はじめまして、イシダ先生。@復活 -恋が終わり、愛が残った-
2012年1月2日 タカラヅカ 2012年1月は、忙しい。
5日からしばらくは、なにもできなくなる。
じゃあ花組公演をどうしよう、いつ観よう。雪組DC公演をいつ観よう。
悩むところでした。
DCを観に行けるのは2~4日の3日間しかないけど、花組は17日以降もやっている。んじゃまずは雪DCを優先して、花組は後半になってからだな。
と、年末には考えたんだけど。
結局、正月早々観に行っちゃった。
や、めぐむとアーサー、ラストなんだもん。
いつも買わないプログラムまで買っちゃった。だって、彼らのスチールが載るのはこれが最後なんだもん。
イシダ先生とは、気が合わない。
演出家としての力はある人だと思うが、わたしに合わないし、タカラヅカにも合わないものを多く書いている。
ジェンヌに下ネタを言わせたいだけなら、臓器移植キャンペーンをやりたいだけなら、どこが別の団体で、好きなだけセクハラしたり信仰活動したりしてくださいよ。
てのが、わたしのイシダ感。
好きな作品もあるけれど、許せないと思うモノの方が圧倒的に多く、なまじ作劇自体は出来ているからムカつき度が半端ナイ……という。
「物語」にすらなっていない、クリエイター名乗るな、という植爺とはまた別の苦手意識。
はじめて、イシダ作品なのに好きだと思える作品に出会った。
花組公演『復活 -恋が終わり、愛が残った-』。
イシダ作品をイイと思ったのは、『大坂侍』以来か。とはいえ、『大坂侍』もイシダらしい逆ツボはあった。彼の「笑い」とは相入れない。
『おかしな二人』は「こーゆーもの」と思って観たので、強い逆ツボはなかったが、別に好きだとも思わない。演じていた人たちが好きなだけ。
つまらんギャグがないって、こんなにストレスなく観劇できるものなのか。
おてもやんと下ネタ、オヤジギャグがないだけで、こんだけ作品のクオリティって変わるんだな(笑)。
そして、下ネタと寒ギャグ以上にわたしの逆鱗に触れる、作品解説者がいないのは、大きい。
作品はたしかに作者のものだが、それを読んで・観て、どう感じるかは読者・観客の自由だ。
なのにイシダ作品は「この台詞はこう感じなさい、それ以外の感じ方は許さない」と、いちいち作品中で「解説」する。「この場面はこう、このキャラの行動はこう」と、「解説」する。
国語のテストの「このとき主人公が何故こう言ったのかを50文字以内で記せ」の解答を作中で披露する。
観客の自由を束縛する独裁者、それがわたしにはもっともあり得ない。
いやぁ、イシダでロシア文学、マジで幕開きは現代で、イマドキの若者カップルが「トルストイなんて、暗いし重いしわけわかんない~~」とか言っていて、それを聞いた通りすがりの老人が「馬鹿者、トルストイはなにも、暗くて重くてわけわからんだけの物語ではないぞ」とか説明をはじめ、舞台がロシアになったあとも要所要所で現代カップルと老人が現れ、「どうしてカチューシャはあんなことを言ったの? ネフリュードフを愛していないの?」「カチューシャは真にネフリュードフを愛しているから、彼の重荷にはなりたくないと思ったんじゃ」「そうか! 身を引くことが愛の証だったんですね!」とかやって、ラストは「俺も一生懸命自分の人生を生きてみるよ。そうしなきゃって思ったんだ」「あたしも。精一杯愛するわ」とか、いーかげんだったカップルが改心して、老人に礼を言うのね。彼らの背景にロシアパートの人たちがせり上がってきて、老人が「いつの時代も……」と普遍的な愛について語って幕。
……になるかもしれないと、本気で思ったもんよ。
なんつーんだ、児童向け学習マンガのノリ。本編のコマの外側にいるタロウくんとハナコちゃんが「これってどういうこと?」とやって、「それはね……」とハテナ先生が答え、「そうか、だから主人公はこう言ったんだね!」と納得する、みたいな。
学習マンガは「勉強」のためマンガの手法を使っているだけで、「正しい答え・テストで○をもらえる答え」が決まっているので、読者をそこへ導くためにある。
イシダ作品はあまりにそれと同じ方法で書かれるので苦手。
作者が許す答え以外を、観客が感じることを許さない。
それとも、観客を小学生以下の理解力や感性しか持たないと本気で思って、学習マンガにしているのか。
どっちにしろ、いらん。
とまあ。過去に同じことを何度も語っていてアレですが、過去ログなんて膨大すぎてわたしだってなかなか発掘できないんだから、再度書く(笑)。
そんなこんなで、「贔屓に出てほしくない演出家ランキング」の首位争いを植爺と共にしているのがイシダ先生です。まあ、首位は植爺不動だけど。争っているのは確か(笑)。
ただイシダ作品は、作劇自体は悪くないので、贔屓が出ていなければ、つまり、1回観る分には楽しく観られる場合も多いです。
だから、他組で上演する分には「植爺と並列したら、イシダせんせに悪いわ」とは思っています。
贔屓が出ていないから、点数甘くなっている部分はあると思う。
でも、『復活』は、おもしろかった。
はじめて、イシダ作品を好きだと思えた。
解説者はいないけど、それに近いくらいみんな「まとめ語り」=作者の見解語りをしているけれど、許容範囲。エンタメならこれくらいのウザさやあざとさは必要。
わかりやすく緊張感を持ってまとめてあるし、キャラクタがみんな魅力的。
人生の縮図というか、どこかに感情移入できる……つーか、どのキャラにも人格と人生が見え、そこからも物語を膨らませてゆける。
キャストのハマり具合も見事。
ストーリー自体はじくじく系というか、ぬかるみに足が沈んでいくよーな触感の話なんだが、それでもキャラクタの魅力でドラマに集中しやすい。
この物語の主人公が、らんとむでよかった。
蘭寿さんの熱と誠実さ、そして文句ナシのかっこよさで、いろんな意味で残念なネフリュードフという男を魅力的に見せている。
らんとむ自身がまだ役に落ち着いていないのかもしれないけれど。
……ここまでが、1月5日に走り書きしたテキスト。らんとむ氏に関しては、初見感想が上書きされちゃってるので書けないわー。
2回目に観たとき、らんとむの芝居について、ちょっと引っかかったので。
まあソレは、また別の話ってことで。
『復活』おもしろかった!
5日からしばらくは、なにもできなくなる。
じゃあ花組公演をどうしよう、いつ観よう。雪組DC公演をいつ観よう。
悩むところでした。
DCを観に行けるのは2~4日の3日間しかないけど、花組は17日以降もやっている。んじゃまずは雪DCを優先して、花組は後半になってからだな。
と、年末には考えたんだけど。
結局、正月早々観に行っちゃった。
や、めぐむとアーサー、ラストなんだもん。
いつも買わないプログラムまで買っちゃった。だって、彼らのスチールが載るのはこれが最後なんだもん。
イシダ先生とは、気が合わない。
演出家としての力はある人だと思うが、わたしに合わないし、タカラヅカにも合わないものを多く書いている。
ジェンヌに下ネタを言わせたいだけなら、臓器移植キャンペーンをやりたいだけなら、どこが別の団体で、好きなだけセクハラしたり信仰活動したりしてくださいよ。
てのが、わたしのイシダ感。
好きな作品もあるけれど、許せないと思うモノの方が圧倒的に多く、なまじ作劇自体は出来ているからムカつき度が半端ナイ……という。
「物語」にすらなっていない、クリエイター名乗るな、という植爺とはまた別の苦手意識。
はじめて、イシダ作品なのに好きだと思える作品に出会った。
花組公演『復活 -恋が終わり、愛が残った-』。
イシダ作品をイイと思ったのは、『大坂侍』以来か。とはいえ、『大坂侍』もイシダらしい逆ツボはあった。彼の「笑い」とは相入れない。
『おかしな二人』は「こーゆーもの」と思って観たので、強い逆ツボはなかったが、別に好きだとも思わない。演じていた人たちが好きなだけ。
つまらんギャグがないって、こんなにストレスなく観劇できるものなのか。
おてもやんと下ネタ、オヤジギャグがないだけで、こんだけ作品のクオリティって変わるんだな(笑)。
そして、下ネタと寒ギャグ以上にわたしの逆鱗に触れる、作品解説者がいないのは、大きい。
作品はたしかに作者のものだが、それを読んで・観て、どう感じるかは読者・観客の自由だ。
なのにイシダ作品は「この台詞はこう感じなさい、それ以外の感じ方は許さない」と、いちいち作品中で「解説」する。「この場面はこう、このキャラの行動はこう」と、「解説」する。
国語のテストの「このとき主人公が何故こう言ったのかを50文字以内で記せ」の解答を作中で披露する。
観客の自由を束縛する独裁者、それがわたしにはもっともあり得ない。
いやぁ、イシダでロシア文学、マジで幕開きは現代で、イマドキの若者カップルが「トルストイなんて、暗いし重いしわけわかんない~~」とか言っていて、それを聞いた通りすがりの老人が「馬鹿者、トルストイはなにも、暗くて重くてわけわからんだけの物語ではないぞ」とか説明をはじめ、舞台がロシアになったあとも要所要所で現代カップルと老人が現れ、「どうしてカチューシャはあんなことを言ったの? ネフリュードフを愛していないの?」「カチューシャは真にネフリュードフを愛しているから、彼の重荷にはなりたくないと思ったんじゃ」「そうか! 身を引くことが愛の証だったんですね!」とかやって、ラストは「俺も一生懸命自分の人生を生きてみるよ。そうしなきゃって思ったんだ」「あたしも。精一杯愛するわ」とか、いーかげんだったカップルが改心して、老人に礼を言うのね。彼らの背景にロシアパートの人たちがせり上がってきて、老人が「いつの時代も……」と普遍的な愛について語って幕。
……になるかもしれないと、本気で思ったもんよ。
なんつーんだ、児童向け学習マンガのノリ。本編のコマの外側にいるタロウくんとハナコちゃんが「これってどういうこと?」とやって、「それはね……」とハテナ先生が答え、「そうか、だから主人公はこう言ったんだね!」と納得する、みたいな。
学習マンガは「勉強」のためマンガの手法を使っているだけで、「正しい答え・テストで○をもらえる答え」が決まっているので、読者をそこへ導くためにある。
イシダ作品はあまりにそれと同じ方法で書かれるので苦手。
作者が許す答え以外を、観客が感じることを許さない。
それとも、観客を小学生以下の理解力や感性しか持たないと本気で思って、学習マンガにしているのか。
どっちにしろ、いらん。
とまあ。過去に同じことを何度も語っていてアレですが、過去ログなんて膨大すぎてわたしだってなかなか発掘できないんだから、再度書く(笑)。
そんなこんなで、「贔屓に出てほしくない演出家ランキング」の首位争いを植爺と共にしているのがイシダ先生です。まあ、首位は植爺不動だけど。争っているのは確か(笑)。
ただイシダ作品は、作劇自体は悪くないので、贔屓が出ていなければ、つまり、1回観る分には楽しく観られる場合も多いです。
だから、他組で上演する分には「植爺と並列したら、イシダせんせに悪いわ」とは思っています。
贔屓が出ていないから、点数甘くなっている部分はあると思う。
でも、『復活』は、おもしろかった。
はじめて、イシダ作品を好きだと思えた。
解説者はいないけど、それに近いくらいみんな「まとめ語り」=作者の見解語りをしているけれど、許容範囲。エンタメならこれくらいのウザさやあざとさは必要。
わかりやすく緊張感を持ってまとめてあるし、キャラクタがみんな魅力的。
人生の縮図というか、どこかに感情移入できる……つーか、どのキャラにも人格と人生が見え、そこからも物語を膨らませてゆける。
キャストのハマり具合も見事。
ストーリー自体はじくじく系というか、ぬかるみに足が沈んでいくよーな触感の話なんだが、それでもキャラクタの魅力でドラマに集中しやすい。
この物語の主人公が、らんとむでよかった。
蘭寿さんの熱と誠実さ、そして文句ナシのかっこよさで、いろんな意味で残念なネフリュードフという男を魅力的に見せている。
らんとむ自身がまだ役に落ち着いていないのかもしれないけれど。
……ここまでが、1月5日に走り書きしたテキスト。らんとむ氏に関しては、初見感想が上書きされちゃってるので書けないわー。
2回目に観たとき、らんとむの芝居について、ちょっと引っかかったので。
まあソレは、また別の話ってことで。
『復活』おもしろかった!
コメント