観た直後は、いいもん観たー、という気持ちになる。
 が、時間が経てば、やっぱつまらんなー、という気持ちになる。

 だいもんがすごいから、観ているときは誤魔化されちゃうんだけど。
 やっぱり、つまらないわ。『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』

 そして、そうであるゆえに、わたしのだいもん株がにょきにょき上がる。
 こんなつまらない箇条書きあらすじみたいな話で、あそこまで盛り上げるだいもんすげええ。
 なんかいいもん観たー、と思わせるだいもんすげええ。

 はっ、これは劇団の計算? 駄作をわざとあてがって、それをねじ伏せる様を見せてファンを増やそうという? 獅子が我が子を千尋の谷へあえて落とすような?(チガウ)
 そんなどーでもいいことを考えるくらい、作品への評価と、主演への評価が掛け離れています(笑)。

 つっても、実はそれほど嫌いってわけでもない、『アル・カポネ』。
 原田くん作品は好きではないけれど、わたしの地雷には触れないっつーか、植爺ほど嫌じゃないのね。
 植爺は生理的にダメだけど、原田くんはつまらない、程度。マイナス方面にもあまり大きく針が動かない。平坦なの。

 で、平坦だから、勝手に妄想して眺めることは出来るしね。
 役者萌えで乗り切れるっていうか。
 ベン@ひとこのソロが苦手(ひとこに罪はない)なこと以外は、わりに平穏に眺めていられる。

 だいもんが好きで、れいこが好きで、まなはるが好きで、雪組のみんなが好きで。
 それならぜんぜん平気、いい公演だー! てな。

 ……時間が経つと、やっぱつまらんなー、になるんだけど……。なにこのループ。

 けどもとにかく、千秋楽は観ようと思った。

 ええ、これまた、チケット用意してなくてね。
 なんでこう、前もって動かないのかしら、わたし。まっつ以外の人の舞台って、チケ取りすることに気がつかないのね。
 実際に公演はじまってから、それもずいぶん経ってから、ふと気がつくのよ。そうだ、千秋楽観に行こう……あ、チケットない。って。
 『BUND/NEON 上海』も『Victorian Jazz』も、初日も千秋楽も観たわ。で、どっちも、千秋楽のチケットは持ってなくて、公演はじまってから探したんだわ。
 だいもん中心の舞台で千秋楽観てないのって、『New Wave! -花-』だけか。や、あれはお芝居ぢゃなかったしなー、贔屓組以外のショー公演の千秋楽はアウェイ感強すぎて手が出なかったっつーかなー……。

 『BUND/NEON 上海』も『Victorian Jazz』も、だいもんのために、千秋楽行ったんじゃん。なにはどうあれ、最後を観よう、見届けよう、って。
 なら、『アル・カポネ』も行くべきじゃね? つか、なんで「行く」という選択肢を思いつかなかったんだ??

 自分でもわからない。
 なんでいつもいつも、こんなにぼんやりしてるんだろう。

 それであわててチケット探して。
 行こう、って思い立ったの、ACT公演はじまってからだし。
 で、チケット入手出来たの、楽の数日前だし。

 言い訳に、東京で仕事関係の人に会う予定入れたりしてな(笑)。お仕事で上京したついでにタカラヅカ観まぁす、テヘ、みたいな? ……誰に言い訳してんだ。

 や、赤坂ACTシアターはじめて行きました……って、大昔、まだ今の建物になる前に行ってるわ、『不滅の棘』千秋楽。記憶が古すぎて、劇場名が同じ、というだけしかわかんねえ。

 ただもう、だいもん体験をする、というだけの意味で行きました。

 で、体験しました。
 ミッション・コンプリート。

 ……て、それだけかい。

 や、DCから間開いた分、作品に対する萎えが大きくなっちゃってて。前述の通り、時間が経つと、つまらない、になっちゃうのよ。
 だから記憶の確認、としてしか作品に入れない。

 それよりも、出演者の熱を浴びに行った、という意識。

 やっぱ雪組好きだあぁぁ。

 出演者ひとりひとりが、愛しい。
 なんだろう、すごく真面目な、まっすぐな熱を感じるの。
 千秋楽だからとハメを外したりしない、愚直に品行方正に、内側にパワーをたぎらせている感じ。
 いいなあ。好きだなあ。

 そして、だいもん。

 『Victorian Jazz』のとき、劇場内を切なそうに眺めているように感じた。次にいつここへ戻って来られるのだろう、と、終わる時間を愛おしむように、噛みしめるように。
 帰っておいで、と思った。
 舞台の真ん中が、君の生きる場所だから。
 ここが、相応しい人だから。
 そう思ったことを、思い出した。

 今回もまた、同じような感じはあった。
 でも、わたしの意識の違いだろうか、それほど切なそうには感じなかった。

 だって。
 だいもん自身も、わかっていると思う。

 彼が、真ん中に立つ人だって。

 『Victorian Jazz』のときはまだ、そんな明確な意識はなかったのだと思う。
 彼の生きるべき場所はここだけど、彼以外のすべてがそう思うか、そうさせるかは別。
 次にいつ、ここに戻って来られるかわからない。二度とないかもしれない。彼が生きるべき場所はここなのに、周囲がそれを許さないかもしれない……そんな、切なさ。儚さ。

 でも今はチガウ。
 ドラマシティという劇場を、そして赤坂ACTシアターという劇場を、完全に掌握し、このハコではまだ足りない、もっと大きな空間を征することができるはず、と意気を上げている今は。
 わかっているはずだ。
 客席にいる者も、だいもん自身も。

 また、戻ってくるって。
 どの劇場であるかは問わない。
 舞台の、真ん中に。

 それが、自然なことだから。

 魚が海に、鳥が空に帰るように。そこでしか生きられないように。
 舞台もまた、彼を欲するだろうから。

 変わっていないのに、変わった。
 それを肌で感じるために、わたしはここまで来たんだなあ、と思った。


 彼はたぶん、一生舞台と関係して生きるんだろうなあ。
 たとえこの花園を卒業しても。
 舞台が彼を欲し、彼も舞台を欲するのだろう。

 うらやましい。

 人生と両思いになれるなんて。

 や、それは、「トップスター」とかの称号とかカタチとかいうもののことではないよ。
 彼がそれを得る・得られない、とは無関係に、彼は舞台の神様に愛された人、求められた人だと思うから。

 自分の切望する世界で生きる、切望するモノに選ばれるなんてな。
 わたしは、わたしの切望する才能は得られなかったよ。自分の至らなさを知りながら、それでも生きていくしかない。
 だからやたらとまぶしいな。
 だいもんさん、今絶頂ぢゃん? や、これからまだまだ上があるにしろ、いつだって現在を切り口にするわけだから、今現在のだいもんは絶頂っすよ。
 役者としてのひとつの旬を迎えていると思う。

 その充実オーラを浴びて、うれしくて、わくわくして、少しさみしい。

 とにかく、もっともっとだいもん。
 彼を眺めていたいと思う。
 ドラマシティで、まぁみりが観に来ている回があった。

 まぁみりですよ、まぁくんとみりおん!
 そして、舞台にはだいもん。

 『CODE HERO』トリオが勢揃い!! ……胸熱……。

 『CODE HERO』だけに限らず、まぁだいはずっと一緒だったしね。
 みりおんは、新公でだいもんの役をやった、唯一の娘役だし(笑)。

 あー、前日欄でわたし、「だいもんメインの公演は初日・楽を観ている」てなことを書いてるけど、『CODE HERO』抜けてたわ。『CODE HERO』は千秋楽観てない。さすがに遠征してまで観られなかったよ、あのトンデモ作品。わたしの経済力では無理。あの作品にそんだけかけられなかった。……だいもんの黒幕ぶり素晴らしかったけど(笑)。

 ジェンヌさんが観劇に来る際の是非はいろいろあると思う。関係者が良席で観ることだの、そのジェンヌたちのマナーだの、舞台上のジェンヌ内輪受けサービスだの。
 わたしは歓迎だな。舞台の上でしか見られない芸能人に、それ以外で会えるのはラッキーだと思うし、それゆえに舞台上のジェンヌのテンションが上がっていつもとはチガウものが見られるのもラッキーだと思う。
 まあ、ルキーニ@だいもんにかまってもらえるかもとはかない期待を抱いて臨んだ唯一のSS席観劇の日、れおんくんたち星組のみなさんがぞろりと現れちゃって、ルキーニの関心はすべてそっちへ行ってしまった、てな、もの悲しい思い出もあるけどね……(笑)。

 仲良しのまぁ様が客席にいることで、だいもんが張り切りまくってくれるなら、それはそれでヨシ!
 『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』はだいもんが客席いじりする場面はないので、あくまでもふつーに進んでいくんだけど。

 フィナーレの「Chicago」のラストの歌い上げで、「ヒューー!!」って歓声上げたの、まぁ様っすか?
 ジェンヌさん以外でそういうことを、芝居のフィナーレでするとも思えなくて。
 わたしには誰の声かわかんなかったんだけど。
 それ聴いてただいもんさんがさ。

 にぱーーって笑ったの!!

 「Chicago」のラストって、帽子と手で顔隠れるんだよね、たしか。
 客席から見えないと思って、だいもん、素で笑ってる!!
 や、わたしこんとき、1列目だっけか2列目だっけかの通路際あたりにいて。
 隠した顔、横からのぞき込めたのね。

 だいもんのあのでかい口が、にゅ~~って横に伸びた。
 ルフィ@『ONE PIECE』みたいに。
 すっげうれしそうに、素で笑ってるの!!

 かっ……かわいい。

 美声で歌いきり、めっちゃキザにポーズ決めてるくせに。そのポーズの奥で、にぱーーって笑ってる。
 歓声浴びて、ウケてるの。よろこんでるの。
 かわいい。
 なにこれかわいい。

 あの声、まぁ様? まぁ様にひやかされて、照れてんの? よろこんでんの?
 ったく、仲良しだな!(笑)


 「Chicago」のラストっていつも笑ってるもんなのかな? と次の観劇時にチェックしたけど、そのときは笑ってなかった。めっちゃスカシた顔でポーズ決めてた。
 また、ちょっと後ろの席になると、表情まで見えないわ。ポーズもだけど、ライトの加減で。
 前方のドセン以外でないと、のぞき込めない……。

 だからたまたま、あの席にいたから見えたんだ。
 梅芸会員席GJ! よくぞわたしにあの席を割り当ててくれた!!
 梅芸の抽選販売は、大抵ろくな席が当たらない、というのがみんなの共通認識だと思う。わたしもそうだ。いつも「なんで会費+手数料払ってこんなクソ席?」と思うよーな、後ろの壁とお友だち席があたりまえに来る。もしくは落選続きで「会費の意味ナシ」てなもん。
 でもなあ。ときどき、すげーツボな席が来たりするんだよなあ。
 わたしは『フットルース』の制作発表に招待してくれただけで、もうなんの文句もナイ、ってくらい、感謝し続けてるけど。
 ほんとに心から観たい公演のみ、ぽこっと良席が当たる不思議。わたしの念が伝わるのかしら……。宝塚友の会は、ぜんっぜんなんにも伝わらないのにねええ。

 DVDにはどの程度捕獲されてるのかな。キメのスカシ顔までナナメアングルで入れて欲しいな。


 とまあ、まぁみりが来ていた日の話を書いてるわけですが。
 実はわたし、まぁみりが来ていることに最初気づいてなかったの。いっつも後方席でばっか観てるから、たまの良席に浮かれて前ばっか眺めてて、後ろに誰か来ても気づかなかったのよね……。
 で、作中のアドリブで、「イケメンのエジプト人」の話が出て、??となったんだ。だいもんの昔なじみのエジプト人……? 『愛と死のアラビア』?←意識が古い

 幕間に「ジェンヌさん席」(ジェンヌさんが来たときいつも用意される席・学年や立場によってチガウけど、まあ大体決まってる)を振り返ったら、まぁ様がいて。
 エジプト人って、まぁくんか!! はっ、そうか、ラダメス!! と、めっちゃ遅れまくって思い至った。

 しかし、この公演でもだいもん、アドリブ無茶振りされてたね!(笑顔)
 ナニ、雪組ではだいもん、いじりまくられる運命?
 みんな容赦しないなあ。で、だいもんさん、いちいち真面目に返すなあ。そりゃいじりたくもなるか……(笑)。

 わたしはアドリブのためのアドリブは好きではないので、歓迎はしないけど、否定する気もなく、だいもん氏のうまいとは言いがたい返しをニラニラ眺めていた。
 がんばれー(笑)。
 千秋楽前に、『1789-バスティーユの恋人たち-』を観に行った。

 や、ほんとは楽に行くつもりだったの。チケット持ってたし。
 でも、急遽『アル・カポネ』観に行くことになったので、『1789』楽は手放した。……ったく、なんで東西で千秋楽重ねるのよー、どっちかしか行けないじゃん!
 楽には行けなくなったけど、『1789』は観たい。
 つーんで、その2日前に観劇。
 本公演は初日付近にしか観ていないから、優に1ヶ月ぶり。

 まさお節が、ひどくなってた。

 うわああああ(涙)。

 まーさーおー。
 せっかく、マシになってた独特の節回しが、また復活してる~~。

 せっかくイイ声なのになあ。もったいない……。

 この独特の節回しは、まさお氏がノッている、という証拠なんだろう。矯正されてマシになっていたのに、また野放しってのは、それだけ彼が自由に舞台に立っているということだろう。
 役者がノッているのはいいことで、それで舞台全体の熱が上がればヨシ。
 実際、イキイキしてるもんなあ、まさお……。大暴れ、って感じ。彼のこういうところが、愛されてるんだろうな。

 わたし個人としては、大変残念に思うのだけど……。


 コマが、よりコメディアンになっていた。

 うわああああ(涙)。

 個性の見えない革命家トリオ。キャラ立ちするためなのか、ダントンさんはお笑いをすげーがんばってた……。
 ちょっと愉快、程度でいいのに、アドリブ入れてさらに派手に客席を笑わせようと、あざとい芝居になってたっす……。でも客席、そんなに笑ってくれないし。ナニこの空回り感……。

 コマは三枚目得意だし、ウィラード@『フットルース』では話題騒然のかわいらしさだったけど……月組に行ってからは、彼の笑いのセンスはどうもすべりがち。月組と相性悪いと思ってるっす……わたしは。
 なにもダントンさんでそんなにお笑いがんばんなくていいのに。や、3個イチ脱却を命題にしているのかもしんないけど。
 でも、そっちをがんばるのはチガウ……。と、わたしは思う……。


 初日付近の方がよかったなあ……。

 と、肩を落としつつも。

 やっぱこの作品好き。

 千秋楽までのカウントダウンがはじまっている中、一丸となったパワーがより強い渦を作りだしている印象。

 オランプはわかばちゃん。
 ヒロインが似合う。まさおと似合う。
 彼女は自分が主役にならない、あくまでも「タカラヅカのヒロイン」。主人公は男役、彼女はその相手役。
 なのに、華やかでしっかりと顔が見える。ヒロインとして活きている。

 アントワネット@ちゃぴの貫禄。
 わかばちゃんを小娘扱いする、大人の女。……わかばちゃんの方が上級生なのにね。
 それを変だと思わせない存在感。

 ペイロール@マギーのかっこよさ。
 この役がこんだけかっこよく見えるのは、大きく見えるのは、まぎれもなくマギー個人の力。

 新公観たあと「1幕ラストはカット相応」とか言ったけど、今でもそう思ってるけど、ごめん、やっぱ好きだこれ!
 テンション上がるわーー!

 音楽が好き、そしてまさおの歌声も好きよ。良くも悪くも、唯一無二の個性。
 楽しいなあ、『1789』。

 新公で気になった横顔の彼を探そうとしたんだけど、わかんなかったっす。

 はーちゃんのソレーヌをもう一度観たかったな。日程がここしかなくて、結局はーちゃんは1回しか観られなかったのが残念。

 構成と配役がいびつで、観るたびに「修正したい、改稿したい」とじれじれする、それも含めて、興味深い、楽しい公演なのだと思う。
 わたしは、『仮面の男』に郷愁を持っている。
 いろんな意味で波乱の幕開きとなった『ロミオとジュリエット』、別箱公演を経て、新生雪組の最初の通常公演……「これから」の雪組にわくわくしていた。
 新人公演の役付を見ても、下級生が新たに抜擢されていて、「未来の雪組を担う力」を感じ、わくわくした。

 新公主演・バウ主演と独占し続けていた咲ちゃんに代わり、翔くんが初主演を勝ち取ったり。
 まなはるが2番手役のダルタニアンだったり。
 あすくんが3番手役のアトスだったり。
 イリヤくんが三銃士のひとり、アラミスだったり。
 えーちゃんが準ヒロインのコンスタンスに抜擢されたり。

 すでにいろいろ活躍していたさらさちゃんといのりちゃんは、それぞれ難しい大きな役割を得ていて。
 大人っぽい持ち味を活かして、タジィと雛ちゃんは親父&おかみを演じてて。

 スター候補生いっぱい、脇を締める実力派もいっぱい、雪組に死角なし!

 無邪気にわくわくしていた。
雪組 退団者のお知らせ
2015/06/04
下記の生徒の退団発表がありましたのでお知らせいたします。   
雪組
此花 いの莉
雛月 乙葉
透水 さらさ
悠斗 イリヤ
花瑛 ちほ

2015年10月11日(雪組 東京宝塚劇場公演千秋楽)付で退団

 遠いなあ。
 遠くなっちゃったなあ。あの、わくわくは。

 キムくんがいて、まっつがいた、あの時代は。
 そしてようやく、宙組『王家に捧ぐ歌』初日だーー!!
 まぁくん、本拠地トップお披露目おめでとー!

 わたしは手帳の観劇予定日にはシールを貼っているんだけど、わたしのなかで、『王家』=星組、でアタマが出来上がっているらしく、前夜祭の日はあたりまえに「星組」シールを貼っていた。
 ぜんぜん違和感なくて、「あれ? この日に星組公演なんて観たっけ……ああ、『王家』前夜祭か。…………? ………。……はっ、アレ星組チガウやん!!」と、かなりあとから気づいた。
 んで、あわてて「宙組」シールに貼り替えたけど……別の手帳にも「星組」シール貼ってるのを見つけ、どんだけわたし『王家』=星組なの、と驚いた。無意識ってこわい。

 前夜祭は「『王家』を観に行く」という気持ちで、「宙組を観る」という意識がなかったのね。作品>組だったから。

 まあ、実際前夜祭見て、「宙組のイベントじゃなくて、初演ファン・OGファンのためのイベントだな」と思ったので、ここまではまあ星組カウントでもいいのかな、とも思った。

 が、こっからはアタマ切り替える!
 宙組だーー!!

 『王家』ファンの仲間たちも駆けつけてるし、にぎやかな初日。

 まぁくんの開演アナウンスに今度こそ拍手して、スタート!


 なつかしい。

 最初から最後まで、そのひとこと。

 大好きだった、『王家に捧ぐ歌』。
 それをまた、全編観られるよろこび。

 前夜祭でウバルド@マカゼがせり上がってきて「あの台詞」を言うだけでぶわーっと泣けたから、本公演初日はどうなっちゃうんだ?! と思ったけど、前夜祭で耐性付いたらしく、そんな泣き方はしなかったなー。

 なつかしさ・記憶の確認と、再演(正確には再々演)ゆえの差異の方に、気持ちが行く。

 初演のスケールをそのまま体現してくれる、まぁくんラダメスすごい。
 ラダメスはまっすぐなヒーローだから、トップスターなら誰でもある程度ハマるとは思うけれど、スケール感は難しいと思うの。身体の大きさのことじゃなくて。
 やっぱまぁ様、真ん中向きの人だわ。

 みりおんはつくづく、歌うまいんだと再確認。
 知ってたけど、わかってたけど、欲しいところに欲しい声がきちんと響き、伸び、気持ちいい。
 演技はトウコまんまで、台詞回しとかそのまんまでびびる。……それゆえに、受ける印象の違いにとまどう。
 アイーダは難しい役だな。

 うらら様、歌がんばってる!!
 もちろんあいかわらずの声の「無さ」なんだけど、それでも、本人比ですごく歌ってるし、声を出そうとしている。
 もっと酷いことになるかと危惧していたから、とりあえずセーフ?
 美貌は言うことなし。

 マカゼは見た目カッコよすぎてびびる。で、「この役、こんなに出番少なかった??」と思う。
 新公主演もしていない番手外の人が、組替えご祝儀でやるには破格の扱いだったけど……正2番手がやるにはどうにも役不足。
 しかも初演とキャラがまったくチガウし。
 初日に集まった元ケロ担たちの驚愕は、「ウバルドが、王子様だった」だもん……。
 初演は王の息子でも王位継承権を持たない庶子だと思ってたもん……だからあんなに野蛮で、腹違いの妹アイーダを愛しているのだと。
 つか、剣舐めないし、指舐めないし!! 変態度低い! ふつーに王子様!
 ……初演はなんであんなに変態だったんだ……(笑)。

 アモナスロ@ヒロさんは期待通り。

 かなり危惧していたのは、実はチャルさん。
 年の取り方には個人差がある。近年のチャルさんの衰え方は目を覆いたくなるものだった。
 まず、舞台に立つことがほとんどない。他の同年代の専科さんたちに比べ、仕事をしていない。舞台に立てない理由があるのかも。
 そして、ごくまれに登場しても、棒読みだったり、台詞忘れたのか棒立ちしたり。植爺の長台詞をただ「言う」ことだけに必死で、演技している様子がなかったり。
 雪組時代のイキイキとした姿を知っている身としては、彼の衰えた姿を見るのは切なかった。
 12年前の『王家に捧ぐ歌』だって、素晴らしい歌声と存在感だったのにな……。

 登場した瞬間、やっぱ老けたなー、と思った。
 コテコテのファラオメイクをしてなお、時の流れがよくわかった。
 だから、覚悟した。
 一昨年の『ベルばら』並の出来もあり得る、と。

 しかし。

 彼は、ファラオだ。

 歌い出した途端の、迫力。
 キターーーーッ!!

 ファラオだ。
 ファラオだーー!!

 これよ、これ。『王家に捧ぐ歌』といえば、これ。
 ファラオだわ、この歌声がなくてはダメなの。
 チャルさんの声は好き、近年危惧も不満もしこたまあったが、それでも声は好きだった。よく通る、他の誰ともチガウ声。

 初演から変わらない棒読みテイストのファラオ喋りが心地いい。

 チャルさんのファラオがなくては、『王家』ぢゃないわ!!(笑)


 ……でもってわたし、ファラオ役かなり好きで。
 もしもまっつがいた時代に再演あったら、彼にやって欲しい役だったりするし……(笑)。や、イベントでもいいから歌って欲しかったわ。
 その大好きな役を、また大好きな初演と同じキャストで観られるよろこびってば。


 『王家』好き~~。楽しい~~。
 宙組『王家に捧ぐ歌』でいちばん残念なことは、衣装だな。

 エジプト側の無駄な金色尽くし。
 お金をかけて気合いを入れて新調したのはわかる。あれだけの人数分だと、さぞかし高く付いただろう。
 が。
 改悪。

 近くで見て豪華な衣装と、遠くで見てきれいな衣装はチガウ。
 オペラグラスでよーっく見ると、「ああ、豪華なのね」とわかるけど、肉眼だと背景セットと同化して見える。
 砂色のセットに砂色の衣装……。
 加えて。
 エジプト人とエチオピア人の見分けが付きにくい。
 あの広大な劇場で、膨大な人数がいっせいに現れる演出で。
 いちばん最初に飛び込んでくる視覚情報は「色」だ。
 衣装のデザインでも布の質感でも装飾品でもない。衣装の色だ。
 人種によって肌の色を変えているといったって、ヅカは外部と違い、役者の肌の露出が少ない。男たちが半裸になったりしない。出ているのは顔と手だけなので、肌の色の差異は衣装の色にインパクトで負ける。
 舞台にあふれんばかりの、砂色の大群。
 背景も砂色、出ている人たちも砂色。
 エジプト人=お金持ち・豪華な衣装、エチオピア人=びんぼー・粗末な衣装、という設定なんだけど、ヅカでは乞食の衣装だってほんとうの意味で汚い衣装じゃない「相対的に」というだけだ、当然びんぼーなエチオピア男たちだって、それなりにきれいな衣装を着ている。
 ふたつの陣営の差をわからせなくてはならないのに、同じに見えるってどうなの。
 ぱっと見区別が付かず、よく見てようやく「ああ」とわかる。
 そんな衣装にわざわざ替えるってナニ。

 そして、個人的にすごくすごく残念なこと。
 アムネリス様の豪華衣装が、映えない。

 なんせ、みんな金色を着ているから。
 お着替えに退場したアムネリス様が、仰々しく再登場、初演ボスターでも使われていた超豪華衣装、ある意味『王家に捧ぐ歌』という作品を象徴する重要ドレス姿を披露。
 ……するのに、映えない。
 ラインはチガウけど女官たちと同じ色のドレスに着替えただけか-。あ、よく見ると素材が豪華? ……てな。

 『エリザベート』でいう鏡の間のドレス、暗い舞台にエリザベートがひとり登場し、自我を持った女性として凛として歌う「私だけに」。
 あの場面を、白いドレス姿の女官たちで埋めるようなものですよ。そりゃシシィのドレスがいちばん豪華で、周りの女官たちは布もデザインも大したことないものになってるんだけど、タカラヅカだから十分きれいなドレスで、なにより色が同じだからぱっと見の印象の強さは、ひとりで登場したときより遙かに落ちる

 初演は良かったなあ。
 エジプト兵は白の衣装。
 砂色の背景に映える。
 反対にエチオピア兵は砂色、背景にも床にも同化する、大地の色。
 女官たちも今よりはおとなしい色の衣装で、そのなかでただひとり金をまとうアムネリスの美しいこと。

 初演は良かった、というと初演厨と呼ばれるかもしれんが、初演厨なのは事実だし、これだけは断言する。
 衣装改悪。

 終始違和感でいっぱい。
 エジプト兵が地味できれいじゃない、エチオピア兵と混ざる、せっかく大人数いるのに背景に埋もれて人海戦術が活きない。
 女官の衣装嫌だ、振付の股開きポーズ好きだったのに、衣装の質感が重く固くなったせいで楽しめない、アムネリス様の邪魔になる色。
 不満不満!

 歌詞に「光ってやがる、輝いてやがる」というフレーズがあるからそれを受けてのことかもしんないけど、だからといって衣装を金色にする必要はない。エジプトの装飾は十分豪華だったし、白い衣装はきれいだった。白を保つ、ということ自体、古代においてはとてつもないゼイタクのはず。
 つか、戦場でもすでに金ぴか衣装の兵士と戦ったエチオピア兵が歌うのだから、それはエジプト兵の衣装ではなく、王都についての感想よね?
 それを「光ってやがる、輝いてやがる」だから衣装を金ぴかに、というのはおかしい。

 お金をかけて改悪してるのが、業腹で。
 お金持ち=金ぴか、という発想がアタマ悪すぎて嫌だ。発想が貧困すぎる。
 前夜祭の愛ずんの衣装見て、嫌な予感はしてたけど、実際に舞台で観るときついわー。

 初演はよかった……。
 大好きな『王家に捧ぐ歌』の再演を観たら、泣きっぱなしで大変なんじゃないかな。
 そう思ったけど、そんなこたぁなかった。
 なつかしいし、大好きだし、じーんとするけれど。

 なまじ大好きで記憶に刻み付いているだけに、再演を観ると過去の記憶の確認(ああ、そうだった、なつかしいわー)と、記憶との差異(ここチガウわ)に気を取られる。
 答え合わせみたいな感じ。ここは合ってる、ここはチガウ、回答を読み込むことはしない、手持ちの解答例と照らして機械的に〇×を付けてる感じ。
 それは仕方ないよ、記憶を消すことはできないのだから。
 〇×といっても、「間違ってる」ということではなくて「違っている」、変更の確認だ。否定じゃない。
 この作業を乗り越えなきゃ、次には進めない。
 差異に慣れれば、あとは作品自体を楽しめるようになる。
 どうせ複数回観るつもりなので、焦りはない。マイペースに楽しめばいい。

 てなスタンスだったんだけどね。

 いやあ……地下牢の盛り上がりすごいね。

 ラダメス@まぁくんが地下牢に入れられて、アイーダ@みりおんと再会して。テーマ曲のデュエットから大コーラスへ。

 初演云々ぶっ飛ばしてくれた。

 泣くわ、あんなん。
 大泣きするわ。

 引き込まれて、息詰める勢いで注視して、まばたきすら惜しい濃密な空気のなか勝手に涙が流れる。
 幕が下りて、ようやく息の仕方思い出す……みたいな。

 まぁ様かっこいい。そして切ない。
 みりおんかわいい。そして愛しい。
 ふたりの芝居に引き込まれ、濃密に時間が過ぎる。

 この牽引力、空気を全部一点に集める力があってこその『王家に捧ぐ歌』、そしてタカラヅカのトップスター!

 トップコンビでラダメスとアイーダやるの、いいよね!!
 フィナーレのデュエットダンスまでもが、エピローグのように楽しめるし。
 やっぱトップコンビで愛し合うべきっすよ。

 ……もっともフィナーレはなかなか珍妙で、キムシンなに考えてんだろう? と首かしげたけどな……(笑)。

 初日楽しかったー!
 これからまた何度でもこの作品を観られるんだと思うと、すごくわくわくする。
 や、お金と時間の問題で、そんなに何度も観られないけど、それでも何回かは観るし、チケット用意してるし!

 理屈捨てて泣くことが出来た、クライマックスの加速っぷりに満足っす。
 アイーダは難しい役だなと思う。
 宙組『王家に捧ぐ歌』を観て。

 これは初演から思っていたことだけど、アイーダってヤな女だよね?
 女子が嫌う女子っていうか。
 クラスにこのタイプがいたら、絶対遠巻きにされてるなっていうか。

 一昔前の少女マンガのヒロインタイプ?
 貧しいけれど一生懸命、横断歩道でおばあさんの手を引いて、いじめっ子には注意して、いつも正しくて、正しいことを隠さなくて、空気関係なく正しいことを言っちゃう。そして身分違いの王子様が、彼女の心の美しさに魅せられてメロメロになっちゃう、てな。
 昔ならそれで良かったけれど、現代だとマイナス点ばかりの女の子ですわ。

 だからポイントは、このヤな女を、どれだけ「かわいく」演じるか、なんだよなあ。
 かわいく、てのは文字通りの「かわいい」ではなく、「かわいげ」のこと。愛嬌というか、「嫌な女だということを気づかせない」「嫌な言動ばかり繰り返すけれど、仕方ない」と思わせるほどの、「フィルター」を発動させなくてはならない。

 初演のトウコの場合は、「男役が演じる娘役」ということで、クリアー出来た。
 もともとクドく濃ゆい持ち味の男役だから、初の娘役でちょっとした女らしさやけなげさを見せるだけで、アイーダの持つ棘が軽減された。
 アイーダの「私は正しいビーム(攻撃的・常時発動)」は「もともと男だしな」で正当化され、時折ちょっと「引く」だけで「私はけなげフィルター(必殺技・ここぞというときに発動)」にて持ち上げられた。

 だが、トウコと同じことを娘役がやると……。
 きついなー。

 キムシンはアテ書き能力の高い人だと思ってるけれど、再演時にキャラを書き換えたりはしないんだ、と、『王家』再演のときに思った。
 エチオピアトリオのキャラ立てなんて、毎回自由にいじったって本筋とまったく関係ないと思うんだけど、初演のままだった。綺華れいちゃんのカマンテなら、吉岡清十郎@『巌流』系にしたってよさそーなもんなのになー。初演まんまだと彼の実力だと弱くなっちゃうだけなのに、変更なしだったもん。
 てな経験上、『王家』に関しては初演のバランスを変える気はないんだなと、今回も漠然と思っていた。
 だからポスターにアムネリスが載ってなくても、アムネリスの比重は同じだろうと思ったし、ウバルドが2番手役でもなんの書き込みもされていないだろうと思った。
 で、実際その通りだった。
 そして、初演まんまの台詞回しで展開するラダメス@まぁくんとアイーダ@みりおんを観て、いちいち納得した。ああ、再演時に感じたまんまだなあ、と。

 ラダメスはいい。
 問題は、アイーダ。
 やっていることはトウコまんまなのに……なんだろう、この引っかかり。
 アイーダの端々に、ざりっとなにかがこすれる。

 それは、かわいげのなさだった。

 同じ台詞回しなのに、みりおんだとキツく感じる。いやな感じに残る。
 「平和」を訴えず「愛」を口にしている分、初演よりも「正義を振りかざして鼻につく」部分は軽減されているはずなのに。

 アイーダは「強く」なくてはならない。
 アイーダを「ふつうの娘役」として演じてしまうと、きっと目も当てられないウザい勘違い女になる。
 なよなよめそめそ、私って可哀想。
 そうしないためにも、強く、自我と誇りを持って両の足で立つ! ……を、やりすぎると、自己中価値観押し付け女になる。

 難しいな。

 みりおんの苦手分野かなと思う。
 「かわいげ」という部分。

 みりおんがかわいくないと言っているわけではなくて。

 『うたかたの恋』のときも思ったんだけど、みりおんって致命的に芸風に、知性があるの。

 野生の魂とか無知な天使は、苦手。
 知的な意志のある女性は得意。

 『うたかたの恋』のヒロイン・マリーは無垢であればあるほどに、観客の涙を誘う。が、みりおんのマリーには知性を感じて、ことさら無邪気な台詞の数々が、空々しかった。知性あったらその台詞は言わんわー。言うとしたら、ナニを考えてるんだろう、言葉の裏で?てな。
 もちろん、「無邪気な天使を装いながら、すべてを理解し、あえて相手の求めるまま、共に滅びることを選ぶ女性」というのは魅力的な設定だけど、『うたかたの恋』ってそういう話じゃないし。

 みりおんだと、アイーダにも「知性」を感じてしまう。

 アイーダがアホキャラだと言ってるわけじゃない。
 彼女は「戦いは新たな戦いを生むだけ」という「真理」を説く「賢者」だ。知性はある。
 そういう意味じゃなくて、彼女が賢者なのは生まれ持ったスキルであって、後天的に受験勉強とかで詰め込まれたモノじゃないんだ。
 みりおんの醸し出す知性は、「野生の獣の賢さ」ではなく、きちんとした家庭で躾と教養を得た、大人の女性の持つ賢さだ。
 会社で活躍してくれる分には頼もしいけどね。アイーダに必要される賢さとは、色が違う。

 なんつーか、みりおんアイーダはあちこちが、賢しかった。

 シロッコの名台詞「賢しいだけの子どもがナニを言うか」的な引っかかり?(笑)

 賢さが悪い方向に出ているというか。


 知性と理性がある。
 それはみりおんの特性。
 それを活かせる役をやるととても魅力的。
 本能で行動する女の子の役は苦手。
 賢く見えるゆえに、言動に裏があるように見えてしまう。

 難しいな。
 と、前日欄でいろいろアイーダ語りしてますが。

 わたしの視界は、基本アイーダ中心です。宙組『王家に捧ぐ歌』

 いやあ、習慣ってのはおそろしいね!
 『王家』っていうと、アイーダなのよ。アイーダ見ちゃうのよ。

 アイーダが、好きなのよ。

 前提としてアイーダへの好意があるから、ナニがあってもアイーダなの。

 それゆえに引っかかるというか、あちこちざりっとした感覚を持って、うわー、と思うのだけど。
 でも結局のとこ、アイーダ見てる。


 みりおんのアイーダは、学級委員みたいだ。
 トウコのように本能的でも動物的でもナイ。
 なにより強く思うのは、潔癖そう。

 ラダメス@まぁくんも脳筋ではなさそうだから、バランスはいいのかも。

 初演のワタさんとトウコだと過分に本能的っていうか、ガツガツ愛し合ってんだろうなって匂いが強いんだけど、まぁみりだとプラトニックのかほりがする。
 ラストの地下牢の中でも、ほんとにただお祈りして終わってそうな感じが……タカラヅカっぽいかなと。ワタトウと正反対(笑)。

 わたしはアイーダ視点で見てしまうので、みりおんを通してまぁくんを見ている。
 まぁくんは武将らしい大きさを持った人だけど、筋肉で思考する人ではナイ。
 王子様属性は、はずさない人だ。

 雄叫びが似合う、長剣を振り回すのが似合う……けれど、将軍というより王子様。
 それでいてまぁくんには、学級委員的賢さよりも、原始的な賢さを感じる。この人、理屈より本能だよね的な。
 知性はあるにしろ、それよりも根本的なところで、いちばんいいものを本能で選び取っている感じ。
 それが、彼の育ちの良さというか、王子様っぽさにつながっている気がする。

 つまり、だ。

 学級委員と、王子様の恋。

 ですよ!!
 ザ・少女マンガ!!

 真面目が取り柄の学級委員。真面目で「かくあるべき」という固定概念から離れられないアイーダちゃんが、突然現れた空気読まない王子ラダメス様に恋をした!!
 王子様天然だから、がんがんくるよ! クラスメイトの前でも学校のマドンナ・アムネリス姫の前でも、平気でアイーダを口説いちゃう。
 アイーダはツンツン、差し出された指輪も無視。でも内心ドキドキ。
 アイーダちゃんの必殺技は「お説教」。常日頃から「正しいこと」を押し付けるから、クラスでも浮いちゃってる。なのにラダメス様だけはどこを吹く風、アイーダのお説教を聞いても理解してない。
 学級委員だもの、クラスをまとめる使命があるもの、クラスを乱すだけのよその人、好きになんかならない、なっちゃダメ……! そう思っても、ココロは止まらない……☆

 いやあ、王道ですなー。
 まぁくんの王子様オーラ、背中に花背負ってる感とか、みりおんの色気のなさとかが、イイ感じに少女マンガっす。

 みりおんアイーダの「引っかかる」ところは、少女マンガの学級委員キャラ、と思えばまるっと納得。
 教室というせまい世界の中しか知らず、教科書で読んだ思想をよりどころにしている未成熟な女の子。本能的な知覚ではなく、あくまでも机上で得た知識として正論をかざしている。
 外見が面長で大人っぽいから誤解されがちだけど、彼女はまだ幼いのよ。幼さを否定し、精一杯背伸びしているのよ。

 ゆえに、警戒心が強い。
 自分を守るために何重にもガードをしている。かたくなに。

 それが、ラダメスを愛することによって、変わっていくのよ。
 最後は地下牢に忍び込むとか、学級委員なら到底思いつきもしない行動に出るのよ。

 愛しいわ。

 ただ愛だけに「生きる」ことをはじめる彼女が。

 ラストの地下牢の盛り上がりのすごいこと。
 感情だけに従って、感情の絶頂で終息する。
 それが気持ちいい。

 みりおんのアイーダも好きよ。
 彼女もまた、アイーダ。
 そして、『王家に捧ぐ歌』が好き。
 これもまた、『王家に捧ぐ歌』。
 なんかよくわからんが、愛ちゃん、よかったね!!と、思う。宙組『王家に捧ぐ歌』を見ていると。

 愛ちゃんは『王家に捧ぐ歌』の大ファンなの? 出られてうれしい、この作品に出ることがジェンヌ人生最大の夢だった、とか?
 それとも初演ケペル役のしいちゃんのファンなの? しい様の役が出来てうれしい、しい様と同じ役をやることがジェンヌ人生最大の夢だった、とか?
 それともなんだ、ついに3番手になったぞうれしい! とか、そっち?

 よくわかんないけど、舞台にいる愛ちゃんから「うれしい!!」という気持ちが溢れ出てる。

 ケペル@愛ちゃんは、とんでもない鼻息。
 ほんとに鼻息がマイクに入ってるというわけではなく、マンガにある「やる気」の表現「フンガー!」とか擬音の付く鼻息ね。
 全身から、全編、その鼻息が見えるの。マンガ的表現なので、聞こえる、ではなく、見える。
 とにかくすっごく力入ってる。
 なんつーんだ、45度身体の向きを変えるときに、90度回って、また45度逆回転して、結果として45度にする感じ。……マジにコレ、近いことやってるよね?
 となりのメレルカ@ずんちゃんがとてもシンプルに飾り気なく45度だけ動いてるので、余計に目立つ。
 マントの扱いにしても、いちいちはためかしてるし。横のずんちゃんが重力に任せたままなので、余計に目立つ。
 メレルカは自然体で、ケペルだけみょーに力んでて、いつもひとりで大芝居している。
 そういうキャラ立て? ケペルとメレルカって2個イチで区別付かないから、あえてそうしている?
 それはアリだと思うけど、「うれしそう」に見えるから、キャラ立てとはチガウ、中の人の感覚でそう見えているじゃないかなと思う。

 なんでそうなっているのか、さっぱりわからないけれど。

 愉快だからいい。

 あの無駄に力入った感じ、悪くないっす。
 なにしろあの愛ちゃんが、わたしの視界に入ってくるんだもん。
 や、わたしはいつも舞台で愛ちゃんを見つけられない人で、『白夜の誓い』なんかはついに、一度も見つけられなかった。主要キャラ以外は、なにかしら琴線に触れないと認識出来ないみたい……わたし、目とアタマが悪いので。
 それが今回、とても愛ちゃんが目に入る。

 初演厨のわたしは、定点観測が身に染みついている。この場面この台詞この音楽でここを見る、てな具合に。
 それゆえに「ケペルを見る」ことも、習性として染みついている。や、わたししい様ファンですから!
 だからケペル役の人をごく自然に見てしまう、のは事実。
 ケペルだから見るのであって、「いつもどこにいるのかわからないのに、今回はちゃんと見つけられるわ!」ということではない、のかもしれない。
 でも、定点観測以外のところでも、目に入るんだ。
 モブをオペラなしでぼーっと眺めているときに、変に力入った動きの人がいる……ああ、愛ちゃんか、てな風に。

 いやあ……面白いな、愛ちゃん。
 やる気に満ちあふれてる。うれしさに満ちあふれてる。

 技術はともかく、舞台の上の役者が、やり甲斐もって気力あふれさせて存在しているのを見るのは、気持ちいい。

 そして。
 初代ケペル役のしいちゃんもまた、そーゆータイプだったんだ。
 技術がある人ではなかったんだが、とにかくもお、舞台の上でゴーゴー燃えさかっていてね。うるさいくらいだった。
 ケペル役のときなんかほんと、鼻息荒くて。フンガーフンガーいってるような芸風全開だった。

 愛ちゃんケペルが琴線に触れるのは、そのためだろう。

 あのうるささが、微笑ましい。

 わかったわかった、うれしいのはわかったから、ちょっと落ち着こうや、な?
 と、肩を叩きたくなる感じ。
 やる気あふれてるのはわかったから、ちょっとは周りも見ようや、な?
 と、なだめたくなる感じ。

 それが、いいんだわー(笑)。
 ケペルは、そうでなきゃ!! と、思う。

 そして、思うんだ。
 愛ちゃん、よかったね!! と。
 なにがそんなにうれしいのかわかんないけど、そんな君を見ていると、こっちもうれしくくすぐったくなるよ、と。
 わたしの視界の順番は、ウバルド→アイーダ→アムネリス→ケペル→サウフェ……てな風に、ほぼ決まっています。
 習慣っておそろしいっすね。
 無意識に、身体がそう動いてしまうの。初演をえんえん観たために。再演中日はウバルドを見ても楽しくなかったので、ひたすらアイーダ見てましたね。
 やっぱ回数半端ナイこともあり、記憶は初演限定って感じ。再演は「まとぶ、大変やなー」と思ったことをおぼえてるぐらいで、あんまし印象ナイ。やっぱベスト配役だった初演ですよ、印象は!!
 ……ほんとわたし、ラダメスはほぼ見てなかったんだわー……。や、意識して見なくても目に入る、それだけの存在感あってこそのトップスターですもん。

 ともかく、放っておくとわたしはウバルドを見てしまうのです。
 これはもう宿命です(笑)。

 ということで、今回の宙組『王家に捧ぐ歌』
 やっぱり、気がつくとウバルドを見ています。

 そして。
 初演厨なので、マカゼウバルドには、ノーコメントです(笑)。
 チガウ、足りない、そこはそうじゃない、という気持ちばかりで、建設的なことがナニも言えません。
 芝居はひとりだけで成り立つわけじゃないので、この『王家』にはこのウバルドでいいんだと思うけど、薄味過ぎて物足りません。
 それは今までのマカゼ氏に対する感想と同じなので、初演厨だからだけではないのかもしれないけど。マカゼ氏はどうしてこう、いつもなにか足りないっちゅーか薄いんだろう……あれほど男役として恵まれた資質を持ちながら、何故殻を破ることが出来ないんだろう。組替えでナニか変わるかなと期待したんだけど、周りが薄くなったから濃く見えるだけで、根本変わってナイですがなもし、という印象。
 それでも、ウバルドを見ています。彼が登場する数秒前には、彼が登場する場所へ、すでにオペラグラスがセットされてます。習慣ってこわい!

 そ、し、て。
 ココロから思う。
 ウバルド@マカゼ、カッコイイ。

 ビジュアルが、好み過ぎる。
 いろいろいろいろ浮かんでくることを吹っ飛ばすくらいに、マカゼ氏がカッコイイ。美しい。
 ウバにーちゃんって、男役では上から2番目の役だけど、所詮元が新公主演もしてない脇の人がやってた役だからね。出番少ないし、出てても歌も台詞もないモブ扱いの時間も長くてだね。
 声を出さないマカゼ最強。死@『ロミジュリ』のときと同じ感覚。黙って舞台にいるマカゼくんはほんと美しい。や、声も歌も、昔より良くなってるけども! でもまだ、ビジュアル>実力の不等号は変わらない。

 物語が他で進んでいるときの、黙って立ってるウバルド、黙って踊っているウバルド、舞台奥にのそっと出て来て消えるウバルド……カッコよすぎる。
 ほんと美しいわ……しみじみ。
 タカラヅカっていいなあ。こんな二次元にしか存在しないような美形が、生きて動いてるんだもん。

 1幕ラストの、アモナスロ@ヒロさんとアイーダ@みりおんをかばうウバにーちゃんがいいのー。あの広い背中で、家族をかばうのよ。覆い隠す、って感じに、家族ふたりがすっぽり入っちゃう……アレは萌えだわ……キュンとするわ……。
 初演厨だけどさ、初演さんは小柄な人だったから、あんな風な「すっぽり感」とは縁がなかったのよねえ。あんまし家族愛も感じなかったし(妹のことは愛してたけど)。

 てことで、結局のところウバルドを見るのが楽しいです。
 マカゼ氏のビジュアルは、ほんっと素晴らしいっす……大好きっす……ハァハァ。

 マカゼスキーとしては、彼の躍進をわくわくと見守っています。
 で。
 この初演厨は、初演にてウバルドのお付きのカマンテさんを、ろくに見たことがありません。
 理由は簡単。
 ウバにーちゃん見てたら、カマンテ見られなかったの。物理的な問題。
 いつもウバルドと一緒に出て来るんだもん。

 が。
 いつも一緒のサウフェは見ていた、……から、単なる好みの問題。
 初演カマンテには興味がなく、サウフェは萌えだった。

 だから今回の宙組『王家に捧ぐ歌』もまた、ついついカマンテはスルーして、サウフェを見てしまう。
 カマンテを演じているあっきーが好きだから、極力彼を見たい、と思うのに、習慣のおそろしさよ、カマンテが目に入らない。

 そして、思うのだ。
 目に入らないのは同じ。むしろ、今回の方が意識的に見ようとしている。
 なのに。
 薄いわ、カマンテさん。

 薄いというか……少ない?

 演技力という点で、研11のあっきーが当時研9だったまとぶんに負けているとは思ってない。
 たぶん、きちんと表現しているのだと思う。
 が。
 伝わらない……。

 あっきーだけをガン見していたら、わかるんだと思う。伝わるんだと思う。
 だけどわたしみたいに、基本ウバルド見てて、同じフレームに必ずカマンテも入ってる、ピントがウバルドだからカマンテはちょいぼけてるけどね……状態の人間には、伝わる量が少ない。

 当時のわたし、まとぶさんのことまったく興味なくてまったく見てなかったんだけど、それでも彼は勝手に視界に残ったなと。
 あの不機嫌そうなきれいな顔が、いつもウバルドの横にあった。
 勝手に入ってきた。そう、まったくもって「勝手」に。わたし的にはどーでもよかったのに。

 でも、あっきーは入ってこない。今のウバルドは初演ほどわたしの意識のすべてを持って行ってるわけじゃないのに。あっきーが同じフレームにいると知覚している……でも、記憶に残らない。

 これが、真ん中育ちとそうでない人の違い、なのかなあ?

 まとぶんは「将来のトップスター」として、特別養成コースを歩んでいた人だ。
 当時はまだいろいろいろいろ足りてなかったけれど、それでも帝王学を叩き込まれてきた人だ。勝手に、光っていた。スターしていた。

 同じようにウバルドを視界の中心に据えたときの、存在感がまったくちがう……カマンテの。

 あっきー、薄い……てゆーか、少ない……。
 もっともっと、オーラ出してくんないとだわ。初見の「顔の見分け付かないから、衣装で主役3人とファラオしかわかんなかったなー」という人には、ヒロインのにーちゃんとそのお付きふたり、という「顔のない役」にしか思ってもらえないのでは……?
 や、もともとカマンテとサウフェはその程度の出番しかないけども、それにしてもだ。

 意識してカマンテ見て、「カマンテ、いい役なのになあ……」と歯がゆく思った。
 黒いあっきー、いいのになあ。興味深い光り方をしているのになあ。あっきーをオペラグラスのセンターにしてガン見しないと、伝わってこない……。

 存在感の出し方を、まだ会得していないのかな。
 公演が進めばまた、ちがうのかもしれない。


 そして、エチオピアトリオの3人目、サウフェ@りくくんは。

 えーと。
 がんばれと。
 初日と、そのちょっとあとに見た段階では、もうそれだけかなと(笑)。

 どっちを向いているのか、よくわかんない。演技の方向性が。
 どんなキャラなのか、よくわかんない。
 初演とも再演ともチガウ、今回の新しいサウフェだとしても、ナニをしたいのかよくわからぬ……。

 えー、わたし、りくくんの顔が好きなので、彼にはいつもながら甘いです。顔見てるだけで楽しいからいっかー、みたいな。
 だから今回もまた、いっかー、てな感じで愛でてます。
 や、それはあっきーも同じなんだけど。顔好きだから、顔見てるだけでいっかー、てな。ただ、あっきーはもっと出来るだろう、と思うからじれったい。(……えっとそれ、りくくんは? あのその、りくくんは芝居よりショーの人認識だからあのその)


 そして、あっきー&りくスキーであり、初演エチオピアトリオファンとしましては、明らかにエジプトコンビより下、という扱いにしょんぼりしてます。
 や、わかってるんだけどね。路線スターの愛&ずんよりも、あっきー&りくが落ちる扱いなのは。わかってるけど、エチオピアのふたりも、もう少し持ち上げて欲しかったなあ、全体的に。
 宙組『王家に捧ぐ歌』あれこれ。

 わたし、すっしーさんには全幅の信頼を置いている方なんですが、今回はちょい残念っす。
 すっしーさんはダンサーで歌の人ではナイとしてもだ、神官役の歌声が足りてない。
 神官にはがつんと締めてもらわないといかんので、彼の歌声のひょろひょろ感にはしょんぼりしてます。

 全幅の信頼……うん、わたし、すっしーはもっと歌えると思ってたの。
 芝居の中で歌う分には、彼はいつも十分な仕事をしていると思ってきた。歌手ポジションで朗々と歌うことはまずないし、役として歌う分には問題ない歌唱力……よね?
 なのに足りてないってことは、『王家』の歌は難しいのかなあ。

 すっしーは「スター組長」だと思ってる。月組長だった越リュウも同じ。
 ショーで、トップスター中心の何人口とかに入って踊っちゃう人。男役群舞で中寄りのスターポジションで踊っちゃう人。
 宙組では「若手を抜擢せずに、組長を投入する」という長い伝統がある。
 本公演のショーで全国ツアーに行く場合、抜けた番手スターの役に若手を繰り上げて使うのではなく、組長や別格上級生が務める、という。
 スターを育てる気はない、組子はみんな動く大道具。んじゃスター育てずにどう場を埋めるのかというと、トップをはじめ番手スターはよそから組替えでやって来る、という仕組み。反対に考えると、よそからスターを迎えるために、あえて若手を育てないのかもしれない。
 なんでそんな仕組みになっているのかは知らないが、そうなっている以上、「スター」役を、組長他別格上級生が兼ねなければならない。んで、実際、兼ねてきた。
 立場が人を作るってのはある。すっしーは「番手スター」がやるべき仕事もこなしてきた組長だ。ゆえに、華がある。まったくの脇育ちとか経験皆無の人よりも。
 実際、カッコイイし。
 宙組観るときに、絶対観ちゃう人のひとりだし。
 今は自組でスターを輩出しようと方針を変えたかもしれないけれど、昔は確実にそういう仕組みで、すっしーたちはスターとして活躍してきた。

 だから全幅の信頼。足りない部分があっても、ねじ伏せてくれるだろうと。
 専科さん複数投入で組子の役を減らすのをヨシとしない派なので、ファラオかアモナスロやってほしかったくらいだもん。ヒロさんチャルさんの素晴らしさはわかってるけど、専科ナシで組子だけでやる『王家』もアリだと思うから。
 専科さん出るなら、チャルさんナシで、ファラオ@ヒロさん、アモナスロ@すっしー希望でした、実は。初演とはあえて変えて。幕が上がるまで、チャルさんには不安山盛りだったこともあり。
 ヒロさんのファラオも、そりゃ迫力だろうなと。でもって腐った意味でも彼の方が対ラダメスがおいしいかなとか(笑)。

 すっしーの歌唱力を信頼していたゆえの希望配役。
 でも神官役を観て、その難しさと向き不向きがあることを知る。神官って動きは少なく、正味歌唱力出るもんなあ。
 アモナスロなら、芝居部分が大きいから神官よりは得意分野で勝負出来たかな。

 もっとがつんとした声が欲しい。


 ところでわたし、最初りんきらを探せませんでした。
 2回目の観劇時か。不意にりんきらがりんきらだとわかって。

 なんか、ときめいた。

 いやあ……いいわー!
 神官メイクでしれーーっとしているりんきら! 非人間的な佇まいの役だからこそ、うろたえてたりちょっとした変化が楽しい。
 彼を注目して見る『王家』も楽しいんだろうな。そう思う。


 せーこちゃんが本編であの役で、フィナーレのエトワールだということに、いろいろ驚く。
 本編の役としてその他大勢の女官というのは役不足過ぎるし、かといってエトワールというのは今さら彼女の任ではないと思うし……。再演一本モノの弊害、組構成に合った役がない。

 それとは違った意味で、ファトマ@あおいちゃんに驚く。
 えーと、この役って、こんな役だっけ……?
 わたしが記憶しているものと、歌声が違いすぎる。
 はい、初演は柚長ですから。
 そうだよなあ……柚長……。『ロミジュリ』で「フラメンコの女」という役を作らせたくらいのお方だもんな。あの超絶歌唱の方の役ですから、歌ウマあおいちゃんがやると、音の印象がまったくチガウ……。
 なんだろ、あちこちぎすっぎすっと引っかかっていたところがなめらかに流れ、それゆえにある意味「キツさ」が増した気がする。
 歌声に説得力があると、そのまま波となって押し寄せる感じ。柚長は断続的にしか流れない間欠泉だったので、あまり説得力なかったのな。
 アイーダに対しては、柚長の方がたどたどしくしか歌えない分やさしかったし、あおいちゃんはなめらかに豊かな表現する分容赦ない気がした。
 宙組『王家に捧ぐ歌』についてあれこれ。

 伝説のスゴツヨが、すごくなかった。

 あそこはビジュアル最強な美少女ふたりが、歌唱力最凶の怪音波を発してドヤるのが醍醐味なのに。

 ビジュアル微妙な歌ウマさんと、ビジュアルそこそこ歌もそこそこのお嬢さんが、そこそこのデキで済ませる場面じゃない……。
 しょぼん。

 現宙組でいえば、やっぱうらら様ソロでスゴツヨするのが最も初演再現だったと思う。美貌と歌唱力ゆえに。
 うらら様を禁じられたら、あとはもう別路線を狙うしかなかったのかな……でも、もったいないなー。あんな珍妙な場面、他にないのに、その破壊力を削ぐなんて。


 演出変更でいちばん良かったのは、もちろん凱旋。

 初演では不評の嵐だったもん。
 つまらないわ長いわ……。
 当時のわたしは、みやるり探しがブームだったわね……あの全員同じ格好の残念なマスゲームみたいな中から、特徴ある顔立ちの彼を探してガン見するという。(すみれ売りで写真を撮らせてもらったのがみやちゃんとみりおくんだけ、という偏った嗜好により、ファンというほど強い感情もないまま、なんとなく追い続けていた頃)

 宙組版の凱旋、カッコイイよねー! 全改訂されてよかったーー!
 ここでも愛ちゃんの張り切りぶりがツボに入る。わかったわかった、と(笑)。

 あー、あと、2幕でケペルたちが銀橋出て来たのは良かったと思う。なにごとも派手になるのはいいことだ。
 でも、エジプトトリオのターンも銀橋になっちゃうと、エチオピアトリオとの差が埋まって残念かなというか、埋まるどころか追い越された感があってエチオピア思い入れ隊としてはちと残念かなという。(どんなんや)


 あちこちささやかな変更が、耳に馴染んでいるモノと「チガウ」たび、かくんとなる。あるべきところにあるものがなくて、肩すかしされる感じ。
 今回は平和ではなく愛をテーマにしているそうだが、あんまし差異は感じないなあ。
 そんなん最初からそうやん!的な。
 つか、それよりも「名もなき群衆」に対する悪意というか攻撃性が減ったかなあ、という印象。キムシンの変化なの? 受け取るわたしの変化なの?

 『王家』初演の頃は、わたしキムシンの演出力にいたく感動していたので。
 テーマを叫びまくる、うるさい作風が大好きだった。
 でも、どんどん彼は丸く薄くなっていって、最近はもうあまり叫ばず、痛烈なモノは書かなくなった。
 キムシンが変わったのか、それともわたしが変わり、そんな風にしか感じなくなったのかは、わからない。
 キムシンブームだった頃の『王家』は大好きだけど、今見ると当時ほどの熱狂的感覚はない。わたしには。

 それが寂しい。

 今も、楽しいし、今も、大好きだけど。
 時は流れる。 
 1日欄がずれてますが、6月14日に秋の雪組全ツとバウの主な配役が発表されました。
『哀しみのコルドバ』
エリオ・サルバドール 早霧 せいな
エバ・シルベストル 咲妃 みゆ
リカルド・ロメロ 望海 風斗

 順調にトップコンビと2番手の配役。
 初演は知らないので、ヤンさんの再演が記憶の最初。トップと2番手がヒロインを争う、タカラヅカの正統的な三角形物語。
 主役よりも恋敵が大人の男でなくてはならないので、この役を3番手以下の若者がやるのは難しい。ので、きちんとだいもんでありがたい。
 記憶の最初である再演よりも、多く回数を観たまとぶんの再々演全ツの方が記憶が鮮明だ。ヤンさんの公演は震災で途中から中止になっちゃって、観たくても観られなかったもん。贔屓の扱いにグレつつも(笑)、まとゆひの全ツの方が断然たくさん観てる。
 ゆえに、ロメロ役はさらに「大人」で、エリオといろんな意味で乖離している印象が強い。ヤンミキよりもまとゆひの方が、芸風の年齢差があったからさ。
 だいもんならヒゲのパトロンも余裕で似合う……わくわく。

 そして、うれしいのはなんといっても、かなとくんバウ。
『銀二貫』
松吉[鶴之輔] 月城 かなと
真帆 有沙 瞳

 くらっちヒロインキターーッ!

 『伯爵令嬢』があまりに印象的で。
 この子の芝居を観たい、ずっとそう思っていた。
 そりゃいい役者はモブでもいい芝居をしているんだろうけれど、やはりヒロインと台詞もろくにないモブでは表現出来ることが違いすぎる。
 芝居を観たいと思うからには、ヒロインをやって欲しい。
 ずっとずっと、そう思っていた。

 まあ、もっとも、谷芝居だからあまり芝居を観る云々は期待出来ないかもだけど……基本女描けないし興味もない人だからなー。(女は記号でしかない代わりに、男同士の友情とか、犠牲とかは大好きときたもんだ)

 『銀二貫』はドラマしか見てないんだけど、24歳で年相応にしか見えない林遣都くんが、どうがんばって見ても小学生でしかない10歳の芦田愛菜ちゃんと恋愛するという、とても痛々しい話でしたな。
 や、作中では遣都くんもまだ少年という設定だったんだろうけど、無理あり過ぎ。子どもがいてもおかしくない年の男が、年端もいかない幼女と「指と指が触れて・きゅん……☆」的な恋愛してるんだもん。
 少年時代が短いなら、子役を使ったろう。でも、それなりに長いもんだから、どんだけ無理ありまくりでも子役ではなく遣都くんで通さなきゃいかんかったんやろう。
 つまり、それくらい子ども時代もがっつりある、ってことよねえ。大人が演じる無理な子役芝居、特にタカラヅカでは年齢以上に幼く作るから、けっこうつらいものになるかも……?
 はっ、子ども時代の名前・鶴之輔もかなとくんの役名に書いてあるから、幼児時代からかなとくんがやるとか……? まさかの幼児プレイ……?
 か、覚悟しておこう……。

 ところで汝鳥怜サマが出ないのだ、ということに、今さら気づいて愕然としています。(日程をよーやくまともに認識した)
 演目が決まったとき、汝鳥サマでドラマのあの場面もこの場面も脳内再生されたのに! それ以外考えられないのに!!
 ……にわさんあたりがやるのかしら……。
 ちょ……っ。
2016年 公演ラインアップ【宝塚大劇場・東京宝塚劇場】<2016年2月~5月・雪組公演『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』>
2015/06/16
6月16日(火)、2016年宝塚歌劇公演ラインアップにつきまして、宝塚大劇場・東京宝塚劇場公演の上演作品が決定いたしましたのでお知らせいたします。   
雪組
■主演・・・早霧 せいな、咲妃 みゆ

ミュージカル
『るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-』

~原作 和月伸宏「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」(集英社ジャンプ・コミックス刊)~
脚本・演出/小池修一郎

和月伸宏氏原作の「るろうに剣心 -明治剣客浪漫譚-」は、1994年4月に週刊少年ジャンプにて連載開始後、シリーズ売上累計5900万部を超える大ヒットコミックで、アニメや実写映画も次々と大ヒットを重ね、今や世代を超えて多くの人に愛される作品です。宝塚歌劇が、小池修一郎脚本・演出により、この作品の初のミュージカル化に挑みます。
幕末に伝説の人斬りとして恐れられ、明治維新後は“不殺”を誓った剣客・緋村剣心を主人公に、個性的な登場人物達により繰り広げられる歴史活劇をお楽しみください。   

 マジか……!
 噂はあったし、タカラヅカに向いている題材だとは思う。ちぎくんは剣心のイメージに合う。
 が。

 ツッコミたいことがあり過ぎる……(笑)。

 『るろ剣』は大昔、ジャンプ連載時にリアルタイムで読んでました。
 ……90年代か……マジ大昔だな……。
 ゆえに、いろいろ思うことがある。

 第一に。何故、イケコ?!
 人間、向き不向きがあるだろう。イケコと少年ジャンプはそぐわない……。興味ナイ・向いてない題材を、重鎮年配者に無理にやらせんでも、いくらでも興味ありそう・向いているキャリアそれなりの若めの演出家がいるのに……。

 大作だからイケコなんだろうな。
 クリエイティブな観点からではなく、経営者視点で。
「大きな仕事は、いちばんエライ人にさせるべき」……「エライ人=賞取り実績のある、功績のわかりやすい人」。
 植爺ではなくイケコ、というところに、劇団にも時間は流れ、権威は移り変わっているのだなあ、と感慨深いっすが……しかし、イケコか……。

 そして、『るろ剣』というと、ヅカをよく知らない人にも「『るろ剣』のアニメってたしか、タカラヅカの人よね」と言われるつらさを思い出す。ある意味黒歴史っちゅーか……。
 なんで涼風さんが突然アニメ声優やってたのか、当時もうアニヲタ卒業していたわたしには、そのへんの事情はまったくわかりません。
 ただ、アゴが落ちるくらいヘタだったので、原作ファン・アニメファンに申し訳なくて申し訳なくて、実際原作ファンに責められたし、いろんなところで「声優がヘタ」とフルボッコだったし、うああ、今追い出してもアタマ抱える……。
 現役時代の涼風さんは素晴らしいスターだったと思うけれど、ただシンプルに、声優初仕事は「主役をやっていい実力はなかった」と思います。
 ということで、テレビアニメは見てません。涼風さんでなくても、声優がへたっぴだと見られないの。最近では『ノブナガン』の主人公がヘタ過ぎて無理、と作品には惹かれたけれど泣く泣く離脱、『電波教師』の主人公の妹役がヘタ過ぎて2話で脱落した。
 大人の事情で使わなきゃならんヘタな人は、台詞の少ない脇役でお願いします……主役はヘタでなくなってからにしてください、たのんます。
 ってこれは、声優だけの話じゃないけど。

 涼風さんはそののちうまくなったみたいで、ずいぶんあとから見たアニメ『ブラック・ジャック』でふつーに声優さんっぽくやってたんで、『るろ剣』も「また見てみるかー」という気になった。
 うん、ふつーは経験積めばうまくなるんだから、うまくなってから主役はやるべきだよなー……すべてのジャンルに思う。


 てなことはともかく、第二に。
 もう日本物ヤダーー!!

 雪組日本物多すぎだろ。それならなんでバウを日本物にしたんだ。
 博多座が日本物で本公演が日本物でバウが日本物で、次の本公演も日本物って。ヘタすりゃ1年間日本物しかしない組子もいるわけだ……ひどい。
 しかもブーツ履いてファンタスティックな飛鳥モノでも、豪華絢爛平安絵巻でもなく、地味なちょんまげ物ばかり1年間連続っすよ。

 なんでここまで偏らせるんだろう。
 日本物続きではなく、他の組のようにずーーーーっと洋物だけやっている組で、ひさしぶりの日本物なら、受け取り方も違ったのに。

 せっかくの大作でメディアミックスで祭りで、わくわくなのに、「またか……(がっかり)」感がつきまとうのを、残念に思う。


 てなことは置いておいて。
 新作はうれしい。未知はうれしい。まだ見ぬモノを楽しみにできる、そのことがうれしい。
 またしても、『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』の話。

 気になるのは、歌は外部発注なのかなあ、ということ。
 コンセプトしか決まってないときに、外部の作曲家さん?かなんかに「大体こんな感じでお願いします」と頼んであって、作曲家さんは構成も脚本も読んでない状態で、手探りで創る。
 まだ脚本もなにもない白紙状態で、イメージだけで創らせたから、とーぜん出来上がってきたモノは、作品と微妙に合ってなくて、でも出来上がっちゃてるモノをボツにも出来ず、そのまま使っちゃいました……ということなのかな?
 この「作曲」てのは、歌詞も含まれるのよ? 歌詞ごと外部発注。

 発注したときは「こんな感じ」でやるつもりだったけど、実際脚本書いてるうちに、変わっちゃった。この場面なくなっちゃったんだけどなー、経費かかってるんだから、無理矢理どっかに突っ込むかー。
 とか。
 最初はこういうやりとりをさせるつもりだったんだけど、書いてるうちに話が横滑りして、流れが変わっちゃった。出来上がってきた曲は最初のやりとりのままだけど……ま、いっか、このまま使っちゃおう。
 てなことなのかな?

 前にも話題にした、「真実はひとつだ」と言ったアル・カポネ@だいもん。彼からその言葉を聞いた直後のベン@ひとこが、瞳をきらきらさせて歌う、「♪彼は言った。真実はひとつではないと」。

 言ってねえええ!!
 そんなこと、ひとことも言ってねえええ。
 つか、反対だから、彼の言ったことと真逆だから!!

 そして、アルとどきどきのふたりきり時間を過ごしたエリオット@かなと。立場を隠して近づいたのだけど、正体がばれてしまった……! てなところでドラマチックな曲調の歌になる。
 エリオットとアルの掛け合いソング。

 アルは歌う。

「♪もう一度あのときのように歩けと君は言うのか」

 言ってねえええ!!
 そんなこと、ひとことも言ってねえええ。
 エリオットさんは、アルさんになんの指図もしてません。

 第一、「あのとき」ってなに? いつどのときのこと?

 捜査官だということを隠してアルに近づいたエリオットと、堅気のエリートに憧れるアルがかわした会話は、アルが無邪気な憧憬と昔話をし、エリオットが今のアルの人生を肯定した、だけで終わっている。
 昔憧れた生き方をしている相手に、今の自分を肯定されたことで、アルはエリオットに惹かれ、のちのエリオットの「親友」発言につながる。
 この会話の直後に歌われるあのとき、というのは、どのとき?
 堅気に憧れていた少年時代のこと? だとすればエリオットが現在のアルを全否定したということで、アルとエリオットの友情は存在しない。ラストの「親友」につながらない。
 ギャングの大ボスである、今のこと? 今現在を「あのとき」と表現するのは日本語の使い方がおかしい。また、前後の文脈も破綻する。
 アルは「あのときのように生きることは出来ない」という文脈で歌っているので、今現在のように生きることは出来ないと苦悩するのはおかしい。

 かわしていた会話と、歌詞がまったく合わないんだ。

 ミュージカルにおいて、歌詞と本編がちぐはぐなことは、実によくある現象だ。それは「詞」というものが持つ不自由さ・不透明さ、決められた音に落とし込む際に起きる「仕方ないこと」だと思っている。
 また、不自由であり、不透明であるゆえに、自由かつ透明でありえるのだとも思っている。ちぐはぐだったり足りなかったりするゆえに、聴く側が想像の翼を広げることが出来るのだから。

 だから多少の齟齬は気にならない。よくあることだと思う。

 が。
 『アル・カポネ』の歌詞のわけわからなさは、度を超している。

 確実に本編とチガウ、どこか他の作品から切り貼りしたような歌になっている。
 『エリザベート』の1幕ラスト、フランツが部屋の奥にいるエリザベートに向けて、「♪君の手紙何度も読んだよ」と歌わなければならないところに、「♪今日から君がすべて」と『スカーレット・ピンパーネル』の「あなたこそ我が家」を歌い出すような感じ。
 夫婦がこれからふたりで生きていく、と誓う歌だから、キーワードを拾うだけなら同じだけど、いやソレまったく別の歌だし! 別のことを歌ってるし!!。

 話の内容を理解している人なら、たとえクイズを出された(この場面に入る歌は、次のうちのどれでしょうか、三択です!、とか)としても間違いようがない……なのに堂々と間違うのはそれ、話の内容を知らない人が歌を作ったということだよね?

 『アル・カポネ』の歌は、まだ脚本が出来上がる前に歌詞ごと外注していて、契約上「出来上がった曲は歌詞も含め一切変更してはならない」となっていて、本編とそぐわなくても、そぐわないどころか正反対で間違っていても、そのまま使うしかなかった。

 ……ということなのかしら。
 『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』の、アル・カポネさんを考える。
 「スカーフェイスに秘められた真実」ってことだけど、カポネさんの真実って? カポネさんってどんな人?

 有名ギャングだけど、実はいい人?
 それって真実?
 グレアム@『はみだしっ子』だって言ってたよ。リッチーもお年寄りや子どもには優しいって。自分が優越感を得られる、自分より下の者(と、自分で思っている相手)には寛大で優しいんだって。
 悪のダルトンだって、ひとり娘のエヴァにとっては「やさしいパパ」だったのよ、『メイミー・エンジェル』。
 悪人の「ほんとうは優しい人」は、アテにならない。自分にとって利益のある存在にだけ「やさしい」人は、「やさしい人」とか「いい人」にカウントしちゃいかんよね。

 カポネさんの「いい人」と描く手法が、この作品ではぶっちゃけつまんないんだと思う。

 だって、本人が、「俺は悪人じゃない、実はいいヤツなんだぜ」と言い訳語りしている。

 カポネを「悪人」としてこきおろした映画の脚本家を拉致してきて、「真実を知って欲しい」と語って聞かせる、ってのは、そういうことだよな。
 つまらんケンカで受けた傷とされている顔の傷も、「愛する女を守って受けた傷」とわざわざ解説しているわけだし。
 万事この調子で、「仕方なかったんだ。誤解なんだ」とやっていった、と思われる。

 カポネさんは自分目線での「真実」を語り、「どう受け取るかは人の数だけある」と、真実の押し売りはしなかった。(ただし、脚本家のベンくんはそれを理解せず、真逆に受け取ってしまうが)

 ベンくんが脚本に書いた「カポネはこんなに最低」な出来事を、いちいち「やったことは最低かもしれんが、実はこんな事情があったんだ。仕方なかったんだ」と言い訳したにしろ、それゆえに「書き直せ」とは強要していない。
 それだけが救いかな。これで強要してたら終わってた。

 でもさ、やっぱ「本人が言い訳」はかっこ悪いわー。
 しかも拉致監禁してまで、って、どんだけ必死やねん、って感じ。

 カポネさんの「いい人」ぶりは、エピソードとして語られる「善行」部分にはないと思う。
 妻のメアリーや息子のソニーにやさしいとかは、別に「いい人」の理由にならない。自分に利益を与える存在(家族)にだけやさしくて、それ以外は情け容赦なく殺すとか、美談にならねえ。
 本当にやさしい人は、自分の立場や利害と関係なくすべてやさしいのだから。
 私財を使ってのボランティアも、作中で言われていたけれど、「お前が言うな」的な行動だし。

 カポネさんの人柄を表す最大のポイントは、「グラッチェ」だと思う。
 彼の口癖、に近い言葉。

 昔、話し方についての話で、なんでもかんでも「うっそー?!」と返す女子のダメさについて、てのがあったなあ。
 なにかしら話を振られたときの第一声が「うっそー?!(嘘でしょ?)」は絶対NG、「相手の話を否定する」ところから会話をはじめるなんてとんでもない! てな。本人にとってはただの感嘆符、「まあ」程度の意味であったとしても、絶対に発してはならない。ただの感嘆符なら、素直に「まあ」でも「ええ」でも発しておけと。びっくりした、信じられない、という意味の言葉をどうしても発したいというならせめて「ほんとー?!」(肯定の言葉+疑問符)にしておけと。
 日常の、他愛ないことから人格はにじみ出る。
 なんでもかんでも「うっそー?!」と、相手の言葉をまず「否定」するところから人間関係をはじめる人にはなるなと。ただの会話の「癖」に過ぎないとあなどるなかれ、相手を尊重する気持ちがあれば「否定」から会話をはじめるはずがない。当人の人間性がそんな些細な「癖」に表れているんだ……てな。

 カポネさんは、まず「グラッチェ」と言う。
 それこそ、第一声で「うっそー?!」と返すようなところでも、「グラッチェ」と言う。
 「はい」という肯定の言葉でも十分あたたかいと思うのに、その上を行く、「感謝」の言葉。
 他人に対し、ごくごあたりまえに、感謝や感動を口にする。
 相手が目下であろうと関係なく。

 他人を尊重することを、あたりまえとしている。

 ほんとうに、他愛ないことだけど。
 カポネさんを見ていて思うことは、この人と話すのは楽しいだろうな、ということ。
 立場に関係なく、「ありがとう」「うれしい」を表してくれるんだ。それも、あたりまえに、日常的に。大切にされるんだ。礼を言われる、ってのは、そういうことよね?
 子分たちも、そりゃうれしいだろう。自分に感謝してくれる人のために力を尽くすのは。

 ヒロインのメアリーの描き方・カポネとの関係の描き方はつまらないと思っているけど、妊娠を告げる場面は好きだ。
 
 子どもが出来た、と言葉ではなくボディランゲージで伝えたメアリーに、カポネさんは「グラッチェ!!」と言う。
 ふつーならここ、「本当か?!」よね。マイナス言葉を使う人なら「嘘だろ?!」もあり得る。素直に「やったーー!」もあり。
 なのにここで、「グラッチェ!!」。
 「本当か?(疑問)」でも「嘘だろ?(否定)」でも「やったーー!(よろこび)」でもなくて、「グラッチェ!(感謝)」。
 相手の言葉を疑問も否定もなく瞬時に受け入れ、自分のよろこびを通り越して相手への感謝になる。

 ……て、すごいわ。
 このタイミングで、まず感謝の言葉が出る、って、すごいわ。
 自分よりも、相手なんだ。

 それがただの口癖であったとしても。
 それを口癖にする人格は、十分「いい人」「魅力的な人」だ。

 カポネさんが「実はいい人」なのは、脚本家に「こんなことがあったんだぜ」と語る「これみよがしな善行」とは関係ないところにある。
 むしろ、脚本家相手に自分語りしちゃうことで、カポネさんの人間性を落としている。
 原田せんせは、なんで構成の根幹部分をいつもいろいろ間違えるんだろう? 純粋に不思議だ。


 あと考えられることは、ベンくんの脚本が、あまりにも酷すぎて、口を出さずにはいられなかったということかなあ。
 カポネさんが口を出しても「仕方ない」と思えることって。カポネさんの人間性を下げずに、「ベンを拉致してまで自分語りするのも仕方ない」と判断出来るのって。

 タカラヅカを一度も観たことのナイ人が、2ちゃんねるの宝塚板のスレッドをひとつふたつ読んだだけで「これが宝塚歌劇団の真実!!」ってハリウッド映画化するとなったら、「ちょっと待て、おま、いくらなんでもソレはチガウやろ。せめて自分でまず一度宝塚歌劇観てみろよ」って、口出せる立場の人間が口を出しても、それは仕方ないか。
 んじゃ、『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』を語るのに、いちばん相応しかったのは誰だろう?

 かっこ悪いのは、「俺は悪くない」という自分語り。
 それが真実であろうとなかろうと、自分で「こんないいことをした(自慢)」「仕方なかったんだ(言い訳)」を語るのはかっこ悪い。

 真実はひとつでも、それをどう受け取るかは自由だ。
 だから、フィクションが存在する。
 実在の人物をネタにした創作が後を絶たない。「真実」しか書いていけないのなら、フィクションは絶滅する。

 アル・カポネの人生は史実にある通りだとしても、それをどう語るか、どこに焦点を当てるか、どの角度で語るか。それによって、いくらでもチガウ物語が作れる。

 同じ出来事が、悪意を持ったモノの目には醜く映るし、好意を持ったモノの目には美しく映る。
 アントワネットとフェルゼンの恋物語を「所詮不倫でしょ。バカみたい」と言う人もいれば、「運命の恋……ドラマチック!」と言う人もいる。
 苦手ジェンヌの芝居は心に届かないし、ご贔屓ジェンヌの芝居は大感動大絶賛だったりする。
 人によって、「見方」は違うんだ。

 だから、カポネさんを「世間的には大悪人だけど、実はいい人」と描きたいならば、語り部は、カポネに好意を持っている人にするべきだ。
 フィルターを通す、ってやつ。
 同じ出来事でも、その人のフィルターを通して語られるから、全部美化される、ってやつ。

 カポネの悪の部分を描きつつも、「実はいい人」とするならば、語り部に相応しいのは、ジャックだ。
 妻のメアリーでは、家庭のカポネしか描けないので不適任。
 ギャング世界の住人でないといかん。
 だからジャック。カポネに惚れ込んでる弟分。

 ということで、『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』をやるなら、語り部はベン@ひとこではなくジャック@まなはるにすべきだった説を語る(笑)。役者に含みはナイ。作品の話。
 妄想構成、かな。わたしが好きにいじっていいのなら……という。


 オープニングはアル・カポネ@だいもんひとり登場から、黒スーツ男たちの超クールダンス。
 顔には傷、全盛期のドン・カポネ。いちばんカッコイイ、いちばんセクシーなだいもん全開!!
 カポネグループと、対峙する形でがおりさんたち敵対チーム、捜査官エリオット@かなとたちグループのダンス、途中セクシー美女たちのターンもあり、派手にカッコイイオープニングからスタート。
 そこからカポネチーム単体にカメラが移り、ドラマスタート。
 現在のカポネさんたちの状況がわかる短い芝居。マフィアのドンであること、こわいぞー、悪いぞー、的な。だいもんの悪い顔全力で(笑)。
 そこから、ジャック@まなはるの語りへ。
 彼の目を通して語られる、アル・カポネの真実。オープニングからのギャップ大事。

 ジャックの目を通して、だから、語れるのはシカゴ時代から。
 ブルックリン場面は全カット。
 カポネはシカゴのギャングの顔役のひとり。クラブを任されていて、ぶいぶい言わせてる。ギャングだけど、人を殺したこともないし、商才のある気っ風のいいにーちゃんだ。部下からは慕われ、女にもモテモテだけど、本人は妻一筋の真面目くん。
 びんぼーな新聞配達少年だったジャックに、ただひとりやさしかった大人。
 つまり、カットされたブルックリン時代に描かれていた要素を、まるっとシカゴ時代で描くのな。原田くん脚本がめんどくせーのは、ブルックリン→シカゴと、同じことを2回やってるのな。いい人カポネくんが、他人のために仕方なく罪を犯す、つーの。全50話の大河ドラマじゃないんだから、同じことは1回でいいよ。

 仲間のために仕方なく人を殺すカポネ。それでも、変わらずジャック(弱者)には優しいカポネ。身重の妻とラブラブなカポネ。ギャング同士の抗争に一般人を巻き込んではならないと、見ず知らずの通行人を身を楯にしてかばうカポネ……。
 ジャックの目を通して、語られるカポネは、等身大の愛すべき若者で。

 1幕の半分で、エリオット登場。だからかなとくんはアルバイトで酒場の客なんかやってる場合じゃない。オープニングのあとは彼女@さらさちゃんとラブラブな学生としてはじめてドラマの中に現れる。
 まだカポネが大ボスではない時代。
 それがのちのドン・カポネだとは知らずに出会う。

 語り部はジャック。
 だが、ここでもうひとつの「視点」が加わる。
 カポネたちを「追う者」、客観的な「世間で語られる事実」を述べる者が。

 カポネに起こるエピソードひとつひとつを、ジャックが愛を持って「内情はこうだった」と語り、エリオットが冷たく「外側に現れた事実・評価」を語る。さっきの学生姿ではなく、ちゃんとスーツ着用の大人バージョンかなとくん。
 エリオットが実際に捜査に加わるのはもっと先のことなので、ここで次元が混ざっている。エリオットはあくまでも「捜査官として登場した時代」に、彼が調べた「過去の事実」を語っているだけ。ジャックとは同じ次元にはいない。だからこそ、淡々と冷たい。あくまでも、資料を読み上げている感じでヨロシク。

 ギャングの抗争とか、メアリーさらわれちゃって大変!とか、派手なドラマ展開、それを語るふたつの視点。
 「仕方なかったんだ」「当然のことだ」
 「非道だ」「あり得ないことだ」

 で、資料を読み上げていた冷徹エリオットと長官@はっちさんの場面になり、「アル・カポネの敵登場ですよ」とやったのちに。
 ここまで資料を音読した最後に、エリオットさん、はじめてカポネの写真を見る(笑)。強引だけど、原田くん脚本だってカポネの悪評知りつつ顔知らないわけだから、OKよね。
 「あのとき、自分を助けてくれた(素敵な)人だ!!」

 ここで、語り部と視点の混同・交差。
 「外側に現れた事実・評価」しか知らず、それをすべてだと思っていたエリオットに、疑問が生じる。「はたしてそれは、真実なのか?」
 ジャックは揺らがずいつも「兄貴LOVE」。ゆえに「内情はこうだった」、世間の奴ら(=エリオット)は知らない。
 誰も知らない「スカーフェイスに秘められた真実」を語るジャック、ゆえに「知らない者」を敵視・見下すジャック、「知らない」ゆえに「表面的事実」のみを語るエリオット、ゆえに「スカーフェイスに秘められた真実」を知りたいと考えるエリオット。

 カポネに都合いい語り部ジャックと、カポネの都合関係なく事実のみを語る視点エリオット。
 あくまでもふたりは「カポネを語る」だけ。カポネ自身の物語は、ただあるがままに観客に差し出されている。

 そして。
 語り部と視点は、このときを境に立場を入れ替える。
 その過渡期を盛り上げて1幕終了。


 翌日欄へ続く。
 『アル・カポネ―スカーフェイスに秘められた真実―』を独自に作ってみる、その2。

 1から作るのではなく、あくまでも今ある原田作品をベースに。
 変更部分のみ書いてるので、ジャックとエリオットの立ち位置解説になってます。


 誰も知らない「スカーフェイスに秘められた真実」を語るジャック、ゆえに「知らない者」を敵視・見下す。
 「知らない」から「表面的事実」のみを語るエリオット、ゆえに「スカーフェイスに秘められた真実」を知りたいと考える。

 ジャック@まなはるは、アル・カポネ@だいもんを愛し、それゆえなんでもかんでもカポネに都合良いいように解説していた。
 エリオット@かなとは、捜査官として得た資料をただ朗読していただけなので、冷徹に「客観的事実」のみを語っていた。
 が。

 エリオットは、昔自分を助けてくれた青年が、アル・カポネだと気づく。そこから、「アル・カポネ=悪」という世間の常識に疑問を持つ。
 捜査官として冷静に冷徹にカポネを追い詰めつつも、内心ではカポネ自身を知りたいと思う。
 依然「表面的事実」を語りつつも、その際後に必ず「事実ではなく、真実は?」と問いかける。
 立場を偽ってカポネに近づき、友人になる。カポネ自身を知ることで、自分が知っていた「表面的事実」がすべてではないことを知る。

 ジャックは私的な語りをしてきた。なんでもかんでもカポネに都合良くフィルターをかけてきた。ゆえに、そのフィルターが歪み出したとき、語られる「真実」も歪み出す。
 エリオットへの嫉妬が、それまでの「兄貴すげー」「兄貴をいちばん理解している俺」語りに影を落とす。
 カポネの言動解説に、いちいち「理解出来ない」「賛成出来ない」という意見が入るようになる。

 結局のところ、カポネはオヘア@あすの裏切りによって破滅するのだけど、それをとりまく「語り」では、ジャックとエリオットの立ち位置が最初と逆転している、と。
 ジャックは悪意寄りになり、エリオットは愛情寄りになっている。
 オヘアの裏切りも、ジャックの視点が濁ったことによって防げなかった、ぐらいに関連を持たせて。原田脚本のジャック、1幕であんだけ尺取ってソロまで歌わせてるのに、2幕なんにもしなさすぎ。

 つっても、ジャックが徹頭徹尾カポネLOVEなのは変わらない。語りに嫉妬と悪意が入るだけで、敵になるわけじゃない。ずっとずっとカポネの味方。家族。
 カポネの破滅は「防げなかった」だけで、ジャックが「陥れた」わけじゃない……けど、ジャックは自分を責める。「自分に、ナニか出来たんじゃないか?」と。
 エリオットもまた、「自分に、ナニか出来たんじゃないか?」と、自責の念にぐるぐるしている。オヘアさんを殴り倒していいけど「彼はボクの親友だ!」はカット。

 ジャックとエリオットの立ち位置だけ語ってきたから、まるで彼らこそが主役、彼らの物語みたいねー。
 そうじゃなくて、アル・カポネはアル・カポネとして、ふつーに一通りやっている。
 もとの原田作品の場面やエピソードの端々に、「意図」を持った解説入れるの。自分では、「パッケージ作業」と勝手に呼んでいる。別売りばらばら商品でも、ひとつの箱に入れてリボンを掛ければ、立派なひとつのプレゼントになるでしょ? それと同じ。
 原田くんの「出来事箇条書き」内容を、ひとつのパッケージに収めるの。「真実とは?」をキーワードに。

 原田脚本のままだから、カポネ自身はふつーに彼の人生生きていて、ドラマチックにドンパチやって、がおりさんと戦ったり、悪いことして大儲けしたり、妻のメアリー@せしこといちゃいちゃしたりしている。
 ジャックとの関係は基本原田脚本のまま、大幅に書き込むのはエリオット。ふたりの愛憎メイン、ってくらいに。
 妻メアリーは聖域扱い、カポネの癒しとして要所要所に登場。
 パパ・ジョニーは出番減ってるのではっちさんではなく、別の人で。はっちさんは長官単独。
 個人的にオヘアさんの出番増やしたい。裁判のどさくさとかで、歌って欲しいわ。あすくん歌わせないとか意味わかんない。
 ベン@ひとこは、これら「当事者たちの大騒ぎ」のさらに外側にいる存在。ドン・カポネの映画脚本執筆のため、資料集めをしている体で。気楽にゴシップを楽しみ、被害者にも糺弾者にもなれる立場の代表。歌ってくれてヨシ。

 ラストシーンは駅でいいし、妻子とジャックが見送りに来ているでいい。
 ただ、ここでジャックにもひとこと欲しい。
 遅れて登場するエリオットが、映画の話をするのもそのままで。友人のふりをしていたときに、カポネがモデルの映画があるぞ、と話題になり、「一緒に見に行こう」と、別れが決まっているふたりの定番「叶うはずのナイ約束」をしていたのさ、ああ切ない。
 「どうせ酷い悪党に描かれているんだろう」と決めつけていたカポネさん。実際、傍観者としてのベンは無責任に歌っていたし。
 だけど、エリオットは「映画の最後が良かった」と言う。世紀のギャングスター・カポネを讃えるかのようなフレーズのあるラストシーン。
 それはカポネがわざわざベンを誘拐して「俺は悪くない」と語ったから、カポネを讃えるラストに変更したのではない。当事者ではない・外側の事情しか知らない者が、想像力で、フィクションとして、描いたラストシーンだ。
 作家が調べた事実を元に自由に書いていいのがフィクションだし、そしてそれを見た者が、自由に受け止めてのがフィクションだ。
 悪党が死んだ、という事実は変わらなくても、それをどう受け取るのかは人によってチガウ。
 エリオットは、死せる悪党の人生を肯定する。映画の話のふりをして、友人カポネの人生を、肯定してみせる。

 ふたりで見るはずだった映画、の話をしつつ、カポネはエリオットの真意を受け取る。

 で、END。

 妻メアリーと息子ソニー、弟分ジャックと、親友エリオット。
 愛する者たちに見送られ、カポネは去って行くわけだ。


 カポネさんの堅気の少年時代からだらだら出来事羅列せんでヨシ。
 シカゴ時代を濃縮して「真実とはなにか」を、揺るがないだいもんをどーん、ばーーん、と描き、それに対する彩りとしてアツいまなはると、繊細に揺れ動くかなとくんとで描いてくれればヨシ。

 番手的には、やっぱ2番手がエリオット@かなと、3番手ジャック@まなはる。
 ジャックは語りをするだけで、「ドラマ」としてはエリオットが動かすから。原田くんは出来事箇条書きするだけで、エリオットを使い切れてないけど。ちゃんと使えば、エリオットはおもしろいキャラクタ。


 だいもんが力尽くで成り立たせちゃってるけど、これ、実力や求心力に欠ける人がやったら、大惨事やなあ。と、『アル・カポネ』を観たときに思った。
 平坦で盛り上がらない話がえんえん続き、感情移入どころじゃないうすっぺらなキャラが右往左往するだけって……。
 平らな道に、だいもんが自力で山場を作ってるの。
 まなはるもよく食らいついてる。かなとくんはもうちょいがんばれ。

 ネタがおいしいだけに、残念極まりない。
 だから勝手に、妄想構成。わたしに脚本書く素養はないので、ほんと勝手語りなだけっす。

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