役者・轟悠。

 それを、噛みしめた。

 月組公演『風と共に去りぬ』初見時は、わりとニュートラルにいろんなところを観ていた。全体を眺め、楽しんでいた。

 でも2回目の観劇時は、トド様だけを見ていた。

 初日を観たときに思ったの。これは、トドを視なきゃ、って。
 生の舞台の素晴らしいところ。視界を、自分で決められる。
 物語の進行なんか関係ない。自分が見たいところだけを見る。
 オギー作品とか、見たい視界が多すぎるときは、観劇回数を増やす。テーマを決めて、その日の視界を決める。そーやって「今日はキムだけを見る日」とタランテラの影だけを見たり、したもんだった。

 最近のトド様は、わたしに「視界」を作らせる。
 彼を見なければ、と思わせる。他の出演者もストーリーも犠牲にしてかまわない、彼だけを見たい、と思わせる。
 犠牲ってのは、わたしにとって、ね。本来他の出演者も物語も、わたしを楽しませ、興味深く思わせるものだから。それらを楽しむ権利を放棄して、それらを愛でるキモチを捨てて、その代償としてトド様ビューを得る。
 ひとつを選ぶということは、選ばなかった他のすべてを捨てるということ。あああもったいない、苦しい、他のみんなも見たい。
 それでも、トド様を求めてしまう。

 彼の「芝居」を求めている。

 ストーリー進行や台詞の有無とは関係ない。
 舞台の上にいる、役を生き、「芝居」をしているトド様から、目を離したくない。
 彼の一瞬も、見逃したくない。
 そう思うんだ。

 意識してそう思うんじゃない。
 「わたしはトド様ファンだから、トド様だけを見るの」じゃなくて、いやそのトド様ファンだけど、そういうんじゃなくて、ただほんとうに「彼の芝居を見たい」と思うの。
 トドファンだからトドを見る、のではなくて、トドの芝居を見たい!と切望するから、トドを視るの。
 そこまでしなくてもいいや、と思える作品や役なら、ふつーに役の比重とかストーリー進行に合わせた見方をしていると思う。

 最初に降参したのは、『オネーギン』だ。
 初見でもちろん作品全体を観て、「トド様だけをガン見したい」と2回目を観た。初見のあと、その足でサバキ待ちした。もう一度観なきゃ、トド様だけ最初から最後までガン見しなきゃ、キモチが治まらなかった。

 次はこの間の『第二章』だな。トド様ビューを必要としたの。
 『エリザベート スペシャルガラ・コンサート』も、機会さえあればトド様だけ見たかった。チケットも時間もなくて、1回しか観られなかったから不完全燃焼。
 『南太平洋』は作品的に好みじゃなかったので、全体を1回観ておなかいっぱい、『おかしな二人』はたのしかったけど、トド様ビューは必要じゃなかった、わたし的に。

 トド様が繊細な芝居を展開するとき、わたしは彼に釘付けになるらしい。


 そして、今回のレット・バトラー。

 所詮植爺の前時代的大芝居。コテコテの昭和歌唱と型芝居。大きな劇場でどーん!ばーん!とやる系の作品。
 トドの当たり役、ハマリ役だとわかっていても、『オネーギン』で感じたような「繊細さ」を感じるとは、思ってなかった。役者としてどうこう以前に、作品と役ゆえに。求められる色の違いゆえに。

 わたしが期待していたのは「タカラヅカのレット・バトラー」!!を見せてくれること。
 クドくて昭和で異空間。現代風のオシャレさや薄さや軽さなんぞバトラー役に求めてない、つんつん尖って大気中で動けるとは思えない現代のカッコイイモビルスーツたちぢゃない、垢抜けてない初代ガンダムの良さ!! ザクの魅力!!
 それを見せてくれればいい。

 そう思っていただけに。

 植爺大芝居で、まさか『オネーギン』張りの繊細さを打ち出してくるとは、不意打ちだった。


 2回目は、トドバトラーがどういう人なのか、どういう役作りなのか、知った上で観ているわけだから。

 余裕綽々で悪ぶっている1幕前半部分すら、切ない。
 この強い強い男が、後半崩れ落ちることを知っている……わけだから。

 バトラーの変化を、彼がたどる道を、見届けたい。目を離したくない。
 彼を見たい。
 その芝居を、視たい。得たい。

 その思いだけで、彼をオペラグラスで追う。

 芝居を、欲する。
 その人の演技を、欲せずには、いられない。

 そーゆー人を、「役者」だなああ、と思う。

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