わたしはもともと雑誌『歌劇』を好きじゃなかった。
 『グラフ』と『歌劇』なら、断然『グラフ』派。
 その昔、「宝塚友の会」は機関誌年間購入が義務だった。わたしは迷わず『宝塚グラフ』コースだった。

 雑誌『歌劇』を好きでないいちばんの理由は、「アタマの悪い文章を読みたくない」だった。
 自分がアタマいいかどうかはさておき、消費者の立場として、活字に存在しない汗マークやハートだのキラキラだの、書き文字を無理矢理取り込んで活字の欄に並列してある、そんな文章を読みたくなかった。

 今のように、ネットで素人が好きなだけ文章を発表できる時代じゃない。
 「文章」ってのは、プロの書くモノしか目に触れなかったんだ、ふつー。顔文字がないわけじゃなかったけど、それは手書き文化のみ、新聞や雑誌にそんなモノは存在しない。
 そんな時代に、ジェンヌの書く「永遠の女子高生」みたいな文章は、なんとも奇妙で読みにくいモノだった。
 友だち同士でノートや便せんに書いているなら違和感なくても、文芸誌と同じサイズの雑誌で、活字でやられるとついていけない。

 今はジェンヌの文章にも、インタビューをそのまま文字にした記事にも慣れたけれど、当時のわたしはガチな活字中毒で、文章にやたらうるさい小姑だった。

 つーことで、『歌劇』は好きじゃナイ。読むところがナイ。
 それしか選択肢がナイから、わたしは『グラフ』、友だちは『歌劇』と分担して購入、お互いに貸しっこして読んでましたね。若かった。
 舞台を観劇するだけのファンだから、情報を得る手段が機関誌しかなかったんだ。生徒の会に入っている人なら、まったく違ったのだろうけど。今も昔も「会はこわい・近づかない」というスタンスのわたしには、機関誌とスポーツ新聞だけが頼みの綱。

 そして、ネットがあり公式HPがある今、情報はHPをチェックしていれば済むし、スカステがある今、ジェンヌの素顔や声はテレビで得られる。
 写真目当ての『GRAPH』はともかく、カラーページも少ない『歌劇』はますます意味がない。
 ヅカヲタ歴そこそこだけど、『歌劇』はあまり買わずにいた。

 まっつの写真目当てに、ほんっとーにたった1枚のカラーポート目当てに買って、そこだけ切り取ってあとは読まずに積み上げられる、そんな状態で年に2冊くらいは買っていたかな、ここ数年。幸いなことに(笑)まっつはほんと機関誌露出の少ない人で、滅多に載らないので買わずに済んでいた。モノクロ2ページ記事とかなら、立ち読みで済んだし。
 や、びんぼーなんですよ、わたし。

 組替え以後、まっつ比で機関誌掲載頻度が上がり、そんなわたしも『歌劇』を買うようになった。
 で、改めて思うわけだ、『歌劇』って好きじゃないなと。誌面の古くささや同人誌的な読みにくさは相変わらず、昭和時代から進化してないんだと。
 この変わらなさがいいのかもしれないが。変わらないから、やっぱわたしは苦手なまま。

 と、えんえんえんえん自分語りしておいてなんだが。

 実はこの話は、『エドワード8世』の話に着地する。

「ラジオは好きだ」
 と、デイヴィッド@きりやんは言う。
 活字では伝わらないモノが、あるから。

 本当の意味の「言論の自由」なんてナイ。
 原稿は検閲され、「発表してイイ」と許可されたモノだけが活字になり、あるいは電波で流れる。

 同じ検閲済みの「原稿」でも、活字として紙面に載っているだけのものと、ラジオで放送されるモノはチガウ。
 「原稿」を読む人間の「心」が、声や息づかい、間に表れるから。

 不本意な「意見」を読み上げなければならないときの、一瞬の沈黙。声音の乱れ。
 言葉として語られているモノと、その奥にある心の違い。
 それが、聞いている人間に、わかる。
 「活字」でしかない新聞記事と違って。

 だから彼は表現手段としての「ラジオ」を愛し、死んだあとラジオを通してウォリス@まりもに話しかける。

 表面に出るモノと、本質の違い。
 クチでは「打算だ」と言い、本心では切実な愛を叫ぶ。
 検閲された「原稿」を、心の揺れを声にのせてラジオで読み上げる。
 そんな二重構造。
 建前と本音。
 ままならない立場、ままならない自尊心。
 それでも、「心」があるから、動いているから、伝えたいから、「ラジオ」なんだ。
 マイクは本心を、心の微妙な揺れを、リスナーに届けてしまう。「原稿」からは見えないことを。

 皇太子であり、この世のすべてを持ち得るかに見えて、実は制限だらけで窒息しそうだった。そんなデイヴィッドが愛した、ラジオ。

 狂言回しのガイ@まさおがラジオ業界の人間だということ、ちょっと絡むのが精一杯だったロッカート@もりえが新聞記者だったこと。
 デイヴィッドの真実に触れられるとしたら、新聞ではなくラジオ業界だったんだよね。

 クライマックス、「現在」のウォリスが椅子に坐り、テーブルに置いたラジオに聴き入っている。
 聞こえてくるのは、亡き夫・デイヴィッドの声。

「後悔している?」
「何度も答えただろう」
「何度でも聞きたいのよ」

 それは現実かどうか、わからない。
 ラジオからは、ただの音楽が流れているだけかもしれない。
 でもウォリスは、確かに夫の声を聞いている。

 何度も何度も、話したのだろう。
 何度も何度も、聞いたのだろう。

「後悔している?」
 私を選んだこと。私を愛したこと。

 何度も聞き、そしてデイヴィッドもまた、何度も答える。

「時計の針を戻せても、私はこの道を行くだろう」

 ラジオは伝える。
 心の声を。

 これからも、彼女はラジオを流し、そこにデイヴィッドを見つけるのだろう。
 在りし日の会話を、思い返し続けるのだろう。


 『歌劇』は好きじゃなかった。
 でも昔のわたしは、それでも隅から隅まで読んでいた。買うだけ買って、積んでおくなんてことはなかった。
 それしか情報を得る手段がなかったから、なんでもむさぼるように読んでいた。

 デイヴィッドの言う「ラジオ」は、こういう時代のツールだったんだな。
 人々は、活字でしか情報を得られなかったし、発信できなかった。そんな時代だからこそ、「肉声」で伝えられるラジオ放送は意味があった。

 今、スカステでいくらでも舞台の様子や、ジェンヌ自身の顔や声を知ることが出来る。
 昔のように、『歌劇』を読み込む必要もない。
 デイヴィッドがラジオにこだわり、死したのち何故「ラジオ」を通じてウォリスの前に現れたのか、一見わかりにくいね。


 そしてわたしは初心に返り、『歌劇』をしっかり読んでみようかと思っている。
 少ない情報源だからこそ、自分で読み込み、咀嚼しようとしていたあの時代に戻って。
 それゆえに、スカステなどのありがたさもわかるだろう。見えてくるものも、あるだろう。

 ……単にまっつのために買う機会が増えたので、活用しないともったいないと思ったから、なんて、びんぼー根性だけが理由ではないのですよ。ええ(笑)。

コメント

日記内を検索