ほっとした笑顔を見て、わたしもほっとしたんだ。@新人公演『星逢一夜』
2015年9月17日 タカラヅカ はるばる行ってきました、雪組東宝新人公演『星逢一夜』。
東宝新公観るのは人生で6回目か。ムラがホームであるわたしは、新公を観るのはムラのみ、東宝まで行くことはまずない。ムラで観劇できなかった場合のみ、仕方なく東方まで遠征する……のが最近のパターン。
が、『星逢一夜』新公はムラで観劇済み。1回観たモノを追いかけるのは通常じゃない。や、わたしにお金と時間が有り余ってるならしたいけど、したいこと全部出来るわけじゃないから、新公は東西1回まで、遠征までは基本しない。
が、今回は。
月城かなとを見届けたい。
その一心で、遠征を決めた。
だってさー、かなとくんムラでは喉潰してたんだもん。
声出てなかったんだもん。歌えてなかったんだもん。もちろん表情には出ず「この声がふつうですがナニか?」って感じにやりきってたけど、絶対不完全燃焼だったと思うよ。
同じ芝居をしていたって自分の中で「あ、出ない」「これ以上の音階は無理」とか、気持ちの何割かはそっちへ取られていたと思うし。
そういう足枷のない状態、すべてを芝居にのみ向けられる状態での、かなとくんを観たい。
95期はこれで新公卒業。最後の最後だ。
声出てない状態、諦念だけが残る出来が「最後」なんて、わたしが残念過ぎる。わたしが、消化できない。
だから、ふつーに新公やってくれるはずの、東宝を観ることにした。
また、作品が『星逢一夜』だということも大きい。
つまらない作品なら、誰が演じていようとその作品自体を観るのが苦痛過ぎて、わざわざ遠征するには心理的なハードルが高すぎる。
でも『星逢一夜』なら、観たい。別キャスト版である新公も、東宝ですでに半月公演している本公演の方も。
良い作品というのは、こんなところでもプラスに働く。
てことで、東宝新公。
いちばんのトピックは、かなとくんの子役が、気持ち悪くない!! でした(笑)。
ムラではねー、子役が泣けるほど似合わなくてねー。大人が無理矢理膝出して、バカボンコスプレしてるみたいな痛々しさがあったんだけど。本役さんより若いのに、何故若い役が出来ないのかと、目頭が熱くなったもんだけど。
ジェンヌってすごいね! 進化するよね!
かなとくん、ちゃんと若返ってた。
これなら次のバウホール公演も大丈夫かな……。←子役芝居てんこ盛りな演目ゆえ、不安もてんこ盛り。
晴興@かなとくんと泉@みちるちゃんを観て、晴興と泉ってふたりで芝居する場面自体は少ないんだな、と思った。本公演では特に感じたことがなかったから。
たぶん、かなとくんとみちるちゃんの芝居に、色の違いを感じたためだと思う。あんまししっくりハマってないな、と思い、そういやふたりで芝居する場面少ないんだ、と思い至る。
かなとくんから感じる剛と、みちるちゃんの細は、うまくかみ合っていない。
モザイク画でイメージしたんだけど、かなとくんのパーツは大きくてひとつのパーツの中に色の変化がある。みちるちゃんはパーツが小さくて、それぞれの色のパーツをたくさん並べることで色の違いを出す。
ひとつの絵の中に、別の手法が混ざっていて、それも味だとは思うけど、落ち着かないなと。
そして、晴興がより一層可哀想に見えた。
本公演の晴興@ちぎくんも可哀想だけど。彼の可哀想さとは、またチガウんだよなあ。
というのもだ、源太@ひとこがストレートでな。正しく「ヒーロー!」って感じなの。『1789-バスティーユの恋人たち-』のロナンなの、平民代表なの。バスティーユの壁登って門開けちゃうよーな人なの。
源太があんだけストレートに「正しい」と、晴興はますます可哀想だわ……。
泉とのラストシーンも、ふたりの芝居の質の差からか、晴興の孤独が一層伝わってきてなあ……。
抱きしめて愛を告げてなお、このふたりは同じ世界にいない。共には生きられない。そう、強く思った。
泉と晴興の乖離感が強かったのと、わたしが晴興中心で観ていたこともあり、今まで観た中でもっとも、「1年後の泉」場面を蛇足だと思った。
晴興が舞台から去った「この里で見る星はきれいじゃのう」で本編終わりにし、そのまま子ども時代でEND、でいいのに、と。主役は晴興なんだから、1年後を描くなら1年後の晴興であるべき、泉だとおかしい……そう思えた。
終演後のかなとくんの、憑きものが落ちたような顔を見て、ほんっとプレッシャーだったんやなあ、と改めて思った。
高揚感とも達成感ともチガウ、ただもう、「ほっとした」という顔。
こいつ、小ぃせぇな(笑)、とも思うが、そーゆーとこもらしいというか、イメージを裏切らないなという感じ。や、素のかなとくんがどんな人か知らないけれど、舞台姿から受ける印象に合った反応だと思えた。
この笑顔を見られて、はるばる遠征して来た甲斐があったなと(笑)。
東宝新公観るのは人生で6回目か。ムラがホームであるわたしは、新公を観るのはムラのみ、東宝まで行くことはまずない。ムラで観劇できなかった場合のみ、仕方なく東方まで遠征する……のが最近のパターン。
が、『星逢一夜』新公はムラで観劇済み。1回観たモノを追いかけるのは通常じゃない。や、わたしにお金と時間が有り余ってるならしたいけど、したいこと全部出来るわけじゃないから、新公は東西1回まで、遠征までは基本しない。
が、今回は。
月城かなとを見届けたい。
その一心で、遠征を決めた。
だってさー、かなとくんムラでは喉潰してたんだもん。
声出てなかったんだもん。歌えてなかったんだもん。もちろん表情には出ず「この声がふつうですがナニか?」って感じにやりきってたけど、絶対不完全燃焼だったと思うよ。
同じ芝居をしていたって自分の中で「あ、出ない」「これ以上の音階は無理」とか、気持ちの何割かはそっちへ取られていたと思うし。
そういう足枷のない状態、すべてを芝居にのみ向けられる状態での、かなとくんを観たい。
95期はこれで新公卒業。最後の最後だ。
声出てない状態、諦念だけが残る出来が「最後」なんて、わたしが残念過ぎる。わたしが、消化できない。
だから、ふつーに新公やってくれるはずの、東宝を観ることにした。
また、作品が『星逢一夜』だということも大きい。
つまらない作品なら、誰が演じていようとその作品自体を観るのが苦痛過ぎて、わざわざ遠征するには心理的なハードルが高すぎる。
でも『星逢一夜』なら、観たい。別キャスト版である新公も、東宝ですでに半月公演している本公演の方も。
良い作品というのは、こんなところでもプラスに働く。
てことで、東宝新公。
いちばんのトピックは、かなとくんの子役が、気持ち悪くない!! でした(笑)。
ムラではねー、子役が泣けるほど似合わなくてねー。大人が無理矢理膝出して、バカボンコスプレしてるみたいな痛々しさがあったんだけど。本役さんより若いのに、何故若い役が出来ないのかと、目頭が熱くなったもんだけど。
ジェンヌってすごいね! 進化するよね!
かなとくん、ちゃんと若返ってた。
これなら次のバウホール公演も大丈夫かな……。←子役芝居てんこ盛りな演目ゆえ、不安もてんこ盛り。
晴興@かなとくんと泉@みちるちゃんを観て、晴興と泉ってふたりで芝居する場面自体は少ないんだな、と思った。本公演では特に感じたことがなかったから。
たぶん、かなとくんとみちるちゃんの芝居に、色の違いを感じたためだと思う。あんまししっくりハマってないな、と思い、そういやふたりで芝居する場面少ないんだ、と思い至る。
かなとくんから感じる剛と、みちるちゃんの細は、うまくかみ合っていない。
モザイク画でイメージしたんだけど、かなとくんのパーツは大きくてひとつのパーツの中に色の変化がある。みちるちゃんはパーツが小さくて、それぞれの色のパーツをたくさん並べることで色の違いを出す。
ひとつの絵の中に、別の手法が混ざっていて、それも味だとは思うけど、落ち着かないなと。
そして、晴興がより一層可哀想に見えた。
本公演の晴興@ちぎくんも可哀想だけど。彼の可哀想さとは、またチガウんだよなあ。
というのもだ、源太@ひとこがストレートでな。正しく「ヒーロー!」って感じなの。『1789-バスティーユの恋人たち-』のロナンなの、平民代表なの。バスティーユの壁登って門開けちゃうよーな人なの。
源太があんだけストレートに「正しい」と、晴興はますます可哀想だわ……。
泉とのラストシーンも、ふたりの芝居の質の差からか、晴興の孤独が一層伝わってきてなあ……。
抱きしめて愛を告げてなお、このふたりは同じ世界にいない。共には生きられない。そう、強く思った。
泉と晴興の乖離感が強かったのと、わたしが晴興中心で観ていたこともあり、今まで観た中でもっとも、「1年後の泉」場面を蛇足だと思った。
晴興が舞台から去った「この里で見る星はきれいじゃのう」で本編終わりにし、そのまま子ども時代でEND、でいいのに、と。主役は晴興なんだから、1年後を描くなら1年後の晴興であるべき、泉だとおかしい……そう思えた。
終演後のかなとくんの、憑きものが落ちたような顔を見て、ほんっとプレッシャーだったんやなあ、と改めて思った。
高揚感とも達成感ともチガウ、ただもう、「ほっとした」という顔。
こいつ、小ぃせぇな(笑)、とも思うが、そーゆーとこもらしいというか、イメージを裏切らないなという感じ。や、素のかなとくんがどんな人か知らないけれど、舞台姿から受ける印象に合った反応だと思えた。
この笑顔を見られて、はるばる遠征して来た甲斐があったなと(笑)。
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