祭りではない、日常の中で。@長い春の果てに
2012年6月9日 タカラヅカ 初演はアテ書きだった。アテ書きならではのハマリ方、魅力が満載だった。
それは再演モノの宿命、ソレ言っちゃダメ!なことである。
にしても『長い春の果てに』の初演と再演は、ただ役者がチガウ、というだけではなく、役者の属性がチガウという、タカラヅカならではの変化があった。
つまり、男役の演じる女の役と、娘役の演じる女の役、という。
タカラヅカ初見で、「みんな同じ顔に見える」「役は服装で見分ける」というレベルの人がどう感じるのかはわからない。
でもわたしは役者自身の顔も名前も、それまでの経歴も熟知している。役者自身の特性やイメージも、わたし個人の思い込みに過ぎないにしろ、いわゆる固定観念がある。
だから、男役が演じる女の役というのは、ある意味「祭り」だと認識する。
その役者が「男役」であるか、「娘役」であるか、見るとわかるんだもの。意識しなくても、区別できるし、してしまうんだもの。
わざわざ「男役」「娘役」と分けている劇団が、あえてその基本設定を捨てるのだから、それは「通常ではないこと」=「祭り」。
男役も娘役もナイ、「みんな同じ顔に見える」人なら、そんな風に思わないのかもしれない。「スカート穿いてるのは女の人」「背広着てるのは男の人」レベルの認識なら、ナニも感じないのかもしれない。
でもわたしは、「男役」があえて演じる女の役には、男役ならではの味や力を感じるのです。
……と、いうことで。
男役が演じなかった女の役って、こんなにイメージが違ってくるのか!と、感心しました。
初演を見たとき、女装祭りは楽しいけど、腑に落ちない部分はあった。
ひとりだけアメリカ人で毛色の違うフローレンスはともかく、大人の女ナタリーなんかは、男役が演じる意味がない。
単に新専科制度の弊害に思えた。
お客様である新専科様に役を付けなくてはならない。でもそれによって、劇団が大切にしたい組内の若手路線スターたちの役付を落とすわけにはいかない。
将来トップにする予定の大切な新専科様と、円満に卒業していただくための言い訳としての特別専科扱いの人と、同じ「新専科」という名前でありながら、劇団の扱いはとても顕著で。
だから、後者の新専科さんは、女役である意味はとくにないけど、女役にした。
フローレンスだって、ナタリーよりはまだマシってだけで、娘役が演じてもかまわない役だと思ったし。単に役がなかったから男役にやらせた、としか思えなかった。
下級生男役の番手を上げたかったら、それより上の男たちを、みんな女にしちゃえばいいんだもんなあ。
そんな無理のある配役だったから、再演は女性役をふつーに娘役がやることを、肯定した。
男がやる意味なかったもの、ふつーに娘役でいいよ。なんのために男役がいて娘役がいるのよ。
そう思っていたけど。
実際に、娘役が演じている『長春』を見て、初演とのギャップ、イメージの差の大きさに、驚いた。
女性の役を娘役がやると、キツイ……!
脚本が、変だから。
キャラクタが、変だから。
男役が演じるとそれは「祭り」で、「通常ではないこと」なので、多少変でも誤魔化される。
祭りだわっしょい!と御輿担いで騒いでいるうちに終わる。
しかし、娘役が演じてしまうと、逃げ場がナイ。
それは祭りではなく日常、日常にこんな人がいたら、変。
男役が演じることで、初演はかなり誤魔化されてたんだなあ、脚本の粗が。
フローレンスって相当変で、痛い女だわ……。
それでも成立していたのは、男役がやってたからだったんだ……。
再演フローレンス@きらりがまた、うまくてなあ。
うまくて美しくて、それだけに、逃げ場がナイ。
リアルに変でヤな女だ……。
ナタリーってウザくて重くて、作為臭きつい女だなあ。
それでも成立していたのは、男役がやってたからだったんだ……。
再演ナタリー@いちかがもう、マジうまくてなあ。
説得力ある芝居で、リアルに息づいていて、それゆえもおほんとに逃げ場がなくてつらかった。
こんな女、たしかにいるでしょう。でもそれを、タカラヅカで見たいわけじゃない……。
男尊女卑のイシダせんせの持つ、歪んだ女性観がこれでもかと押し出されていて、キツイっす。
もっと「祭りだーー!!(笑)」と勢いで流せると良かったんだけどなー。
なまじうまい人たちを配しているので、裏目に出た感じ。
あと、ステファンママ@じゅりあは、すごくがんばってたし、笑わせていたけど、この役こそ男役が演じるべきだったなあと。
だってじゅりあ、美人なんだもん。ふつーに若くてきれいでステキで、笑われる対象じゃないんだもん。
落ち度のない美女が、笑いを取るためだけに滑稽なことをするのって、わたし好みの笑いじゃないです。
初演のゆらさんは、ひと目で年配だとわかる人だったから、アリだった。
舞台上で「対象外」だと納得できる年代の女性、だからこそバニーちゃんのイタさもわかる。
ゆらさん個人のキャラは強烈かつ組名物だし、全ツではなくジェンヌのキャラを理解したヅカヲタ相手の本拠地公演だし。
再演は、腹筋が割れていると言われてそりゃそうだろうと思わせる、大柄な男役が演じるべきだったんじゃ?
「スカートを穿いているから女の人」としかわからないような、地方のお客さんたちもが「あれってひょっとして、男役の人?」とわかるくらいに、あからさまに。
じゅりあという色濃いキャラを理解していない、「みんな同じ顔に見える」客層が多い全国ツアーだからこそ、体格も顔立ちもふつーに美しい娘役に、わざと滑稽なことをさせても効果は薄いだろうに。
なんとも役柄違いというか、「初演マンセー」という意味ではなく、ほんとにただ、属性違いという意味で、違和感が半端なかった。
初演と再演は別モノだし、初演コピーを推奨するわけじゃないが、属性は沿った上で、個性を出すべきだったんじゃないかなあと。
……『長春』が名作なら、キャラたちがイタくなければ、別にかまわないんですが。
アレな作品だと思っているから、キャストの力が必要、キャストの力だけでなく祭りっぷりが必要だったんだ、と思いました。
ほんとに、花娘ってうまいわ美しいわ、すげえわ。
彼女たちが実力で前へ出てくれたからこその、作品への違和感なんすよ。添え物に終始する子たちなら、こんなにとまどわない(笑)。
それは再演モノの宿命、ソレ言っちゃダメ!なことである。
にしても『長い春の果てに』の初演と再演は、ただ役者がチガウ、というだけではなく、役者の属性がチガウという、タカラヅカならではの変化があった。
つまり、男役の演じる女の役と、娘役の演じる女の役、という。
タカラヅカ初見で、「みんな同じ顔に見える」「役は服装で見分ける」というレベルの人がどう感じるのかはわからない。
でもわたしは役者自身の顔も名前も、それまでの経歴も熟知している。役者自身の特性やイメージも、わたし個人の思い込みに過ぎないにしろ、いわゆる固定観念がある。
だから、男役が演じる女の役というのは、ある意味「祭り」だと認識する。
その役者が「男役」であるか、「娘役」であるか、見るとわかるんだもの。意識しなくても、区別できるし、してしまうんだもの。
わざわざ「男役」「娘役」と分けている劇団が、あえてその基本設定を捨てるのだから、それは「通常ではないこと」=「祭り」。
男役も娘役もナイ、「みんな同じ顔に見える」人なら、そんな風に思わないのかもしれない。「スカート穿いてるのは女の人」「背広着てるのは男の人」レベルの認識なら、ナニも感じないのかもしれない。
でもわたしは、「男役」があえて演じる女の役には、男役ならではの味や力を感じるのです。
……と、いうことで。
男役が演じなかった女の役って、こんなにイメージが違ってくるのか!と、感心しました。
初演を見たとき、女装祭りは楽しいけど、腑に落ちない部分はあった。
ひとりだけアメリカ人で毛色の違うフローレンスはともかく、大人の女ナタリーなんかは、男役が演じる意味がない。
単に新専科制度の弊害に思えた。
お客様である新専科様に役を付けなくてはならない。でもそれによって、劇団が大切にしたい組内の若手路線スターたちの役付を落とすわけにはいかない。
将来トップにする予定の大切な新専科様と、円満に卒業していただくための言い訳としての特別専科扱いの人と、同じ「新専科」という名前でありながら、劇団の扱いはとても顕著で。
だから、後者の新専科さんは、女役である意味はとくにないけど、女役にした。
フローレンスだって、ナタリーよりはまだマシってだけで、娘役が演じてもかまわない役だと思ったし。単に役がなかったから男役にやらせた、としか思えなかった。
下級生男役の番手を上げたかったら、それより上の男たちを、みんな女にしちゃえばいいんだもんなあ。
そんな無理のある配役だったから、再演は女性役をふつーに娘役がやることを、肯定した。
男がやる意味なかったもの、ふつーに娘役でいいよ。なんのために男役がいて娘役がいるのよ。
そう思っていたけど。
実際に、娘役が演じている『長春』を見て、初演とのギャップ、イメージの差の大きさに、驚いた。
女性の役を娘役がやると、キツイ……!
脚本が、変だから。
キャラクタが、変だから。
男役が演じるとそれは「祭り」で、「通常ではないこと」なので、多少変でも誤魔化される。
祭りだわっしょい!と御輿担いで騒いでいるうちに終わる。
しかし、娘役が演じてしまうと、逃げ場がナイ。
それは祭りではなく日常、日常にこんな人がいたら、変。
男役が演じることで、初演はかなり誤魔化されてたんだなあ、脚本の粗が。
フローレンスって相当変で、痛い女だわ……。
それでも成立していたのは、男役がやってたからだったんだ……。
再演フローレンス@きらりがまた、うまくてなあ。
うまくて美しくて、それだけに、逃げ場がナイ。
リアルに変でヤな女だ……。
ナタリーってウザくて重くて、作為臭きつい女だなあ。
それでも成立していたのは、男役がやってたからだったんだ……。
再演ナタリー@いちかがもう、マジうまくてなあ。
説得力ある芝居で、リアルに息づいていて、それゆえもおほんとに逃げ場がなくてつらかった。
こんな女、たしかにいるでしょう。でもそれを、タカラヅカで見たいわけじゃない……。
男尊女卑のイシダせんせの持つ、歪んだ女性観がこれでもかと押し出されていて、キツイっす。
もっと「祭りだーー!!(笑)」と勢いで流せると良かったんだけどなー。
なまじうまい人たちを配しているので、裏目に出た感じ。
あと、ステファンママ@じゅりあは、すごくがんばってたし、笑わせていたけど、この役こそ男役が演じるべきだったなあと。
だってじゅりあ、美人なんだもん。ふつーに若くてきれいでステキで、笑われる対象じゃないんだもん。
落ち度のない美女が、笑いを取るためだけに滑稽なことをするのって、わたし好みの笑いじゃないです。
初演のゆらさんは、ひと目で年配だとわかる人だったから、アリだった。
舞台上で「対象外」だと納得できる年代の女性、だからこそバニーちゃんのイタさもわかる。
ゆらさん個人のキャラは強烈かつ組名物だし、全ツではなくジェンヌのキャラを理解したヅカヲタ相手の本拠地公演だし。
再演は、腹筋が割れていると言われてそりゃそうだろうと思わせる、大柄な男役が演じるべきだったんじゃ?
「スカートを穿いているから女の人」としかわからないような、地方のお客さんたちもが「あれってひょっとして、男役の人?」とわかるくらいに、あからさまに。
じゅりあという色濃いキャラを理解していない、「みんな同じ顔に見える」客層が多い全国ツアーだからこそ、体格も顔立ちもふつーに美しい娘役に、わざと滑稽なことをさせても効果は薄いだろうに。
なんとも役柄違いというか、「初演マンセー」という意味ではなく、ほんとにただ、属性違いという意味で、違和感が半端なかった。
初演と再演は別モノだし、初演コピーを推奨するわけじゃないが、属性は沿った上で、個性を出すべきだったんじゃないかなあと。
……『長春』が名作なら、キャラたちがイタくなければ、別にかまわないんですが。
アレな作品だと思っているから、キャストの力が必要、キャストの力だけでなく祭りっぷりが必要だったんだ、と思いました。
ほんとに、花娘ってうまいわ美しいわ、すげえわ。
彼女たちが実力で前へ出てくれたからこその、作品への違和感なんすよ。添え物に終始する子たちなら、こんなにとまどわない(笑)。
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