結局かっこいいしか言ってない。@新人公演『エリザベート』
2016年8月9日 タカラヅカ 宙組新人公演『エリザベート』観劇。
なにをさておいてもわたしは、ルキーニ@和希そらが観たかった。
それだけだった。
『エリザ』新公は本気でチケットなくて手に入らなくて、かなり大変だったんだけど、「かずきそらのルキーニ」と思ったら、がんばれた。
なにがなんでも観るんだ、と。
そんでもって。
和希そら、かっこよくないですか?
わたしの目の錯覚ですか?
わたしの心の錯覚ですか?
和希そらがかっこいいです。
ハンサムです。
び……美形に見えます……お、おかしいでしょうか……?
どきどきどきどき。
うまいことは、わかりきってたし。出来ることも、わかりきってたし。
だから、「思った通りうまいわ」「思った通りいい出来だわ」と思うだけで、新しい発見も感動もないの。安心して眺めて聴いてるの。
それだけなの。
なのに何故だ、わくわくする、どきどきする。
和希そらがかっこよく見える……っ。
ルキーニ効果なのかしら?
ルキーニやると大抵男ぶりが上がって見えるよね? だから本公演では超トップ路線のスターにしかやらせないし。
実を言うとわたし、前回の花組『エリザベート』から、「ルキーニって存外つまんない役だな」と思うようになっていて、役自体には気持ちが動かないのね。
だからこれは、演じる役者への飢餓感度合いで変化する感覚なのだと思う。
ルキーニの持つ「おいしさ」は、観ているわたしが、演じている人に対し「こんなにいい役をやってる! こんなに出番がある!」ことに感嘆の思いがないと、いまいち盛り上がらないもんなんだなあ、と。
ルキーニ自身は愛に苦悩したり、人生に悩んだり、しないものね。最初から最後まで同じところにいて、変化も成長もない。
ルキーニの変化って、ラストのシシィ暗殺場面だけだもんなあ。それ以外は時間経過すら彼にはない、物語を俯瞰しているだけの傍観者。
カタルシスは、変化にある。同じリズムを刻むだけでは、華々しい主旋律に意識を持って行かれてしまう。
だからわたしは、カズキソラに飢餓感を持っているのだと思った。メロディを放っておいて、ベースラインに注目しているもの。
もっとそらくんを見たい。
舞台上にいる彼を、声を出し、歌っている彼を見たい。
「ルキーニ」という役は、それを満たしてくれる役だ。
出番がある、台詞がある、歌がある。
それだけでうれしい。ありがたい。
カズキソラの変わり続ける表情を観ているだけで楽しい。
シニカルな笑い、不意に冷徹になる面、内側から圧力を破裂させる、笑い。
……カズキソラの本役にちょっと不満があることもあり、余計にルキーニ役に食いついちゃうんだわ……。
そしてわたし、かずきそらくんのビジュアルに夢を持っていない。どっちかっつーと、ビジュアルは難アリだと思っている。彼が美形だったら、いくら小柄でももっと路線スターとして扱われていたと思う、他組の小柄美形さんたちの扱いから鑑みて。
これだけ実力があっても路線として弱いと判断されるのは、ひとえにビジュアルが原因なんだろうなと。
そう思っていてなお。
そらくんが、かっこいい。
と、瞠目してしまう。
今までの自分の認識に、揺らぎを感じる。
ビジュ難だと思っていたのはわたしだけで、実はかずきそら、美形なんじゃ……?
どきどきどきどき。
ルキーニは出番が多くてオイシイ役。
いやいやいや、ぜんぜん足りないよ、あっちゅー間に終わっちゃうじゃん、まだ足りてない、わたしにもっとかずきそらを見せろ~~!
そう思いました。
観る前からわかっていた、「思った通りうまいわ」「思った通りいい出来だわ」と思うだけで、新しい発見も感動もないの。安心して眺めて聴いてるの。
……ん? 観る前からわかってた?
かっこいい、美形だ、てのは、新しい発見? 感動? え、そうなの?
いやそのもっと、「彼のこの芝居はどーたら」とか語れることが発見とか感動とかかと……語る言葉がないのでなにもないのかと……。
たんなるわたしの語彙力の問題?
かずきそらは、新しい発見と感動に満ちている?
なにをさておいてもわたしは、ルキーニ@和希そらが観たかった。
それだけだった。
『エリザ』新公は本気でチケットなくて手に入らなくて、かなり大変だったんだけど、「かずきそらのルキーニ」と思ったら、がんばれた。
なにがなんでも観るんだ、と。
そんでもって。
和希そら、かっこよくないですか?
わたしの目の錯覚ですか?
わたしの心の錯覚ですか?
和希そらがかっこいいです。
ハンサムです。
び……美形に見えます……お、おかしいでしょうか……?
どきどきどきどき。
うまいことは、わかりきってたし。出来ることも、わかりきってたし。
だから、「思った通りうまいわ」「思った通りいい出来だわ」と思うだけで、新しい発見も感動もないの。安心して眺めて聴いてるの。
それだけなの。
なのに何故だ、わくわくする、どきどきする。
和希そらがかっこよく見える……っ。
ルキーニ効果なのかしら?
ルキーニやると大抵男ぶりが上がって見えるよね? だから本公演では超トップ路線のスターにしかやらせないし。
実を言うとわたし、前回の花組『エリザベート』から、「ルキーニって存外つまんない役だな」と思うようになっていて、役自体には気持ちが動かないのね。
だからこれは、演じる役者への飢餓感度合いで変化する感覚なのだと思う。
ルキーニの持つ「おいしさ」は、観ているわたしが、演じている人に対し「こんなにいい役をやってる! こんなに出番がある!」ことに感嘆の思いがないと、いまいち盛り上がらないもんなんだなあ、と。
ルキーニ自身は愛に苦悩したり、人生に悩んだり、しないものね。最初から最後まで同じところにいて、変化も成長もない。
ルキーニの変化って、ラストのシシィ暗殺場面だけだもんなあ。それ以外は時間経過すら彼にはない、物語を俯瞰しているだけの傍観者。
カタルシスは、変化にある。同じリズムを刻むだけでは、華々しい主旋律に意識を持って行かれてしまう。
だからわたしは、カズキソラに飢餓感を持っているのだと思った。メロディを放っておいて、ベースラインに注目しているもの。
もっとそらくんを見たい。
舞台上にいる彼を、声を出し、歌っている彼を見たい。
「ルキーニ」という役は、それを満たしてくれる役だ。
出番がある、台詞がある、歌がある。
それだけでうれしい。ありがたい。
カズキソラの変わり続ける表情を観ているだけで楽しい。
シニカルな笑い、不意に冷徹になる面、内側から圧力を破裂させる、笑い。
……カズキソラの本役にちょっと不満があることもあり、余計にルキーニ役に食いついちゃうんだわ……。
そしてわたし、かずきそらくんのビジュアルに夢を持っていない。どっちかっつーと、ビジュアルは難アリだと思っている。彼が美形だったら、いくら小柄でももっと路線スターとして扱われていたと思う、他組の小柄美形さんたちの扱いから鑑みて。
これだけ実力があっても路線として弱いと判断されるのは、ひとえにビジュアルが原因なんだろうなと。
そう思っていてなお。
そらくんが、かっこいい。
と、瞠目してしまう。
今までの自分の認識に、揺らぎを感じる。
ビジュ難だと思っていたのはわたしだけで、実はかずきそら、美形なんじゃ……?
どきどきどきどき。
ルキーニは出番が多くてオイシイ役。
いやいやいや、ぜんぜん足りないよ、あっちゅー間に終わっちゃうじゃん、まだ足りてない、わたしにもっとかずきそらを見せろ~~!
そう思いました。
観る前からわかっていた、「思った通りうまいわ」「思った通りいい出来だわ」と思うだけで、新しい発見も感動もないの。安心して眺めて聴いてるの。
……ん? 観る前からわかってた?
かっこいい、美形だ、てのは、新しい発見? 感動? え、そうなの?
いやそのもっと、「彼のこの芝居はどーたら」とか語れることが発見とか感動とかかと……語る言葉がないのでなにもないのかと……。
たんなるわたしの語彙力の問題?
かずきそらは、新しい発見と感動に満ちている?
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