源太がしあわせになる物語。@星逢一夜
2015年9月29日 タカラヅカ 『星逢一夜』が面白くなったのは、源太が面白くなったから。
というわたしは、源太の終わり方を、しあわせだと思う。
「愛する晴興と一緒になれないから、消去法で源太と結婚する」と言われたも同然の三人模様の絶体絶命、星逢祭りの夜から10年。
3人も子どもに恵まれ、狭いながらも楽しい我が家、愛の光のさすところ……だったのが、これ以上生活できないからと全滅覚悟の一揆企画。仕方ないとは言え、妻子を食わしてやれない男レッテルからは逃れられないね。
考えないようにしてたけど、やっぱり泉は晴興に心を残していて、一緒に暮らそうが子どもを作ろうが、晴興には勝てないことを思い知らされ、あまつさえ「あの人と闘っても勝ち目はない!」とか泉に言い切られちゃう始末。
一騎打ちで這いつくばり、情けをかけられ、結果一刀のもとに絶命。今際の際に1曲歌えるでなく、言い残せるでなく、すぱっと物体化、どさっと倒れて終了。
こんな源太の人生ですが。
源太のあのラストは、いいんじゃないかと。
しかもそのあと、源太を殺した晴興と、源太の妻の泉がラブシーンやってますが。源太、どこまでも不遇。恋愛モノの当て馬男なんてこんなもんよ的な扱き下ろされ方。
こんな源太の人生ですが。
泉ひでえ、とは思うけど(笑)、それでも、源太のあのラストは、いいんじゃないかと。
純粋なHAPPYではないけれど。
あれもまた、幸福のひとつの形かなと。
人間、やりきって死ぬことって、ないじゃないですか。
もうこれ以上無理、すべて出し切った、やり尽くした、魂の限りだ! てなときに、ばたんと死ぬことって。
なにかしら、残すじゃないですか。
心とか。悔いとか。不満とか。
源太だって、広義ではぜんぜん足りてない、人生これからだと思う。家族のことも村のことも、投げ出して終わっていいはずがない。人生があるなら、まだ続くなら、彼は力の限り闘い続けただろう。闘う、てのは、「終わってない」ということだ。満足してない、現状でないナニかを求めている、「ハッピーエンド」ではなく「to be continued」だ。
広義では。
でも、狭義では。
今このとき限定で、源太はすべて、出し切った。やりきった。
施政者と体制への怒り、晴興個人への怒りで、闘い抜いた。村の男衆として、ひとりの男として、矜持をかけて真正面から闘った。
誰かに押し付けられたわけでもなく、自分の意志で選び、行動した。
選んだ道の途中で、前のめりに倒れて、絶命したんだ。人間として、男として、これは本望じゃなかろうか。
短絡的な考え方だけど。
わたしたちは、外側から観ているから「犬死に」とか「可哀想」とか思うだけで、源太本人からすれば、筋の通ったラストだったんじゃないかと。
そう思うわたしはハッピーエンド至上主義者で、死にエンドとか嫌いな人で、源太のあっさり殺されて終了、は納得できてなかったのよ、長い間。
死ぬしかないと思っていたけど、それとは別に、死んで終わりはないだろう、そんないちばん簡単な始末のつけ方、クリエイターの怠慢、とか思っちゃうクチ。
それが、変わったのよ。
腑に落ちたのよ。源太のラストが。
一騎打ちのクライマックス、晴興と肩を合わせて空を仰ぐ一瞬がある。
あそこの源太は、すげー顔をしている。タカラジェンヌとしていいのか、と思うような顔。
あのとき源太は、ナニを思っているのか。
疲れたな。
中の人は、そう思っている、と語った。
芝居としても、体力ぎりぎりに動いていて。役としても、体力精神力ともにぎりぎりで。
追い詰められて追い詰められて、ほんとうに、ぎりぎりのところで。
ふっ、と抜ける。
疲れたな、と。
ああ。
神様の通る瞬間だ。
現実に生きていて、ときどきある。理屈ではなく、心にブランクが空く瞬間。
ふと死にたくなる瞬間だったり、言葉が湧き出てきて魔法のように文章を書ける瞬間だったりする。
自分ではない「ナニか」に心が分断される、一瞬。
かみさまがとおる。
宗教とかスピリチュアルとかでもなく、ひとの心の不思議として、「ある」。
源太があの瞬間、「神様が通った」のだとして。
現実から、ことわりから、あの一瞬だけ、分断されたとして。
彼は、しあわせではないかい?
彼の愛する妻が、守りたい村の仲間たちが、見守る中で。
決着をつけたい、雌雄を決したいと思っていた親友と、力の限り闘って。
そしてその親友が、泣いていて。
彼のぬくもりが、触れた肩から伝わってきて。
愛されていて。
妻からも、仲間からも、村からも、世界からも、愛されていて。
闘っている、親友からも、愛されていて。
すべてを、出し切って。
人間として、生き物として、魂として、すべてを、出し切って。
それゆえに。
疲れたな。
そう思った次の瞬間、絶命する。
これは。
この終わり方は。
ある意味、最良の形ではないかい?
観ていて、思ったんだ。
完結したな、と。
源太の人生が、完結した。
晴興と肩を合わせて天を仰いだ。あそこで彼の物語がきれいに「終わった」。最後のピースがはまった。
そう思った次の瞬間、不要な説明なしにすぱっと終了する、この心地よさ。
完結した。なんて潔いラストだ。
蛇足なしに正しく終わった、それってなんて気持ちいい。「物語」として、気持ちいい。死にエンド嫌いだからヤなんだけど、そういう感情面とは別に、「美しい物語を求める気持ち」がこのラストを心地いいと思う。
バスティーユでオスカルが「フランスばんざい」と息絶え、「バスティーユが落ちたぞー!」の歓声と衛兵たちの敬礼、ロザリーの絶叫「嫌ーーーーっ!!」、で緞帳降りて終了!! が気持ちいいみたいなもんで。ここで終わるとなんかすげードラマティック、いいもん観た気がする?! てな。そりゃオスカル死んで悲しいけど。
……そのあと天使が踊り出したり、アニメが流れて銀河からペガサスに牽かれたガラスの馬車が現れて、満面の笑みのアンドレが「オスカール、オスカール」、死んだはずのオスカルがむくっと起き上がって、クレーンの馬車に乗ってアンドレと共に客席に手を振る……てな、爆笑エンドも、そりゃエンタメの醍醐味だけど!
蛇足なしにすぱっと終わるのも、いいのよ! カタルシスなのよ! 源太のラストがいいってのは、いわば、オスカル戦死で幕、を気持ちいいと思うハートなのよ。
なんか、昇華されたな。
源太の人生……というか、源太に魅せられた、わたしの気持ちが。
源太はしあわせだった。
他に、もっと人生や幸せの形があったとしても。
あの瞬間彼が選んだ人生としては、しあわせな終わりだった。
ぞくぞくする。
というわたしは、源太の終わり方を、しあわせだと思う。
「愛する晴興と一緒になれないから、消去法で源太と結婚する」と言われたも同然の三人模様の絶体絶命、星逢祭りの夜から10年。
3人も子どもに恵まれ、狭いながらも楽しい我が家、愛の光のさすところ……だったのが、これ以上生活できないからと全滅覚悟の一揆企画。仕方ないとは言え、妻子を食わしてやれない男レッテルからは逃れられないね。
考えないようにしてたけど、やっぱり泉は晴興に心を残していて、一緒に暮らそうが子どもを作ろうが、晴興には勝てないことを思い知らされ、あまつさえ「あの人と闘っても勝ち目はない!」とか泉に言い切られちゃう始末。
一騎打ちで這いつくばり、情けをかけられ、結果一刀のもとに絶命。今際の際に1曲歌えるでなく、言い残せるでなく、すぱっと物体化、どさっと倒れて終了。
こんな源太の人生ですが。
源太のあのラストは、いいんじゃないかと。
しかもそのあと、源太を殺した晴興と、源太の妻の泉がラブシーンやってますが。源太、どこまでも不遇。恋愛モノの当て馬男なんてこんなもんよ的な扱き下ろされ方。
こんな源太の人生ですが。
泉ひでえ、とは思うけど(笑)、それでも、源太のあのラストは、いいんじゃないかと。
純粋なHAPPYではないけれど。
あれもまた、幸福のひとつの形かなと。
人間、やりきって死ぬことって、ないじゃないですか。
もうこれ以上無理、すべて出し切った、やり尽くした、魂の限りだ! てなときに、ばたんと死ぬことって。
なにかしら、残すじゃないですか。
心とか。悔いとか。不満とか。
源太だって、広義ではぜんぜん足りてない、人生これからだと思う。家族のことも村のことも、投げ出して終わっていいはずがない。人生があるなら、まだ続くなら、彼は力の限り闘い続けただろう。闘う、てのは、「終わってない」ということだ。満足してない、現状でないナニかを求めている、「ハッピーエンド」ではなく「to be continued」だ。
広義では。
でも、狭義では。
今このとき限定で、源太はすべて、出し切った。やりきった。
施政者と体制への怒り、晴興個人への怒りで、闘い抜いた。村の男衆として、ひとりの男として、矜持をかけて真正面から闘った。
誰かに押し付けられたわけでもなく、自分の意志で選び、行動した。
選んだ道の途中で、前のめりに倒れて、絶命したんだ。人間として、男として、これは本望じゃなかろうか。
短絡的な考え方だけど。
わたしたちは、外側から観ているから「犬死に」とか「可哀想」とか思うだけで、源太本人からすれば、筋の通ったラストだったんじゃないかと。
そう思うわたしはハッピーエンド至上主義者で、死にエンドとか嫌いな人で、源太のあっさり殺されて終了、は納得できてなかったのよ、長い間。
死ぬしかないと思っていたけど、それとは別に、死んで終わりはないだろう、そんないちばん簡単な始末のつけ方、クリエイターの怠慢、とか思っちゃうクチ。
それが、変わったのよ。
腑に落ちたのよ。源太のラストが。
一騎打ちのクライマックス、晴興と肩を合わせて空を仰ぐ一瞬がある。
あそこの源太は、すげー顔をしている。タカラジェンヌとしていいのか、と思うような顔。
あのとき源太は、ナニを思っているのか。
疲れたな。
中の人は、そう思っている、と語った。
芝居としても、体力ぎりぎりに動いていて。役としても、体力精神力ともにぎりぎりで。
追い詰められて追い詰められて、ほんとうに、ぎりぎりのところで。
ふっ、と抜ける。
疲れたな、と。
ああ。
神様の通る瞬間だ。
現実に生きていて、ときどきある。理屈ではなく、心にブランクが空く瞬間。
ふと死にたくなる瞬間だったり、言葉が湧き出てきて魔法のように文章を書ける瞬間だったりする。
自分ではない「ナニか」に心が分断される、一瞬。
かみさまがとおる。
宗教とかスピリチュアルとかでもなく、ひとの心の不思議として、「ある」。
源太があの瞬間、「神様が通った」のだとして。
現実から、ことわりから、あの一瞬だけ、分断されたとして。
彼は、しあわせではないかい?
彼の愛する妻が、守りたい村の仲間たちが、見守る中で。
決着をつけたい、雌雄を決したいと思っていた親友と、力の限り闘って。
そしてその親友が、泣いていて。
彼のぬくもりが、触れた肩から伝わってきて。
愛されていて。
妻からも、仲間からも、村からも、世界からも、愛されていて。
闘っている、親友からも、愛されていて。
すべてを、出し切って。
人間として、生き物として、魂として、すべてを、出し切って。
それゆえに。
疲れたな。
そう思った次の瞬間、絶命する。
これは。
この終わり方は。
ある意味、最良の形ではないかい?
観ていて、思ったんだ。
完結したな、と。
源太の人生が、完結した。
晴興と肩を合わせて天を仰いだ。あそこで彼の物語がきれいに「終わった」。最後のピースがはまった。
そう思った次の瞬間、不要な説明なしにすぱっと終了する、この心地よさ。
完結した。なんて潔いラストだ。
蛇足なしに正しく終わった、それってなんて気持ちいい。「物語」として、気持ちいい。死にエンド嫌いだからヤなんだけど、そういう感情面とは別に、「美しい物語を求める気持ち」がこのラストを心地いいと思う。
バスティーユでオスカルが「フランスばんざい」と息絶え、「バスティーユが落ちたぞー!」の歓声と衛兵たちの敬礼、ロザリーの絶叫「嫌ーーーーっ!!」、で緞帳降りて終了!! が気持ちいいみたいなもんで。ここで終わるとなんかすげードラマティック、いいもん観た気がする?! てな。そりゃオスカル死んで悲しいけど。
……そのあと天使が踊り出したり、アニメが流れて銀河からペガサスに牽かれたガラスの馬車が現れて、満面の笑みのアンドレが「オスカール、オスカール」、死んだはずのオスカルがむくっと起き上がって、クレーンの馬車に乗ってアンドレと共に客席に手を振る……てな、爆笑エンドも、そりゃエンタメの醍醐味だけど!
蛇足なしにすぱっと終わるのも、いいのよ! カタルシスなのよ! 源太のラストがいいってのは、いわば、オスカル戦死で幕、を気持ちいいと思うハートなのよ。
なんか、昇華されたな。
源太の人生……というか、源太に魅せられた、わたしの気持ちが。
源太はしあわせだった。
他に、もっと人生や幸せの形があったとしても。
あの瞬間彼が選んだ人生としては、しあわせな終わりだった。
ぞくぞくする。
コメント