能性を秘めて舞台に立っている。……や、ソレは建前で、トップになる子はある程度最初から決まっているんだが、それでも表向きはみな平等なスタートライン、初舞台では同じ衣装でロケットをやるところからはじまる。
 主役だけが目立てばいいわけじゃない。たとえ物語が壊れたとしても、できるだけたくさんの出演者に役や見せ場を作る、それがタカラヅカだ。外部との違いだ。

 3作連続、主役にしか物語のない作品を作る、ってソレ、「タカラヅカ」を否定してるよねえ。愛してないよねえ。

 主役だけ描いてそれで終わりで良いなら、誰でも作品を作れるよ。2時間もあるんだもん。数十人の出演者を使いこなさなければならないから、ヅカの演出は難しいんだ。
 いちばん難しい部分をスルーして、「一見まとまった作品」を作る。
 ストーリーは「年表」。自分で考えなくても、材料もレシピも出来上がり写真も揃っている。誰だって、作れる。

 自由に作っていいはずなのに、自分では創作せず、お手軽にアクセサリー作成キットで「ほら、きれいなアクセでしょ」と出来上がりを見せられても、疑問しか残らない。
 なにがしたいんだ。レシピ通りに有りモノを組み合わせるのが、原田くんの「創作」なのか。しかも、素材への愛も見えないときた。

 「創作」を愛し、「タカラヅカ」を愛するモノには、なかなかつらい演出家です、原田くん。
 これからもずっと、こんな作風や姿勢で行くのかな?

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