だからわたしは、笑いのツボが狭いんだってば。@こうもり
2016年4月1日 タカラヅカ 『こうもり』についてあれこれ語る。
まず、わたしはこの話、好きじゃない。
好みの問題。
作品の善し悪しとも関係ない。好き嫌い、得意苦手レベルの話ね。
わたし、ひとを騙して笑いものにする話は嫌い。
ひとを傷つけて、平気な人も苦手。
それも大勢でよってたかってひとりをいじめて嗤うの楽しむ、ってのは、どうにもこうにも難易度が高い。
「最初に悪いことをしたのはあいつだ。だからみんなでよってたかって騙して笑いものにしても、正当な復讐だ。自業自得だ」
とは、思えない。
目には目を、ならまだしも、目には目と歯をっていうか、倍返ししてんじゃん?
「敵同士」とか「仇」とかならいいけど、「友だち」相手にやっていいことじゃない。
たしかに酔った勢いでいたずらをしたアイゼンシュタインはひどいけど、酔っ払いの仕業に対し、しらふで大勢を巻き込んで、綿密に復讐計画を立てて実行するファルケ博士は人としてどうかと思う。はっきりいって、こわい。ファルケ博士こわい。キモチ悪い。
そして、なにがこわいかって、こんだけこわくてキモチ悪いことをしているファルケ博士が、自分を悪だと思っていない、周りも誰ひとり悪だと思っていない、世界観が、こわくてキモチ悪すぎる。
今までも何度も書いてきたが、悪を行うなということじゃない。
フィクションなんだから悪人が主役でも、あくどいことを行うストーリーでもいい。
「ソレが悪である」と自覚した上でならいいんだ。
友だちを騙し、みんなで笑いものにする。ひとりを大勢でいじめる。それを「悪いこと」だと自覚した上でやる分にはかまわない。
アイゼンシュタインに傷つけられた、許せない。許せないから復讐する、悪に手を染めても仕返しをしなくては治まらない。これで友情も人望もすべて失ってもいい。罪を犯してでも許せないことが、この世にはある、自分はそれを行うのだ。……という自覚と覚悟があるならぜんぜんいい。
でも、「仕返しだから正義」だと本人も周りも思っている、というのは……キモチ悪い。
コメディなんだよ、そんなに深く考えることない、ただ笑って楽しめばいい。コメディに難癖を付けるなんて無粋だ。
という意見はわかる。
実際、その通りだと思うよ。
だからこれは、好みの問題。
わたしは、笑いのツボが極少なのよ。
弱いモノや愚かなモノを、いじめたり痛めつけたりする様を笑えない。
バカな人がバカなことをする、そのみっともなさを笑えない。
昔テレビで見たことがある、ボケをハリセンで叩く系のお笑いが苦手だった。暴力を笑うことが、どうにもこうにも理解出来なかった。
巨悪とか権力で守られた極悪人を、虐げられた弱い立場の者たちが知恵と勇気と友情で討ち果たす物語にはカタルシスを感じても、強くもなくてバカで滑稽な人を、あたりまえにいじめたり酷い目に遭わせたりする話には、共感出来ないの。
『ヤッターマン』のドロンジョたちのお仕置きシーンが苦手だったもんなあ。バカだけど一生懸命な人たちが、努力が報われないばかりか酷い目に遭って逃げ帰ったのに、さらにひどいお仕置きを受ける、それを笑う、という趣向が。彼らが悪なのはわかるけど、真の悪ではなく、「愚かさ故の悪どさ」としているだけに。笑わせるために、わざと大袈裟に滑稽にしていることも、子ども心に理解していたけれど、楽しめはしなかった。
笑いのツボが狭い。
『こうもり』は、ドロンジョたちのお仕置きシーンを笑える人でないと楽しめないよなあ。
でも、ドロンジョたちのお仕置きを楽しめる人が世の中の大半だから、『ヤッターマン』は人気アニメで、ドロンジョたちも人気キャラだったんだよね。
つまり、楽しめないわたしが変なの。心狭いの。
ただ、『ヤッターマン』は名作アニメかもしんないけど、谷せんせの『こうもり』はつまらないと思うわ。
副題に「こうもり博士の愉快な復讐劇」とあるけど、やっていることがバカバカしすぎてちっとも笑えないし。
大体、なにをもって「愉快」とするのか、文脈から問いただしたいし。
谷先生とは笑いのセンスが合わない、と常々思う。
谷せんせは、落語モノもそうだけど、滑稽なモノや弱いモノを攻撃して笑いにする節があるのよねー。強いモノや賢いモノを笑うのではなく、より弱いモノ、より愚かなモノを俎上に載せて叩く。
愚か者を笑うのは、いちばん簡単な手法だと思う。古来より道化者が職業としてあったように。
谷せんせの泣かせ技が「皆殺し」であるのと、ある意味同種。人が死ねば、観客は泣く。涙を流すほど感情が動くことを、人は感動と混同する。感動させたければ、登場人物を殺せばいい。いちばん簡単な手法。
谷せんせは笑いにしろ泣かせにしろ、いちばん安易な手法を取る印象が強い。
苦手だな。
まず、わたしはこの話、好きじゃない。
好みの問題。
作品の善し悪しとも関係ない。好き嫌い、得意苦手レベルの話ね。
わたし、ひとを騙して笑いものにする話は嫌い。
ひとを傷つけて、平気な人も苦手。
それも大勢でよってたかってひとりをいじめて嗤うの楽しむ、ってのは、どうにもこうにも難易度が高い。
「最初に悪いことをしたのはあいつだ。だからみんなでよってたかって騙して笑いものにしても、正当な復讐だ。自業自得だ」
とは、思えない。
目には目を、ならまだしも、目には目と歯をっていうか、倍返ししてんじゃん?
「敵同士」とか「仇」とかならいいけど、「友だち」相手にやっていいことじゃない。
たしかに酔った勢いでいたずらをしたアイゼンシュタインはひどいけど、酔っ払いの仕業に対し、しらふで大勢を巻き込んで、綿密に復讐計画を立てて実行するファルケ博士は人としてどうかと思う。はっきりいって、こわい。ファルケ博士こわい。キモチ悪い。
そして、なにがこわいかって、こんだけこわくてキモチ悪いことをしているファルケ博士が、自分を悪だと思っていない、周りも誰ひとり悪だと思っていない、世界観が、こわくてキモチ悪すぎる。
今までも何度も書いてきたが、悪を行うなということじゃない。
フィクションなんだから悪人が主役でも、あくどいことを行うストーリーでもいい。
「ソレが悪である」と自覚した上でならいいんだ。
友だちを騙し、みんなで笑いものにする。ひとりを大勢でいじめる。それを「悪いこと」だと自覚した上でやる分にはかまわない。
アイゼンシュタインに傷つけられた、許せない。許せないから復讐する、悪に手を染めても仕返しをしなくては治まらない。これで友情も人望もすべて失ってもいい。罪を犯してでも許せないことが、この世にはある、自分はそれを行うのだ。……という自覚と覚悟があるならぜんぜんいい。
でも、「仕返しだから正義」だと本人も周りも思っている、というのは……キモチ悪い。
コメディなんだよ、そんなに深く考えることない、ただ笑って楽しめばいい。コメディに難癖を付けるなんて無粋だ。
という意見はわかる。
実際、その通りだと思うよ。
だからこれは、好みの問題。
わたしは、笑いのツボが極少なのよ。
弱いモノや愚かなモノを、いじめたり痛めつけたりする様を笑えない。
バカな人がバカなことをする、そのみっともなさを笑えない。
昔テレビで見たことがある、ボケをハリセンで叩く系のお笑いが苦手だった。暴力を笑うことが、どうにもこうにも理解出来なかった。
巨悪とか権力で守られた極悪人を、虐げられた弱い立場の者たちが知恵と勇気と友情で討ち果たす物語にはカタルシスを感じても、強くもなくてバカで滑稽な人を、あたりまえにいじめたり酷い目に遭わせたりする話には、共感出来ないの。
『ヤッターマン』のドロンジョたちのお仕置きシーンが苦手だったもんなあ。バカだけど一生懸命な人たちが、努力が報われないばかりか酷い目に遭って逃げ帰ったのに、さらにひどいお仕置きを受ける、それを笑う、という趣向が。彼らが悪なのはわかるけど、真の悪ではなく、「愚かさ故の悪どさ」としているだけに。笑わせるために、わざと大袈裟に滑稽にしていることも、子ども心に理解していたけれど、楽しめはしなかった。
笑いのツボが狭い。
『こうもり』は、ドロンジョたちのお仕置きシーンを笑える人でないと楽しめないよなあ。
でも、ドロンジョたちのお仕置きを楽しめる人が世の中の大半だから、『ヤッターマン』は人気アニメで、ドロンジョたちも人気キャラだったんだよね。
つまり、楽しめないわたしが変なの。心狭いの。
ただ、『ヤッターマン』は名作アニメかもしんないけど、谷せんせの『こうもり』はつまらないと思うわ。
副題に「こうもり博士の愉快な復讐劇」とあるけど、やっていることがバカバカしすぎてちっとも笑えないし。
大体、なにをもって「愉快」とするのか、文脈から問いただしたいし。
谷先生とは笑いのセンスが合わない、と常々思う。
谷せんせは、落語モノもそうだけど、滑稽なモノや弱いモノを攻撃して笑いにする節があるのよねー。強いモノや賢いモノを笑うのではなく、より弱いモノ、より愚かなモノを俎上に載せて叩く。
愚か者を笑うのは、いちばん簡単な手法だと思う。古来より道化者が職業としてあったように。
谷せんせの泣かせ技が「皆殺し」であるのと、ある意味同種。人が死ねば、観客は泣く。涙を流すほど感情が動くことを、人は感動と混同する。感動させたければ、登場人物を殺せばいい。いちばん簡単な手法。
谷せんせは笑いにしろ泣かせにしろ、いちばん安易な手法を取る印象が強い。
苦手だな。
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