ひさしぶりの『激情』。最後に観たのはちえねね。生のみ、映像では一切見てない。
 てことで、記憶は遠い。
 もともとポンコツだけど、最近とみに記憶力が衰えてなあ……よぼよぼ。

 初演も再演も観ているし、ストーリーもキャラクタも知っているけれど、なんというかもとても「新しい」気分で客席にいた。
 ストーリーを知っていても、それを観てどう感じるのかまでは、おぼえていない状態、というか。ここはこうあらねばならない、などの思い込みが薄れている。

 そんなわたしは今回の『激情』を観て。

 痛烈に、メリメいらね、と思った。

 カチャさんの問題でなく、脚本。
 なんでそこまで解説する必要があるんだ、そこは芝居自体で表現することだろ、てなことまで、メリメさんが登場するなり立て板に水かっつー勢いでえんえん喋ることに閉口した。
 ひどいなー。まだ録音でなく、生の芝居だからマシか。柴田&正塚作品はなにかっちゃー録音テープ使う、つーイメージ(笑)。録音聞くなら映画でいいじゃん、演劇は生台詞聴かせろ志向のわたしは、アンチ録音テープ。

 せっかく物語に集中しているのに、メリメが出て来て水を差されるのが嫌だった。彼がなにか有益な情報をもたらすならともかく、「そんなの観てたらわかるし」「知ってるし」「それどうでもいい」てんこ盛り。
 『ルパン』のルブラン@みっちゃん的なうざさ。場違い感。

 メリメさんすっきりきれいで、目にはやさしいけど、でも「それだけ」だと、「物語」を楽しみたいわたしには不要としか思えなかった。


 あとから、「以前の『激情』もそうだっけ?」と思い出してみても、納得にはほど遠かった。
 たしか、初演のたかこメリメには、「ナレーション」としての仕事を感じていた。ホセ@ずんことは距離があるというか、主人公するホセと語るメリメには、ビジネスライクな関係以上のモノは感じなかったし、こちらとしてもそれ以上も以下も求めなかった。
 再演のすずみんメリメには、狂言回しとしての妙を感じていた。あざやかに線を引き、割って入る。別次元から語っている……なのにどんどんホセ@れおんの世界に入り込んでくる……ホセに入れ込むあまり近づき過ぎてる、ストップストップ、落ち着いて? と言いたくなる、愉快な人。
 どちらのときも、「メリメいらね」とは思ってない。
 なんで今回に限り、こんなにうざかったんだろう?
 わたしは記憶力に乏しく、初演・再演と今回台詞や演出がどう違っているか、あるいは同じなのか、さっぱりわかってないのよ。
 観た感じ、特に変更らしい変更も気づかなかったけど……。なにか変わってた? メリメの台詞や出番が増えて、元の芝居にないものを付け加えたわけだから、そこが「うざい」と思わせることになっているとか?

 ホセ@たまきちの存在が、メリメを求めていないのかな。
 彼の物語が、解説役を必要としていない。ゆえに、解説にしゃしゃり出てくるメリメの不要感が大きくなった?

 理屈はわからないが、今回はメリメの良さがわからなかった。
 れおんとすずみん、たまきちとカチャ、なら、立ち位置が似通っているので、役割り的にも据わりがいいはずなのにな。
 カチャは品のある青年なので、彼が演じる「紳士」は問題なくハマる。今回もきれいに出ていたと思う。
 のになんで、あんなにしっくりこなかったんだろう。
 芝居は好み部分が大きいので、単純にわたしの好みではなかった、というだけかもしれない。

 メリメではなく、ホセの友人ということにして、最初から最後までずっと「友人」の立場でホセに対峙してくれていたら、また違ったのかもなあ……と思い、それってどこのクリストフ@『舞音-MANON-』。

 うん、そうなのよね。

 『激情』を観た直後に、某所へわたしがつぶやいたこと。

『激情』はおもしろい話なんだけど、『舞音』の直後に観るもんじゃないな…(´・ω・`)(

 コレに尽きる。

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