水曜日は電話をしないでください。

 そうお願いしてあるにもかかわらず、わたしの仕事の担当さんは何故か水曜日にかけてくることが多い。

 1日ずれているが、2月5日、水曜日のことだ。

 水曜日は何故、電話に出られないか。
 答えは簡単。
 大阪の映画館は水曜日がレディースデー。1000円なのさ。
 でもってわたし、水曜日は映画を見ている可能性が高いのよ。

 わたしの新しいペンネームが決まりました。
 またしても、タカラジェンヌの名前です。
 ああ、友人たちに笑われるんだろーなー。前回にひきつづき、だもんなあ。
 でも、わたしが決めたわけじゃないもん。
 わたしは「緑野ひつじ」にしたかったのよ。なのに担当さんに「真面目に考えろ」って却下されてさ。
 仕方なく、5つくらい候補を並べて送ったら、その中で担当が「これにしましょう」と決めてくれたのが、某ジェンヌの名前。
 名字は「緑野」のままで、名前だけ某ジェンヌ。
 アイタタタ。
 殿さんが爆笑する姿が目に浮かぶ……。くそーっ、決めたのはわたしじゃないやいっ。
 木っ端作家はペンネームも自由にできないのよう。めそ。「ひつじ」がよかったのに……。

          ☆

 今日は映画を2本見ました。
 『ケミカル51』と『呪怨』。

 最初に予告を見たのはいつだったかな。
 スカートを穿いたサミュエル・L・ジャクソンを見た瞬間「見に行かなければ!」と思った『ケミカル51』。

 サミュエルは天才薬剤師。通常の51倍の効力があるドラッグを調合できる、つーんで、アメリカとイギリスのギャングたちが、彼をめぐって大騒動。
 サミュエルはイギリスのギャングのチンピラ、ロバート・カーライルと組んで、2000万ドル儲けようとするんだけど……。

 予告では、「俺サマが作りたかった映画はコレだ!」ってテロップが出たのよ。
 サミュエル・L・ジャクソンっていえば、しぶい演技のおじさん俳優じゃん。その彼が「作りたかった映画」ってゆーんだから、どんなもんじゃろう、と。
 ……しかも、スカート穿いてるし。
 なんなんだそりゃ、って気にも、なるでしょ?

 でもって。
 サミュエルおじさん、ほんとにコレ、作りたかったの……??

 ひとことで言うなら、おもしろくなかったっす。
 つーか、わたしの好みからは著しくはずれていた。
 クールなんすか、この映画? イケてんすかねえ?
 たしかに、とても「オシャレであること」を意識して作られていると思いますけど。

 でもなあ、わたしの趣味じゃない。
 ユーモアのツボが、ちがいすぎる。
 わたし、暴力と汚物では、笑えないの。
 お笑いでもあるじゃない、相手をぼこぼこ殴って笑わせるやつ。あれ、ダメなんだわ。暴力は暴力。笑いになんかならない。汚い言葉やモノを使って笑わせるのも、ダメ。幼児向けマンガではよくあるよね、「う○こ!」とか「ち○こ!」とか連呼する系のギャグ。あれ、笑えない。
 『ケミカル51』の笑いは、ソレ系でした。
 人をばこぼこ殺して、それを笑いにする。簡単に人を傷つけることで、笑わせようとする。
 バカなヤツを殴り倒す。バカなヤツをぶっ殺す。……これが「ユーモア」として描かれる。
 ……ダメだ。
 ごめん、わたしの趣味じゃない。

 最初にローレンスという男が殺されたときからすでに、ダメだった。
 ローレンスっちゅー、いかにも脇役な小物が、主役のロバートの暴走に文句を言う。短気なロバートは手下に「こいつをちょっと黙らせろ」と言いつける。
 で、ロバートは仕事に行く際に改めて「ローレンスはどうした、あいつがいないと仕事ができないだろ」と言うんだが、手下はしどろもどろ。
 なんでかっちゅーと、そのときはもうローレンス、殺されて車のトランクの中なんだわ。
「黙らせろとは言ったけど、始末しろとは言ってねーぞっ?!」
 という笑うシーン。
 あの、わたし、笑えません。
 ローレンスに電話をかけてきていた、彼の奥さんのこととかが気になって。彼の奥さん、泣くだろうな。傷つくだろうな。……って、物語の最初の部分から、ストーリーとは関係ないところに気が入ってちゃダメでしょう。
 万事この調子でさ。
 わ、笑えない……。

 ドレス姿で教会の鐘楼から狙撃する、女殺し屋は素敵だったけど……それだけだわ……。

 ロバート・カーライルは好みです。
 チビだけど、顔が好き。わたし、外国人俳優の顔と名前はおぼえられない人なんで、彼のことも「どっかで見たなあ、好きな顔だー」と思って見てた。
 そっか、『フル・モンティ』のおっさんだ! 『フル・モンティ』はたのしい映画だったよ。中年男たちのストリップ物語。
 なにをやっても受っぽいのがまたポイント高いよな、ロバート・カーライル(笑)。

 ま、この映画はポスターのかっこよさと、サミュエルおじさんのスカートだけを記憶しておこう。ほんとに、最初から最後まで、ナチュラルにスカート穿いてた……。

 
 映画、『13階段』。
 主演、反町隆史、山崎努。

 過失で人を殺した過去のある男・反町と、死刑執行を行ったことのある刑務官・山崎が、無実の死刑囚を救うために真犯人を捜すことになった。
 10年前に起きた保護司夫婦惨殺事件の真犯人と、その動機は? 成功報酬3000万の真犯人探しの依頼人の真意は? 事件を調べるうちに、反町の隠された過去が明らかになってくる。彼と事件との関係は……?
 殺人とはなにか。償いとはなにか。罰とはなんなのか、死刑の是非は。重ーいテーマのヒューマン・サスペンス。

 いやあ、美親父たちが乱舞する、親父好きにはたまらない映画です(笑)。
 反町はどーでもいいです、努です、山崎努!! わたしとWHITEちゃんの合い言葉は「努は見なきゃな!」ですから。
 いい男だ、山崎努。
 とくに、若い男と組んだときに、そのいい男ぶりが発揮される。竹之内しかり、窪塚しかり。

 テーマはとても重い。殺人と報復と罰と償い。これはもー、答えのない世界ですな。
 「死刑」とは、国家の名の下に行われる「殺人」である。この是非を問う物語でもあるわけだから、ほんとにドツボ。底のない泥沼であがきつづける。

 それぞれ「殺人者」であるふたりの主人公が、罪と向き合い、どう生きるか。
 ややこしいプロットとともに、なかなか感慨深い物語。テーマの痛さは好みです。
 ただ、それを「死刑制度」に結びつけちゃってるから、「社会派」の枠の中におさまっちゃって「それで?(首かしげ)」とつぶやくところで終わっちゃってる気がする。
 社会派にしなければ、もっともっとどす黒い、わたし好みの暗くて深くて痛い世界が展開されただろーに。
 社会派にすることで一般性を持たせてるから、その分薄いんだよなー。でもま、そーでないと映画になんかならないか。スポンサーがつかないよなー。

 心配なのは、それでこの映画、誰が見に行くんだろ、ってこと。
 「死刑制度の是非」だぜ? そんなテーマで親父しか出てこない映画作って、興行的に成り立つのか? 余計なお世話だろうが、考えちゃったよ。
 若い子はまず、見ないだろ。重いモノがきらいな親父層も見ないだろ。
 ……反町隆史っつーのは、それほど集客力のある役者なのかね?

 わたしは親父好きで、なおかつ腐女子なので、たのしみましたとも!!
 腐女子のみなさん、この映画は愉快ですよ!(笑)

 山崎努×反町隆史です。
 もー、わっかりやすく、えらいことになってます。

 刑務官だった山崎、受刑中の反町にラヴラヴです。毎日視線送りまくり。なにがあっても、彼だけを見つめています。
 そして出所した反町を追いかけていきます。自分のアルバイト、死刑囚の無実をはらすのに3000万円!に、相棒としてスカウトしにきます。
 で、反町とふたりでアパート借りて住みます。ふたりで並んで台所に立ったりします。新婚さんです。
 いつの間にか、山崎は反町のことをファーストネームで呼び捨てにしています。
 前科者の反町を、「こいつを仕事から降ろせというなら、俺も降りる」と言ってかばいまくります。ふたりは一心同体、引き離すことはできません。
 反町はどーも、山崎の愛情に引きずられているよーです。彼はクールでなにを考えているのかわからない、銀縁眼鏡のおとなしい青年です。自分の気持ちを表現しないまま、山崎の言われるがままになっています。

 ……すごいです。親父、濃すぎます(笑)。
 そうか努よ、そんなに反町が好きかー。

 あと出てくるのが、天下一品の誘い受親父、大杉漣、暑苦しさいちばん井川比佐志ですよー。愉快すぎ。

 努の夢は、刑務官を退官して、パン屋を開業すること。その夢を反町に語ります。
「プロポーズしてんのかと思って、あせった」
 とWHITEちゃん。
 ええ、わたしも思いました。まさか親父、「パン屋のかみさんになってくれ」って反町のこと口説いてるのかと思ったよ……。そっか、奥さんとやり直すんだね、よかったわ。

 とにかく、濃くアツい映画でした。

 最後にひとこと。
 大杉漣はいいなあ。

 
 5分前着で映画が見られなかったのは、近年ではじめてのことだ。
 そりゃー、何年前だったか、『恋愛小説家』という前評判だけのクソ映画は、30分前に行っても満員御礼門前払いだったけどさ。(2度も出直し、3度目の正直で1時間以上前に行って並んで入った。……クソだった)

 『T.R.Y.』を見に行った。5分前に映画館に着いたら、満席だった。
 ……満席? 売れてるのか、この映画?!
 ちょっとびっくりだ。ここ数年、門前払いされたことなんか一度もなかったからさ。

 仕方なく、次の上映まで時間を潰し、つーか、そもそもの目的だった父のお使いをすませてから、なにがなんでも見て帰った。映画っちゅーのは思い立ったときに見ないと、見逃しちゃうもんなんだわ……。

 やはり映画館は8割強の入り。……水曜日とはいえ、邦画だよ? すげえ。

 ま、とにかく。

 舞台は20世紀初頭。世界をマタにかける詐欺師の織田裕二は、世界各地で男や女をコマし、惚れられまくる魔性の男。今回は魔都上海で革命家をコマし、暗殺者をコマし、日本では野心あふれる陸軍将校をコマし、男たちのはぁとをハァハァさせたまま、風のように消えていったのでした。今日もまた、世界のどこかで彼は、あらゆる男たちをコマしまくっているでしょう……。
 という、大変心温まる世界的規模の色男の話でした。

 感想は、「男って恥ずかしい……」ってとこですか。
 これ、女が女のために作ってるわけじゃないよねええ?
 そりゃ一部腐女子を意識してはいるだろーけど、大方はふつーに男が男のために創ってんでしょ?
 女はさ、「出会う女すべてに惚れらたい」とは特別思わないよね? それくらいなら男に惚れられたいと思うわな。
 でも男ってのは、「男に惚れられたい」と思う生き物なんだよなあ。だから平気で、「男に惚れられる、男の中の男」モノを書く。真正面からずどんと書く。
 ……恥ずかしい……。
 映画の中で織田裕二は、そんな「男たちの夢」の権化として描かれている。
 強くてハンサムで、といっても女性的なきらきら王子様じゃなく線の太い地に足がついた系のいい男で、かわいげがあって調子が良くて、泣きごとも言うけど、やるときゃやるぜだし、義理人情に厚くて打たれ強い。
 日本人の男が憧れる男、なんだよなあ。ウエットなんだもんよー(笑)。
 いい女に惚れられても、そっちへわざと足を踏み出そうとしない感じなんかも、男の夢か?(笑)
 それから、織田のライバルとして登場する帝国軍人、渡辺謙。この人の描きっぷりももー、「男の夢」。
 渡辺謙様に関してだけは、「美」を意識して演出してるよね? ね?
 いや、わたしははっきりいって、渡辺謙様目当てで行ったよーなもんなんで、これには腹をよじらせてもらいましたが、じつにすばらしい演出でした。
 渡辺謙様は、美しかったです。
 男たちが胸に描く、「理想の軍人将校」の姿がそこにありました。
 実際に戦争を知っている世代の人の理想じゃなくて、わたしたち以下の世代の男たちの、ね。
 つまり、「軍服かっこいー!」「軍隊ってかっこいー!」なハァトで描かれた、理想の姿よ。アニメの中に出てくる美形軍人の姿よ。
 日本軍のカーキ色の軍服ってさ、他国の軍服に比べてイケてないじゃん。資料として残っている写真を見ても、着ているのが4等身のチビ日本人だったりするから、余計にさ。
 それが、渡辺謙様が着てしまうと、かっこいいのなんのって。
 身長があって横幅もあるから、服に負けないのな。しかもあのくどい男くさい顔だから、「軍服」という一種オーラを持つコスチュームを着こなしてしまうんだわ。
 そのうえ、くるぶしまである同色のマントっすよ?!
 そして、彼の全身を映すときはカメラが「今、美しいモノを撮っています!」という意気込み十分の映し方をするのよ?! わざとななめになってみたり、スローになってみたり。
 おいおい、主役の織田相手にもそれくらいやってやれよ、と言いたくなるくらい、渡辺謙様のことは「美しい人」というスタンスで演出されています(笑)。

 たのしかった。
 渡辺謙様の軍服姿を見るだけでも、価値があります。つーかわたしにとっての価値のほとんどはそこにありました。眼福眼福。
 ストーリーにしろ、キャラにしろ、目新しいモノはナニもありません。お約束だけでできあがっています。
 だから、ツボがあるかどうか、って感じかな。たのしめるかどうかの鍵は。
 織田か、渡辺謙様を好きならOKっしょ。
 腐女子もたのしめるはず。とにかく、出会う男たちは国籍年齢問わず、みんな織田っちにラヴラヴ、目がハァトですから(笑)。
 合い言葉は「俺は日本人は嫌いだ。……だが、お前は別だ」です。
 映画『8人の女たち』鑑賞。

 1950年代のフランス。クリスマスイヴの夜、雪に閉ざされた大邸宅で一家の主が殺された。容疑者はそのとき屋敷にいた8人の女たち。
 次々と明かされる8人の美女たちの秘密。濃すぎる人間関係。そして、真犯人は……?

 最初から最後まで、主役の8人しか出ず、舞台も屋敷からまったく変わらない。

 この屋敷がもー、めっちゃロマンチックできれーな夢の邸宅。
 そこで暮らす美女たちときたら、「コスプレですかっ?!」と言いたくなるような、カラフルかつオシャレなファッション。
 50年代だからさ、ディオールの「ニュールック」系なんだよね。もー、ドレス見ているだけでもたのしい。
 そして。
 8人のヒロインたちは、全員歌う。踊る。
 なんか、とんでもないミュージカルだ。

 見ながらわたし、痛烈に思った。

 これ、ヅカでやってくんないかな……。

 大劇じゃ無理だろーから、バウでさ。
 出演者は8人ぽっきり。セットは屋敷だけだから、ほんとバウ向きだよねえ。
 8人のヒロインのうち、3人は男役でいいと思う。
 主の妹(イメージカラー・赤。放蕩の限りを尽くす恋多き女)は、セクシーワイルドな大人の女を演じられる、上級生男役で見たい。
 主の妻の妹(イメージカラー・茶。ガチガチの嫌味女。『ハイジ』のロッテンマイヤー女史系オールドミス。眼鏡を外すと美女に変身・笑)は、路線の美形男役に、ユーモアたっぷりに演じて欲しい。
 主の次女(イメージカラー・ライトグリーン。元気でボーイッシュ、生意気盛りの17歳)は、売り出し中の若手男役に、とびきりキュートに。
 あとの5人は娘役。
 主の妻(イメージカラー・豹柄。上品かつセクシーな上流階級夫人)立っているだけで「美女!」とわかるよーな美しい上級生に。
 主の妻の母親(イメージカラー・藤色。上品な上流階級夫人だが、ちょいと天然の入った愛らしい老婦人)は、専科のおねえさまに。
 主の長女(イメージカラー・ピンク。華やかな美少女)は、路線ばりばりの美人娘役に!
 屋敷のメイド(イメージカラー・紺。ストイックな美女)は、若手の別格系娘役で。
 屋敷のハウスキーパー(イメージカラー・濃緑。肉感的つーか太めの肝っ玉母さん。善良そうな黒人)は、専科のおねえさまでも、演技派の男役でもいいかも。肉布団着込んでGO!

 いかにもタカラヅカ的な、行きすぎたよーな色彩きらきら美女きらきら、歌い踊るミュージカルなんだが、こいつらの人間関係の濃いこと。濃いこと。
 誰と誰がくっつくのか、離れるのか、油断が許されないっていうか、目が離せないっていうか。(鼻息)
 いやあ、緊迫感あります。
 ……出演者、全員女なんだけどね。
 女しかいないのに、カップリングに手に汗握ります。
 なんせ近親相姦あり、レズありですから。
 だ、誰と誰がくっつくの?! 誰と誰がデキてるのっ?! うきゃーっ、こうキますかーっ。
 倫理観なんてものは、この際棚の上にでも置いておきましょう。8人の美女たち、全員えらいことになってます。
 えっと、誰と誰がどーなってて、誰が誰を愛してて、でもこーなって……って、複雑すぎなんじゃお前らっ。一夫一婦制って言葉知ってるか??

 とにかく、愉快です。
 女ふたりが憎み合い殺し合い……ながらもそのままごろごろ床転がって、抱き合ってキスへなだれ込むあたりなんかもー。笑えばいいのか……? エロエロなシーンなのか……? わたし、あなたたちの熟れてしたたるよーなおっぱいが気になってしょーがありません。うわー、カタチが変わる……そっか、あんだけでかいとそりゃ、態勢によってカタチかわるよなあ。つーか、そのドレス露出高すぎ。
 いちばんお気に入りは、ストイックなメイド。メイドコスにハァハァする人の気持ちがわかったよ……。めっちゃきれーだ。アンドロイドのよーな硬質な美貌と無表情、慇懃な態度。役目忠実。
 しかしこのメイド、途中で豹変する。……心のない人形の仮面をかなぐり捨て、メイド服を乱し、まとめていた髪を振りほどくシーンの、あの獣のよーなエロス……!! 欲情した彼女の危険なまでの美しさ!
 行け、メイドよ。襲いかかれ!!(屋敷には女しかいません)

 ほんとーにたのしゅうございました。
 8人の女たちは全員キチガイですから、人としてのふつーの感性は持っていません(笑)。だからあそこまでめちゃくちゃできる。
 それがいっそ小気味いいです。
 倫理とかルールとかを、ハナから無視して作ってある映画ですから。
 ミステリとしての謎解きはもとより、女たちの濃すぎる愛憎をたのしみましょう。繰り返しますが、マトモな女はひとりもいません。最初はみんなマトモに見えるけど、だんだんわかります。みんな変だって。それをたのしみましょう。

 あとはひたすら、目でたのしむのです。
 美しいものはいいです。ほんと。

 いやあ、いいもん見たよー。

          ☆

 落胆したのは、予告編。
 ちょっと待ってよ、テアトル梅田。わたしとWHITEちゃんは、予告を楽しみにわざわざ行ったのよ。なのに「予定を変更して、予告編を短縮して**分から本編を上映いたします」ってなんじゃそりゃ。
 わたしたちはね、『呪怨』の予告が見たかったのよ。WHITEちゃんが前に見て「チビりそーになるくらい、こわかった」って言うから、「それならその予告、見てみましょう」って、彼女のエスコートのもと見に来たのにぃ。
 次回上映作品の予告ぐらい、ちゃんと流せよー。

 
 片桐はいりがいる。
 片桐はいりが蠱惑的に笑う。
 片桐はいりがセクスィーポォズを決める。

 ああ、どうしよう。片桐はいり。

 『CUBE』のヴィンチェンゾ・ナタリ監督最新作『カンパニー・マン』を見てきました。

 といってもわたし、『CUBE』見てないすんよ。映画ファンなら見ておけってタイトルなのにな。
 だから、真の映画ファンであるWHITEちゃんに鼻息荒く連れて行かれた今回の『カンパニー・マン』も、いただいたチケットのありがたみなんぞわかっておりませんでした。

 つーことで、ヴィンチェンゾ・ナタリ初体験。

 ……すごかった。
 すげーや、この映画。

 おもしろかったよ、お客さん!!
 みんなが騒ぐわけだよ。この監督好きだわ!

 いつもは俳優名であらすじを書くが、今回は役名で書く。

 主人公サリバンはイケてない平凡なサラリーマン。家では奥さんにばかにされてるしね。だけど彼には夢があった。それは「スパイになること!」だ。
 がんばって試験を受け、A社の産業スパイとなることに成功。子どものころからのあこがれの職業! はじめての任務で、「サースビー」という架空の男の名前とIDを渡され、サリバンくんわくわく! 恐妻家であることも、酒も煙草もやらない真面目人間であることも忘れて、「架空の人格」をたのしんじゃったりしてな。
 でも、スパイの仕事は、とっても地味だった。ちょっとがっかり。もっとドラマチックなものを期待したのに。それに、この仕事をはじめてから悪夢を見る。頭痛がする。なんなんだろう、繰り返し見るイメージの断片のようなものは……?
 そんなサリバンくんの前に現れた美女、リタ。彼女はサリバンくんに衝撃の事実を告げる。彼が「任務」だと信じて行っていることは、全部嘘。A社は「洗脳」によって「使い捨てOK便利スパイ」を製造するつもりでスパイ志望者を集めているのだ。サリバンくんも半分洗脳されかかっており、「サリバン」としての人格がゆらぎ「サースビー」に塗り替えられよーとしている、というのだ。
 リタの助けによってサリバンは、洗脳されたふりでB社(A社のライバル)側につき、A社の情報を流すことで生き延びる。
 しかしこれにはさらに裏があって……。

 2転3転するプロット。どんでん返しの連続ナリ。

 わたしアタマ悪いから、とっても混乱しました。複雑過ぎです、プロット。
 でも、「え、ちょっと待って、今のどーゆーこと?」というつまずきを超えてしまうともー、快感(はぁと)の複雑さ。

 いったいなにが正しくて、なにが嘘なのか。誰を信じていいのか。
 主人公サリバンくんと一緒に、迷路の中。

 いちばん大きな「どんでん返し」は、とても小気味のいいもので、そのあとのサリバンくんは素直に「かっこいい!!」と思えます。奥さんに罵られてた、あのなさけないサリバンくんがだよ? 別人だよ!! すてき!
 しかも、そもそもこのクソややこしい物語がどーしてはじまったか、サリバンくんを翻弄する「すべての出来事を陰で操っている人物」の真の意図ってのが、最後の最後にわかるんだけど……。

 これがね、ものごっつー「好み」だった。
 ツボだった。

 理由って、これ?
 こんな理由のためにアンタ、これだけの犠牲払って、これだけの騒ぎを起こしたの?
 ……うわ、好き。こんなの、好きすぎるよーっ、大好きだよ。

 もともとわたし、プロットの緻密な物語が好きなのね。
 緻密な物語が、クールな映像で表現され、しかも根底にあるテーマっちゅーか事件がはじまった「理由」が、いちばんわたし好みのものだった。……てそれ、すごいわ。猫にカツオブシ状態。
 なにもかも好きよ!!

 ……ネタバレできないから、まともな感想書けないのが口惜しい。まだ一般公開してない映画だもんな〜〜。

 ただし、ホモ要素はまったくありません。腐女子的ヨロコビはなし(笑)。

 そして、唯一わたしが気になったことは、ヒロイン・リタ。
 蠱惑的な美女リタ。謎の女リタ。ファム・ファタール、リタ。
 演じているのは、ルーシー・リュー。
 『チャーリーズ・エンジェル』出演の美女だそうだ。……だそうだ、というのは、わたしが『チャーリーズ・エンジェル』を見ていないから。予告編で見る限り、かっこいいねーちゃんたちが、ばしばし戦う、たのしそーな映画だったな。でも、見に行かなかった。目がたのしい以外に得るものはなさそうだったから。
 だもんで、ルーシー・リューのことなんて、まったく知りません。はじめて見る女優さんでした。
 そしてわたしの目に彼女は……。

 片桐はいりにしか、見えなかった……。

 片桐はいりがいる。
 片桐はいりが蠱惑的に笑う。
 片桐はいりがセクスィーポォズを決める。

 ど、どうしようお客さん! せっかくのクール&サスペンスな画面で、あちこち正気に戻ります。水をあびせられたよーに、映画世界から現実に意識が戻ります。
 あうあうあう〜〜。

 そ、それだけがつらかったよ、ママン……。

 
 ママがうるさいので、見てきました。
 『ハリー・ポッターと秘密の部屋』。

 なんでうるさいかっちゅーと、普段映画をまったく見ない母が、めずらしく見た映画だから。
「見てくれないと、話ができないじゃない!!」
 だそーだ……。

 たのしかったです。はい。
 途中ちょっと睡魔に襲われましたが。『賢者の石』のときも、実はちょっと睡魔と戦ってたんだが。
 おもしろいよ。おもしろいけど、何故か途中で眠くなるんだよなあ。
 とくに今回、めちゃ長いんだもんよ……。

 ふつーにたのしい映画だと思うが、やはりわたしが好きになることはないなと思う。
 なんでかは、わかっている。
 このたのしい作品には、「毒」と「痛み」がないからだ。
 そしてこのたのしい作品が、どーしてここまで大衆に受け入れられているのかも、わかっている。「毒」と「痛み」がないからだ。

 夕食の席で、母とふつーにたのしく映画の話をした。
「伊勢神宮に行ったとき、あの樹みたいな樹がいっぱいあったのよ」
「ああ、たしかになー。乱暴な樹だったねあれは。なにもわざわざ倒れてまで殴らなくてもいいじゃないって思ったわ(笑)」
「すごかったわよねえ。たのしかったわー」
「びっくりだよねえ」
「それから、最初に宇宙人みたいのが出てきたでしょ」
「ああ、ドビーね」
「レインっていうの? そのレインの表情が豊かで……」
「レインじゃなくてドビー……」
「ドビンのあの、上目遣いの目つきとかね」
「ドビンじゃなくて……あー、もういいよ、それで?」
「すごいよね、あれ」
「うんうん」
「ああ、ほんとにおもしろかったわ。すごかったわ。あたし、1は見てないから、2から見てわかるかどうか心配だったけど、ちゃんと2から見てもわかるようにしてあったし」
「そりゃ向こうも商売だから。つーか、子どもでもわかるように作ってあるんだから、ママにだってわかるでしょうよ」
「……それ、どういう意味?」

 ねえそれ、どういう意味よ? と追及する母を無視して、弟と「そのまんまの意味だよなあ」とうなずき合う。
 ほらママ、それより『その時歴史が動いたスペシャル』見なきゃ。今日は幕末だよー。

          ☆

 今日はわたし的には、『ハリー・ポッター』より、BSの『ゴッホとゴーギャン〜二人のヒマワリ』の方が意味が深いわ。

 わたしはゴッホが好きだ。
 それはたぶん、彼の絵が「痛み」に満ちているからだと思う。
 強烈な色彩で、しかもよりによって「黄色」という「陽」の色を愛しながらも、そこにあるのは狂おしい「孤独」と「叫び」だ。

 わたしがゴッホの絵と出会ったのは、高校生のとき。
 画家ゴッホと出会ったのは、小学生のとき幼児番組によってだが(11/2の日記参照)、絵に出会ったのは高校生になってからだ。

 予備知識はなかった。
 教科書に載っている有名画家。その程度。
 その有名画家の絵が、地元の美術館に来ている。つーんで、家族で観に行った。
 緑野家は何故か、美術館だの展覧会だのが好きな一家だった。有名どころがやってくると、大抵家族で出掛けた。

 有名画家だから、美術館はものすごい混雑。行列をして絵を見た。

 教科書に載っている、いちばん有名なヒマワリの絵と、跳ね橋の絵と、『星月夜』くらいしか、見たこともなかったよ。わたしゃ無知な女子高生さ。

 その無知な女子高生が。
 人でごった返す美術館で、はじめてその画家の絵をまともに見て。

 泣いたもんよ。

 いやわたし、よく泣くから。心が動くとそのまま涙になるから、泣くこと自体はべつにどーってこともないんだが。絵を見て泣くのははじめてじゃないし。
 しかし、衝撃だった。
 痛かった。

 ゴッホという画家が、どんな人で、どんな人生をたどったのかは知らない。知らないまま、絵だけを見て、泣いた。

 その、「絶望」に。

 慟哭の深さに。

 なんなんだろねえ。なんかやたら力強く、「現実」が描かれてるんですけど? できれば見たくもない、「痛い」部分が剥き出しに、強烈に、描かれてるんですけど。

 とくに印象に残ったのが、『疲れ果てて〜永遠の入り口にて』という絵と、マイナーな『ヒマワリ』の絵。
 どちらも共通しているのは「老人」。
 『疲れ果てて』は、老人が慟哭している姿。節くれ立った手をした、労働者の老いた男が泣いている。
 ……これが若者ならな、救いはある。とりあえず彼には「時間」があるから。今は絶望していても、立ち上がって歩き出すかもしれないから。
 しかし、絶望する老人、って……。
 見ているこっちも絶望するしかない。
 マイナーな『ヒマワリ』は、今を盛りに咲く花の絵ではなく、咲ききって枯れたヒマワリの絵。捨てられたヒマワリの、絵。
 燃え尽きたような、しかしもうただの「ゴミ」となった花の絵。
 こ、こわい……。どっちもとてつもなく、こわい絵だった。

 以来ゴッホは忘れられない画家。
 買って帰った図録を、何度も繰り返し眺めた。
 『永遠の入り口にて』は、わたしの生まれてはじめて「原稿料」をいただいた小説のタイトルにも使った。

 んで、今回のBSの番組は、彼とゴーギャンの蜜月と破局をテーマにしたもの。
 ……痛かったわー。
 愛し、求めていながらも、共に生きることのできない男たち。いや、ゴッホの爆裂片想いだとは思ってるけどさ。
 ふたりをホモだと思っているわけではないが、こいつらの愛憎っぷりは萌えですよ、まったく。
 このふたりを主題に、なにか書きたいとか思っちゃうよー。いや、そんなことしてるヒマあったら仕事しろっつーか、今現在そんなことを思うのはただの現実逃避なんだけどさ。(仕事が切羽詰まってるときほど、他のことがしたくなるよな)

 そして今ごろ気づいたこと。

 ゴッホって、「黄色」を愛した画家なんだ。
 わたしが彼の絵を好きな理由のひとつだわ、そりゃきっと。
 わたしのもっとも愛する色は、「黄色」ですから。
 好きな色が同じかー。そりゃ好みがあいますわー。
 ひまわりだって、わたし大好きだしさー。

 ゴーギャンはヒマワリのことを、「ゴッホの花」と呼んでいたそーだ。
 ひどい破局を迎えたというのに、晩年彼は、その「ゴッホの花」の絵をわざわざ描いている。ゴッホが彼のために用意した椅子(に似たモノ)に、「ゴッホの花」を載せて。
 ヴィンセント、って名前で呼んでいたと思うから、正確には「ヴィンセントの花」って呼んでたのよね?
 いいトシした男が、花のことを男の名前で呼ぶのよ?

 ……も、萌え……。

 
「ヤッてるばっかで、つまんなーい!」

 今日の初体験。
 映画が途中でホワイトアウトした。客席のライトが点いた。
 映画は映画館で見る、が基本方針のわたしにしても、初体験だ。
 画面がずれたりしたことは、今まで何度か遭遇したよ。しかし、ほんとーに止まってしまったのは、はじめてだ。
 試写会、『運命の女』。リチャード・ギア、ダイアン・レイン出演。

 ギアとダイアンはしあわせ夫婦。8才の息子もいるし、裕福だし、言うことナシ。
 ところが、ダイアンはセクスィ〜なフランス男オリヴィエ・マルティネスと出会ってしまう。「いけないわ、わたしには夫と息子が……」てなダイアンだったが、すっかりしっぽりマルティネスとの官能の世界へダイビング。
 繰り返される、逢瀬。会うとヤるだけなんだわ。獣のよーに、手替え品替え、がっつんがっつん。カフェのトイレで、映画館の客席で、マンションの廊下で、前から・後ろから・立ったまま、地球上のどこでもふたりの愛の巣さ、HAHAHA!!!状態。

 いつまでつづくんだろ……と、見ているこっちの目が点になっているところで。

 スクリーン、力尽きる。
 ダイアンの浮気に気づいた夫のギアが、人に頼んで彼女の素行調査をし、その結果の報告を受けるシーンで、映画は中断、客席にライトが点く。

 おいおい、不手際もここまでいくとすごいぞ、と思っているところで、とても素直な声が響いた。

「ヤッてるばっかで、つまんなーい!」

 わたしの前の列に坐っているお嬢さんだった。
 いやあ、素直かつ、なかなかどーして大きな声だ。
 周囲の者たちは一斉に同意の苦笑をもらす(笑)。

 たしかに。
 ただひたすら、ヤッてるだけの映画ナリ。
 恋愛モノにしちゃー、あまりに性愛だけを表面に出しすぎてるよなー。

 しばらくして、スクリーンが復活した。
 途切れた場面から上映が再開。
 つっても、一端切れた緊張の糸は、戻せないけどな。

 しかも、この切れた場面から、物語は別物になるのだわ。
 それまでは、妻ダイアンの物語だった。彼女視点で語られた物語だ。
 夫にナイショで若い男と浮気、ドキドキよ! ああ、わたしって不貞な女、だけど止められないの……。
 てな具合だったのによ、途切れたあとからは、いきなり夫ギア視点。
 愛する妻の裏切り、ジーザス!! どうしてくれよう、ギリギリギリ……(注・歯ぎしりの音)。
 嫉妬と怒りにかられたギアは、マルティネスの部屋を訪ねる。おいおい、いきなり襲撃かいっ。真正面から妻との関係を問いつめる。そして……。

 こっから先は、まったチガウ物語へGO!!

 不倫モノ、というか、恋愛モノのカテゴリで見ていたもんで、このシフト・チェンジにはびっくりだ。
 目は点、口は丸、って感じのうちに、物語は終盤へ。

 なんつーか……なんなんだ、このバランスの悪さは。
 前半と後半が別物って??

 やりたかったのは後半で、前半は客を呼ぶためのネタ?
 エロ満載! ダイアン・レイン脱ぎまくり、腰振りまくり、上映時間の半分はふぁっくしーん!! 見物ですよ、お客さん!!
 ……てことかニャ?

 まあ、エロは強力なエンタメだからなあ。エロが多めなら客は入るのかな。
 それならエロものに徹して欲しかった。後半ひっくり返すなら、あのエンドレス・エロはいらんやん……。つーか、ベッドでヤれよ、お前ら……。周囲の人が迷惑だろ……。

 テーマはねえ、悪くないんだけどなあ。演出に問題ありすぎだわ。

 んでもってダイアン・レイン、老けたねえええ。
 リチャード・ギア、枯れたねえええ。

 このものすごい映画が終わり、場内が明るくなったときに。
 前述のお嬢さんが、またしても素直で大きな、心からの声をあげた。

「あー、カボチャ・スープが飲みたい〜〜」

 どっからカボチャ・スープ??!!

 わたしとWHITEちゃんは内心即ツッコミを入れたよ。(目で会話)
 本能だけで喋ってくれる、前列のお嬢さん。とってもウケたし、なごんだよ。
 君に乾杯(笑)。

 
 映画つながりで、『リング』の感想いっとこう。

 ハリウッド・リメイク『リング』。
 あの「貞子」は「サマラ」になりました。

 実は映画の公開前に、問題の「呪いのビデオ」だけは見ちゃってたんだよね。
 あの、時間にして1分くらいのもんですか? 見たら呪われるというビデオ。
 超こわがりのWHITEちゃんが持ってきた。どこぞのCD屋で、「ご自由にお取りください」とあったので、もらってきたそーだ。
 さっそくその夜ひとりで見て、次に彼女に会ったときに感想を語り合おうとしたら「あたしは見てない」とか言われてねー。見てないだと? おいおい、わたしだけ呪われたらどーするんだ?(笑)

 わたしがいちばん興味があったのは、「呪いのビデオ」だったんだよね。

 元祖『リング』の呪いのビデオ、あれ、めちゃこわかったんだもん。
 よくもまあ、あれほどこわい映像を創ったもんだと感心したよ。
 べつに、なにか完璧に「こわい」ものが映ってるわけじゃないじゃん。ひとつずつ口で説明したら「はあ? それのどこがこわいの?」てなものを、あそこまでこわくした、その手腕とセンスに脱帽。

 しかしあれって、「日本人のセンス」だよね。
 日本人が見て、「こわい」もの。
 アメリカ人から見たら……どうだ? こわいのか、はたして?

 だから、興味があった。
 もしもあのビデオがそのままアメリカ版でも使われているとしたら、アメリカ人を見直すぞ、てな。
 見直す、というと言葉は悪いが、わたしはアメリカ人とは相容れない感性を持っていると自分で思っているんで、「なんだ、けっこー共通する部分もあるんじゃん」と考え直すきっかけになるぞ、という感じかな。

 結果。
 別もんでした。

 なるほどー。そうきたかー。

 別もんだけどまあ、ニュアンスやモチーフは使われている。
 しかし、別もん。
 はっきりいって「気持ち悪いけど、こわくはない」。

 さすがアメリカ。わたしのアメリカ観を裏切らない、直接ぶり。
 気持ちでこわいんじゃなくて、痛いとか気持ち悪いとかいう露骨なもので、こわがらせるのね。
 うん、やっばりアメリカだ(笑)。

 それが悪いと言ってるわけじゃなくて、この相違がおもしろいと思っているの。
 そーでないと、アメリカで作る意味がないよね(笑)。

 それでも、忠実にリメイクされていました、映画『リング』。
 ストーリーライン、展開、すべて同じだよー。

 ただし、日本版であった「うさんくささ」は排除。
 貞子の母の超能力がどーのとかね。
 あの不気味さ、アメリカでは通じないのかー。なるほど。

 んでもって、日本版より「ミステリ」になっているのが、笑える。
 ちゃんと伏線をいちいち拾ってあるのよー。おー、なるほど、こうきたかー。そうそう、あれはこれの伏線だったのよ。って、いちいち原因と結果が出てくる。おー、ホラーなのにいちいち解説入るぜぇ。

 日本版よりも、全体として「説明的」。
 「呪い」という言葉も「祟り」という言葉も、わたしが見る限り一度も出なかった。
 合理的だった。
 こういう出来事があったから、こういう事件になった。その繰り返し。
 オチまでちゃんとあります、って感じ。

 「呪い」のなにがこわいかっていうと、理不尽であることなんだけどねえ。

 「呪い」のなにがこわいかっていうと、答えがないことなんだけどねえ。

 推理小説のように、犯人までしっかり書かれていましたー、って感じ。
 犯人わかったら、こわくないじゃん……。

 ま、いいや。
 そこがアメリカ(笑)。

 単体で見ていたら、ちゃんとこわかったと思う。
 もちろん、わたしは日本人だから、元祖ほどこわいものはないけどさ。

 
 ショー『バビロン』の話をするつもりだったんだが……。

 ひとあし先に見てきました、『ギャング・オブ・ニューヨーク』!!
 いやあ、あんまり愉快だったからさー。

 レオナルド・ディカプリオ主演のこの大作映画を実際に見て、痛烈に感じたことは、

「『パール・ハーバー』再び……」
 だった。

 『パール・ハーバー』の予告にしろポスターにしろ、日本のマスコミはえんえん「恋愛映画!」って謳ってたじゃない。真珠湾攻撃を題材にしただけの「恋愛映画」だって。
 フタを開けてみたら、どこが恋愛映画、ただの戦闘機オタク映画だった。
 んで、この『ギャング・オブ・ニューヨーク』。
 さんざんっぱら謳われているキャッチコピーは「すべては、愛のために。」だったり、「この復讐が終われば、愛だけに生きると誓う。」だったりする。「極限の中で生まれた究極の愛」とか。CMでも、美しいラブシーンがこれでもかと流れる。
 あおり文句は「『タイタニック』から5年−−。あの感動をしのぐ超大作が、ついに誕生!」だしな。
 これ以上なく、「恋愛映画」であることを武器にして宣伝しまくっている。

 『パール・ハーバー』再び。
 どのへんが「恋愛映画」なんだ?

 そーいや『パール・ハーバー』も『タイタニック』を引き合いにして宣伝されてたっけ。
 つまり『タイタニック』は「柳の下のドジョウよ、再び!」ってことなのかな。「あわよくば!」というオトナの駆け引きで、その名を冠したモノはニセモノだってことかな?

 なんにせよ、あの宣伝はすべて嘘です。
 少なくとも、レオ様と美女キャメロン・ディアスとの恋愛映画ではありません(笑)。

 ……わかるんだけどね。
 日本では、「恋愛映画」でないとヒットしないからさ。
 女性が映画館に行かないことには、大ヒットにはならないもん。そして、女性を取り込むには「恋愛映画」でしょう。
 だから『パール・ハーバー』も恋愛映画、『ギャング・オブ・ニューヨーク』も恋愛映画。
 「愛」は人間の基本、エンタメの基本だからさ、どんなものであれ、多かれ少なかれ「愛」は存在している。
 だから広義で「嘘」にはなりえないよ。『パール・ハーバー』が恋愛映画でも、『ギャング・オブ・ニューヨーク』が恋愛映画でも。
 それをいったら『寅さん』だって『釣りバカ日誌』だって『リング』だって『ハリー・ポッター』だってみーんな「恋愛映画」だけどなっ。

 とまあ、相変わらずの「映画の現実と宣伝の嘘」に苦笑しつつ。

 ツッコミどころは満載だが、とりあえず愉快だったぞ、『ギャング・オブ・ニューヨーク』。

 1862年、ニューヨーク。ギャング組織のボス、ダニエル・デイ=ルイスを父の仇と狙う青年、レオナルド・ディカプリオがやってくる。素性を隠し、ダニエルの組織に入るレオ。ダニエルは、腕もたち度胸もあるレオを気に入り、特別に目を掛けるよーになる。しかし、レオの素性と目的がダニエルに密告される。パーティの最中、復讐を遂げようとするレオと、レオの真意を知ったダニエルは……?! てな。

 宣伝通りの「恋愛映画」でないとすれば、これはいったいなんでしょう?
 答えその1。「歴史映画」。

 歴史、しかもニューヨークの歴史です。アメリカ全土でもありません。とってもピンポイントっちゅーか、マイナーな歴史映画です。
 ニューヨーク限定の歴史を常識として熟知している日本人てのは、どれくらいいるんでしょうなあ。
 わたしはまったくなにも知りません。アメリカにしろニューヨークにしろ、わたしがもっとも興味のない場所のひとつです。
 同人小説を書くために、ちょっくらニューヨークの歴史について勉強したあとだったので、わたしはまだ「ああ、アレのことか」とか思って見ていたんですが、まったく予備知識のなかったWHITEちゃんなんかは、展開にアタマがついていかなかったそうです。
 主人公たちのドラマにではなく、「知ってて当然」という感じで描かれている「ニューヨークの歴史」について。
 よその国の、1都市限定の歴史なんか、知らねーよ。……と言いたいです。はい。
 親日家でもなんでもないふつーのアメリカ人に、日本の歴史映画見せて、「背景がわからないので、キャラクターの言動の制限がわかりません」と言われても仕方ないのと同じさ。
 日本人なら、「島原の乱」と言われたら「ああ、アレのことか」とわかるけど、アメリカ人にはわかんないでしょ? それと同じ。
 日本人だから、ニューヨークの動乱の歴史なんかろくに知りません。

 「恋愛映画」とはよく謳ったもんだよ。
 ニューヨーク歴史モノだと謳っていたら、どれくらいの日本人が観に行ったかしら。

 なんかもー、真正面からがんばった「歴史映画」だったりするから、「アカデミー賞欲しいんだろうなあ」とか、いろいろ考えてしまいます(笑)。
 ギャングたちの抗争の物語だけど、それは「歴史映画」としてのもの。彼らの立ち位置には、「歴史」というバックボーンがあるの。何故群れる必要があったのか、何故対立するのか。
 あくまでも、激動の時代に翻弄される人々、なわけよ。

 さて、答えその1が「歴史映画」ならば、その2は?
 答えその2。「ヤクザ映画」。

 タイトル通りです。はい。
 日本で言うところのヤクザ映画、まんまです。
 いやーもー、暑苦しいほどの、「漢の世界」。漢、漢、漢っ!!
 ピストルは使わず、筋肉勝負です。組同士で広場に集合して、出入りカマシます。
 最初っから最後まで、暴力満載です。

 これ、日本映画だったらきっと、見れなかったよ、わたしゃ。
 ヤクザ映画苦手なの。暴力ってだめなの。
 まだガイジンさんの殺し合いだから、汚さと生々しさが、日本のヤクザ映画ほどわたしの目に飛び込んでこなかった。

 んでもって、ヤクザ映画の特徴のひとつ。

「漢の世界に、女はいらねぇ」

 女は出てきますが、あくまでも「華」の扱い。添え物です。
 「究極の愛」と宣伝されてるレオ様とキャメロンの恋愛も、たくさんあるエピソードや、テーマのひとつにしかすぎない。
 そりゃ、いい男にはいい女が必要でしょう。……その程度の扱いです。

 さて。
 この映画、ふつーの人にはおもしろかったのか?
 3時間近くもある、なげー映画なんだが。爆睡している人もけっこーいたようだが。

 わたしには、愉快だったぞ。
 つーか、腐女子にはおもしろいにちがいない。

 この映画。
 ある意味、「恋愛映画」なんだ。
 そりゃーもー、「究極の愛」だよ。「極限の中で生まれた」だよ。

 レオ様と、宿敵ダニエルの、究極の愛(笑)。

 途中からもー、笑いがこみ上げてきて大変でした。
 なんなんだこりゃ。
 すごすぎ、お前ら恥ずかしすぎ。

 レオ様にとってダニエルは父の仇。
 16年間、彼のことだけを考えて生きてきたんだろうよ。彼に再びめぐり逢うために、成長したんだろうよ。
 素性を隠し、復讐するために彼に近づく。
 実際ダニエルは狡猾で凶暴で理不尽な暴君。暴力と恐怖で君臨する男。彼を見つめるレオ様には、嫌悪の表情が。
 だが。
 ……嫌悪する傍ら、惹かれていく。その強さと恐ろしさ、その裏にある孤独に。

 ダニエルはその昔、たった一度だけ敗北したことがある。敗北は死なのに、相手は彼を殺さなかった。彼を恐れた己を潔しとせず、ダニエルは自らの片目をえぐり、彼に再戦を申し出る。
 その、ダニエルにとって唯一無二の相手が、レオ様の父親なのだ。
 レオ様の父親をその手で殺し、「この男の亡骸に触れることはゆるさん」と言い渡し、彼の肖像画を飾り、彼を殺した日を16年間祝日としつづける。
 誰にも心を許さず、王者の孤独のもとに生きる獰猛な男。
 そんなダニエルが、はじめて心を許すこ気になった人間がいた。昔話を語って聞かせる相手ができた。
 それが、レオ様。……あの男の息子だと知らずに、愛した若者。

 父と息子、両方か……。
 運命だな、そりゃ。

 レオ様を愛していた分、彼が「復讐のために」近づいたことを知ったダニエルの、激昂ぶりったらよ。
 殺せばすむことなのに、それでもダニエルはレオ様を殺さないし。
 う・わー……。

 レオ様もレオ様で、美女キャメロンが「あたしとふたりで逃げて」と言っても無視。
 ダニエルとの決着優先。

 激動の歴史のなかで、運命的に憎み合い、戦うふたり。

 ……は、恥ずかしい。
 見ていて、恥ずかしかったよー、もー。
 ラヴラヴじゃん。
 お前ら、ラヴいよ、恥ずかしすぎるよー!!

 しかもラストは。
 ラストは、『血と砂』(タカラヅカ)状態だしっっ。
 なんで手を握ったままなの?
 ねえっ?!
 ねえ、ねえっ?!

 ハッピーエンドかよっ。

 ……すさまじい話でした。
 えらいもん見たよ。

 ダニエル・デイ=ルイスがトータス松本に見えてしょーがなかったとか、レオ様のチョビ髭がめちゃ変だとか、そんなことは些細なことさ。

 愉快でした、『ギャング・オブ・ニューヨーク』。

 それにしてもアメリカ人って、ほんとに「アメリカが好き」なんだなあ……。


 くわッぱ!!
 の、かけ声とともに、見てきました映画『TRICK』。

 おもしろかった……。
 笑ったよー。
 もー、すごい笑ったよー。

 堤監督の作品の好きなところは、笑いと怖さの紙一重感なのね、わたしの場合。

 本筋以外のところに、それが現れる。
 なんてことはないモブシーンで、画面の端々に「変なもの」がなにげなく描かれていたりしてね。
 「境界線」の怖さだと思う。

 たとえば『ハンドク!』というドラマがあった。このドラマは打ち切りだったのかなんなのか、ラスト2本くらいでものすごいことになって、ひどい終わり方をする(伏線をぶちこわしたり、キャラの人格をこわしたりな)んだけど、途中まではいかにも堤ワールドでとても愉快なドラマだった。
 この『ハンドク!』では、時間の経過や舞台の転換を表す記号として「老人」が使われていた。
 「次の日の朝、主人公の住む町」というものを表すのなら、朝靄っぽい色で町を映せばすむ。鳥の声とか入れてな。それがふつー。
 しかしこのドラマでは、その映像の中にわざわざ「老人」を入れていた。
 無表情な老人が無表情な声を出しながら、ロボットのように体操をしている。
 ぎょっとするよ。
 なんの関係もないものが、突然画面に現れたら。
 この調子で、あちこちに「老人」がいる。
 大筋にはまったく関係ないし、その存在についての説明も一切ない。
 だが老人は何度も何度も現れ、無表情に体操していたり、立っていたりする。

 ……笑えばいいのか?
 怖がればいいのか?

 その、「境界線」な感覚。
 それがわたしには、ものすごーく、ツボだ。

 『TRICK』というドラマも、堤節全開で「笑えばいいのか? 怖がればいいのか?」が隅々まで充ち満ちていた。
 笑いと恐怖は近いところにある。
 それを確信犯として作品にしていることに、わたしは賞賛を送る。

 とゆーことで、映画『TRICK』。
 さすが映画ってことですか?
 「笑い」がよりグレードアップしていたことは言うまでもないですが……。
 この「笑い」の部分も、ファンは期待しているわけだから、過剰にやってくれてぜんぜんOK。ファンにおもねってくれて、OK。そして、ストーリーのめちゃくちゃさ加減やギャグに頼り切っている部分も、ファンに甘えてくれてOKだ。

 映画『溺れる魚』は、この「ファンにおもねる」と「ファンに甘える」が、悪い意味で出ていたと思う。だからアレ、わたし的には評価低いのよ。
 見終わったあと、「堤、いい加減にせいよ」と思ったもん。いつも同じ柳の下にドジョウはいないのよ、と。

 しかし、『TRICK』はこれでいいのだ。

 そしてなにより「おおっ、これが映画効果というものか!」と瞠目したのは、「ロマンス度」です。

 ちょっとぉ、恋愛入ってんじゃん、これ(笑)。

 てゆーか、正しく「恋愛モノ」のセオリーを踏んでいます。
 びっくりした。
 『TRICK』で、恋愛やるか……。

 その昔、友人でハーレクインロマンスが大好きな子がいました。
 月に30冊以上読んでたな。高校の図書室で「予約」と称して大量の同レーベル本を毎月入荷させていた子です。
 わたしとその子は図書室友だちというか、図書室に行くとたいてい顔を合わせるもんで喋るようになったって感じ。
 わたしは司馬遼太郎にハマっており、司馬遼本を全読破せんとの野望に燃えて通っておったんですが。(あと栗本薫とか平井和正とか、とにかくたくさん本が出ている人を全読破することに燃えていた。おかげで卒業時には表彰されたよ……読書量と図書室利用の頻度を)
 わたしはハーレクインにはなんの興味もなかったんだが、その友人があまりにたくさんの同レーベル本を読んでいるので、聞いてみた。「おもしろいの?」と。
 すると彼女は答えた。
「べつにおもしろくはないよ。全部同じだし。でも、1冊30分で読めるし、アタマ使わないですむし、楽だから暇つぶしにいいの」
 通学の電車が暇だから、1冊30分のペーパーバックはちょうどいいそうな。
 しかし、全部同じって?
 不思議がるわたしに、彼女はそのとき持っていたハーレクインの本の束から1冊を差し出した。「まあ、試しに読んでみてよ」と。
 そして彼女は眼鏡の奥の理知的な瞳をクールに瞬かせて、こう言ったんだ。
「ストーリーを先に教えてあげる。まず、女が男と出会うの。そのとき女は『なんて失礼な男なの!』と怒る。そのあとで、偶然女と男は再会する。絶対に偶然、ね。男はお金持ちだったり権力があったりして、とても魅力的なの。それで女は男のことを少し見直すの。そして女はだんだん男に惹かれていくんだけど、あるとき事件が起こって『あんな男とは二度と会わないわ!』と怒る。だけどまたなにか起こって、誤解が解けてハッピーエンド」
 先にストーリーを、ってあなた、この本は新着図書でまだ誰も先に読んでいない、図書室蔵書印のインクも新しい本なんですが。あなただってまだ、読んでないわけでしょ?
「読まなくてもわかるって。みんな同じだもん」
 半信半疑で読んでみると……。

 その通りでした。

 どんな話だったか、細かいディテールはおぼえていないが、ヒロインが男と最初に出会ったときに「あんな失礼な男はいないわ!」とご立腹だったことは忘れられない……。そ、そうか。第一印象は最悪でなきゃならんのか……ハーレクインよ。
 1冊読んだわたしに、その友人は「これでもう2度とハーレクインを読む必要はないわよ、あとは全部同じだから」と、にっこり笑ってくれた。同じストーリーラインの物語を、ディテールだけ変えて何度も読みたい人向けなんだそーだ。男の職業が弁護士だったり実業家だったり、はたまたアラブの大富豪だったりな。裏切られることのない世界がそこに。

 この記憶はわたしに「エンターテイメントとは」を考えさせる原点のひとつになっている。
 大衆に支持される物語には、法則があるのさ。
 方程式があるのさ。

 しかしこの方程式を、まさか『TRICK』で見ようとは。

 まず起承転結の「起」の部分で、ヒロイン奈緒子は相棒の上田教授に手ひどく傷つけられる。
 泣くし。
 う・わー、泣いてるよ奈緒子。どんなに悲惨な状況になろうと「えへへへへっ」と超音波な笑い方をしている娘だったのに。
 それで仲違いしたふたりは、それぞれ別に問題の「糸節村」へ行くことになる。
 そこで奈緒子はピンチに陥る。偶然再会した上田と「仕方なく」協力。いつもの凸凹コンビの姿がそこに。だがここで、奈緒子は「上田から愛の告白をされた」と誤解してとまどう。……すぐに誤解だと気づくが、この誤解が伏線になっている。これが「承」の部分。
 そして「転」では、奈緒子は「わたしにとっての本当に大切なものはなにか」という自問自答に答えを出し、なーんとっ、「数億円」のお宝を捨てて上田のもとへ走るっっ。おいおいおいっ。さきほどの「誤解」ゆえに、彼女は自分の気持ちに気づくってわけさね。おおっ、正しく方程式にあてはまっているぞ。
 事件を無事解決したふたりは、なんだかんだ言いながらも、またもと通りの凸凹コンビになる。だが、例の「誤解」の伏線はここでも生きていて、上田はナチュラルなのかわざとなのか、その「誤解」をネタにして奈緒子をうろたえさせるし、しかも奈緒子は「それって告白?」めいたことを言うし。これできれーに「結」。

 恋愛映画だったのか、『TRICK』??(笑)

 ストーリーとしては、「予算のいっぱいあったテレビドラマ」って感じ(笑)で、特別なものではない。
 まさに、いつもの『TRICK』。
 ドラマの最新スペシャル番組でも見た感じ。
 それでもわたしは十分だと思うんだけど。

 やっぱ映画だから?
 +αが必要だったのかしら。
 それが「恋愛要素」ってこと?

 「恋愛」ってのは、いちばんてっとり早く強力な「エンターテイメント」だからね。

 奈緒子が上田に傷つけられたくらいで泣く、ってのは、どーもちがう気がするんだが(そういう意味で「生身の人間」っぽさがないキャラだもん、『TRICK』の登場人物って全員)、わたしは恋愛モノ好きだから、ぜんぜんOK(笑)。
 微妙にズレた感覚で「恋愛」している奈緒子と上田はとてもかわいい。
 「こんなの奈緒子と上田じゃないわっ」と思う気持ちはどこかにあるが。……ま、そこは「映画だから」ってことで。サービスサービス。

 そして「恋愛モノ」として見た場合、あのラストの冗長さはどうかと思うんだが……つーか、不要だろ、アレ。
 かわいいけど。
 そして、その「いらんだろ」と思わせるところがまた、いかにも『TRICK』らしいと言えるんだけど。

 あとでパンフレットの堤監督のインタビューを読んで、さらに納得。わたしがひとつの「作品」として見た場合「不要」だと感じた部分は、意図的に付け加えたモノなのね。
 「だめ〜な感じのラブストーリーにしたかったんです」という監督の狙い通りだ(笑)。そういうところが、『TRICK』らしい。

 いや、とにかくたのしかったよ、『TRICK』。見て良かった。
 つーか、「もう一度見たい!」と思わせる映画だ(笑)。

 映像でしか表現できない、ガラクタの詰まったすてきな宝石箱。
 そーゆー映画。


 映画『OUT』を見に行った。

 『OUT』の原作は読んでいない。
 だから、原作と比べてどうこうは言えない。

 でも、ドラマは見ていた。
 田中美佐子主演。
 主題歌がたしか、福山雅治。福山が歌っているとは思えない曲調で、そして福山らしくないから、福山の歌の中で唯一好きだと思える歌(笑)。

 ドラマが好きだったの。
 田中美佐子がもー、かっこよくて。
 どきどきしながら見ていたわ。
 そして、渡辺えり子。この人がもー、めちゃくちゃよかった。おでぶなおばさんなのに、どんどんかっこよく見えていく。女優ってすごい。
 女がかっこいい物語ってのは、希有だ。保護しなければならない、ってくらいな。
 テレビドラマ『OUT』はその希有な、女がかっこいい物語だった。
 ただしこのドラマ、最後はえらいことになっていたの。
 せっかく「主婦たちの犯罪」がテーマだったのに。
 ごくふつーの主婦たちが、日常の中で犯罪に手を染める。滑り落ちていく日常、ほんのささやかなことから壊れていく平穏。
 日常、だから、主婦だから、よかったの。
 なのにこのドラマ、後半は『ターミネーター』になってた。
 殺しても殺しても立ち上がってくる超戦士を相手に、腕利きの女戦士が戦いを挑む話になってた。
 はあ? 日常と主婦の話じゃなかったっけ? いつからモンスター・パニックものになったの?
 どんどんSFになっていって、最後はどこぞのアクション映画のオチのよーになっていた。
 日常と主婦が、遠いっす。

 ドラマはなんであんなことになったんだろ? ドラマだから? 派手に盛り上げないと、視聴率がよくない、って、スポンサーから横やりが入ったとか?
 だから殺人鬼は殺しても殺しても立ち上がってくるし、ただの主婦は女戦士に変身して戦うの?
 それとも原作もああなのかしら。

 まー、なんにせよ、ドラマは最後がいただけなかった。
 その変すぎたラストを、映画はどう描くのか。
 それに興味があったの。

 おもしろかった。
 映画はいいぞ!
 ドラマで不満だったラストがそっくりちがっている。
 ちゃんと最後まで、「日常」と「主婦」の物語だった。

 なんともせつなくて、痛い物語だ。

 主役の原田美枝子を含む4人の女たちは、誰もがつらい現実を抱えている。
 家庭崩壊、老人介護、カード破産、夫の暴力。
 全編に貫かれている、閉塞感がすごい。
 女たちは、誰も彼もがものすげー閉塞感にさいなまれている。
 苦しい。
 未来が見えない。
 しあわせが見えない。
 どこをどうすれば、とか、なにがあれば、とかじゃないのな。
 慢性なの。不幸が。
 それも、カタチになっていて警察や法律が助けてくれるような不幸じゃなくて、目に見えずじわじわと息を詰まらせるような不幸。
 それはもう、「わたしがわたしである不幸」みたいなもんさ。
 ここから抜け出すためには、別人になるしかない、別の魂でも入れてしまうしかないって、そーゆータイプの不幸。
 そしてひとは、別のひとになんか、なれない。
 だから永遠。
 未来は見えない。しあわせは見えない。
 だけどとりあえずごはん食べてるし、仕事してるし、寝るところはあるし。地球上の戦争している国や、飢えている人たちに比べたらそんなのぜんぜん大したことないって、言えてしまう状態。
 閉塞感。
 わたしは、どこにも行けない。
 どこにも、逃げられない。
 ゆるゆるとした、絶望。

 これがさあ、せつないの。
 痛いの。

 今すぐ自殺するような、死んだ方が楽だ、えいやっ、てな痛みじゃないだけにね。
 生殺しっていうか、耐えられなくなる一歩手前の痛みがずーっと続いているよーな。
 4人の女たちが生きているのは、そんな日常。

 こわいのは、彼女たちの閉塞感が、決して特殊なモノじゃないってこと。
 みんな、多かれ少なかれ、感じているよね?
 彼女たちほど闇は濃くないかもしれないけど、誰でもみんな、似たような苦痛を抱いて生きているよね?
 それが生きるってことだよね?

 だから、彼女たちの閉塞感が、映画を見ている間中、ずっとわたしの呼吸も苦しくさせる。

 4人の女たちは、犯罪に手を染める。
 夫の暴力から逃れるために、夫を殺した。ココロの軽い、いちばん若い女。頭が悪いと言うよりは、心の成長が遅れている感じ。目の前のことしか見えないし考えられない、子ども。
 彼女の殺した夫を、他のふたりがバラバラに解体する。
 ひとりは頼られたあげくに押しつけられて、後に引けなくて。解体場所は彼女の家。どうせ家庭崩壊中、家族は夜中まで帰って来ない。
 もうひとりの協力者は義理とお金に挟まれて。夫に先立たれ、たったひとりで働きながら寝たきりの姑の介護をする女。貧乏どん底。金がいる。
 そこへ偶然やってきたカード破産女も、やはり金目当てで死体遺棄に荷担する。
 職場が同じ、というだけの、友だちというには薄い関係の女4人が、共犯者になった。運命共同体になった。

 それだけではなく、そののち彼女たちは、ヤクザ関係の「仕事」として「死体解体」を引き受けるんだ。

 殺人、死体の解体。
 ヤクザの男でさえ「冗談じゃない」と首を振るような残虐なことを、ふつーの主婦たちがやってのける。
 考えてみれば女たちは、いつも包丁使ってるもんね。
 男たちはそれを当たり前だとなんの疑問もなく、テーブルに並んだ料理を食べるけれど。
 女たちは魚や肉を切り刻んで、家族のために料理しているもんね。
 死体を家庭用の包丁とかで解体するの。
 場所は風呂場。主婦が毎日お掃除するところ。そこで人間を解体して、またきれいにお掃除して。
 男たちはなにも知らない。なんの疑問もなく、湯を使う。
 「主婦」を人間とは思わず「当たり前にあるモノ」と思っている男たち、恐怖しなさい。あなたのいないときに、死体を解体しているかもよ?
 てな、こわさがいい。

 たしかに彼女たちは、犯罪に手を染める。それゆえにどんどん追いつめられていく。
 だけどせつないのは、それで「変わらない」ことなの。
 彼女たちの「閉塞感」が。

 犯罪があろうとなかろうと、彼女たちの抱える「不幸」は変わらないの。

 たしかに、とんでもないことになってるんだけど。
 ふつーじゃない状態なんだけど。
 それによって不幸にはならないのね。
 だってもともと、不幸なんだもん。絶望してるんだもん。
 「犯罪」があってもなくても、変わらない。
 それが、せつない。痛い。

 「犯罪」のおかげで彼女たちは、「日常」を捨てることになる。
 今いる絶望から、一歩を踏み出すことになる。

 訪れる、変化。
 それがいいことなのか悪いことなのかは、わからない。

 原田美枝子と、倍賞美津子の最後のシーンがいいよ。
 ナイフの薄い刃の上に立つような、ふたりの女。
 倍賞美津子が、きれいでね。
 それまでは「うわー、倍賞美津子、トシとったなー。しわしわ〜」てな、生活に疲れたおばさんなんだけど。
 自分の運命と闘う決意をした彼女の、美しいこと。闘うっていうか……今いる場所から押し出されて、選択の余地もなくそこへ立たされるわけだけど。それでもね。
 ふたりの女の友情が、かっこいい。
 ハードボイルド。
 そっか、女のハードボイルドって、こうなんだ。
 男だったらタフでクール、てなもんだが、女ならこうだ。
 ただの主婦が閉塞感の中で、自分の足で立って微笑む。……これこそが、ハードボイルドだ。
 銃を持ってドンパチやればいいってもんじゃないよねえ。こういう戦いもあるよねえ。

 このふたりの女の関係は、「男だったらホモ」だと思うよ(笑)。
 女同士だから、レズにはならないけど。
 男の友情ってはてしなく恋愛に近いけど、女の友情って恋愛とはほど遠いからね。
 女同士の真の友情は、男の友情よりもさらにピュアに「友情」だと思う。

 かっこいい倍賞美津子が脱落し、残ったのはかっこいい原田美枝子と、バカ女がふたり。子どもな夫殺し女と、バカのカード破産女。
 よりによって、バカ女がふたり残るなんて……。ただの足手まといってゆーか、確実に足引っ張るよな、こいつら。
 そんな女たち3人の逃避行がはじまる。

 うんざりするよーなバカ女ふたりも、とどのつまりは、いい味出してるしねえ。
 泣かせてナンボ、の、泣き顔最高女優、西田尚美の子どもぶりもいいし、低脳バカ女を演じる室井滋はさすがだ、あの説得力。
 バカ女ふたりすら、かっこいいと思わせてしまうんだな、これが。

 最後まで、「日常」であり「主婦」であったよ。
 彼女たちのスタンスが変わらなかった。
 だからせつなくて、痛い物語だった。
 閉塞感。絶望感。
 たとえそれが「仕方なく」であろうと、「日常」から一歩を踏み出していく彼女たちに、拍手を贈る。
 ハッピーエンドだと、わたしは思っているしね。
 夢ってのは、ばかばかしい方がいいからね。途方もなくて、意味なんかないよーな、そんな夢こそが、ひとをしあわせにするし、救うんだと思う。
 ガテンな女トラック運ちゃんが、カラカラと豪快に笑ってくれたようにね。

 ああほんとうに、かっこいい「女」の物語だったよ。


 さて、今日は映画だ、『ごめん』、出演者舞台挨拶付き試写会。

 試写会だから行った。自分で金を払うなら絶対行っていない。
 とゆーのはべつに、映画のできばえ云々でなく、この映画の予告を見たときに思ったこと。
 わたしはきっと、この映画では楽しめないだろう。そう思ったからだ。

 実際見に行って……まあ、まがりなりにも映画だから、ちゃんとたのしんだけれど、やっぱり感想は変わらなかった。
 金を出してまで見たくない。
 予告を見て思ったとおり、わたしはこの映画には向かない。たのしめない。
 では、どんな人が楽しめるのだろう?

 児童文学の映画化作品、らしい。主人公は小学6年生の男の子。彼はクラスで(たぶん)いちばんに「蛇口が開いた」(映画の中での表現のひとつ。他には「汁が出た」とか)。そして彼は、ふたつ年上の中学2年生の女の子に恋をする。初恋ってやつだ。
 つまり、カラダもココロも思春期なわけだ。
 そんな男の子の日常の物語。

「ほほえましくもちょっと切ない、誰もが経験する思春期の一瞬を切り取った宝箱のような映画です」
 と、もらったチラシには書いてあった。

 そしてわたしは、映画を見ている間中、首を傾げていた。

 この映画、視聴対象者は、誰を想定しているんだろう??

 チラシのあおりを見る限り、大人が対象のようだ。今の子どもの青い初恋を見ることによって、昔の自分を思い出してほろ苦い気持ちになれってか。
 たしかに、そんなふーな作りもしてあった。
 というのも、笑いが起こる場面というのが、スクリーンの子どもたちが「大人のような言動」を取るシーンばかりなのな。
 恋愛関係で、大人の男と女がかわすような言葉を、神妙な顔で子どもが言う。ソレを見て大人である観客が笑う。
 ……てことはこれ、大人対象?

 しかし、大人対象であり、「ほほえましくもちょっと切ない、誰もが経験する思春期の一瞬を切り取った宝箱のような映画」とするにはあまりにも、ファンタジーが欠けている。
 せつなさや痛み、うつくしさ。はかなさや、きらめき。
 大人が失った時代を懐古して、掌の中の宝物をのぞくような気持ちにはほど遠いんだけど、この映画。
 「今の子どもをリアルに描いているから、ファンタジーに欠けるのは仕方ない」……という意味でもない。現在をリアルに描いたって、ファンタジーを描くことはできるからだ。
 なんだかとても、中途半端だったんだ。

 たとえばこの映画を子どもが見て、たのしめるのか?
 あまりにもファンタジーに欠けるので、大人対象だとは思えなかった。では、実際に今現在、登場人物と同じ年代の子どもたちが見て、共感できるのか?
 わたしには、それが疑問だった。
 現在の子どもから見れば、「なんだこれ。ズレまくってる」「こんな子どもいないよー(失笑)」なものじゃないのか? と。

 わたしは原作を読んでいない。だから、原作がどうなのかはわからない。
 しかし、原作は「子どものモノ」に近いスタンスなんじゃないだろうか。
 子どもが読んで共感できる作品なんじゃなかろーか。
 しかし、映画は大人のモノだ。大人が見るためにつくられている。
 わたしが感じた「気持ち悪さ」はそこに由来しているのではないだろうか。

 現在の子どもが共感できる物語を、「大人の目線」で撮っていること。

 大人が、「子どもってのはこんなもんだよな」と、見下して作っている。

 高いところから、見おろしている。

 だから、主役の子どもが大人びた物言いをするシーンで、大人の観客が笑う、などという状態になる。
 なんで笑う? 子どもからしたらその言葉は「大人の真似」ではなく、ナチュラルに今現在使っている言葉なんじゃないの? 勝手に大人が「意味もわからず、大人の真似をして。ふふっ、子どもね(笑)」と思っているだけじゃないの?

 全編に気持ち悪さが漂っていて、素直に「ほほえましくもちょっと切ない、誰もが経験する思春期の一瞬を切り取った宝箱のような映画」としてたのしめなかったのよ。
 わたしが子どもの恋を描くなら、こんな描き方はしたくない。
 大人向けにノスタルジックにやる。わたしにはもう、リアルな現在の子どもなんか描けないから。それくらいなら、現代のエッセンスを使いながらも「完全に大人向け」な作品にする。
 こーゆー気持ち悪い思い上がった作品は、描きたくないよぅ。

 かえって原作に興味がわきました。原作はすごくおもしろいのかも。

 「父親」の存在はすごくよかった。主人公の父親も、ヒロインの父親も。どっちもタイプはちがうが、かわいい大人の男たち。

 んで、出演者たちの舞台挨拶。
 ……子どもはいいよな。ふつーに喋るだけでもウケる。ってソレ、動物扱いされてるよーなもんだけどな。
 クールでモテモテの少年(ひとりだけいつも短パン。……サービス? 彼がお花ちゃんなの?)役の子が、「役柄が正反対すぎて苦労しました」と言っていたのが印象的。いちばん小柄で幼い子。だけどものすごく大人びた喋り方。照れてろくに喋れないんだけど……言葉の端々に「うわ、この子すげー大人っぽい」というのが匂っていた。
 主役の子が「演技というか……ほとんど地というか……もごもご」と、姿勢も悪く、素人同然のぱっとしない喋り方で通していたのもまた、印象的。
 そして主役の子は言う。「なんで『ごめん』ってタイトルなのかわかりません……台詞でも2回くらいしか出てこないし……」

 そっか、わかんないのか。
 わたしにはわかったけどなあ。
 主人公たちが剣道部ってのも、タイトルにひっかけてあるんだろーなー、と思って最初にくすりとしたけどな。

          ☆

 見終わった後、隣の席のカップルが席を立ちながら喋っていた。

女「わたしのオバが出てたから、おどろいちゃった(首を傾げている。どーやら知らなかったらしい)」
男「オバさん? えっ、出てたの?!」
女「うん、ちらっとだけど。オバさん、元宝塚だから……。テレビでも、サスペンス劇場の犯人の母親とかしか、やってないし……」

 なんですとぉ?
 出てたのか、元タカラジェンヌ?! 誰だよ?

 わかるわけないけどな……そっか……サスペンス劇場の犯人の母親か……せつないなー。

 
 さて本日は、『ザ・ロイヤル・テネンバウムズ』を見てきました。ジーン・ハックマン主演。

 家族ものっす。
 ひとことでいうと、崩壊した家族が心を通わせるまで、という、ありがちな話。
 ……なんだけど、みょーなおかしさにあふれているというか。いや、いろんな意味で。
 ジーン・ハックマン演じるロイヤル・テネンバウムズは、超自分勝手な男。彼は、何年も音信不通だった妻が他の男と真剣に再婚を考えていると知り、それをぶちこわすためだけに「私はあと6週間の命」だと嘘をついてテネンバウムズ家に帰ってくる。あ、あとついでに彼はちょーど破産していて、他に行くとこがなかったから、というのもある。最低です(苦笑)。
 いくら軽蔑し、嫌っていたにしろ、「あと6週間の命」とか言われたらムゲにはできないよね……ってことで、家族集合。テネンバウムズ家の子どもたちは、それぞれ「天才」で名と財を成した人たちなんだけど、みんな今は身を持ち崩して不幸の真っ只中。個性強すぎ。
 オトナばかりの、家族もの。コドモは出てくるけど(ロイヤル氏の孫にあたる)、動物程度の扱い。あるのは「オトナ」として社会の最小単位である「家庭」とどうつきあうか、ちゅーこと。

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ラコステの衣服を身に着けてきた方は一般・学生当日料金から200円引きになります。ぜひ窓口でワニマークをアピールしてください。

 とゆー宣伝方法をとっている映画だし、ヒロイン?のグウィネス・パルトロウがラコステのミニワンピを着ているのがトレードマークみたいだから、どんなに全編「ラコステ!!」なのかと思ったら。

 ラコステよりアディダスの方が目立ってたよ……。グウィネスのラコステより、テネンバウムズ家の長男家族の赤いジャージ(お葬式では一家で黒いジャージ)の方が強烈。

 不器用なオトナたちの再生を、オシャレにユーモラスに描いてあるわけだが……わたしはけっこー眠かった(笑)。あと、こういうハートウォーミングものって、ツボにあうかどうかで評価分かれるよね。
 わたしにはあちこちキツかったよ……「それって人としてどうよ?」みたいな価値観の違いがいろいろあってね。
 わたし、他人の不幸やケガや死を「笑い」にする感性は持ち合わせてないんだよなあ。この映画でいちばんきついのは、そういうとこ。
 犬を殺されたのに、それを「笑い」や「ちょっといい話」にしてしまうあたりは、おどろいた。つーか、子どもたちに人格がないことには途中から気づいてたけど、かわいがっていた犬が目の前で死んだのに、泣きもしないのには、心底違和感。目の前で犬が圧死したのに、次の瞬間には別の犬をプレゼントして(まだ前の犬はつぶれたまま)ハッピーエンドってことだよね、これ……? い、いいのかそれ。
 あと、神父さんの足のケガも、「笑い」として描かれてたよね。テネンバウムズ家の騒動で突き落とされて骨折したのに、それを「笑い」にするか……おそるべし。

 理解できない感覚はあちこちにあったものの、テネンバウムズ家の長女グウィネスの波乱すぎる人生は素敵でした。

          ☆

 映画館へ向かう途中、ふらりと立ち寄った店で、職業を聞かれました。
 な、何故?
 一緒にいたWHITEちゃんには聞かないのに、どーしてわたしだけ?!
 ふつーのOLには見えないってこと? ……ふつーのOLじゃないけどさっ。
「ウチの服をたくさん持ってるでしょ?」
 って、何故? 1枚も持ってないっす。
 オタクだと見抜かれてしまったよーで、うろたえました。
 だってそこ、オタク御用達の店だもん……オタクな女の子はかなりの高確率で好きだと言うよね、また日常でも着て歩くよね。ふつーのOLは頓狂すぎるデザインを敬遠するけど(会社には着ていけない)。
「なんか、職人さんぽいから」
 と、言われてしまったけどそれ、どーゆー意味だ?? 「職人ってなんの?」と返したら「美容師とか」って言われた。あのー、土曜日の昼下がりです、ふつー美容師は仕事してます。
 そして「とか」が気になったわ。「美容師とか」の「とか」ってなに? ほんとはなにが言いたかったの?
 ……そのうえ、メンズの軍服のやうなコートをすすめられました。肩幅やなんかはお直しできるから、って。
 そんなにわたし、オタクオーラ出してたのかしら。おそるべしゴルチエ。

 
 今日は『狂気の桜』を見てきました。

 窪塚洋介主演の暴力青春映画。
 とゆーカテゴリが正しいのかどうか知らねーが、暴力メインなのはたしかだしな。

 いやあ、まず客席におどろいたよ。
 若い。
 若者しかいねー。
 10代から20代半ばまでだけで構成された客席なんて、はじめて見た。
 今までどんな映画でも、けっこー年配の人っていたからさ。映画好きの中年老年ってのは存在するもんだからさ。
 ガキしかいない映画館っての、わたしはじめてだったのよ。
 ごめんね、わたしひとりおばさんで。
 カップル率も高かった。若いからか? 映画はカップルで見るものなのね。ひとりで来ているのはわたしともうひとりの男の人ぐらいのもん。女の子同士男の子同士がひと組ずつで、あとは全員カップル。
 見張っていたわけじゃないが、一番乗りで席に着いていたから、入ってくる客が全部目に入ったもんでよ。
 みんなイマドキな、きれーに着飾った若者ばかり。ヅカの客席とはあまりにチガウ雰囲気(笑)。

 とりあえず窪塚くんだから見に行きました。
 ただ、いくら窪塚くん主演でも、この映画を見に行くには躊躇があった。
 予告で見る限り、暴力映画だったから。
 わたし、暴力物って苦手なのよ。痛いのだめなの。生理的に嫌悪感が強いのよ。
 だからヤクザものとかだめ。男のために作られた映画は超苦手。血とか内臓とか、リンチとかレイプとか、だめなのよ。
 窪塚くん主演かー、しかし暴力がテーマだろこれ……きっついなあ。どーしよーかなー、でも窪塚くんだしなあ。

 逡巡するのは、今まで見た窪塚くんの映画がわたしのツボにハマるものだったからだ。
 最初に見た『溺れる魚』は、窪塚くんだから、ではなく堤幸彦監督だから、見に行った。……ハズレだった。
 次の『GO』はまちがいなく窪塚くんだから見に行った。や、他に宮藤官九郎脚本だからってのもあったが。
 ……これがもー、アタリだった。ものすっげーアタリだった。よかったよー、見に行って。
 味をしめて『ピンポン』も見に行った。おもしろかった。
 窪塚洋介っちゅー俳優の選ぶ映画は、わたしの感性に合っているようだ。彼の独特の言い回しやキャラ立ては、わたしの感性に合うようだ。

 それなら……見てみるか、『狂気の桜』。

 相変わらず、予備知識は皆無。映画館で見た予告編しか知らない。暴力が大きく扱われていることと、オシャレ系らしいってことぐらい。

 ええ。オシャレでした、すっごく。

 現在の感覚で任侠映画を作ったらこうなるのかな、と。

 わたし、任侠映画ってまともに見たことはないんですが。ヤクザものは生理的にだめなので、よく知らないの。知らない奴が言っても無意味かもしれんが……知らないなりに抱えているイメージのヤクザ映画の、現代バージョン。

 渋谷で「不良狩り」をする窪塚くんとその親友2人。彼らは「ネオトージョー」と名乗り、白いオリジナルの戦闘服に身を包み、毎日毎日ケンカに明け暮れている。
 右翼系暴力団の組長に気に入られた彼らは、暴力団内外の「オトナの陰謀」に否応なく巻き込まれていく……。

 つくづく、「男が作った映画だなあ」と思った。

 男が好きなモノだけでできあがった映画。
 すなわち、少年ジャンプの世界さ。

 かっこいいアクション。
 かっこいいヒーロー。
 かっこいい正義。

 恋愛よりも、友情や義理人情が大切。
 泣いてすがる女を捨てて、死ぬとわかっている戦いへ進むのが真の男らしさ、かっこよさ。

 小学校低学年の子がよろこんで読んでいる少年ジャンプと、大人の男が好きなVシネマ系って、根っこは同じなんだよね。セックスが存在するか否かのちがい。存在したって、男の友情の方が尊いわけだが(笑)。

 『狂気の桜』はこのいかにも「男が作った映画」の要素に、「純文学のエッセンス」を加えてある。
 古くからある「青春」という名の彩りつき。

 わたしがこの映画を楽しめたのは、「青春」と「純文学」があったからだろう。ほんと。

 「青春」と「純文学」のかほりを、全編たのしんでいたんだが……最後の最後で、つい笑ってしまったからなあ。
 公開中の映画のオチをWebで言うのもなんだからぼかすけど、見た途端「こう来たか」とがっかりしたのな。

 「男が作った映画」の、典型的なラストだったわけさ。
 女が作ってたら、あんな終わり方は絶対ない。女の感性には、アレは存在してないよ。興行的に成り立たない(笑)。

 せっかく「青春」で「純文学」で、しかも音楽も画面もめっちゃオシャレで、苦手な暴力もヤクザも克服して見ることができたのに。
 最後がアレか。もー、「男が作った映画」のラストで5万回は見たラスト。「またか」としか思えないっす。
 こんなわたしでも、同じラスト、同じストーリーラインの映画の名前を羅列することができるくらい、お決まりのラストだった。

 ラストで脱力したけど、それ以外はたのしかったです。
 なんといっても、オシャレだよー。
 画面のかっこいいこと。
 そうか、少年ジャンプ……というか、現在の青年マンガを映像化したらこうなるんだな、という例を見せてもらった。
 主人公3人がコスプレしてるあたりが、いいよねえ。
 純白の戦闘服は、3人とも微妙にデザインがちがってね。ジャニーズのお衣装みたいよ。その戦闘服でがしがし戦うのが、かっこいいのさ。
 音楽もいいっす。身体が揺れそうになる(笑)。

 とりあえず、江口洋介は見物だ(笑)。
 彼が3人組のひとり、RIKIYAを口説くあたりのいやらしさは……。
 あれって、わざとだよねえ? わかってやってるよね? だから翌朝RIKIYAは裸だったんだよね?(笑)

 ま、とにかく。
 かっこよかったから、それでヨシ。
 そーゆーことで。

 
 で、昨日の『アバウト・ア・ボーイ』の話。とっても期待して観に行ったんだってばよ。

 ところがどっこい。
 こちらは大ハズレ。

 わたしの逆ツボを直撃。
 不愉快さのあまり、途中で席を立って帰りたくなった(笑)。

 まず、あまりのナレーションの多さに辟易。
 これって映画……映像である意味あるの?
 キャラクターの状態、心情をすべて、ナレーションが語る。それじゃあ役者が演技をする意味はどこにあるの? 朗読劇ですか?
 最初から、いつまでもいつまでもナレーションが続くので、首を傾げたよ。いつになったら本編がはじまるんだろう、って。まさか、全編ナレーションだけでつづられるとは思わなかった。
 ナレーションがなかったら、意味が通じない映画なんですかね、これって。

 マンガ描いてる友人は言う。
「台詞やナレーションで説明できたら、どんなに楽かと思うよ。でも、オレが描いてるのはマンガなんだから、絵の演出でそれを表現しなきゃと思って、いつも悩んでる。台詞にしろナレーションにしろ文字の説明は極力省いて、絵だけで表現するために努力している」と。
 そうでないと、「マンガである意味がない」と。

 「死にたいほど傷ついた」なら、映像でそれを表現してなんぼだろう。
 ナレーションで「死にたいほど傷ついた」と言葉で言うな!(例。んな台詞はないぞ)
 なにもかも台詞で言うなら、小説で十分だろう。
 なんのために映画なんだ?
 なんのために映像なんだ?

 「映画」としての作りに、まず疑問を抱いた。
 カスなんじゃねーの? と首をひねっていた。
 それでも、とりあえずストーリーを見てみようと思った。

 そして……。
 これがいちばんの、逆ツボ直撃。
 ストーリー、最悪。

 ダメ男がナンパ目的で嘘をついて女に近づいた。このことによって起こる物語。
 ……なのはいい。
 ダメ男のヒューが、嘘をつくのはべつにいい。そういうキャラだからな。それによって悲惨な状態になるのもお約束。
 問題は、もう一人の主役、ガキの方だ。
 ガキはヒューをストーカーして、嘘をついていることを見破る。そしてヒューを脅す。彼の家に押しかける。
 ガキの行動はべつにいい。ガキには事情があるので、そういう行動を取るのも仕方ないのかもしれん。
 だがガキがやっていることは「犯罪」だ。
 ストーカーして、脅迫して、友好関係を迫る。もしこれが、ヒューが女性でガキが大人の男なら、まちがいなく警察沙汰だ。「嘘をばらされたくなかったら、オレの女になれ」って言ってるよーなもんだからな。
 わたしにとっての逆鱗は、このガキの行動が作品中で「是」とされていることだ。
 おいおい、たしかに嘘をついているヒューが悪いよ。だからといって、彼を脅迫するガキはゆるされるのか?
 ガキの行動は犯罪だ。なのにそれを「愉快でけなげな行動」として描いている。
 ガキが母親のためにしていることだからか? 母親のために、ヒューを利用しようとしているんだぞ? 赤の他人を脅迫して利用することを「愉快」だとか「心温まる」とかにしてしまっていいのか?

 よく、男の子向けのラブコメにあるよね。
 主人公の男のところに、ものすごーい美人が押しかけてくる。男が生活をかき回されて大変なことになるのに、女は「だってアナタが好きなの!」と、自分を正当化。男は実際こまってるんだけど、彼女についついほだされてしまう……てやつ。
 もしくは、美人な女の子と突然ひとつ屋根の下に住むことになって、男はものすごーくこまるんだけどついついほだされてしまう……とか。
 共通項は、本来ならば「迷惑」であるということ。だけど相手が「美人な女」だからOKだということ。
 ブスな女だったら、即たたき出されてるんだろーなー、ということさ……。

 美人だろうが子どもだろうが、迷惑は迷惑、犯罪は犯罪だろう。
 美人だからゆるされて、子どもだからゆるされる。そんなことはまちがってる。
 と、わたしは思っている人間なんだ。

 押しかけ美人が、「わたしがやっていることは悪。悪だけど、あとに引けない」と思っているならいい。
 だけど大抵、こーゆー立場の美人は「わたしは正しい」と思って傍若無人道を突っ走っている。

 この映画のガキもそうだ。自分がまちがっていることを自覚していない。だからちょっとヒューに冷たくされたら、「被害者」という顔をする。てめーは脅迫者だっつーの。被害者の愛を求めるな。
 ガキだから無知である、という設定ならいいが、映画自体がガキの肩を持っているので、ヒューに冷たくされたガキを「可哀想」という撮り方をする。
 それがわたしには、致命的に不愉快。

 無神経な物語が、わたしはいちばんキライなんだ。

 まちがった人間を「可哀想」と美談にするな。
 まちがった人間は「まちがっている」と描け。そのうえで「やっていることは、まちがっている。でも可哀想」だと観客に感じさせろ。

 全編に置いて、この映画は倫理観がわたしとはチガウところにあるようだった。
 それがもー、つらくてつらくて。

 いっそのこと、ガキがヒューに近づいたのは、彼を愛していたからだっちゅーことにさせろ。ヒューとガキの恋愛モノにしちまえ。
 愛ゆえにまちがっちまったならまだ、許せる。
 だがガキはべつに、ヒューを愛してないだろ? 「母親のために都合がいい」から近づいただけだろ。ヒューとガキの間に友情が芽生えたのは結果論であって、もしそれが芽生えなかった場合、ガキのやっていることはただの暴力だ。
 恋愛が行き過ぎというならせめて、ヒューに「パパになってほしかった」ということにしろよ。
 気持ちもなにもないで近づいたのに、どーしてそれを「美談」として「温かい」目でとらえるのよ、この映画。感性がわたしには理解できないよ。

 つまり、先に結果があるからじゃないの?
 ぐーたら男ヒューと、可哀想なガキの間に「友情」が芽生え、ヒューもガキもその友情によって救われ、「次のステップ」へ進む。
 という結果が先に決まっているから、なにがなんでもふたりを接近させなきゃなんない。それで無理矢理こじつけた。
 そうとしか思えない。
 どうしてキャラの立場と心情を誠実に描かないんだ? ひとつひとつのエピソードを正しく組み立てたら、正しい結果にたどりつくのに。
 結果のために、キャラの人格を破壊するなよ。

 『ブリジット・ジョーンズ』は好きだったんだけどね……。
 ヒロインの心情と、それゆえの行動に感情移入できた。
 しかしこの『アバウト・ア・ボーイ』では、壊れたキャラたちにまったく感情移入できない……。なんでそこでそう思うの、なんでそこでそう行動するの。疑問符ばかり、わたしは置き去りさ。
 心を描いてくれ。行動もストーリーも、まず「心」があってこそ動き出すものなのよ。

 なにかっちゃー、ヒット作『ブリジット・ジョーンズ』の名前を出すのも、かっこわるいよね。この作品単体では売れないってわかってるからだよね。
 つーか、あからさまな「2匹目のドジョウ」を狙った映画……。
 ひたすら、かっこわるい……。

 つってもまー、とても印象に残ったよ。
 見終わって「わたしこの映画、大嫌い」と口に出して言える映画は少ないからな。
 「つまんない映画」「まー、おもしろいんじゃない?(と言ってすぐに内容を忘れる映画)」なら、いくらでもあるからな。

          ☆

 今日は梅田で、キティちゃんとエクスさんとお茶。既婚者はエクスさんだけ。
「なんでか知らないけどアタシって、ひとから女優みたいってよく言われる」
 と、キティちゃん。なんとなくわかる、それ。わたしはウケる。
「服装がコレで、態度がコレだから?」
 とキティちゃんは本日のゴールドラメのアンサンブルの、豊かな胸をぶるんと振ってツンと顎を高くつきあげる。
 服の趣味が派手派手ゴージャスお嬢様系なんだよね。そして性格なのか、姿勢なのか、とても「えらそー」な風情……。
 それを「女優みたい」と評する人がいるのか。うまいこと言うなあ。
 そんなキティちゃんは、「年下の男とつきあいたい」と言う。エクスさんは「絶対無理」と言う。
「緑野ちゃんは年下でもいいけど、キティちゃんは絶対無理。アンタ、金のかかる女でしょ」
 女優だもんな。
 わたしははげしく納得。「ジーパンって穿いたことない」とかゆーキティちゃんは、若い男とはつきあえないでしょう。服装からして、お金のない若い男とは釣り合わない。
 ……キティちゃんに関しては納得したけど。
 あれ? そーするとエクスさん、わたしは「見るからにびんぼーくさい」ってことですか? 若い男の子と、金のないびんぼーデートが似合いそうな? しししシツレイなっ!!(笑)
 たしかにわたし、びんぼくさい(実際びんぼー)よなー。性格も下っぱ気質だしなー(笑)。


 いい季節になりました。
 サイクリング日和。

 春と夏は、某マイカル・シネマズまで自転車で映画を観に行く。
 夏と冬はいかないよ。梅田で十分、電車で十分。乗車時間も10分だしな。

 某マイカル・シネマズまで自転車で行くと言ったら、周りからあきれられてしまった(笑)。
 たしかに、ふつーは自転車で行く距離じゃない。
 でもわたし、その昔、旧MBSでバイトしてたときは、週1回自転車で送迎バス乗り場まで通っていたのよ。
 某マイカルは、そこからちょっと先にあるだけ。バイトで通っていた道を走るくらい、大したことないわ。

 マイカルまで自転車をとばしていると、そのアルバイト時代を思い出すのよ。普段は通らない道だからさ。
 MBSでのバイトは、某番組のサクラ、だった。
 時給1500円、交通費なし。ヒナ段に坐って、さも「スタジオに遊びに来たいと思った視聴者が、ハガキを送って抽選で当たり、幸運にもここに坐っているんですよ」という顔をして、拍手したり笑ったりしていればOK。それでお金がもらえて、ついでにちょろりとテレビにも映ってしまうという、おいしいバイトだった。
 視聴者からの応募が少なかったんだろーなー……毎回募集のテロップ流してたのになー。
 それで、わたしのよーなバイトが活躍。金をもらって客のふりをする。
 もちろんそれは、わたしに「女子大生」という肩書きがあったときだからこそ、できたバイトだ。
 卒業したら呼んでもらえなかったもん(笑)。
 でも、わたしのバイト人生の中では、いちばんの変わり種さ。

 あのころと同じ自転車に乗って(わたしの自転車は、2回盗難に遭い、2回とも戻ってきたという剛のモノだ)、同じ道を行く。
 あのころ、一緒にサクラをやっていた友人たちは、今はどうしているかしら……とか思いつつな。
 わたしは自分がブスだと自覚していたから、ヒナ段では率先していちばん後ろで隅っこの、TVに映りにくい場所に坐っていたなー。
 TVに映った自分のイケてなさに目眩がしたからさ……できるだけ映りたくないと思ったのよ。
 あれから何年だ?
 ああ、トシくったよね、わたし。

          ☆

 でもって、『竜馬の妻とその夫と愛人』を観た。

 予告編を観ただけで、それ以上の予備知識はまったくなし。
 タイトルをどこで区切るのかも知らなかった。

 「竜馬の妻とその夫と、愛人」かと思ってたよ。
 つまり、竜馬の妻がいて、彼女に夫がいて、その夫に愛人がいるのかと。
 「竜馬の妻と、その夫と愛人」だったのね。
 竜馬の妻がいて、彼女に夫と愛人がいる、と。

 よくわかんねーけど、三谷幸喜原作脚本つーならとりあえず行っておけ! てなもんだ。『ラヂオの時間』も『みんなのいえ』もたのしかったからさ。
 とくに『ラヂオの時間』は好きよ。泣いたわ。
 あと、舞台『笑の大学』では、魂溶けそうなほど泣いたわ。
 三谷幸喜は好き。
 映画なら無条件で観に行く。

 そして、『竜馬の妻と…』。
 たのしかった。
 いっぱい笑った。
 そして泣いた。

 あの坂本竜馬の妻・おりょうと、彼女にベタ惚れの甲斐性ナシばか亭主・松兵衛と、彼女の愛人で竜馬にそっくりな男・虎蔵。そして、竜馬を愛し、竜馬の妻であるおりょうを愛する男・覚兵衛。
 この4人のはちゃめちゃな四角関係。
 竜馬をめぐる物語なのに、竜馬はもうどこにもいない。
 だけどその存在と名前は残ってるっていうか、ひとり歩きしていて。
 まともに描けば、とんでもなく重いテーマを、コメディにして描いた物語。

 いやあ、みんなかわいいよー。
 どいつもこいつも、かわいいっ。
 とくに覚兵衛。中井貴一をかわいいと思う日が来ようとは(笑)。
 鈴木京香はさすがの美しさだし、江口洋介の竜馬コスプレはすごい。似てる。つーかイメージぴったしだー。
 竜馬は33歳で死んでるんだからさ、世の時代劇よ、享年よりはるかにトシくった役者に竜馬をやらせるのはよせ。いつだったかの新撰組なんか、近藤勇(主役)が渡哲也だったもんなー。おいおい、近藤勇の死んだ歳の倍ほどの年齢の役者ぢゃん……。
 世の時代劇って、役者不足と視聴者の年齢に合わせたキャスティングするから、めちゃくちゃなんだもんなぁ。
 てなことを、考えさせてくれる、年相応のキャスティング。
 若者の役を若い俳優がやる、って、そんな当たり前のことにも感動する時代劇という不思議ワールド。
 いや、江口洋介やトータス松本はいいっすよ(笑)。

 されどわたし、テーマ部分というか、いちばん良いシーンで、他のことにアタマがいってしまったの。
 それはある作家さんの書いた小説だ。
 このシーンとまるきし同じよーなシーンと台詞があったのさ。
 ……やほひなんだけどな。
 それもやはり、未亡人ものでさ。やほひだけど、未亡人もの(笑)。
 天才と呼ばれた男がいて、彼には妻というべき親友がいた。天才が死んだあと、妻は天才の意志を継ぎ、彼の夢を実現させる。
 天才の夢を実現させてしまったあと、妻に残ったのは「愛した彼はもういない」という現実だけ。
 そんな妻を、愛する男がいた。かつては敵だったが、今は妻のけなげな姿に打たれ、味方になっている。
 男にとって、死んだ天才はどうあがいてもかなわない相手だ。生きているときだってかなわなかったのに、死んだ今では完敗が決定事項。覆されることなんかあり得ない。
 妻は今も、死んだ天才を愛している。他の者たちにはなんの意味もない。どんなすばらしい者が現れたって、「死んだ天才ではない」というただそれだけのことで、決して妻の心は開かれない。
 男は妻の愛を得ることができない。死んだ天才に勝てない。
 ただひとつ、彼が天才に勝てることがあるとすれば。
「おれは生きている」
 今生きて、お前を抱きしめることができる。それだけだ。

 ……てな話。大好きな作家さんの小説でさ。同人誌で、しかも某サッカー漫画(ジャンプじゃないよ)のパロディだったんだけど。
 先にそれを読んでるから、途中からアタマがトリップしちゃったよ。
 うわー、キャラの立ち位置が同じだー。台詞が同じだー。
 よくある話っちゃー、そうなんだけどさ。
 同人誌は、その作家さんがプロデビウする前のものだから、ずーっと昔の作品だしねー。この映画の元となったお芝居はたかが2年前のものだし、関係はまったくないとわかってるけど、いちいち同じだから、つい反応してしまふ……。

 そしてわかったことは、わたしがこのテのネタが好みだってことですわ(笑)。

 今生きている、っていうことは、もっともすばらしい才能なの。
 誰かをしあわせにできる、誰かを癒し、救うことができる、ということだから。
 誰かを愛することができる、ということだから。

 生きている。
 それがいちばんの才能。 

 そして、この映画のオチ。
 あれって……どうよ?
 いや、作品としては、うまいよ。なるほど、こうきたか、と、プロットの巧みさに膝を打ちましたさ。
 しかしさ……。
 わたしやっぱし、竜馬ファンで歴史好きなんだわ。
 あのオチはやっぱ、心情的にゆるせないものがあるよ……。いくらギャグでもさー。

 
 さて、今日は映画『ピンポン』を見に行きました。

 原作は読んでいません。
 雑誌で初回から何回か読んだけど、そんなの大昔のことだしな。おぼえてねーよ。
 見に行った理由はひとつ。窪塚洋介主演だから。プラス、宮藤官九郎脚本だから。

 とってもたのしかった。
 たのしかったんだけど……『エースをねらえ!』を見たあとに行くと、いろいろとクるものが(笑)。
 だって基本は同じだからね。球技で天才で努力で勝利なのよ。鬼コーチで決勝戦で「岡、エースをねらえ!」つーか世界へはばたけ! なのよ。

 わたしのツボの中に、「アマデウス症候群」つーのがある。
 つまり天才と凡才の構図だ。
 天才の孤独と、天才になり得ない凡才の苦悩。
 それがツボなのよね。
 だから『エースをねらえ!』では、ひろみよりもお蘭が好きだし、『ガラスの仮面』では姫川亜弓が好き。

 この『ピンポン』はややこしいことに、主役ふたりとも天才系ときた。そして両想いのすれちがい中ときた。
 愉快だなぁ。
 最初、天才はペコで、スマイルは凡才かと思った。ペコは髪型をはじめとして、とにかく変だからな。あれだけナチュラルに変なんだから、そりゃ天才肌だろうよ、と。
 そしたらなんと、天才はスマイルの方で、ペコはヘタレちゃんだった。ペコはいじめられっ子スマイル少年の初恋のヒーロー(笑)だったから、スマイルはペコの前ではどーしても弱くなってしまう。
 しかしスマイルが強さにめざめ、ペコは天才レースから脱落。他校の強豪たちもスマイルのことしか眼中にない。ペコはグレて卓球を辞める。
 しかし。
 スマイルだけは信じていた。ペコの才能を。
 才能があるからこそ、努力を怠っていたペコははじめて努力をし、スマイルと戦うために階段を駆け上っていく。
 そして。
 ふたりの天才、ペコとスマイル。
 いちばんの天才は、やはりペコの方だったらしい。
 まあな、ペコは卓球がいちばんだけど、スマイルのいちばんはペコだしな……。

 色のちがう天才どもと、愛しい凡才たちの葛藤がいい。スポーツものの醍醐味だわ。
 そしてわたしは、「欠けた人」が好き。萌える。
 ペコもスマイルも、どこか欠けていて、そこが愛しい。

 昔スペインに、ガガンチョという闘牛士がいた。
 彼は臆病者で、とてもつたないコリーダを見せる。
 逃げることしか考えていないせいなの。臆病だから。
 だけど彼は人気があった。
 ごくまれに、うまくいったとき彼が見せるコリーダは、生涯忘れられないようなすばらしいものだから。

 この闘牛士のことを知ったとき、萌えましたわ。
 誰よりも才能があるのに、人々を魅了するコリーダを舞うことができるのに、いつも逃げ回ってばかりのヘタレ闘牛士。
 本気で闘牛を愛し、砂の上で死ぬことを本望とする闘牛士の目から見たら、ガガンチョは許せない存在だろうな。
 才能はなくても、闘牛が好きでしがみついている、二流の闘牛士とかな。
 俺にあれほどの才能があったなら!! と、歯噛みしただろうさ。
 才能は、のぞんだ人のもとにだけ存在するわけじゃない。
 ガガンチョのように舞えたら、その場で死んでもいい! と思っている男の前で、その才能を無駄遣いしてへっぴり腰で逃げ回っているガガンチョ……。
 も、萌え……。

 あと、夭逝した天才闘牛士ホセリートと、そのライバルのベルモンテの話とかな。
 某『血と砂』のために、闘牛とスペイン関係の本、いろいろ読んだからな……(笑)。

 どんなジャンルであろうと、「アマデウス症候群」ネタには、くらりとくる。

 ま、なんにせよ、わたしは窪塚くんが好きだ。
 生の彼はどーでもいいが、「役」としての彼が好きだ。
 透き通るような美少年から、キレた変態まで自在に演じてくれる。彼の持つ、みょーなリアリティを希有なものだと高く評価する。
 いちばん好きな役は『IWGP』のタカシだけど、こまったことに『S.O.S』の名前忘れた留年して女教師を愛し続けてるロン毛の先輩くんにもめろめろだ(笑)。
 つーか『S.O.S』……『ストロベリー・オン・ザ・ショートケーキ』だっけか、タイトル長いんだようざってぇ、は大嫌いドラマの5指に入ってる超絶ムカつき電波ドラマ、野島伸司アンタもおいいよ、アンタの子宮回帰願望マスかき作品見たくねーよ、と毎回毒電波をくらって倒れそうになっていたたのしい思い出しかないんだけど、それでも窪塚くんだけはよかったよ。(日本語コワレてるのはわざとです、念のため)
 少女マンガのヒーロー、ヅカの舞台の上で白ブラウス着たたかこに勝てるのは、この役の窪塚だけかもしれん、とまで思ったよ。(あくまでも、この「役」な)
 『生徒諸君!』原作の、飛島峻(字がわからん……シュンってたしか、ヒネった漢字だったよね? 調べる気になんねー)をリアルで演じられる、と思ったよー。

 ペコ役は、恐怖のヘルメット頭。しかもキャラ的に、表情めちゃ幼いっす。小学生みたい。
 けっして美形キャラじゃないのに……(美形はスマイルの方)なのに、おそるべし窪塚、君が美形だということはちゃんとわかったよ。その睫毛の長さはなんだ?!(笑)

 正直、ホモ萌えはしませんでした。
 あまりに全編ホモくさかったので(笑)。
 わたしは由緒正しきオタク女。据え膳には手を出しませぬ。

 
 高校生のとき、『チャンピオン鷹』という映画の試写会に行った。
 主演のユン・ピョウがやって来るというので、わたしと仲間たちはセーラー服のまま、会場へ駆けつけた。当時ユン・ピョウは香港俳優ではアイドル組だったんだな。柴田恭兵に似ててねぇ。

 『チャンピオン鷹』は、タイトル通り、とってもバカバカしいアクション・コメディだった。
 ユン・ピョウ演じる、カンフー使いのサッカー選手が弱小チームを率い、悪徳チームをやっつけていくっちゅー話。
 たのしかったけどね。サッカーのプレイのひとつひとつが、すべてカンフー技なのさ。フィールドで華麗に戦うのさ。
 あと、パーティでタンゴを踊りながら、悪漢どもをカンフーで叩きのめしていくのが、かっこよかったなあ。

 今、巷で有名な『少林サッカー』の話を最初に聞いたとき、わたしは『チャンピオン鷹』を思い出したよ。
 でもさ、この『チャンピオン鷹』って、誰も知らないのよねえ? なんで? 誰に言っても通じないんだけど。
 ユン・ピョウ、わざわざ日本までやってきて、宣伝してたのよ?
 わたしたちが見に行った試写会では、主題歌まで歌ってたのよ?
 You are champion〜♪ とゆー、音痴な歌声を、わたしは今も鮮明に覚えているわ。サビだけなら歌えるわ。

 誰も知らないその『チャンピオン鷹』の記憶を持つわたし。
 最初に『少林サッカー』の名を聞いたのは、やはりなにかの試写会場でだった。
 入口で、ちらしをもらった。そして、
「本日は『ワンス&フォーエバー』と『少林サッカー』の予告をごらんいただいたあと、本日の試写作品(なんのときだったか忘れた。月に何本か見るもんだからさ)本編を上映いたします」
 と、司会のおねーさんが言っていたんだよ、たしか。
 で、『ワンス…』の予告を見、「次は『少林サッカー』ね」と心構えていたら。
 あら? その日の試写本編がはじまった。
 『少林サッカー』の予告は? 入口でちらし配って、司会者も予告流すから見ろっつってたじゃん。
 『ワンス…』だけ予告を流して、『少林サッカー』はナシかい。
 思わず、そのとき一緒だったWHITEちゃんとふたりで笑っちゃったよ。ちらしを見ただけでも、くだらなさそーなのがわかる作品で、予告編すら上映すると言っておきながらされないなんて。
 なにもかも、ツボにはまるじゃないか。

 なんてことがありながら、ずっとずっと気になっていたのよ、『少林サッカー』。
 昨日、前の職場の仲間たちと、梅田で集まることになっていた。
 失業中仲間のわたしときんどーさんと松竹ちゃんは、先に梅田に出て、映画を見ましょう、ってことになったんだが。
 きんどーさんと松竹ちゃんは、『模倣犯』を見ると言う。ごめん、わたしそのタイトルはお金出して見る気ないわ。
 てことで別行動。わたしはひとりで『少林サッカー』。

 おもしろかった。
 ほんっとに、おもしろかった。
 バカバカしさも、ここまでくれば感動だ。
 実際わたしは泣きながら見たさ。
 感動して。

 なつかしアニメ『侍ジャイアンツ』の実写版、と言えばいちばん近いかもしれない。
 番場蛮の投げる魔球を、実写で撮るとこーなる、みたいな。
 ぐるぐるまわって、10メートルは飛んで、竜巻起こしながらピッチング、んなわけあるかい(ビシッ!)、てな世界観。
 すばらしい。
 少林寺拳法の天才たちが、サッカーで大暴れ! 空は飛ぶわ、大地は割れるわ、炎はあがるわ、血しぶきも飛ぶわで、あべしひでぶなグローバルでグレイトな物語。

 痛快。
 このひとことだ。

 そしてわたしは根がロ〜マンチックな女。ラヴがないとつまらない。
 主人公シンと、ヒロインのムイの、じれったい恋がいいのよー(笑)。
 自分を醜いと信じ、髪で顔を隠し、いつもうつむいている暗い少女ムイ。彼女に「君は美人だ。もっと自信を持て」と言うシン。
 ここでふつーなら、ムイは美少女でなければならんのだが、ほんとに彼女は醜いんだなー。容赦なく。しかも、汚い。「髪をあげて、顔を出すんだ」とシンが彼女の髪をかきあげると……ハエが飛ぶの。うっわー、ここまでやるかー。
 身なりを整えれば美人、というお約束を、1段階複雑にしたのが、うまいところだわ。
 ムイが醜いのは、肌がイボだらけ、なせいなのよね。顔立ち以前に、生理的につらい顔にしてある。
 饅頭を買う金すらないシンが、「おれはビッグになる!」とキラキラ夢を語るのを見て、ムイもまた決意する。勇気を出す。エステの門を叩き、その醜い肌を治そうとするのだ。
 ただ、彼女が飛び込んだエステはかなり偏った美的感覚を持った店で、ムイは美人なのか化物なのか、感心していいのか笑っていいのかよくわからない「美女」に変身するんだよね……。
 そのややこしさも、好きだわ。単純に、「風呂に入って化粧したら、ああら美人だったのねー」にならないところが。

 あと、ラヴなところですごーくツボだったのは、シンの兄弟子のひとりが、死を覚悟してゴール前に立つところ。あの「鉄の肌」のおじさんね。
 おもむろに携帯電話を取り出し
 (サッカー選手がフィールドに携帯持って出るな!)
『どうしたの、あなた?』←電話の声
 (うお、奥さんいたんだ?!)
「お前に、20年間隠していたことがある」
 (に、20年?! どんな秘密が?!)

「お前を、愛している」カチャ、と電話を切る。

 (結婚して20年間、隠してたんかーーーいっっ!!)

 つっこみ入りまくり。
 この思わず入るつっこみと、「死を覚悟し、戦場に立つ男のかっこよさ」が、同時に存在するのよ、ああおそろしや。

 ファンタジーにいちばん必要なのは、世界観の確かさだと、しみじみ思うよ。
 この『少林サッカー』も、世界観が確立されているから、そのなかでならなんでもアリなの。
 なんでもアリ、というルールではない。あくまでも、やっていいこと悪いことのルールがあり、そこから逸脱しない限りはなんでもOK、ということ。
 このあたりは、センスの問題だよな。

 わたしはラストのオチまで含めて、「ファンタジー」として、この作品を愛する。
 きちんと作られた「異世界」は、見ていて気持ちがいい。
 見習いたいエンターテイメントだ。

 そして、久々に会った松竹ちゃんが、この『少林サッカー』をまったく評価していないことに、思わず強くうなずいた。そうでしょうとも。
 わたしと松竹ちゃんは、フィクションに関して、カケラも趣味が合わないのだ。
 わたしが感動する作品は大抵彼女は「見たけどなにもおぼえてない」で、彼女が好きな作品は、わたしにとってはただの駄作だったりする。
 なんかほっとしたわ。お互い、変わってないねえ(笑)。

 
 花バウ発売日。
 殿さんは仕事でリタイア、やってこなかった。せっかく同級生の初主演作品なのに、いいのか? 陰ながら応援するって言ってたじゃない。
 わたしとWHITEちゃんとBe-Puちゃん、みんな希望の日に1回ずつ観られることになり、よかったよかった。

 さて、わたしとWHITEちゃんは、そのあと映画の試写会へ。
 見たのは『スチュアート・リトル2』。
 1もやはり試写会で見たが、かわいくてたのしかった。つっこみたいことも多々あったが(笑)。

 そして、2。

 ……言いたいことは、ひとつ。

 あの鳥、なんとかならんものか。

 スチュアート・リトルっちゅーのは、陽気なリトル一家の次男だ。ただしこのスチュアート、ネズミなんだな。リトル一家はふつーの人間。スチュアート1人(1匹?)だけが、ネズミ。だって彼は養子だから。
 彼がリトル家の一員になるまでのドタバタが、1のストーリー。
 2ではもう完全に家族、しかも溺愛されてる。スチュアートがネズミだからなんて差別する人は、どーやら不思議の街ニューヨークにはいないらしい。
 そして今回、スチュアートはなんと、恋をする。
 鳥のマーガロに。

 スチュアートは、ネズミだ。
 直立歩行するし、服も着ている。おしゃれさんだ。
 だけどその外見は、完璧にネズミだ。
 リアルにネズミだ。

 今回「敵」として登場する鷹のファルコンも、完璧に鷹だ。リアルに鷹だ。

 なのにヒロインのマーガロだけが、アニメ系。
 いねーよ、こんな鳥。
 リアルさのカケラもない。

 どーしてマーガロを、ふつーの鳥の姿にしなかったの?
 リアルな鳥でいいじゃないよー。
 んでもって、アメリカのアニメキャラって、日本とはセンスちがうじゃない。……気持ち悪いです、マーガロ。日本のセンスのキャラ造形じゃないです。

 そして、なんでマーガロは人間と話せるの?

 人間と話せる動物は、スチュアートだけだったはずでしょ?
 猫のスノーベルをはじめとする、たくさん出てきた動物たち、みんなみんな人間とは話せなかったじゃない。スチュアートだけは人間とも動物とも話せる、唯一無二の存在。そこに生まれたファンタジー。

 なのに、マーガロまでなんの説明もなく人間と話せたら、ファンタジーが壊れるよ。
 ただのご都合主義に堕ちる。
 ……いや最初から、そーゆー甘い物語ではあったけど、それにしてもさ。

 この世でただひとり、人間と話すことのできるスチュアート。スチュアートがそのことに疑問を持ち、「ボクは孤独だ。この世界にはボクと同じ生き物は存在しないんだ」てな悩みを持っていたところに、「彼と同じ存在」である、人間とふつーに話せるし、服を着ている鳥・マーガロが登場する、というのならわかる。
 スチュアートにとってマーガロが、マーガロにとってスチュアートが、この世でただひとりの、「自分と同じ存在」でり、「救い」である、という設定ならば。
 でも、そうじゃない。そんなテーマはどこにもない。
 ただマーガロは単純に、人間と話せるし、飛行帽をかぶってスカーフを巻いている。チビッコたちにわかりやすいように、アニメみたいな顔やカラダをしている。
 簡単だからだね。そーゆー表現方法が、いちばん。

 マーガロの存在だけが、ゆるせない。
 彼女がただの鳥で、それでもスチュアートと恋に落ちるのがよかった。人間と話すときは、スチュアートが通訳すればすむことだ。
 なんか、せっかくの世界観を、安直に壊しているのが残念無念。

 でも全体にある、のーてんきな明るさとやさしさは好きよ。
 バカバカしいほどの、やさしさ。

 そして、黄色が好きな人間には、とってもオイシイぞ、この映画。
 黄色が基調、そして赤がアクセントとして使われているの。
 もー、見事よ。リトル家の前の道は、黄色いタクシーしか通らないの(笑)。
 ママのドレス、スチュアートの飛行機、ジョージのユニフォームと、黄色が効果的に使われてる。
 わたし、黄色がいちばん好きな色だから、たのしいやらうれしいやら。
 黄色ってほんと、使い方次第でオシャレよね。日本人は黄色の使い方いまいちだけど。

 そしてこの試写会。
 昼間だし土曜日だし、家族連れ多かったんだよね。「こんな小さな子がいっぱいで、字幕読めるのかしら?」と心配した矢先、司会のおねーさんが言いました。「日本語吹き替え版でおたのしみいただきます」……吹き替えかよー。いやべつに、かまわないけど、知らずに来たよ。
 スチュアートの声は、藤原竜也でした。けっこーうまい。某タイタニックの若手俳優とはえらいちがいだ。

 びっくりしたのは、前売券。
 試写会って大抵、前売券の販売あるよね。そして「この会場でお買いあげくださったお客様には、非売品のプレスシートをプレゼント!」というのは定番。
 今回もそうだった。
 が、もうひとつ。
「とってもかわいい、スチュアートの携帯ストラップもつきます!」
 ああ、1のときもそうだったな。2もそうなのか。と、これまたうなずいていたら。
 さらに。
「とってもすてきな、スチュアートのレジャータオルもプレゼント!」
 ええ? レジャータオル? で、でかいっす。畳一畳分?
 そのうえ。
「さらに先着30名様には、このスチュアートくんと一緒に記念撮影、ポラロイド写真をその場でプレゼントします!!」
 じつは着ぐるみの巨大なスチュアートがいたのだ、会場に。これまたよくできてて、すげーかわいいの。

 なんなんだ、この大判振る舞いは。
「チケット代より、おまけの値段の方が高くないか……?」
 わたしとWHITEちゃんは顔を見合わせる。

 そして、映画が終わるなり、みなさん走る走る。
 スタッフロールなんか、誰も見ない。場内が明るくなるまで席にいたのは、4分の1くらい。こんなのはじめて。

 最後まで映画を見たあとでロビーに出たわたしたちは、巨大なタオルを持った人々と遭遇することになる。
 みんな買ってるよ……。
 しかも、1枚じゃない。みんな複数タオル担いでる。
 そっか、大人なら、自分の分1枚だけど、家族連れだと、「今日は来られなかったお兄ちゃんの分もおとーさんの分も買いましょう。今度来るときは家族4人でね」てなもんなんだ。カップルももちろん2枚買うわけだし。
 みんな、嵩張るタオルを両手で抱えて歩いてるのよ。袋もなにもなし、剥きだし。
 そして、運良く整理券を手に入れられたチビッコたちが、着ぐるみのスチュアートと記念撮影。列ができてます。
 で、肝心の前売券の売り場は。
 …………あまりの売れ行きのよさに、景品が足りなくなったらしい。「後日郵送しますから、住所を書いてください」と係の人が叫んでいる。
 郵送って……あの巨大なタオル、いくらかかるのよ、送料。ゆうぱっくで600円ってとこ?
「チケット代より……以下略」
 と、わたしとWHITEちゃん。

 3も作るのかな、『スチュアート・リトル』。
 また試写会で見たいなあ。

 
 突っ込みどころ満載だぞ、『ニューヨークの恋人』(笑)。

 えーと、主演はメグ・ライアンと、ヒュー・ジャックマン。現代のキャリアウーマンと、19世紀の公爵様が、時空を超えて恋に落ちる話。

 生活費はどうしてたのとか、どうやって生活したのとか、料理は誰がしたのとか、給仕はどうしたのとか、その服洗濯できたの、誰がしたの、とか、数えていくとキリがないぞ、公爵様。

 でもいいか。
 エンタメだもんな(笑)。

 いやあ、ラブストーリーってのは、ここまでやるもんなんだねえ。
 も、おなかいっぱい! てなくらい、ロマンチックてんこ盛り!!
 それもかなりめちゃくちゃ路線。「そりゃないやろ!」の大阪人突っ込みがあちこち炸裂したよ。タカラヅカもまっつぁおだー。

 ところであのふたり、しあわせになれるのかな。それだけが心配だ。

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