ムラには出没しておりましたが、諸般の事情により、観劇はしていませんでした。

 てことで、日を改め、今年の観劇はじめはらんとむさんアンドレからです。

 『ベルサイユのばら-オスカルとアンドレ編-』、役替わり祭り第一弾、花組トップスター・蘭寿とむ氏登場!!

 順番的に、基本形であるみりおくんのアンドレを見てから、役替わり祭りを味わうべきだとは思うんだけど、いろいろ都合があってなあ。
 いきなり濃ゆいのから見ちゃったよ(笑)。


 役替わりとか、らんとむとかいう前に、これは、『ベルばら』体験なんだ、と思った。

 まず、今回の『ベルばら』を体験する、ということ。

 いやあ、なんというかもう。

 『ベルばら』40年の歴史は、伊達ぢゃない。

 入れなくてはならない名場面、名曲、名台詞、それらを1個1個拾っていったら1作出来上がってました、って感じ。

 いい悪いじゃなくて、ただもおほんと、「これは必要だよね名場面」をピックアップしてたら、オリジナリティを出す余地などなかった、てか。
 や、歌舞伎過ぎるところは抑え、ずいぶん見やすく、すっきりしていたと思うけど。それ以外にナニか「99周年だ、ナニかどかんとやっちゃうぞ」的なモノは、入れたくても入れる余地がなかった風というか。
 『ベルばら』40年か。すげえな。
 やってもやっても、まだ「あ、この曲まだだったんだ」「あの場面まだだったんだ」と出てくる。
 どんだけ曲があるんだ、どんだけ場面があるんだ。

 「お約束」をやっていくだけで、マジに2時間半、終わっちゃった……。

 これでまだ半分なんだよ? 「オスカルとアンドレ」であって、「フェルゼンとアントワネット」をやってないんだよ?
 そっちの名曲、名場面、名台詞まで拾っていってたら、5時間はかかるわなー。
 『ベルばら』という作品の、歴史の分厚さに感服した。

 好きか嫌いかでいえば、そりゃ嫌いだけど(笑)。
 覚悟していたよりぜんぜん軽く浅く薄かったけど、本能的に拒絶反応の出る台詞や場面はあったけど。
 それはさておき、やっぱ『ベルばら』はすごいわ。

 内容的には、今までの『ベルばら』の名場面集。外伝も含め、いろんなところから場面や歌を持って来て、切り貼りしてある。
 それが「お客さん向け」に終始しているというか、「お客が『観たい』と思っている場面」をよりすぐってつなぎ合わせてあるので、出し物として正しい。エンタメとして、興行として、正しい。
 いつぞやの公演のように、みんなが観たいと思っているところだけをカットして、演出家がやりたいことだけをやった作品じゃない。

 変なところ、ひどいところはいろいろあるが、とりあえず「客のニーズ」に合った場面をつなぎ合わせてあるなら、『ベルばら』的には役目をクリアしている。

 んで、この「名場面集」っていう作りの中には、「少しも早く」「釈迦に説法」などの、ファンが突っ込むお約束の用法も「名台詞」として成立しているんだ。
 や、それらの正誤ではなく、植爺『ベルばら』には「ある」ものである以上、今回もちゃんと「ある」ことに、キターーッ!と思うわけだ(笑)。


 んで、幕が上がる前から話題騒然の、「空飛ぶガラスの馬車」。

 クレーンで馬車と白馬一頭を持ち上げ、そこでオスカルとアンドレがにこにこ歌う、ラストの見せ場。

 いやはや。

 アリでしょう。

 アレは、アリでしょう。
 てゆーか、やれ。やってよし。やって、正しい。正しかった。

 話だけで耳にしたときは、「ちっ、植爺め、またくだらないことを」と思った。
 そんな遊園地のドッキリショー的演出を凝るより、まともな脚本書けよと。いやむしろ書かなくていい、このまま引退してくれと。

 2006年のコム姫オスカルが、ペガサスにまたがって飛翔したときの、あのいたたまれなさ。
 腹がよじれるほど笑った、周囲みんな大爆笑していた。
 笑われていることは伝わっているだろうに、コムちゃんは晴れやかな笑顔で飛んでいた。
 ……だからこそ、余計にいただまれなかった。
 コムちゃんのクールなキャラ、芸風を無視したその扱い。

 あれで、懲りてないのか。
 確かに盛り上がった。みんなすごく拍手した。爆笑しながら、あるいは必死に笑いをこらえながら、心から拍手した。拍手しなけりゃ、やってられなかった。
 あれをまた、くり返すのか。

 役者の格は豪華な衣装と何行もの台詞。この世には目に見えるものしか価値がないと、妄執に取り憑かれた老人らしい感覚。
 心よりモノ。
 人格破綻してないキャラクタや物語を作るより、クレーンで馬車を飛ばすことが大切。
 そーゆーことだ。

 と、辟易していたし、んなことぁどーでもいー、コム姫のときにペガちゃんが飛ぶことより物語のぶっ壊れぶりの方が問題だったように、植爺の暴挙になんか、正直なんの興味もなかった。勝手にやってくれ、と。

 しかし、フタを開けてみると、『ベルばら』はずいぶん薄まった『ベルばら』で。だけど『ベルばら』名場面集で。

 その薄まった名場面集には、最後に空飛ぶガラスの馬車ぐらい、必要だ。
 素直に、納得した。

 これくらいやんないと、つまんないわ。
 『ベルばら』が、ではなく、「現代」が。

 『ベルばら』が『ベルばら』たり得るのは、たぶん、とんでもない破壊力が必要なんだと思う。
 この破壊力ってのはいい意味ではあまりなくて、「ありえねーーっ!!」って机をひっくり返したくなるようなめちゃくちゃさ、嫌悪感だったりするんだと思う。
 それが薄まると、どうしても平坦になる。
 『仮面の男』が東宝版でつまらなくなったようなもの。ムラ版は人道的におかしかったけれど、とりあえず派手だった。やばいところを修正して毒にも薬にもならないようにしたら、ただのつまらないものになった。
 『ベルばら』は名場面、名曲とお約束だけで出来上がっているから『仮面の男』東宝版ほどではないにしろ、メリハリが欠けている。……だって「お約束」の連続で、それ以外がないんだもの、ずっと同じテンションじゃ、平坦だわ。

 その「お約束」の集大成として、最後に爆弾が必要。
 それが、空飛ぶガラスの馬車。


 理屈は置いておいて。
 ただ、単純に。

 ガラスの馬車が宙に浮いたとき、観客の背中が浮いた。

 2階席で観ていたんだけど、すごかったよ。
 みんな一斉に、背中が背もたれから浮いたの。

 あんだけの人間の心をひとつにした、同時に背中を浮かせた、その、力。
 純粋に、すごいと思うんだ。

 うおおお、すげーー(笑)。

 (笑)は付くけど、とにかくみんな拍手して、がーんと盛り上がる。
 その鉄板ぶりに、感動。

 こういうところは、さすが植爺だと思う。

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