そして、ふりだしに戻る。@星逢一夜
2015年9月21日 タカラヅカ 『星逢一夜』が好きで、東宝まで遠征した。
中日を観たら、次は千秋楽も観たいと思うに違いない……そう思っていたのに、実際東宝公演を観たら、すとんと納得してしまった。
あれ? なんで?
子ども源太のかわいい台詞「待って~~」がカットされた。それは残念だけど、そーゆーのはもちろん些末でしかなくて。
いちばん大きな問題は、別のとこ。
答えが、出てしまっていること。
わたしを惹きつけていた、「見逃せない」と思っていた部分って、源太@だいもんの変化っぷり、だったんだよなあ。
ムラでの源太は定まっておらず、どこへ向かうのかわからなかった。
初日の源太はすげーいい男で、よく計算されたこの物語にうまくはまっていたけれど、それゆえにこの「作品」を小さくまとめていた。
中日あたりから変わりだした源太には「闇」が見えて、物語の計算とか予定とかを超える勢いだった。ゆえに「作品」は元のサイズから膨張しはじめた。
千秋楽あたりでもまだ、「過渡期」に思えた。源太の方向が定まっていない。源太が変わると、物語全体が変わる。『星逢一夜』という作品自体に、まだわたしの知らない・観ていない可能性を感じ、わくわくした。
だから東宝も観たかった。
『星逢一夜』はどうなったんだろう? わたしの知らない世界へと変貌しているかもしれない。
ムラと同じように、変化し続けているに違いない。
危惧したのは、ムラ初日の芝居に戻されていること、だった。
作者は「自分の計算通り」以外の要因を嫌うのではないか? 机上の脚本・脳内イメージこそがすべてで、生きた役者たちと観客によって作られるナマの舞台、に否定的なのではないか?
「待って~~」がなくなったと聞き、その危惧を強くした。わたしが「面白い」と思ったのは、作者の計算通りでしかなかった初日の姿ではなく、役者が舞台の上であがきだしてからだ。作者が役者の解釈を否定し、自分の希望通りに戻していたら、どうしよう。
わたしはの心配はそっちだったんだ。
なのに、実際に観た東宝は、ムラ初日とは別モノだった。
ムラ初日にあったものこそが作者の望むモノで、それにこだわっているのだと思ったけど、違ったんだね。
東宝では、源太が悪人になっていた。
悪人、と言ってしまうと語弊がある。
いわゆる狭義の悪人ではなく、ふつーにいい人なんだけど、ふつーだからこそシチュエーション的に持ってしかるべき黒い部分が、ふつーに出ている人だった。
悪人、ではないのだろう。
でも、ムラ初日の善人源太や、過渡期の光と闇の狭間の源太を知るものからすると、「あ、なーんだ。こっちか」と思う源太だった。
拍子抜けした。
こっちか。
こっちへ進んだのか。
それは意外だった。
だって、晴興@ちぎを主役として描く場合、難しいのは源太が善人で非の打ちどころがない場合。善人を殺して、悪として描かれる側の苦悩や哀しみを描く、って大劇場でやるには難しいテーマ。
反対に、楽なのが源太を悪役にする場合。源太が「まったくの善人」であるよりも、彼の死の理不尽さが減るため、主人公に同情しやすくなる。
闇をにじませる源太は魅力的だったけれど、「悪です」と決まってしまった源太は、初日の「善です」と決まっている源太と同じくらい、「なーんだ」だった。
小さくきれいに、箱に収まった。そんな感じ。ムラ初日と色や模様はちがうけど、結局同じ大きさの箱に収まっちゃったか。
よく出来ていたし、面白い作品なんだけど。
1回観たら、納得した。2回観たら、もうおなかいっぱい、満足した。
四角四面にきちんと隅まで収まった感は、「もう観なくていいや」と思わせた。
ムラ初日と同じ感想。
中日を観たら、次は千秋楽も観たいと思うに違いない……そう思っていたのに、実際東宝公演を観たら、すとんと納得してしまった。
あれ? なんで?
子ども源太のかわいい台詞「待って~~」がカットされた。それは残念だけど、そーゆーのはもちろん些末でしかなくて。
いちばん大きな問題は、別のとこ。
答えが、出てしまっていること。
わたしを惹きつけていた、「見逃せない」と思っていた部分って、源太@だいもんの変化っぷり、だったんだよなあ。
ムラでの源太は定まっておらず、どこへ向かうのかわからなかった。
初日の源太はすげーいい男で、よく計算されたこの物語にうまくはまっていたけれど、それゆえにこの「作品」を小さくまとめていた。
中日あたりから変わりだした源太には「闇」が見えて、物語の計算とか予定とかを超える勢いだった。ゆえに「作品」は元のサイズから膨張しはじめた。
千秋楽あたりでもまだ、「過渡期」に思えた。源太の方向が定まっていない。源太が変わると、物語全体が変わる。『星逢一夜』という作品自体に、まだわたしの知らない・観ていない可能性を感じ、わくわくした。
だから東宝も観たかった。
『星逢一夜』はどうなったんだろう? わたしの知らない世界へと変貌しているかもしれない。
ムラと同じように、変化し続けているに違いない。
危惧したのは、ムラ初日の芝居に戻されていること、だった。
作者は「自分の計算通り」以外の要因を嫌うのではないか? 机上の脚本・脳内イメージこそがすべてで、生きた役者たちと観客によって作られるナマの舞台、に否定的なのではないか?
「待って~~」がなくなったと聞き、その危惧を強くした。わたしが「面白い」と思ったのは、作者の計算通りでしかなかった初日の姿ではなく、役者が舞台の上であがきだしてからだ。作者が役者の解釈を否定し、自分の希望通りに戻していたら、どうしよう。
わたしはの心配はそっちだったんだ。
なのに、実際に観た東宝は、ムラ初日とは別モノだった。
ムラ初日にあったものこそが作者の望むモノで、それにこだわっているのだと思ったけど、違ったんだね。
東宝では、源太が悪人になっていた。
悪人、と言ってしまうと語弊がある。
いわゆる狭義の悪人ではなく、ふつーにいい人なんだけど、ふつーだからこそシチュエーション的に持ってしかるべき黒い部分が、ふつーに出ている人だった。
悪人、ではないのだろう。
でも、ムラ初日の善人源太や、過渡期の光と闇の狭間の源太を知るものからすると、「あ、なーんだ。こっちか」と思う源太だった。
拍子抜けした。
こっちか。
こっちへ進んだのか。
それは意外だった。
だって、晴興@ちぎを主役として描く場合、難しいのは源太が善人で非の打ちどころがない場合。善人を殺して、悪として描かれる側の苦悩や哀しみを描く、って大劇場でやるには難しいテーマ。
反対に、楽なのが源太を悪役にする場合。源太が「まったくの善人」であるよりも、彼の死の理不尽さが減るため、主人公に同情しやすくなる。
闇をにじませる源太は魅力的だったけれど、「悪です」と決まってしまった源太は、初日の「善です」と決まっている源太と同じくらい、「なーんだ」だった。
小さくきれいに、箱に収まった。そんな感じ。ムラ初日と色や模様はちがうけど、結局同じ大きさの箱に収まっちゃったか。
よく出来ていたし、面白い作品なんだけど。
1回観たら、納得した。2回観たら、もうおなかいっぱい、満足した。
四角四面にきちんと隅まで収まった感は、「もう観なくていいや」と思わせた。
ムラ初日と同じ感想。
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