『ドン・ジュアン』KAAT初日観劇。

 ああ、そうかこれ、『ロミオとジュリエット』だ。
 観ながら思った。
 作者の意図なんぞ知らん。わたしが、そう思った。

 ドン・ジュアン@だいもんは、ロミオだ。
 白いベッドで白い姿で、愛するマリア@みちるちゃんと戯れる姿に、タカラヅカの『ロミジュリ』が重なって見えた。

 ロミオ登場のソロ「遊びなら何人かとつきあったけれど虚しいだけ。どこにいるの本当の恋人、僕のためだけに生まれてきた人♪」は、そのままドン・ジュアンにも当てはまる。ドン・ジュアンは虚しさにも、求めているものにも気づいてないけれど。

 ドン・カルロ@咲ちゃんがベンヴォーリオ。ラファエル@ひとこがティボルト。

 そして、この世界に「愛」はいない。
 ロミオを導くのは「死」のみ。

 亡霊@がおりが、ドン・ジュアンを翻弄する。

 ドン・ジュアンはロミオの純粋さと危うさ、そしてマーキューシオの狂気を併せ持つ。
 「愛」のいない世界で、「死」と出会い、その導きによって恋に落ちる。
 死へたどり着くことによって、生まれ直すために。

 人生を逆回しするかのように、死からはじまるロミオ。
 なんと愛すべき男なのか。

 や、クズだけどな。クズ過ぎるけどな(笑)。
 だけど、彼が持つ闇と狂気、そんな彼を中心に置く世界が、好み過ぎる。

 ドン・ジュアンはクズだし、感情移入もナニもない主人公。
 だが、そこがいい。

 わたしがもっとも苦手とするのが、「間違った倫理観」。植爺などが標準装備している、「主人公の言動・思想を正しいとするために、世界の理を歪める」という。
 やってることはただの悪なのに「愛があるから正義です」「信念があるから正義です」と、ストーカーの言い分みたいな世界観が苦手。
 『ドン・ジュアン』のように、最初から「ドン・ジュアンは悪」「ドン・ジュアンはクズ」と言い切ってくれる物語は好き。

 「ドン・ジュアンは悪、ドン・ジュアンはクズ」「だけど、魅力的。だけど、愛しい」……この「だけど」がいい。

 世界と愛の齟齬。
 世界は彼を「間違っている」とする。だけど、彼は「魅力的」だ。間違っているのに、「愛しい」。
 正しくありたい、幸福でありたい、人として生物として生理が求めるものを、心が、感情が、無視して走り出す。
 それでも、彼が愛しい。

 人間の不思議、愛の不可解さ。
 大いなる矛盾として、ドン・ジュアンが在る。

 ドン・ジュアンが作る世界を許容出来る者たちだけが、彼と良好な関係を築ける。イザベル@圭子ねーさまとか。一夜限りの愛で満足する女たちとか。
 本心はともかく、彼を失いたくなければ、彼を受け入れるしかない。

 ドン・ジュアンを愛しながらも、彼の世界を認められず、自分たちの理に従わせようとする者たちは、果てない苦しみに落ちる。ドン・カルロやエルヴィラ@くらっち。
 正しい者こそが、より深い絶望を知る。

 なんて理不尽な。
 ……でもそれは、人生の縮図。
 なにもかも思い通りになることなんて、正しい者がすべて報われるなんて、ありえないでしょう?

 易しい答えを出していただかなくて結構。
 ドン・ジュアンを導く亡霊が、毒に満ちた饒舌さを持つように。
 混沌のまま、ドン・ジュアンは在っていい。

 そこが、この物語の魅力だと思う。

 純粋さより闇を深く映し出すロミオ。
 『ロミジュリ』をダークアレンジして描いたような物語。「すべては愛のために」……1枚の紙の表は、反対から見ると裏になる。

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