『ベルばら』マニア。
2014年5月16日 タカラヅカ 最近わたし、思うのね。
わたしって植爺『ベルばら』マニアなのかもしれない、って。
嫌い嫌いも好きのうち? 嫌いが高じて好きになった?
植爺は嫌い。
彼の感性、考え方、言葉の選び方、作劇能力のなさ、計算・構成力の壊滅さ、芝居や公演への姿勢、なにもかも嫌い。
なかでも、倫理感の違いっちゅーか、わたしが「人として最低」と思うことを、植爺世界では「素晴らしい人格者」として誉め讃えられることが、もっともキツイ。その「最低」なことを「最高」にするために、なにもかも歪められて、まともな人がひとりも存在しない洗脳空間が繰り広げられることが、大嫌い。
嫌いであることは、間違いない。
美点もあるが、そんなもんが言い訳にならないくらい、ひどい部分の方が多い。
そんだけ大嫌いなのに、わたしには植爺作品を「観ない」という選択肢がない。
むしろ、「観たい」と思う……いや、「観たい」ではないな。
「観なければならない」という、義務感が先に立つ。
わたしは一観客であり、観劇になんの義務もない。そんなに嫌いならば観なければいい、文句を言うために観るなんて下品な行為だ。
……てなことはわかっているんだが、やっぱり『ベルばら』が上演されると、観に行ってしまう。「観ない」という選択肢がない。
これはやはり、マニア心のなせるわざではないか。
大嫌いだけれど、無視出来ない。見届けたい、と思ってしまう。
植爺が計算の出来ない作劇能力のない人なおかげで、植爺作品を観るたびに「頭の体操」が出来る、ということも、大きいかもしれない。
何故こうまで不快なのか、どこで間違えてこんな悲惨なことになっているか、間違いを正すにはどうすればいいか、を、いろいろと考えることが出来る。
わたしはこーゆーことを考えるのが好きだったりする。
感覚の域での微妙な差異や間違いではなく、植爺の場合あきらかに物理的に間違っているので、添削しやすい。
人の振り見て我が振り直せ、自分を省みる機会にもなる。
そういう重箱の隅をつつく系の愉しみって、いかにもマニアっぽい?
ただし「ほんとは好きなんじゃないの?」ということは、絶対にないと断言出来る。
何故なら、たった今、植爺が引退表明し、「この世では二度と植爺作品が上演されない」ということになったら、大喜びするからだ。まったくもって、惜しくない。
なくなってくれていい。それくらい、嫌い。
だけど、ある以上、無視出来ない。それくらい、嫌い。
人生、こんだけ嫌いなモノに出会えることは、めずらしいと思う。ある意味貴重な体験。
キライ過ぎて、マニアの域に達してしまった。
ただの嫌いならこうはならない、原作は大好きで、演じている「タカラジェンヌ」という存在も、舞台となる「タカラヅカ」という世界観も大好きなんだもの。
植爺だけが嫌い。
「嫌い=観ない」ではなく「嫌い=マニア」になってしまっても、仕方ないか。
こうして考えると、わたしが植爺を嫌いなのはひとえに、わたしがヅカヲタである、ということに尽きるんだな。
「植爺新作だ、どんだけ酷いことになっているんだろう」と1回観に行って「やっぱり酷かったわ。間違いまくりだったわ」と思うだけなら、別にアリだと思うんだ。「ここが間違っている、ここが酷い」と添削して自己満足して終了。
あら、イベントとしてなら、楽しめるじゃない。
だけどわたしはヅカヲタなので。
「タカラヅカ」を好きな分だけ、許せなくなる。
まず、わたしにとっての「タカラヅカ」は、生徒ファン>作品ファンという認識。生徒を観に行くところであって、作品を観ることは副次的なモノ。
作品目当てなら、おもしろそうな公演を1回観て終わり。テレビドラマや映画を見る感覚で。「物語」を見たら、それで十分。
だけど、舞台上でナマで演じている出演者のファンならば、どんな作品でもその出演者がいる限り観に行くし、ナマである以上何度でも行く。テレビや映画じゃない、1回1回が別モノなのだから。
何回観るかは人それぞれだけど、「タカラヅカ」はリピート観劇が基本だと思っている。「もう一度観たい」と思わせてなんぼだと思っている。だからこそトップスターは初日の挨拶で「何度でも観にいらしてください」と客席に向かって言うんだ。「観劇は1回限りが普通、複数回観る人は変、変な人のことは無視してイイ」とは、劇団も思ってないんだと、わたしは理解する。
てことで、「タカラヅカはリピートが基本」だと定義した場合、駄作を複数回観るのは、つらい。
ただ壊れている、つまらない、おもしろくない、だけなら、がんばっている出演者や、美しいスターの姿を眺めているだけでも楽しめる。
だがしかし、「生理的に不快」なモノは、観劇時の苦痛さが半端ナイ。
人として最低、許せない……ことが、舞台上で「素晴らしい!」と誉め讃えられ、そうしない人こそを悪と罵る……倫理観が悲鳴をあげる状態が続くのは、拷問でしかない。
また、組子たちはその作品を上演するために集められたユニットじゃない。生徒たちは劇団に属しており、劇団にいられる時間は決して長くない。
短い寿命しかないフェアリーたちが、植爺作品に当たると出番も見せ場もなにもなく、ただの背景扱いにされる。それこそ、組子の大半が1幕の出番がモブの数分だけ、てな酷いことに。
タカラジェンヌの貴重な時間が浪費される。
てな理由から、植爺作品が嫌なんだ。
と考え、わたしがヅカヲタでなければ、別にどーでもいいことなのか、とも思い直した。
ただの植爺『ベルばら』マニアで、1回観て「植爺嫌い、今回も酷いわ」と言うだけなら。
リピートしないから不快なのはそのときだけ、不快であるがゆえに添削して頭の体操、あら有意義。
組子の出番なんかどーでもいい。下級生の成長もどーでもいい。誰が入団して誰が退団しても、興味ない。『ベルばら』さえ観られれば満足。
わたしが植爺嫌いなのは、ヅカヲタだからなんだな。
ヲタでなければ、どーでもいいようなことで、吠えているわけだ。
そして、いろいろこじらせて、「マニア」になった、と。
花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』の配役表を見ながら、震撼したわけだ。
新キャラのオンパレード、ということから、またしても植爺が新作書き下ろし気分でいるらしい、と想像して。
どんだけひどいことになるのか、見届けたいと思う。
マニアですから!
わたしって植爺『ベルばら』マニアなのかもしれない、って。
嫌い嫌いも好きのうち? 嫌いが高じて好きになった?
植爺は嫌い。
彼の感性、考え方、言葉の選び方、作劇能力のなさ、計算・構成力の壊滅さ、芝居や公演への姿勢、なにもかも嫌い。
なかでも、倫理感の違いっちゅーか、わたしが「人として最低」と思うことを、植爺世界では「素晴らしい人格者」として誉め讃えられることが、もっともキツイ。その「最低」なことを「最高」にするために、なにもかも歪められて、まともな人がひとりも存在しない洗脳空間が繰り広げられることが、大嫌い。
嫌いであることは、間違いない。
美点もあるが、そんなもんが言い訳にならないくらい、ひどい部分の方が多い。
そんだけ大嫌いなのに、わたしには植爺作品を「観ない」という選択肢がない。
むしろ、「観たい」と思う……いや、「観たい」ではないな。
「観なければならない」という、義務感が先に立つ。
わたしは一観客であり、観劇になんの義務もない。そんなに嫌いならば観なければいい、文句を言うために観るなんて下品な行為だ。
……てなことはわかっているんだが、やっぱり『ベルばら』が上演されると、観に行ってしまう。「観ない」という選択肢がない。
これはやはり、マニア心のなせるわざではないか。
大嫌いだけれど、無視出来ない。見届けたい、と思ってしまう。
植爺が計算の出来ない作劇能力のない人なおかげで、植爺作品を観るたびに「頭の体操」が出来る、ということも、大きいかもしれない。
何故こうまで不快なのか、どこで間違えてこんな悲惨なことになっているか、間違いを正すにはどうすればいいか、を、いろいろと考えることが出来る。
わたしはこーゆーことを考えるのが好きだったりする。
感覚の域での微妙な差異や間違いではなく、植爺の場合あきらかに物理的に間違っているので、添削しやすい。
人の振り見て我が振り直せ、自分を省みる機会にもなる。
そういう重箱の隅をつつく系の愉しみって、いかにもマニアっぽい?
ただし「ほんとは好きなんじゃないの?」ということは、絶対にないと断言出来る。
何故なら、たった今、植爺が引退表明し、「この世では二度と植爺作品が上演されない」ということになったら、大喜びするからだ。まったくもって、惜しくない。
なくなってくれていい。それくらい、嫌い。
だけど、ある以上、無視出来ない。それくらい、嫌い。
人生、こんだけ嫌いなモノに出会えることは、めずらしいと思う。ある意味貴重な体験。
キライ過ぎて、マニアの域に達してしまった。
ただの嫌いならこうはならない、原作は大好きで、演じている「タカラジェンヌ」という存在も、舞台となる「タカラヅカ」という世界観も大好きなんだもの。
植爺だけが嫌い。
「嫌い=観ない」ではなく「嫌い=マニア」になってしまっても、仕方ないか。
こうして考えると、わたしが植爺を嫌いなのはひとえに、わたしがヅカヲタである、ということに尽きるんだな。
「植爺新作だ、どんだけ酷いことになっているんだろう」と1回観に行って「やっぱり酷かったわ。間違いまくりだったわ」と思うだけなら、別にアリだと思うんだ。「ここが間違っている、ここが酷い」と添削して自己満足して終了。
あら、イベントとしてなら、楽しめるじゃない。
だけどわたしはヅカヲタなので。
「タカラヅカ」を好きな分だけ、許せなくなる。
まず、わたしにとっての「タカラヅカ」は、生徒ファン>作品ファンという認識。生徒を観に行くところであって、作品を観ることは副次的なモノ。
作品目当てなら、おもしろそうな公演を1回観て終わり。テレビドラマや映画を見る感覚で。「物語」を見たら、それで十分。
だけど、舞台上でナマで演じている出演者のファンならば、どんな作品でもその出演者がいる限り観に行くし、ナマである以上何度でも行く。テレビや映画じゃない、1回1回が別モノなのだから。
何回観るかは人それぞれだけど、「タカラヅカ」はリピート観劇が基本だと思っている。「もう一度観たい」と思わせてなんぼだと思っている。だからこそトップスターは初日の挨拶で「何度でも観にいらしてください」と客席に向かって言うんだ。「観劇は1回限りが普通、複数回観る人は変、変な人のことは無視してイイ」とは、劇団も思ってないんだと、わたしは理解する。
てことで、「タカラヅカはリピートが基本」だと定義した場合、駄作を複数回観るのは、つらい。
ただ壊れている、つまらない、おもしろくない、だけなら、がんばっている出演者や、美しいスターの姿を眺めているだけでも楽しめる。
だがしかし、「生理的に不快」なモノは、観劇時の苦痛さが半端ナイ。
人として最低、許せない……ことが、舞台上で「素晴らしい!」と誉め讃えられ、そうしない人こそを悪と罵る……倫理観が悲鳴をあげる状態が続くのは、拷問でしかない。
また、組子たちはその作品を上演するために集められたユニットじゃない。生徒たちは劇団に属しており、劇団にいられる時間は決して長くない。
短い寿命しかないフェアリーたちが、植爺作品に当たると出番も見せ場もなにもなく、ただの背景扱いにされる。それこそ、組子の大半が1幕の出番がモブの数分だけ、てな酷いことに。
タカラジェンヌの貴重な時間が浪費される。
てな理由から、植爺作品が嫌なんだ。
と考え、わたしがヅカヲタでなければ、別にどーでもいいことなのか、とも思い直した。
ただの植爺『ベルばら』マニアで、1回観て「植爺嫌い、今回も酷いわ」と言うだけなら。
リピートしないから不快なのはそのときだけ、不快であるがゆえに添削して頭の体操、あら有意義。
組子の出番なんかどーでもいい。下級生の成長もどーでもいい。誰が入団して誰が退団しても、興味ない。『ベルばら』さえ観られれば満足。
わたしが植爺嫌いなのは、ヅカヲタだからなんだな。
ヲタでなければ、どーでもいいようなことで、吠えているわけだ。
そして、いろいろこじらせて、「マニア」になった、と。
花組中日『ベルサイユのばら―フェルゼンとマリー・アントワネット編―』の配役表を見ながら、震撼したわけだ。
新キャラのオンパレード、ということから、またしても植爺が新作書き下ろし気分でいるらしい、と想像して。
どんだけひどいことになるのか、見届けたいと思う。
マニアですから!
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