晴興の苦悩の集約されたモノ、それが「源太の死」だと思うんだ。

 さまざまなものが、晴興の苦悩と絶望になっている。単純に「これが原因です」と言えるモノじゃない。
 だけど、それら全部をひっくるめた象徴が、源太の死。
 かつての親友を、その手で殺すしかなかったこと。

 見上げた星、櫓、初恋、友情、掲げた理想、生涯懸けた使命、敬愛する父、施政者、軋轢、理想と現実、……生まれ持った、運命。

 なにもかもが。
 源太の死に、集約されている。
 抗うことの出来ない、変えることの出来ない、「結果」として。

 だから、晴興を救えるのは源太だと思う。

 源太が生きて、実は死んでなくて、晴興とやり直せる余地を……可能性を、見せること。

 源太が「すべて水に流そうぜ、俺たち親友じゃないか、HAHAHAHA!」とやるんじゃなくて。
 いきなり「愛してるぞ、晴興。お前もつらかったんだよな!」とやるんじゃなくて。

 源太が「死んでない」こと。
 いろんな事情を抱えたまま、なにひとつ改善されていないにしろ、晴興を「拒絶していない」こと。

 これが、晴興の救いだと思う。

 源太が突然悟りを開いて晴興を全肯定するんじゃない。それでは晴興は救われない。
 晴興の罪を「ただ、赦す」存在は、彼を救わない。
 「赦す」かもしれない、その可能性のある存在が、救いなんだ。

 源太の死が、晴興の絶望の象徴だ。
 だから、その源太が生きていて、まだ彼と理解し合える可能性がある状態……それが、救い。

 つまり。
 生きた源太は、「未来」を象徴する。

 拒絶されるかもしれない、が、やり直せるかもしれない。
 それは「未来」そのもの。
 可能性そのもの。

 一騎打ちの最中、源太は晴興への敵意を終わらせていた。考え直したとか、なくなったとかじゃなく、「終焉」させていたと思う。
 重くなりすぎた水滴が葉から落ちるように、事実を積み重ね、あるがままに、「終わった」んだと思う。晴興への敵意や、憎しみが。
 だから、あの状態のまま源太が生きて晴興の前に現れたのなら、少なくとも晴興を「拒絶していない」と思う。

 だから、可能性。
 源太と晴興は、新たな関係を構築する余地が、ある。

 それは、救いだろう。

 晴興を救えるのは、源太を登場させることだ。
 物語にあるものをまったく変えずに、「書かれていないところ」で、「実は即死ではなかった、まだ生きていた」とする。
 源太は表向き「死んだ」ことなっている。「実は生きていた」にしろ、もう村にも泉のところにも戻れない。あっさり戻ったりしたら、せっかくお咎めなしで済んだ一揆の顛末が仕切り直しになる恐れがある。家族と村を守るためにも、「一揆の首謀者」は死んだことにしておかなきゃ。
 「子どもを捨てていいのか」とかいう気持ちの問題じゃない、泉とは立場が違う。生きていたなら、源太はもう、村にも藩にも帰れない。どこか、まったく違う場所へ行かなきゃ。
 違う場所……源太を誰も知らないところ。
 晴興の向かう陸奥へ、源太も行けばいいじゃん。


 北の地で、晴興と源太が星を見上げる未来がある。

 消えない傷や、やるせない思いを抱いたまま。
 それでも、子どもの頃と同じように、星を見上げるんだ。


 『星逢一夜』は、面白い。いろんな可能性を考えることが出来る。
 「面白い物語」って、つまり、そういうことなんだと思う。受け取った側が、どれだけ想像できるか。想像を許してくれるか。想像したいと、思わせてくれるか。

 それは、「可能性」や「未来」と同義語。

 ムラ楽の日の明け方まで、憑かれたようにPCに向かった。書くことで、答えを探した。
 しあわせな時間だった。

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